「ふむ」  
件の倉庫は、想像以上に物が詰まっていた。  
私は今、化学研の要望に応えるべく、理科室の脇にある倉庫へと来ている。  
この空間は元々、我々ものだと彼らは主張する。それは我が校の歴史的に見て間違いない。  
だがその倉庫に、自分たちの部室を機能しなくなるまで散らかした運動部一派の手により、次々と化学とは関係ない用具が持ち込まれた。  
身体的に威圧された結果、現在化学用倉庫は不法占拠されているらしい。  
化学研の要望としては、運動部と話をつけ、不要な用具を運び出させること。これはいま善吉が交渉にあたっている。  
そしてもう一つの要望は、この部室のもっとも有効な利用方法を考えること。その計画を練るため、私はこうして用具室を視察に来た。  
「それにしても酷いな」  
ドアを開いたすぐ目の前30cmの距離、長椅子が縦に置かれていた。左右にはロッカーとタンス。  
ひと一人がようやく入れるスペースしか空いてない。どうやって運び込んだかも疑問だが、これは運び出すのに多少の知恵がいる。特にタンス。  
ん、待て?そもそも何故タンスがここにある?  
そう思った瞬間、背後でカチャリとドアを閉める音がした。  
「む、閉じ込められた」  
これはびっくりだ。どうやら私の姿が見えなかったのか、ドアが閉じられてしまった。  
「おーい、中に人が居るぞ!今すぐ開けてくれ」  
だが返事はない。これは困った。  
何しろ体を動かせるスペースがほとんどない。座る為に膝をたたむ隙間さえなかい。  
仕方がないので、なんとか体を捻って自分でドアを開くことにした。幸い私は、身体が柔らかい方だ。  
だがいざドアノブに手を掛けようとして大変なことに気づいた。ドアノブがない。にも関わらず、外から鍵をかけられた。  
これでは本格的に脱出不能じゃないか。  
「困ったな」  
私は後ろの長椅子に背中をもたれかけながら、どうやったらドアを開けられるか考えた。  
 
――それから数時間は経っただろうか。  
私はまだ倉庫の中に居た。いい加減足も疲れてきた。  
だが依然として、脱出の糸口は見えない。  
見えないどころか、下校のチャイムがとっくの昔に聞こえたことで、ひとが通る確率が格段に減った。状況は悪化したと考えるべきだろう。  
「困った……」  
残る期待は善吉のみだ。私が戻らないことに気づいて、校内中を探してくれるはずだ。  
大丈夫、善吉は私のことをきっと探し出してくれる。私の幼なじみは世界一頼りになるからな。  
と、その時。奇跡が起こった。こちらへ向かってくる足音が聞こえてきたのだ。  
やっぱり善吉は私を見つけてくれた。私は胸に安堵感と達成感と、微かな高揚感を覚え、いつもより大きな声で叫んでいた。  
「善吉、ここだっ!私はここ……!」  
「善吉?はい、ざあ〜んねえん」  
聞いたことのない声だった。  
む、私としたことが、善吉と赤の他人の足音を間違えるとは。  
非常に遺憾だ。私はよっぽど浮かれていたのか……うーん、正直ショックだ。  
はっ。今はそんなことを反省している場合じゃない。私は改めて、腹から声を出した。  
「生徒会長、黒神めだかだ!不覚にも閉じ込められてしまっている。今すぐこの扉を開いてくれないか!」  
しーん。外からの反応がない。今の音量では足りなかったというのか。私はもう一度大きく、息を吸い込んだ。  
「あー!あー!あー!あー!私は生徒会長、黒神めだかだ!」  
「うるせえええ!」  
ガン!と扉を蹴る音が聞こえた。どうやら私の声は届いていたらしい。  
今の怒りようから察するに、扉の前へ立っている人物は、超鋭敏聴覚を持っている者に違いない。  
さっきは私の大声に脳を揺すられて返事が出来なかったんだろう。悪いことをした。  
「すまない」  
私は素直に非を認めることにした。  
「だが私も急いで出たいんだ。出来れば早くこのドアを開けてくれないか」  
私は、早く私を探している善吉に会いたい。そして安心させてやりたい。  
だから私は頭を下げてお願いした。すると目の前のドアへ額をぶつけ、少々痛い思いをした。  
「ははっ、頭の鈍びい会長さんだ。まだ自分の状況わかってねえのかよ」  
が、ドアの前の男は不思議なことを言った。  
「いや、自分の状況は理解しているぞ。そうか、そういえば外からだと私の状況がわからないな。私はいま四方を囲まれて、身動きがとれないのだ」  
「そういう意味じゃねえよ」  
私は自分の状況を説明したが、どうやらそれは間違いだったらしい。  
ではどういう意味なんだろう。私は不思議に思い首を横に傾け、今度はタンスに頭をぶつけて、少々痛い思いをした。  
「あんたは俺たちの罠に嵌まって、そこに閉じ込められてんだよ」  
「なにっ、これは罠だったのか」  
不覚、ボウフラの睫毛ほども罠だとは気づかなかった。確かに用意周到だったかもしれない。  
「貴様は間違っている」  
「は?」  
私は彼の準備に敬意を表すと共に、その才能を無駄にしてはいけないと思った。  
 
「なるほど、敵わない相手に計略をもって挑むのは悪いことではない。だが貴様はこのような策を使わずとも、このように罠の準備をする努力が出来る男だ」  
「なに言ってんだおまえ?」  
「その努力はもっと有意義に使うべきだ。まずは私と正々堂々と戦ってみないか。そうだな、あと小半生ほど50年真面目に修業すれば、私と互角に戦えるかもしれないぞ。  
 確かに今はミノムシにも劣る戦闘力とは言え、人間努力すればいずれ花咲くものなのだ。あっぱれ!」  
ガン!とドアを蹴る音が再び聞こえた。  
「うるせえ、もう黙ってろ!どうせ明日までここから出られねえんだ」  
「なに、それは困るな。私には仕事が山ほど残っているんだ」  
明日まで監禁されるのは大変困る。足もかなり疲れてきた。  
「一つ聞きたい」  
「んだよ」  
「私をここに閉じ込めて何がしたい。このまま朝を迎えたら、どのみち貴様は私に捕まるぞ」  
「さあねえ、どうしたいんだろうねえ」  
ドアの外でくっくっと笑い声が聞こえた。  
「もう一つ聞きたい」  
「なんだよ」  
「私を罠に嵌めるということは、何か私に恨みを持っているのか。それは何故だ」  
「さあなあ、恨みはねえけど、あんたを追い落としたいってやつは沢山いるかもな」  
またしてもくっくっと笑い声が聞こえた。  
「ところでもう一つ聞いていいか」  
「だったら最初から三つ聞けよもおおお!」  
ガン!という音が聞こえた。短気な男だ。  
「声から想像するにかなり不細工だと思うんだが、前向きに生きているか?」  
「あああ!もう黙れおまええええ!」  
ガン!ガン!ガン!とドアが何度も揺れた。相当怒っているようだ。  
「はっ!そう強がってられんのも今の内だ!会長様が耐え切れなくなってしょんべん漏らすところ、しっかり押さえてやるからよ!」  
「なに?」  
いまこの男は意味の解らないことを言った。しょん……おしっこか?  
「そんなところを押さえてどうするつもりだ?」  
「おまえの支持率を落下させてやるんだよ。しょんべん漏らした生徒会長様……くくっ、考えるだけで惨めだぜえ」  
「そんなことで支持率が下がるとは思えないが」  
「だったら今ここで漏らしちまえよ」  
「馬鹿を言うな。お漏らしなどこの年で出来るわけないだろう」  
言いながら、私は背中の長椅子へ体を預けた。何度も言うが、いい加減足がくたくただ。  
そしてよく考えると、私は困っていることに気がついた。実は、もうだいぶ前から、トイレに行きたいのを我慢していたからだ。  
ドアの前からは、またしても含むような笑い声が聞こえてきた。  
 
 
――さて困った。というよりも、現在進行形で、大変困っている。  
正直なところ、尿意は我慢の限界に達している。だが、善吉が助けにくる気配は一向にない。  
というよりも、困っている理由が別に出来た。  
いざその時が近づくにつれて、ふと妙な感情を覚えた。これはなんだろう。  
どこか懐かしささえあるこの感覚は……そうか、羞恥だ。  
人前でおしっこをするのは恥ずかしいことなんだ。  
私はもう頭の片隅に隠して――とはいえ確かな存在感のある――幼い頃の記憶を引き出してみた。  
 
「――めだかちゃん、平気だよ」  
私はパジャマの腿を握って、必死に口を結んでいた。「これ、おれのせいにするよ。大丈夫だって」  
善吉は私を慰めてくれていた。だがそれは、私への慰め方としては間違っていた。  
「――おもらしくらいだれでもするからさ。おれもやっちゃうもん」  
私は首を横に振った。違う、違うよ善吉。  
私は親や、誰か大人に怒られるのが嫌なんじゃない。善吉に見られたことが、今の私をこんなにしているんだ。  
「うぐっ、ひっく……」  
私から普段漏れたことのない声を聞いて、慌てて善吉が替えの下着を探してくれた。  
それを見て、私はいっそう強く唇を結んだ。違う、違うんだよ善吉。  
私はおもらししたのを、善吉に見られたことが……  
「はずかしいようっ」  
善吉が驚いた顔をして私を見た。私は顔を手で覆って、涙をこらえた。  
それが私の覚えた、羞恥という感情の数少ない一つだった。  
 
――それ以来、私はおもらしをしていない。寝る前にジュースを飲むのは一切やめた。  
だって「恥ずかしい」という感覚は……なんだか、とても耐え難かったからだ。  
そのことを思い出すと、急にお腹が締め付けられた。力を入れていた尿道が、熱くなるようだった。  
私は、善吉以外の前で、恥ずかしいという感情を覚えたくなかった。  
「交渉しないか」  
私はドアの向こう側にいる、後から増援が来て二人組になった男たちへ声をかけた。  
 
「ああ?なんだよ生徒会長様、降参か?」  
「ああ、降参だ」  
私は善吉以外の人間の前で失禁したくなかった。  
「こっ、降参!?」  
「あの黒神めだかが!?ぎゃはっ!」  
私が限界を認めると、ドアの前の二人は俄かに騒ぎ始めた。  
「そちらの要求を飲もう。要望通り、生徒会は一時解散。後日改めて、私を含めて総選挙という形でどうだ」  
私は自分に出来る最大限の譲歩をした。  
「ただしこれ以上は譲るつもりはない。受け入れないのなら、この場で失禁でも何でもしよう。ただしそうなった場合の私は、後からどうなろうと責任持てないぞ」  
私は負けを認める以外のことなら、自分の羞恥を守りたかった。どうして善吉は良くて他が駄目なのかは、自分でもよくわからない。  
「どうした。私は覚悟を決めたぞ。何しろ限界ぎりぎりだからな。早く返事をしないと我慢できず、ぷしゃっと盛大に漏らしてしまうぞ」  
中々応答がないので、返事を要求した。早くしないと、せっかく降参を申し入れたのに台なしじゃないか。  
ややあって、向こうから相談のような会話が聞こえてきた。  
「こっ、このクソ女だけは、どこまで偉そうなんだ……!」  
「まあ待てって。会長さんだって、わざわざ降参申し込んできたんだから、出来れば恥はかきたくねんだろ」  
「ふむ、話の通じる奴がいるようだな。その通りだ」  
恥をかこうと、会長職を辞めることだけは断じて出来ない。だが戦略的撤退ならば、兵法にも基づいている。  
「つっても会長さん、総選挙なんかやったところで、あんたの支持率は絶対だ。こっちとしちゃ、手土産の一つも貰わねえとなあ?」  
「手土産か。ならば生徒会室にある京銘菓阿闍梨餅をのちほど届けよう」  
「俺らが欲しいのは、あんたの情けねえ鳴声だっつの会長さん」  
私なら阿闍梨餅の方が絶対に良いと思うのだが、妙なことを要求する奴だ。  
「なんだそれは。意味がわからない」  
「そうだなあ、色っぽい声の一つでもあげてもらうかァ?」  
色っぽい声。これは難題だ。私には男子の理想とするセクシャリティがどのようなものかわからない。  
だがこの期に及んで引き下がるわけにもいくまい。ゆくぞ!  
「あはーん、うふーん」  
反応はなかった。  
「そうだなあ、自分の胸、揉んでみろ」  
「胸?」  
胸……まあ揉めと言うのなら、揉むが。  
「…………」  
私は自分の胸を両手で掴むと、指に力を入れて揉みはじめた。これがなんだと言うのだろう。  
「どしたァ?急に無口になりやがって」  
「今そちらの指示通り、胸を揉んでいる」  
「うはっ!マジか、あの黒神めだかが、自分で自分の胸を揉んでる!?」  
「おい、キチッと録音しとけ!こりゃすげえぞ!」  
録音。いくら胸を揉んでも音など出ないが、それでもいいのだろうか。  
私はとりあえず、こんなことは後にして、早くトイレに行きたいなと思った。  
 
「ところで私はいつまでこうしていればいいのだろうか。早く開けてほしいんだが」  
「あ?あー悪りい悪りい。じゃあ10分耐えたら開けてやるよ」  
「10分か。それならなんとかなるな」  
私は自分が凌ぐべき時間がわかり、俄然やる気が増した。  
「つっても徐々に難易度は上がるけどな?おい、服の中に手え入れて、直接揉め」  
「直接か」  
私は言われた通り、手を服の中へ入れて、指を動かしてみた。  
「…………」  
なんだろう。ずっと手を動かしている内に、言葉で形容しがたい感覚が上ってきた。  
例えるなら、髪をかきあげる時に指で触れた、耳の触覚から伝わる感覚に近い。  
「……ふっ」  
自然、不思議と息が漏れた。  
「よーし、それじゃあ胸の先にあるつまみを指で挟んでもらおうか」  
「胸の先……」  
わかりやすい。それはここしかない。挟めと言われれば挟もう。私の時間はあと僅かなのだ。  
「つか、実はやってないのに、声だけ出してたら、意味なくね?」  
「バーカ、あのクソ真面目な会長さんだぜ。やるっつったらやるだろ」  
「当たり前だ。私は逃げも隠れも騙りもしない」  
私は自分の胸の先を挟みながら言った。  
「流石だよな会長さん。そんじゃその指を摘むように力入れて、くりくり転がしてみ」  
「だんだん注文が多くなってきたな……」  
とは言ってもあと5分もないはずだ。私は言われた通り、指に力を入れた。  
「豆を指で転がすように、ぐりぐり弄れ」  
ぐりぐり……私は指を上下に動かしてみた。さっきの感覚が強くなる。  
力を入れるにつれ、糸のような電気が、身体の中を縦に走っていく。  
その度に、こらえている尿道から、一滴ずつ熱いものが零れるようで、私は足を閉じて我慢した。  
「……っう、うう……」  
まずい。これは非常に良くない。それは今の時点でわかっていた。  
それがわかっているのに、頭のどこかで、電気をもって走らせたいと思う自分も居た。  
「……ぁ」  
息が漏れる。指の力が強まる。  
「……ぁっ、はぁ……」  
私はいつの間にか、指の動きを猥雑にしていた。  
「ん、んん……っう、ふっ……」  
何だろう。この感覚は未知のもので、とても怖い。ドアの前に居る男たちに対してではない、もっと別の怖さだ。  
私は怖さを感じると同時に、いつも頼りになる幼なじみの顔を思い出していた。  
「善、吉……」  
その顔を浮かべた瞬間、今までより激しい電気が、身体の中を弾いていった。  
「くふぅっ……!」  
熱い。体の中が熱い。それは我慢を集中している尿道口かと思ったが、位置が違う。  
なん、で、善吉の顔を思い浮かべただけで、こんな……。  
思わずソコに触れた。布地の上から、指を押し付けた。  
「あ……」  
湿っていた。こんなのは初めてのことだ。  
「オラァ!」  
その時、ガン!と目の前のドアが大きな音を立てた。不覚にも驚いてしまった。  
「はい10分経過〜、でもなあ……」  
無理だ。どのみち、私はこのあと三歩と進めない。そのことがわかったから、不思議と腹は立たなかった。  
「約束なんか守んねえよヴァーカ!」  
「くっ、う、うっ……くううっ!」  
下腹部に力が入るのを感じた。それと共に、尿道口が引き締まる。  
だが次の瞬間には、大きく開いた発射口が、尿道から流れてきた液体を、大量に放出させていた。  
 
「あああああーっ!」  
止まらない。理性が戻った時には、強烈な排尿による微かな痛みと、解放感を含む快感が込み上げてきた。  
「あ、ああっ、あっ、はあ……」  
「お、おい見ろ!ドアの下から、液体が滲み出てきてんぞ!」  
「あっ、あの黒神めだかが!おもらししやがった!動画撮れ、動画!」  
下着をつけたままおしっこするなんて、初めてのことだ。びしょびしょ肌へまとわりついて、気持ち悪かった。  
まだ私の排尿は終わらない。足元を隙間なく濡らしてなお、勢いよく迸しっている。  
「う、うぅ……」  
「スゲエ、真っ黄色だな……おい会長、まだ出すのかよ」  
「今の会長の顔、見られないのが残念だよなァ、ぎゃはは」  
ドアの外の連中は笑っていた。だが私は、彼らの声を聞きながら、安心していた。  
違う。これは私が恐れていた感覚じゃない。  
これは『恥ずかしい』じゃない。『悔しい』だ。  
良かった。善吉、私は貴様以外の男に、羞恥を覚えていないぞ。  
私は拳を握っていた。血が滲むほど強く、唇を噛んだ。  
「お?さすがに出し終えたか?いやあ、いっぱい出したねえ、会長〜」  
「じゃあさっそく全校生徒にメール回すかね。ここじゃ電波入んねえから、階段トコ行って――」  
「テ・メ・エ・ら」  
それは、足音さえ置いてきた、高速の飛び込みだった。  
「――へっ?」  
「めだかちゃんを――」  
それはよく知っている声だった。その声を聞いて、私の手の力は緩まり、口が丸の形に開いた。  
「――泣かすんじゃねえッッッ!!」  
大きな打撃音がして、目の前のドアが大きく揺れた。一人の男が叩きつけられたようだ。  
二発、三発と続いていく。見えはしないが、戦いが一方的なのはわかった。  
圧倒的な暴力音。それはしばらく止むことなく、怒声と共に、私の前で激しく響いた。  
 
それからしばらくして、打撃音はしなくなった。  
荒い息遣いだけが残り、それも落ち着くと、バキリと携帯の折れる音が二つした。  
「めだかちゃん」  
ドアの前から、善吉が私のことを呼ぶ。そこで我に返った私は、善吉がドアを開けるのだ、ということに気がついた。  
つまり、今の私の姿を見られということだ。  
心臓の速度が即座に上がり、こらえきれない焦燥感が沸き上がってくる。汗が出る。呼吸が詰まる。  
思い出した。そうだ、この感情が『恥ずかしい』というものだ。  
嫌だ。善吉に見られたくない。だがこの焦燥感は、困ったことに、体の火照りを伴っていた。  
とても嫌なのに、どこか高揚している。そんな中で私は、無駄だと知りつつ、善吉の行動に待ったをかけた。  
「善吉、待って……」  
それは自分でも驚くほど、か細い声だった。当然、善吉に届くはずもなく、カチャリと鍵の外れる音がした。  
やたらゆっくりとドアが開いていく中、私がとった行動は、両手で顔を覆うことだった。  
そういえば、昔も同じことをした。そうか、恥ずかしいと、相手の顔が見られなくなるんだ。  
「めだかちゃん」  
善吉は再び私の名前を呼んだ。胸がいっそう高鳴った。  
 
「善吉……」  
まだ乾いてない床の上、濡れたスカートを隠したかった。だけど顔が熱くて、両手は頬から外せなかった。  
「み、見るな善吉……」  
私は目をつぶっていて、善吉がどんな表情をしているかわからない。やつは多分、驚いていたと思う。  
目の前から、息をのむ音が聞こえてきた。  
ただ、善吉はすぐに手を延ばして――  
「遅くなってゴメン」  
――私の後頭部を撫でてくれた。  
「善吉……」  
「めだかちゃんを守れなくてゴメン」  
「そんなことはない、嬉しかった」  
私は首を横に振った。まだ目を開くのは怖かった。  
「ただ、あまり近づくな。今の私は汚い……」  
「そっ、そんなことねえよ!」  
ぐいっ。後頭部に当たる手に力が加わった。私の額が、幼なじみの胸へ押し当てられる。  
「めだかちゃんを汚いなんて、思ったことねえよ」  
善吉は言葉通り、私に密着してみせた。零距離の位置で、少しも嫌がらなかった。  
「善吉」  
私はようやく、顔に張り付けていた手を剥がして、善吉の顔を見た。見上げたその表情は、微笑んでいた。  
「善吉いいいっ!!」  
「おわっ!」  
私は体を全て預けるように、相手の背中へ腕を巻き付けた。いきなりでよろけはしたものの、善吉が二人分の体重を支える。  
「く、悔しかったっ、悔しかったぞ、善吉……!」  
「う、うん」  
後頭部に当たる手が優しく揺れる。撫でてくれているんだ。  
「そして……」  
そして私は、彼の胸の中へ顔を埋めた。  
「いまとっても恥ずかしい」  
「――!!」  
正直に告白すると、なんだかとても落ち着いた。解放された気持ちになれた。  
「い、いや別に恥ずかしがることなんかねえよ」  
善吉が鼻の頭をかきながら、私を慰める。  
「昔もあったしさ。めだかちゃんの下着を替えてあげたり――」  
「…………」  
私はゆっくりと、彼の胸から顔を離した。  
「覚えていたのか?」  
「へ?」  
「あの時のこと」  
拳に力を入れた。善吉は距離をとろうとしたが、私は逃がさなかった。  
 
「恥ずかしい。私はとても恥ずかしいぞ善吉」  
事実、顔から業火が出るところだった。私は背中へ巻き付けた腕に、骨も折れよと力を込めた。  
「私は恥ずかしいぞ、善吉いいいっ!」  
「いぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」  
みしみしみしと音がした。私は構わず抱きしめ続けた。  
「何が下着を替えただ!そんなことは、覚えていても言うな!」  
「ごめん!ごめっ、ごめんなさい、めだかちゃん!」  
「いいや、許さん!大体、あの時だって、私は恥ずかしい思いをしているのに、下着を剥ぎ取って!絶対に許さん!」  
「痛た!痛たた!痛たたたた!もうしない!もうしないって!だから許してくれ!」  
「許さんと言ってるだろうがっ!」  
「ひぎぃ!」  
かくん、と善吉の体が折れて、私へもたれ掛かった。私はそれを受け止めた。  
「ごめんなさい、もうしません……」  
「ふん」  
泡を噴き、顔が青ざめた善吉を、私は背中へ負ぶった。このまま生徒会室まで行くつもりだ。  
「ありがとう」  
そして気を失いかけてる間に礼を告げた。何しろ恥ずかしかったからな。  
 
後日譚。事後処理には善吉が当たることになった。件の二人組に関しても、本人たっての希望により、善吉に一任した。  
だから私は彼らがどうなったか知らない。興味もない。私の頭のデータバンクからは削除されたし、その後不思議と、校内で顔を見ない。  
「善吉、お茶」  
「は、はい」  
数日間、善吉はやたら私に従順だった。だから私もこき使った。あれだけの思いをさせたんだから、当然だ。  
だがそれでも善吉は、私の側から必要以上に離れなかった。そんなに責任を感じることはないと言うのに。  
だから私も、いつか礼を言おうと思っている。とりあえず、私が恥ずかしい思いをした程度にこき使ったら。  
「善吉、この茶葉じゃない。私は東方美人が飲みたい」  
「ねえよ!つうか高いぞ、あの茶葉」  
「じゃあ買ってきてくれ。経費を使っていいぞ」  
「はあ、わかったよもう……」  
善吉は財布を掴んだ。だがそれと一緒に、私の手も掴んだ。  
「そんかし、めだかちゃんも一緒な。一人に出来ないし」  
私は善吉を見上げた。馬鹿な幼なじみだ。そろそろこき使うのも、許してやろうと思っていたのに。  
そんな恥ずかしいことを言われたんじゃ、いくらこき使っても許せないじゃないか。  
私は笑いながら、掴まれた手を握り返した。  
「――うんっ」  
そして今日も二人一緒に、並びながら出かけた。  
 
「――ところで半袖。おまえバケツ抱えてなにしてんだ?」  
「んー?サービスだよ。あたしの放尿シーンも需要あるみたいだからさっ」  
「やめておけ。中々恥ずかしいぞ」  
「おまえら、何の話してんの?」  
 

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