「…いいの、本当に?」
もう故郷ではなくなる故郷を眺めていたら、隣からそっと声をかけられた。
ボーデン湖の騒動から奇跡的に救助され軍から逃げ回り、傷も癒え、決心もついた。
いよいよ今日、亡命する。
暴走する母国を止められないまま、同士を見捨て、アメリカに渡る。
自分はすでに軍籍は無い。
命令違反を犯し、国に逆らった自分に待っているのはおなざりな軍法裁判と銃殺刑だ。
それならばいっそ亡命してしまえと助言してくれたのは、謎のフランス人医師。
「中からじゃなくても、外から出来ることなら沢山ある。生命を無駄にしないでくれ。」
彼の言葉の奥に潜む切実な響きに半ば押されるように亡命を決意した。
彼は軍医として旅立った。皆の幸せと健康を祈る言葉と不可思議な笑みを残して。
亡命を決意したもう一つの理由は、今横に立つ「新妻」である彼女。
「なぜ?」
今更だろう、とは声に出さず目で問い掛ける。
聡明な妻は分かっているだろうに、けれども顔を上げて言葉を続ける。
「あんなにも国を愛していたじゃない。」
たぶんこのお嬢様には国を捨てなければならないこの気持ちはわからないだろう。
けれども、あの箱を巡る日々のように彼女は俺をなんとか理解しようと寄り添い続けていてくれる。
「レジャンも言っていただろう。国を愛するからこそ、外からしか出来ないことがあると。」
一生、自分は祖国を見捨てることなどできはしない。
石畳の道、黒い森、エルベの流れ、窓辺の小さな花、厳しい冬…ドイツの総てが自分を育んできた総てなのだから。
例え祖先が空から降ってこようとも。
「それに俺は可愛い新妻を放り出すほど無責任じゃない。」
…何を言っているんだ俺は。
自分から零れ落ちた言葉に自分で驚いていたが、それ以上に驚いていたのは妻らしい。
いつものように五秒おいて、それから真っ赤な顔になる。
「口説き文句らしきモノも知ってたのね。」
いつものように口を開けば罵詈雑言、もしくは人を圧倒するような瞳と声音であったらさすがに落ち込むが、
今回は首まで真っ赤だ。
続けてそっと彼女の耳元に唇を寄せて囁く。
「昼間も夜と同じくらい可愛ければさらに可愛いぞ。」
昼間は口でかなわないのだから、ちょっとした仕返しくらいは許されるだろうと、ほくそ笑んでいたら
思いっきり蹴られてしまった。