「すみません、竜照。付き合わせてしまって。生徒会で必要になる備品を買わねばならなくなりまして」
「いや、いいさ。俺も新しい楽譜を探したかったところだからな」
ある日の放課後―――、長谷竜照はエメレンツィアに付き合い、学校の近くの商店街まで訪れていた。
エメレンツィアにぞっこんラブ(瑤子談)な竜照にとっては彼女の買い物の付き合いに関しては二つ返事で了承した。
もっともコレも生徒会ぐるみが仕掛けたちょっかいなのだが。このことについては竜照は気がついていた。
雑用なら新しく入ってきた一年生である自分や由良里、希実子に任せればいいのだから。
姉さんたちも余計なお節介をやいてくれる。そう思いながらも、少しは嬉しかった。
どれだけ勝ち目の無い恋愛だとしても、意識している女の子とふたりきりでどこかに出かけるというのは
やはり年頃の男子からすれば、とても喜ばしいことだった。
「竜照?」
「あ…いや、なんでもない。さあ、さっさと用事を済ませよう。
あまり遅くなったら、日が暮れてしまう」
「ええ。……ところで新しい楽譜というのは?」
エメレンツィアは小首を傾げた。
「…え、ああ…ちょっとな。楽曲で何か引きやすいのがないか、と思って」
「あ……そうなんですか」
竜照は明言こそしなかったが、それはエメレンツィアのためのショパンの曲。
以前彼女に告白したときにリクエストされた曲だ。
やはり随分とピアノを弾かなくなってから間を空けてしまったので少しは練習をしておこうという心積もりだった。
別に彼女に隠すつもりではなかったが、少し驚かせてやりたい、という気持ちもあった。
兎も角、ふたりは商店街を暫く歩き続けた。
…と、その時不意に制服の裾を引っ張られ、小声でエメレンツィアは竜照に話しかけた。
「……竜照」
「ん…なんだ?」
「つけられています」
「な……」
何に、と問う暇もなく、竜照は彼女に腕を引っ張られ建物の物陰に引き込まれた。薄暗い裏道。
エメレンツィアはその小さな体躯には見合わないほどの強い力で、
竜照を引っ張ったままその裏道を疾風のように駆け抜けて行く。
「え、え、え、えめれ、んつぃあ、さん…ッ」
「少し口を閉じておいてください。舌を噛みますよ」
淡々と述べるエメレンツィアは、忙しなく回りに視線を走らせて気配を窺いつつ疾駆。
引き摺られるように走る竜照は、そこで、なるほどと妙に納得してしまう。
『魔王の剣』とも呼ばれる彼女は『プロイセンの魔王』や『魔女ベアトリーチェ』と
同じぐらいビアトリスを扱う世界では有名人であった。
故に魔女ベアトリーチェ…鷹栖絢子と同様にしばしばその命を狙われることがある。
むろんエメレンツィアは二人ほどではないが、ビアトリス制御にかけては世界クラスのレベルである。
そんな不逞の輩など幾人とも蹴散らしてきた。だから、これくらいのことは日常茶飯事。
そしてそれらを処理するのもまた日常の一部でしかない。
「竜照、こんな野蛮なことにつき合わせてしまうことになり、本当に申し訳ありません」
「い、いや…エメレンツィアさんが謝ることはない。あんたを付け狙うあいつらが悪い」
眉をハの字にして謝るエメレンツィアに、竜照は首を横に振り後ろを振り向いた。
サングラスに黒スーツと明らかに堅気の人間ではない風貌の男たちが、獰猛な動物のような形相で追いかけてきている。
「それにしても…、いつもああいうヤツらに付け狙われているのか?」
竜照は再び前を向いてエメレンツィアに問いかけた。
「ええ。…お義兄さまはベアトリーチェよりも冷徹なお方でしたから。
その分、恨みを買われやすく私も幾度となく狙われてきました。ですが―――」
エメレンツィアはそこで言葉を切ると、ふわりと前方宙返りをして見せて、
前方の行き止まりの壁の上に立ち、竜照へ手を伸ばす。
「跳んでください、竜照!」
「と、跳べって…!」
その高さは約3メートルほど。とてもではないが、普通に跳んだのでは手が届かない。
エメレンツィアと後ろから追いかけてくる男たちを見比べる。
前方には壁、後ろからは正体不明の敵意をむき出しにした男たちが。
由良里や希実子と同様、竜照もビアトリス制御の才能に関してはかなりのものであったが、
それを実践に移すことができるほど訓練と経験を積んでいるわけではない。
しかし、ここから逃れなければ、あの男たちに捕まってしまう。
すると、エメレンツィアは笑う―――。
「あなたなら出来ます。私を信じてください。
必要なのは想像力と集中力。足の裏側に意識を集中、自分の飛翔する姿を思い浮かべて…」
その笑顔は、あまりに女の子らしく、可愛らしくて。こんな状況だというのに竜照は思わずそんなことを思ってしまった。
頬が赤くなるのを感じながらも、エメレンツィアに言われるままに、意識を集中しビアトリスに呼びかける。
(跳べ、跳べ…!―――――跳べッ!)
エメレンツィアの助言があったおかげだろうか、
いつも以上にクリアにビアトリスを感じることができた竜照は言われるがままに
ビアトリスを掻き集める様に足の裏へ凝縮させようとする。
少しでも意識を散漫させようものなら、それと同時にビアトリスも霧散してしまいそうだ。
はっきりとビアトリスを感じることが出来るだけに、それもまた理解することができた。
だが、竜照はそれに怯むことなくビアトリスを制御し―――、一気にエネルギーを拡散させる!
「と…っべぇぇえぇえええ!」
「竜照!」
決してエメレンツィアのような華麗なジャンプではなかったけれど。
護や絢子のように呼応するようなビアトリスの制御ではなかったけれど。
竜照は ――――跳んだ。
「ふぅ…ここまでくれば、ヤツらも追って来ないでしょう。
それにしても、よく頑張りました。竜照」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…エメレンツィアさん…」
息ひとつ切らさないエメレンツィアに対して、竜照は息切れしてしまっていた。
彼はそんな自分が情けなくなるが、エメレンツィアが褒めてくれただけでも、そんな思いは吹き飛んでしまった。
――少しだけ、『魔女ベアトリーチェの恋人』の気持ちが分かったような気がする。
なぜ、吉村護があれだけの努力家なのか。
たぶん、それは世界最強とも言える彼女に少しでも認めてもらいたくて、自分の限界を伸ばそうとしているのだろう。
彼の実力は決してその才能だけではないことは竜照もよく知っていた。
いつか、自分も彼のようになれるのだろうか。そして、彼女を振り向かせることができるのだろうか。
そこまで考えて、竜照の胸はずきりと痛みを感じた。
その想いが叶わないことは、他の誰よりも竜照が知っていた。
きっと、竜照がどれだけ強くなったとしても、きっと彼女は振り向いてはくれない。
なぜなら、彼女はたぶん『吉村護』という個人を好きになったのだから。
どう頑張ったとしても『吉村護』に成り代わることは出来ない。
それでも、竜照は彼女のことが好きだった―――。
「なあ、エメレンツィアさん」
「はい?」
「………いや、何でもない。呼んでみただけだよ」
「…はい」
いっそのこと、護が絢子とどこかに消えてくれたら。
一瞬、そんな暗い考えが浮かび上がったが、かぶりを振って考えを打ち消した。
護は尊敬できる先輩だ。
確かにそこには嫉妬の感情を抱く時もあれば、あるいは優柔不断な護に苛立ちを覚えることもある。
けれど、今の考えはエメレンツィアの不幸を願う結果となってしまう。
無論、竜照とて一人の男だ。
エメレンツィアの幸福を願って護と彼女が一緒になればいいと大人びたことは思っていない。
それでも、彼女が悲しむような結末は見たくはなかった。
…だからこそ、こうして苦しんでいるのだが。