ざわめきが耳を優しく撫で、車のクラクションが街路にのどかに響いた。  
夕刻の、多すぎず少なすぎもしない人通りの中をその男女は肩を並べて歩いていた。  
 
傍目にはデートをしている普通のカップルに見えたが、その正体は統合宇宙軍所属の航空管制官とバルキリーパイロットである。  
しかも──いちいち観察している物好きはいなかったが──この二人は映画に立ち寄るとかどこかで買い物をするとかいう尋常なデートをしているわけではなかった。  
特に話をしている様子もない。  
歩調だけは互いにあわせてはいるものの、彼らは街を彷徨っているだけに見えた。  
 
*  
 
「お待たせしました」  
置かれた紅茶に気付かないまま、未沙はまだ飽かず窓の外を眺めている。  
輝はついてきたストローには目もくれず、コップを一気にあおった。  
冷たく香ばしい流れが喉を押し開き、思っていたよりずっと渇いていたことに改めて気付いた。  
 
(歩いてばかりだったな)  
 
彼は、窓の外の人の流れに見蕩れている未沙に視線をやった。  
いくら見ていても見飽きないといったその熱心な風情に、彼の口元が少し緩んだ。  
「──紅茶、冷めるよ」  
「え?」  
未沙は顔をこちらに向け、輝の空になったコップに気付いて瞬きした。  
「あ……ありがとう」  
急いで紅茶に向き直り、未沙はスプーンと並べて添えてある砂糖の袋に目を留めた。  
それをとりあげると細い指先で丁寧に袋の口を破り、同じく丁寧にカップに白く煌めく粉を注いだ。  
スプーンを取り上げて、調合するようにカップの底をちりちりとかき回した彼女はにっこりした。  
 
「楽しい」  
「…だよね」  
 
二人で暮らしたこの一ヶ月というもの、陶器のカップもしゃれたスプーンもましてや砂糖なんてものにはついぞ縁のないサバイバル生活をしていたから、その気持ちは理解できるような気がした。  
輝は使わなかったシロップを差し出した。  
「これも入れる?」  
「要らないわ」  
未沙は優雅にカップを持ち上げて肩を竦めた。微笑している。  
「いつもはお砂糖入れないの」  
「ふうん」  
 
そういえば、と輝は気付いた。  
未沙が紅茶を好きだということも、普段はそれに砂糖を入れない習慣だということも初めて知った。  
一ヶ月というもの四六時中鼻つき合わせて一緒にいたので随分彼女のことは知ったつもりでいたのだが──。  
やはり全然わかっちゃいない。  
 
未沙はカップを置き、輝の空のコップに再び視線を向けた。  
「アイスコーヒー?」  
「ああ」  
「どっちかというと紅茶よりもコーヒーのほうが好き?」  
「うん。まあね」  
へえ、という顔で彼女は輝を眺めた。  
サバイバル生活にはコーヒーや紅茶の好みなどという日常的な奢侈も以下略。  
 
二人はぎくしゃくと笑い合うと、揃って再び窓の外に目を向けた。  
 
人の気配がある街というのはなんと暖かいものだろうか。  
無惨な廃墟を見たあとで、マクロスという戦艦の内部に便宜的に構築されたものとはいえこの人の住む場所のなにげない得難さを彼らは感じ、制御された天井の環境映像がゆっくりと暮色を深めていく過程を眺めた。  
『故郷』の黄昏を懐かしんで作られたはずのその光景は、実際の自然のあまりにも暴力的な雄大さにくらべると随分と優しかった。  
より黄昏という気にさせる。  
おかしな話だが。  
 
空になったコップを下げてもいいかと遠慮がちに店員に尋ねられて、輝は夢から醒めたように腕の時計を見た。  
とうに19時を過ぎていた。  
「明日の聴聞は8時だったっけ」  
「そうよ」  
未沙の口調が少ししっかりしたように輝は感じた。  
聞き慣れた、意識的な『軍人らしい』口調だ。  
漂流生活を通して得た詳しい地球の状況をグローバルら高官に報告するその時刻までは一応休息時間ということになっていた──まだ12時間以上ある。  
輝は立ち上がった。  
「晩飯、食べよう」  
「いいわね」  
 
二人は喫茶店を出ると、またぶらぶらと歩き始めた。  
「何か食べたいものある?」  
「そうねえ…」  
未沙は迷うようにあちこちのレストランに灯り始めた照明を眺めた。  
「…なんでもいいんだけど」  
「同じだ。海水味以外ならね」  
未沙がくすくすと笑い、それを見た輝はやっと、思いきることにした。  
「よければ俺の部屋に招待するけど」  
「え?」  
「何か買ってきて食べよう。その方が──さっきからちょっと足ひきずってない?」  
未沙は首を巡らせて輝きはじめた街を眺め、それからパンプスに包まれた爪先を見下ろした。  
「そうね。歩き過ぎたかな…ちょっとね」  
「すっかり野性化したんだ」  
「そう…違うわよ。もう」  
二人は向きを変えて階層を貫くエレベーターフロアに向かい始めた。  
未沙がふと輝を見た。  
「よく気がついたわね──足が痛いの」  
「まあ……そりゃあ」  
この一ヶ月、相手の不調には敏感にならざるを得なかっただけの習慣的な観察だったのかもしれないが、未沙はどこか嬉しそうだった。  
あえて否定する理由もないので輝は黙って少しだけ足取りを緩めた。  
 
──俺達って何なのかな、と輝は歩きながら考えた。  
いや、考えるというほどでもなくそれはマクロスに戻り、一緒に街に出てからのこの数時間で彼の内部に点滅しはじめた新しい感覚である。  
不安というか、不満というか。  
ただ単に状況のあまりの流転に神経がとまどって過敏になっているだけかもしれない。  
いや、本当は考えるまでもない。  
未沙と輝は一緒に遭難生活からマクロスに復帰した軍人同士で、階級でいくと上官と部下、ただそれだけのことである。  
だがマクロスに戻ってくる前におこったあの事が、輝の内心の落ち着きのなさを煽っているのは確かだ。  
 
*  
 
料理に腕を揮う趣味を持つわけでもない輝が未沙のアドバイスを聞き流しながら途中の食料品店で買い求めたのは、適当なパンやハム、チーズなどのお手軽セットだった。  
最後にインスタントのスープをカートに放り込み、輝はしみじみと思った。  
自力で食料調達をしなくていい環境とはなんと便利なものだろう。  
レジで順番を待ちながら傍らを見ると、未沙も籠の中身を覗いていた。  
ほっと小さな溜め息をつき、目をあげた未沙は輝の視線に気付いてかすかに微笑した。  
「…すごいわよね。こういうの」  
同じ考えに耽っていたらしいその言葉に、輝も少しにやりとした。  
「うん。火もおこさなくていい」  
端から聞いていれば何のことかわからない会話だろうが、互いにわかる相手と今もこうして一緒にいるというのもすごいことだと彼は思った。  
 
*  
 
待つまでもなく沸いた湯をインスタントスープのカップに注ぎながら、輝は勝手のわからない場所でもたもたしている未沙に声をかけた。  
「違うよ、その引き出しじゃない。スプーンやフォークはそっちの棚」  
「ああ、この上かしら?」  
棚をかき回している未沙が邪魔で奥の皿がとれない。  
狭い部屋に申し訳程度にくっついている湯沸かしスペースだ。  
 
大の大人が二人肩を並べて食事の支度というのが、土台、無理なのである。  
だいたい、彼女は輝より階級が高いのだから与えられているのももっと大きな部屋で、キッチンスペースもちゃんとしたものがあるのだろう。  
まだ彼女の部屋を見たことがないのでなんともいえないが、おそらくそうだ。  
歯ブラシと食器が同じ棚に並んでいるのをまじまじと見ている彼女を横目で見ながら輝はそう思った。  
「いいからさ、その、…座ってて」  
「…はい」  
未沙は邪魔になっている自覚があったのか輝に促されるとそそくさと移動した。  
デスク周りの棚にいくつもいくつも並んでいるプラモデルに気付き、もの珍しそうに近寄っていく。  
そのうちの一つに目をとめた彼女が呟いた。  
「これ、珍しいバルキリーね」  
「…VF-X1プロトタイプ」  
少しわくわくしたが、輝はそこまでで口を閉じてハムを盛りつける作業に集中した。  
 
昔、これで失敗したことがある。  
フォッカーの世話してくれたデート相手に好きなものは何かと尋ねられ、熱をこめて飛行機や尊敬するパイロット達の高度な操縦技術について語りに語った。  
あげく「変な人…」と振られんだっけ──暗い記憶が久しぶりに甦った。  
──してみると、と彼は思った。  
 
自分は未沙を、異性として意識しているのかもしれない。  
いや、異性なのは知っている。  
そこらへんを考えると変な気分なのだが、それでもなんだか不思議だったのだ。  
 
こうしてマクロスに戻ってきてみるとあの一ヶ月の異様な体験は、こういった『普通の』生活とは切り離されてしまうかもしれないと思っていた。  
少なくとも未沙と街に出かける約束をするまではどこかでそれを覚悟していたような気がする。  
自分だけではなく、彼女もそうかもしれない。そしてあの日々の異様さから考えるにどちらかがそうであったとしてもどちらにもそれは責められない。  
少なくとも輝はそう思っていた。  
だが、こうして自分の部屋できょろきょろしている彼女を見ていると、その様子に体験の断絶を感じ取ることはできなかった。  
未沙は地球を彷徨っていた一ヶ月を経て辿り着いた今の時間にぴったりと嵌っていて、別人になったわけでもなくもちろん変身したわけでもなく、ごく自然に今の彼女にシフトしているようだった。  
もしかしたら輝もそうなのだろうか。  
輝も昔の彼とはどこか変わっていて、でもやっぱり昔の彼が変化してきた者のように、彼女には見えるのかもしれない。  
 
「できた」  
輝は危なっかしく皿を片手に持ち、躯をひねって未沙に手渡した。  
未沙はぼんやりと部屋の奥を眺めていたが、はっとしたように振り向いて手を差し伸べた。  
その手に皿や道具をリズミカルにどんどん渡した。部屋が狭いのも便利なものだ。  
「あと、これ。あ、これも」  
空間利用の効率性メインで据え付けてあるデスクの表面は当然すぐに食べ物で一杯になった。  
こうして並べてみると、明らかに二人分にしては多かった。久しぶりの買い物に浮かれて調子にのっていたのかもしれない。  
カッティングはぞんざいだが山と盛り上がったハムの皿に未沙は呻いた。  
「全部切ったの?食べきれないかも」  
「余ったら部屋に持って帰ればいいよ」  
「…そうね」  
未沙はなぜかちょっと視線を落とし、気を取り直したように輝に向き直った。  
「どこに座ればいい?」  
「そっちにどうぞ」  
輝は一番まともな──はっきり言えば唯一の椅子を未沙に提供し、自分はベッドに腰を据えた。  
 
二人での食事は何度もしてきたが、夕方の喫茶店と同じく間にあるのがひどく『普通』なものばかりなので輝も未沙もじっと皿の上を眺めた。  
「…食べたら?」  
「あなたこそ」  
二人は同時に呟き、それぞれどこかむず痒くなったような表情で目を合わせた。  
 
輝は浮かんだ疑問を口にした。  
「いつまでこうなんだろう?」  
「いつまでって?」  
「いや、いつまでこういう…違和感っていうかさ。感動っていうか」  
「…当分続くんじゃない?」  
未沙は肩を竦めた。  
「あんまりな生活してきたんだもの。でも、そうね…どちらかというと恵まれ過ぎてて怖い」  
「怖い?」  
「だって、例えばこれからもずっとこの調子で食料生産できるかしら?システムがこのまま順調に稼動するっていう保証があれば別だけど」  
「…あの有様だし?」  
輝はあえて地球とは言わなかったが、未沙はパンを一切れ手に取ると頷いた。  
「元通りに復興させるプロジェクトは絶対に立ち上げるはずだけど──きっと時間がかかるでしょうね」  
食事の内容は豪華といっても差し支えなかったが(ここ一ヶ月で最高の栄養源かもしれない)、どうも話の内容は暗かった。  
 
もっとも、いつ救助が来るという希望を抱くことができなかった漂流の日々の会話はこれ以上に暗いものだった。  
そもそも会話自体が成り立っていなかった時間のほうが長かったのだから、二人は食べながら疑問や不安を率直に語り合える事に基本的には満足した。  
先のことが話せるのは有り難いことで、それはたぶん奇跡に近いような出来事で──食べ物を口に運ぶ輝の手が段々遅くなってきた。  
しまいに、カップの取っ手に指をかけたまま動かなくなったその手を見て、未沙はもの問いたげな目になったがあえて何も問おうとはしなかった。  
しばらくして未沙の沈黙に輝は気付き、自分が沈黙している事にやっと気付いた。  
 
時々──輝は思う。  
ひどく近づき過ぎて、彼女と自分の距離がわからなくなる。  
 
「……クローディアから伝言があるの」  
フォークを置いて、未沙が静かに沈黙を破った。  
輝の手が少し動いたが、それは意思で行った動きではないようだった。  
「クローディアさんから……?」  
未沙はじっと輝を見た。輝がもしその目を見返していたなら、そこに寂しげな陰を認めたことだろう。  
「今度、暇な時には一緒に飲みましょうって」  
「……」  
 
フォッカーの話題は、この一ヶ月何度も出た。  
まだ何も消化できている気がしない。自責の念もわずかも薄れはしない。  
やっと受け入れることができたのは、フォッカーがもういないという事実と結果的に自分のために彼が死んだという変えようのない現実のふたつだけだ。  
生き延びることに集中するためにとりあえず棚上げしていたこの問題が目の前に突きつけられたのは、帰還報告のために呼び出されたグローバル艦長の部屋にフォッカーの恋人を見いだした瞬間だった。  
 
「…ロイは、立派だった?」  
 
──クローディアは乱れなかった。  
すでに覚悟をつけていたような目の光が辛かった。  
それどころか輝を労るような色さえ帯びた口調に、輝は瞬間、精神的に崩れそうになった。  
だがそれだけはできなかった。  
彼女の強さに縋ることは自分と彼女を侮辱することだと思った──なかば本能的に。  
だから腹に力をいれた。万感の想いをこめて肯定した。  
「はい」と。ただ一言。  
 
案じているような未沙の瞳に、輝はわずかに浮かべた微笑を向けた。  
強くならなければならない──自分のためではない。すでに死んだ者とまだ生きている者のためにだ。  
「ああ。ぜひって、言っといて」  
「………」  
未沙は少し泣き笑いのような微笑を返した。  
 
*  
 
 
食事が終わり、食器を片付けようとする彼女をおしとどめて輝は立ち上がった。  
「俺、ちょっとそのへんに…」  
「なに?私も、行く」  
見上げる未沙に輝は肩を竦めた。  
「自販機でビール買ってくるだけだよ…足、痛い、…んでしょう?」  
「ビール」  
未沙は少し目を輝かせた。  
「久しぶり」  
「飲む?」  
「ええ」  
 
ドアが閉まると、未沙は長い髪を肩から払って、並んだ食器に手を延ばした。  
輝は放っておけと言うが、汚れた皿が気になる性分なのだから仕方ない。  
だが──止められたのに片付けてしまうと、いい子ぶった保守的な女だと思われるかもしれない──ともかすかに思い、自分のその考えに少しうろたえた。  
それがどうだというのだろう。  
余計な事は考えず、自分のいつもの習性に従って片付けるほうが気分がいいのだから、躊躇う必要などないはずだ。  
未沙は理屈っぽく頷いて、皿を重ねて立ち上がった。  
洗い物も二人分だとたかが知れていて、机の上まで綺麗に拭いてしまうと未沙は所在なげに椅子に戻り、再び座った。  
 
輝はまだ戻らない。  
自販機がこのへんに『いない』のかもしれない。  
 
未沙は椅子の上でもじもじしていたが、やがてゆっくりと顔をめぐらせて横を見た。  
そこにはさきほど輝が腰をおろしていた軍支給のままのカバーがかかったベッドがあり、その奥の壁に、大判のポスターが一枚。  
輝くらいの年の青年なら誰だって貼っていそうなバストアップのアイドル歌手が、未沙の視線に笑顔を返した。  
 
リン・ミンメイ。  
 
そのポスターの彼女は可憐だがわずかに大人びた笑顔で、髪を指に巻いた少女っぽい仕草がその笑顔と不似合いで、未沙の胸は小さくずきりとした。  
未沙は彼女のことを直接知っているわけではなかった──もちろん、マクロスを席巻しているアイドルで軍の広報にも協力しているくらいの存在なのだから、彼女のことはメディアを通しては知っている。  
だが、その、マスメディア向けの彼女の顔と、実際に一ヶ月前…そう、まだ一ヶ月ほど前のことなのだが…輝の傍らで見た彼女の表情が違う事くらいは気付いていた。  
 
明るくて可憐な笑顔のアイドルの彼女。  
輝に自然な視線を向けていたオフの彼女。  
 
そのどちらもがミンメイで、でもそのことが不思議なわけではない。  
人をその見た目だけの存在だと考えるほど未沙は苦労知らずの堅物ではなかった──少なくとも現在は。  
それを教えてくれた輝は、未沙の知らないオフのミンメイを知っているのだろう。  
彼女はついそう考えてしまう。  
 
いや、ポスターはポスターだ。  
それよりも、未沙は昼間に街で見た、壁面スクリーンのミンメイの姿を鮮やかに思い出した。  
動き、歌っている彼女を見て、未沙は思わず呟いてしまった自分の一言を思い出した──なんて無神経な言葉。  
 
まるで、生きているみたい。  
 
それは、彼女が死んだものと決めてかかったような言葉だった。  
いや──正直なところあの状況で彼女とそのマネージャーが今も無事でいるとは思えない。  
それは過酷な一ヶ月を通じて得た掛け値なしの実感だった。  
だが、それとこれとは別だ。  
自分がそれを呟いた相手は一条輝だった。  
ミンメイたちへの礼儀や思いやりが足りなかっただけではなく、輝に対しても思いやりのない言葉だったのだ。  
私、ひどい人間だわ、と彼女は思う。  
自己嫌悪をしている暇すらない生活を送っていた反動か、未沙は、マクロスに戻って来てからの自分が多少情緒不安定になっていることを自覚してはいた。  
それにしても──。  
 
ドアのノブの音に彼女は首を巡らせた。  
輝が、缶を下げて入ってきた。  
走ってきたのか少し顔が上気している。  
「ごめん、自販機がなくて──探してるときにはどこかに隠れてるんだよな、あれって。いらない時にはしつこく寄ってくるくせに」  
冷たいビールを受け取りながら、未沙は少しこわばった笑顔を彼に向けた。  
輝は棚に向かってコップを探り、皿が綺麗に片付いていることに気付いたようだった。  
ちらと彼女を見て、輝は呟いた。  
「手早いね」  
「悪かった?」  
「いや」  
驚いたように輝は向き直った。  
「どうして?」  
「いえ……」  
未沙は俯いて、缶を机に置いた。  
「えーと…チーズクラッカーかなにか、買ってくればよかった。ハムの残りは…要らないよな、もう」  
輝はなにもつまみらしきものを見つけられなかったらしく、コップだけ掴んで戻ってきた。  
「ううん」  
未沙は首を振った。  
「ビールだけでいいわ」  
「………」  
輝が缶を開けながら、横目で見ている気配を感じたが、未沙は知らんぷりをしていた。  
「それ、貸して」  
未沙がコップを差し出すと、輝はそれに泡立つ液体をなみなみと満たした。  
 
「えー」  
輝はもうひとつにもビールを注ぎ入れ、未沙に軽く掲げた。  
「とりあえず、無事生還を祝って、乾杯」  
「…乾杯」  
未沙もちょっとコップを持ち上げて、煽った。  
久しぶりのビールはかなりに刺激的で、輝は底まで一気に空にしたが未沙は途中で手首を返した。  
咽せ加減に輝を見ると、おかしそうな顔でこちらを見ている。  
 
「そういえばさ。ビールと…ほかの酒とさ、どっち党?」  
「そうねえ…」  
未沙は苦笑した。  
「どっちかというと、ワインかな?飲みやすいから」  
「ハイソな嗜好だね」  
「全然」  
未沙はコップを掲げて眺めた。揺れると小さな小さな泡が、いくつもの筋をひいて底からシューッと立ち上った。  
「なんでも飲むわよ──ビールだって、好き」  
残りのビールを飲んでいる未沙を輝は眺めていたが、彼女がコップを机に置くと、低く呟いた。  
「──君のことを、まだ全然よくは知らないんだ、俺」  
「……私もだと思うけど」  
 
二人は少し俯いて、同時に缶に手を延ばした。  
「あら、ごめんなさい…」  
「まだあるよ」  
輝は机の隅を指差した。未沙は頷きながら、眉をひそめた。  
「ちょっと待ってよ…。あなたって、確かまだ未成年じゃなかった?」  
「それを言うなら」  
輝は缶を逆さにしながら指摘した。  
「成年どさくさにしてはかなり堂にいった飲みっぷりですが。早瀬大尉?」  
口をつぐんで、未沙は新しい缶を引き寄せた。  
「──生き延びてる最中、お酒が見つからなくてよかったわね」  
「…そんなんじゃ今ごろ、二人とも立派なアル中になってるよ」  
輝が落ちをつけ、二人は苦笑した。ビールは冷たく、ほろ苦くて旨かった。  
 
ふと、未沙が顔をあげて尋ねた。  
「今何時?」  
輝はコップ越しに小さなパネルの表示を眺めた。  
「21:40になったところ」  
「もう?」  
未沙はコップを置いた。椅子の脚元においていたショルダーバッグの紐を掬い上げた。  
「いけない、帰らなきゃ。…一条君、ごちそうさま」  
「…待った」  
立ち上がりかけた未沙は不審そうな顔を輝に向けた。  
「なに?」  
「まだ──えーと──10時間以上あるよ」  
「だから、なにが?」  
「聴聞会。間に合えば、いいんだ」  
 
未沙はゆっくりと振り向いた。  
呆れたような顔なのか、それともなにかを抑えているような表情なのか、輝にはよくわからなかった。  
「……あのねえ、一条君…一晩中、飲み明かしてるわけにもいかないのよ。二人ともへべれけになって聴聞に出席するわけにはいかないわ、そうでしょ?」  
輝は指先で側頭部を押さえた。  
ここまで鈍感を通されるとかえって深読みしたくなるのだが、まあそれは置いておくとして──彼はもってまわった言い方はやめることにした。  
「酔っぱらう前に言いたいんだけどさ、その──できれば──泊まってって欲しいんだ──けど」  
「………」  
未沙はかすかに赤くなったようだった。  
もともとビールで少し染まっているので判りにくかった。  
「……いやなら、いいんだけど」  
「………」  
返事がない。  
 
輝は溜め息をついた。  
「ごめん。……あ、じゃあ、おやす──」  
俯きかけた視界にショルダーバッグが揺れた。  
顔をあげると、未沙が怒ったような顔で佇んでいる。  
 
「……最初からそのつもりだったの?」  
つんけんした口調のようだが、声は柔らかかった。  
「うん。その、まあね」  
輝は正直に白状した。彼女が怒ってはいないという確信はあった。  
「……」  
未沙は小さな溜め息をついた。  
言いにくそうだったが、それでもはっきりと彼女は囁いた。  
「実はね、…そうじゃないかと思っていたの」  
「……そう」  
二人は黙り込み、しばらくじっとしていたが、やがて不器用げに互いを見つめた。  
 
輝がバッグを受け取り、未沙は静かに上半身をかがめた。  
その両腕に腕をまわし、輝はゆっくり微笑した。  
彼女ははにかむように微笑を返し、長い睫を伏せた。  
彼女がすっかり目を閉じたかどうかの確認はせず、輝は自分も目を閉じた。  
唇が触れ、その熱を感じとりかけた瞬間、彼女の腕に力が入った事に気付いた。  
 
彼女の髪が頬をかすめた。  
頭を軽くのけぞらし、未沙は輝の肘を掴もうとしていた。だがその動きは、傾斜した体重をとどめるにはやや遅かった。  
柔らかく鎖骨にかかる重みを受け止め、輝は彼女の耳元に尋ねた。  
 
「──どうしたの」  
「…待って。待って、待って」  
 
未沙は輝の肘を掴むことを諦めて肩に両手を滑らせた。  
離れようとしている。  
「どうして」  
輝は同じ問いを繰り返し、彼女の腰に腕を廻した。  
未沙が怯えたように輝に素早く視線を投げた。その躯を抱きかかえて、輝は腕に力をこめた。  
固めのスプリングがきしむかすかな音がした。  
彼女と抱き合ったかたちでベッドに着地した。  
 
「待って…ねえ、聞いて」  
未沙はすぐに肩を竦め、肘で躯をおこそうとした。  
輝が顔を近づけると、かえって抱きつくようになることに気付いて彼女は諦めた。  
「ここじゃいや」  
未沙が小さく訴えた。  
 
──そりゃ、確かにあまり大人っぽくも、ムードのある環境でもないな、と輝はちらりと殺風景な部屋を眺めた。  
 
だが、未沙がそんな事を気にするとは正直彼は思ってもみなかった。  
初めて結ばれたのだって『廃墟』だったのだ。  
ベッドどころかシーツすらなかった。  
意識せずその体験と比較して、配慮を怠っていたのかもしれない。  
確かに言われてみれば彼女は女性だ。  
知ってはいるのにさっきからいちいち再認識しているから目が回るような気がするが、未沙だってマクロスに戻れば──有能すぎて普通とは言いがたいが──年頃の女なのだ。  
少しでもムードが欲しいのかもしれない。  
あるいは──怖いのかも。  
 
輝と彼女が遺跡で求め合ったのは、互いの必要性からだった。  
それは愛しくも思ったが、なによりも、自分以外の温もりに縋り付きたくて腕を伸ばした、といっても過言ではない。  
今は違う。  
今は、互いがそれを了解の上で改めて同じ行為を繰り返そうとしているのだ。  
互いに相手を欲しがっている。  
唯一の存在ではないものを選びとろうとしている。  
いってみれば、『正気』で行う最初の行為なのだから、彼女が不安を抱くのも当たり前かもしれない。  
 
輝の憶測は、生憎と自分の肩の後ろの壁にあるポスターの存在をかすめることはなかった。  
部屋の暗がりだからということもあるが、未沙がそれに気付いたことすら彼は知らなかった。  
そのあたりが輝の輝たる所以であり、(漂流中に未沙に指摘されたのだが)逞しいんだか無神経だか紙一重というあたりなのかもしれない。  
 
「そう…じゃあ」  
輝は早口で囁いた。  
いったん抱きすくめると、未沙の躯は柔らかくすっぽりと腕におさまり、ひどく心地良かった。  
未沙が年頃の女だとしたら彼だって年頃の男なので、なにか発言するには集中力に欠けること極まりない状況ではある。  
「君の部屋は?──それとも…」  
適当な場所がとっさに頭に浮かばず、輝は口を閉じた。  
「違うわ」  
未沙が苛立たしげに首を振った。  
上気した顔を横に伏せ勝ちに、彼女は低く呟いた。  
「…あとじゃ、もっと嫌」  
呟いたとたんに真っ赤になった。  
 
輝は安堵の吐息をかみ殺した。  
いったんタイミングを外して後に再び彼女の同意が得られるかどうか、輝には非常に心もとなく思えたからでもあるが、今の勢いが止められるかどうかそれも不安になっていた。  
「わかってる」  
我ながらせっぱつまった同意の声を喉の奥で漏らした。  
なにが『わかってる』のか本当はさっぱりわかってはいない。  
だが、輝は深呼吸して両の腕を伸ばした。  
無理に封じようとする力が消えた事に気付いた未沙が抵抗をやめた。  
「あの──」  
未沙が輝を見た。すこし潤んでる、と彼は思った。  
綺麗だった。  
「灯り…消してくれない?」  
消え入るような声で彼女が囁いた。  
「…明るすぎるの」  
未沙の視線が肩越しに少し遠くにずれたが、輝にはそれは羞恥の意味にしかとれなかった。  
「待ってて」  
輝は早口で告げ──ひどく鼓動が早かった。  
もしかしたら自分は、彼女と同じくらい照れているのかもしれないと思った──未沙から身を離した。  
 
灯りを消すと、光源はベッド下の非常灯だけになった。  
これでも意外と明るいもんだな、と彼は思った。  
未沙もそう思ったようで、起き上がるとちらりと床に視線を落とした。  
淡いブルーの影は月の光のように揺るぎもせず、吹きすぎる雲に覆われることもない。  
風もなく波音もなく、地球でいくと緯度高め温帯の温度設定が保たれている軍個室は寒くも暑くもない。  
空気を動かすのは鼓動の音だけだ。  
かすかにビールの匂いがした。  
 
輝はベッドの前に立ち、椅子の背もたれにぽつんと置いてある小さな包みに目をやった。  
さっき、ビールを買うと言い訳して──実際にビールも買ったが──いかにも当たり前のような顔で(演技の必要はなかったのだ。周囲に人影はなかった)『ついでに』買った品だ。  
輝はそれを取り上げた。  
包装を外していると未沙の視線を感じた。  
間の悪さに躊躇した。  
「……その…買ったんだ」  
言い訳がましくなるのは何故だろう。  
部屋の殺風景さにも増して、ますます甘やかなムードから遠ざかることへの罪悪感かもしれない。  
「なに…」  
言いかけて、未沙はさすがに気付いた様子で肩を竦めた。  
「ごめんなさい」  
「いや!」  
輝は未沙の声を遮った。  
「あの──」  
言葉が続かない。  
 
大体、今更こんなものを思い出すという間抜けぶりに未沙が気付いていないことを願うばかりだ。  
最初のときにはなにも対策を講じなかった。  
講じようにもそんなものはなかったし、双方とも最初からそこまで気が回らなかったのだ。  
すでに手遅れかもしれないし、その可能性がどのくらいあるのか、そんなことはわからない。  
だが、だからといってこのままなし崩しに進んでいいというわけでもないだろう。  
少なくとも輝はそう考えたのだが──だが──だが、あまりにも一方的だったかもしれない。  
未沙の意見も聞かないでこんなものを買ってきてしまった(なかなか聞くに聞けないものではあるのだが)。  
いつか誰かが言ったセリフらしいが、まさに『人生は散文の連続』だ。  
 
あまりのきまりの悪さに顔が火照った。  
輝は絶望的な気分になり、ぴらぴらという軽薄な音にさえ腹をたてながら中身を引っ張り出す。  
「──大丈夫?」  
未沙の心配そうな声がした。  
「大丈夫」  
輝は呟いた。  
頼むから黙っててほしかった。  
未沙は未沙で不安だろうが、輝だって常識的には知っているものの──まあ、それは置いておくとして。  
──いつ、つけるべきものだろうか。  
輝は一瞬、呆然とした。  
タイミングがわからない。今でいいのか?それとももうすこし後でつけるものなのか?  
男同士で猥談はしても他人のその手の失敗談に興味があるわけもなく聞き流していたゆえか、記憶叢をいくらかき回そうがかけらも知識が出てこなかった。  
 
もっと真面目に聞いておけばよかった。  
 
「……一条君?」  
未沙の、心配に加えて不審そうな声がした。彼女を見ると、上気した耳から神経質に指で髪を掻きあげている。  
仕方ない。  
輝は開き直ることにした。  
開き直るのは得意だ…正直いって自慢になるとも思えないが。  
「──勝手で、ごめん」  
輝は呟き、腕を伸ばして未沙の肩を引き寄せた。  
「そんなこと──」  
言いかけた未沙は口を閉じて輝を見上げた。  
薄やみの中でも、未沙が目を閉じたのがわかった。  
その唇も舌も──水音すら柔らかく甘かった。  
 
「…ありがとう」  
 
名残惜しげに唇を離すと、未沙が囁いた。  
「──なにが?」  
言葉の意味を反芻しかねて輝は囁き返した。  
鼓動は早まる一方で、体中の血が沸き立つような感覚をおさえかねていた。  
「…ううん…」  
恥ずかしそうに未沙は呟き、輝の胸に頬をつけた。  
 
指が、背中に廻されるのを輝は感じ取り、安堵した。  
輝の浮かれようを彼女は怒ってはいないらしい。多少緊張のとれた彼は、早く難所を越えることにした。  
むこうを向いていてくれる彼女を気にしながらなんとかかんとか無事に──散文極まりないが──つける事に成功した。  
「もういいよ」  
色気もなにもない事を真面目な口調で言うと、片手で彼は未沙の腕に触れた。  
「…おいでよ」  
輝が囁くと、未沙はしなやかな躯をくねらせて輝にしがみついた。  
──少なくとも。  
最初のときのように互いにわけのわからないまま勢いだけで状況が進むということはないようだった。  
 
彼女の躯を覚えている、といった感覚はまだ輝にはなかったし、それは未沙も同様らしかった。  
思えば初めて抱き合ったのだってまだ一日か二日前の出来事なのだ。  
随分環境が変わったのでもっと、ずっと昔のことのような気がしたが、よく考えるまでもなくあの体験をそれぞれが体験として整理できる時間はなかった。  
ただ、彼女の匂いはもう知っていた。  
直接触れた熱さも、その滑らかな肌の気持ちよさも。  
輝が触れると、未沙はかすかに吐息を震わせた。  
その反応に気付けることが、二人の関係のたった一つの確かな証拠のようだった。  
すぐに彼は溺れ始めた…確かに抱いたはずなのに、リアルに感じるのは初めてのような彼女に。  
 
*  
 
何を急いでいるのか、自分でも不思議なくらいだった。  
 
「そんなに…見ないで…」  
遠慮勝ちな彼女を追うように、輝は腰を突きあげた。  
「…あ」  
未沙が輝の目の前で白い喉をそらして小さく喘ぎ、ぴくん、と鋭く背を伸ばした。  
のけぞろうとする躯を引き寄せ、輝は両腕で絡めとった。  
貫かれた未沙が啼き声をあげた。  
「あ、あっ……!」  
輝は彼女の躯を抱いたまま、身を捩った。  
強く押さえつけるとかためのスプリングが慌ただしい音をたてた。  
 
すぐに熱心に動き始めた輝の背に手を伸ばして、未沙は抱きついてきた。  
潤んだ瞳で輝を見上げて、全身が上気しつくして、彼女はたまらなく可愛らしく、しかも恐ろしく忍耐強かった。  
輝は動きながら彼女に囁いた。  
「…痛い?」  
「……」  
未沙は上気して喘ぎながら首を振った。  
「……大尉…」  
未沙は輝の腕に絡めていた指をずらして彼を押しやり、輝に向けていた視線を外した。  
「あ…あん…!あ!」  
その躯を内側から押し上げて揺らすと、未沙が耐えかねたように声を漏らした。  
「や、っ…!ん…っ、あ」  
「こっちを向いて」  
輝は荒く息を吐きながらその耳朶に囁いた。  
声を潜めることができず、囁くというよりは小さく叫ぶようになった。  
「頼む──顔を、見せて…」  
彼女はゆっくりと顔を巡らせた。  
その切なそうな表情は輝の予測していたよりはるかに彼を刺激した。  
まさに今、自分が彼女にその顔をさせているのだという喜びはひどく輝を奮い立たせた。  
 
「未沙」  
 
輝は半ば震えるような声で彼女の名を甘く呟いた。あまりに愛しくて、その名が舌の上で蕩けるような気がした。  
未沙は返事をしなかったが、薄く潤んだその瞳の雄弁さは、半端な言葉よりはるかに彼を惹き付けた。  
「未沙…」  
何も他に言えなかった。  
未沙の腕に力が籠ったのがわかった。優しく、悲しくなるほど弱々しい力だった。  
これほど自分が彼女に惹かれていると深く認識したのは、もしかしたら──そのときが初めてかもしれなかった。  
 
宝物を抱く不器用な竜のように、彼は腕の中の未沙を見つめた。  
躯はひとつになっていて、しかも彼はじっとしていられなくて、だから彼女は小さな喘ぎを抑えることができず、しかも魅入られたように彼が目を離さないので目を自分から閉じることもできずに上気しきって全身をくねらせていて──どうすればいいのか、輝にはわからなかった。  
このまま一緒に達したかったがあまりにも愛しいこの瞬間の彼女をいつまでもいつまでも見ていたかった。  
雪崩うつ長い髪にこもる(そして初めて嗅ぐ)シャンプーの匂いに混じって、すでによく馴染んだものになりそうな彼女そのものの匂いがした。  
「未沙」  
かすれた声で、彼は繰り返した。  
 
──好きだ───。  
 
言わなくても、たぶん未沙は知っているのではないかという気がした。  
未沙のしなやかな指は輝の背でしっかりと彼を引き寄せ、そのくびれた腰は輝の動きに反応して柔らかく淫らに揺れ動いていた。  
「……どうすれば、いい──?」  
輝は尋ねた。半ば無意識だった。  
「未沙…どうすれば、嬉しい……?」  
「……あ」  
未沙は喘いで、潤みと切なさをさらに増した瞳で輝をじっと見上げた。考える前に輝は口走った。  
「…好きだ…」  
私も、と彼女が応えた。声には出さなかったが、その顔も瞳も吐息も喘ぎも、そして彼へのしがみつきかたも、全てがその答えを表していた。  
誤解のしようのないほどの答えだった。  
輝は未沙を見つめていた。このままでいられたらそのまま蕩けてしまえそうだった。  
 
「未沙」  
輝は口早に囁いた。動きも忘れていたことにうっすらと気付き、彼は急いでもっと気持ちよくなろうと腰を彼女に押し付けた。  
「うっ…ん」  
未沙が唇をかみ、薄く汗の浮いた喉元をそらしかけた。  
「動かないで」  
輝は湧き上がった寂しさで咎めるように囁いた。顔を逸らしてほしくなかった。彼女をずっと見ていたかった。  
 
「……だって…」  
未沙が小さな声で抗った。  
「だって……ああ……」  
「痛い──?」  
輝は思わず尋ねた。最初の時の未沙の反応を、彼は脳裏に思い出さざるを得なかった。  
未沙は首を横に振り、そうではないことを示した。  
「いいえ、でも…──そんな……奥、まで…だめ…」  
あ、と未沙はまた顔をそらしかけ、ぴくんと痙攣しかけて慌てて視線を輝に向け直した。  
「なぜ?」  
輝は不審げに呟いた。  
未沙は唇をかすかに開いた。喘ぎをこらえながら彼女は小さく囁いた。  
「…壊れそう…わたし……」  
背筋にぞくぞくとした流れが這い上がり、輝は顎をあげるようにして耐えた。  
「…壊さない…我慢する…もう、しばらく…は」  
未沙が不安をかすかに絡めた甘い視線を輝に返した。  
「我慢…?」  
彼を包む鞘はその声よりも甘くて、微妙に絡み付いてきていて、輝は視線を彼女に落としたまま眉をひそめていた。  
ひく、とまた彼女の柔らかな躯が小さく悶え、輝は吐息をついた。絞られるような快楽が彼を襲う。  
「このまま…なの…?」  
未沙が囁いた。恥ずかしそうだったが、そこに不満の見逃しそうな気配を彼は感じた。  
 
彼女の躯が、輝を深く受け入れたままの状態に耐えきれなくなってきているのは確かなようだった。  
快楽にしても苦痛にしても、やめるか、進むか、どっちかにしてほしいのだろう。  
未沙は彼の首に絡めた腕にさらに力を込めて、輝の近寄せた唇を避けなかった。  
かすかに唇が逢い、その唇がほころんで官能的な吐息を彼に送った。  
「いや……」  
輝は我慢できなかった。  
激しく彼女を抱きしめた。彼のその動きに漏らした未沙の本能的な喘ぎが最後の理性を粉砕した。  
「……嘘だ!……壊すよ」  
いったんそう決めると、輝ははるかかなたに忍耐を放り投げた。  
情熱を追求するのに、もうなんの障害もなかった。  
 
*  
 
「未沙」  
 
嬉しいと、未沙は未知の感覚に混乱しながらそれでもそう感じた。  
 
輝は、彼女をいつの間にか、当たり前のように名前で呼んでいた。  
初めての夜もそうだった。  
いつもは『大尉』としか呼ばなくて、マクロスに戻ってきてからも彼はそれを押し通していたので未沙は内心不安だった。  
『大尉』でなければ『早瀬さん』で、彼女はそれが寂しかった。  
これまで一度も感じたことのない寂しさは、マクロスに戻ってからの彼女の情緒不安定にたぶん一役かっていたのだろう。  
その呼びかけに距離を感じて──初めて彼に未沙と呼ばれたあの瞬間の感情があまりに甘美だったから──共に夜を過ごした彼に対しても、帰還後の未沙は控えめにしか振る舞えなかった。  
たぶん、輝に誘われなければこうして街に一緒に出てもいなかったことだろう。  
控えめといえば聞こえはいいが、たぶんこれは臆病のなせる技だ。  
 
傷つきたくなかった。  
一度そういうことがあったからといって、彼を自分のものと考えることはできなかった。  
あまりに特殊な状況で、あまりに異様な日々だった。緊張と不安で覆われた、綱渡りのような毎日だった。  
それを溶かしてくれた共有の体験を、だが日常に戻ったというだけでただの男と女の関係に還元できるものかどうか、彼女にはわからなかった。  
 
部屋に誘われたときに、もしかしたらと未沙は思った。  
輝も自分と同様にこの不安を感じているのかもしれない。  
いや、それは考え過ぎで、彼はただ単純に一度手に入れたからには当然その関係は続けてもいいものだと思っているだけなのかも。  
自分でも不思議なくらい冷静に彼女は誘いに応じ、一緒に買い物などして食事をとった。  
誘ったわりにはなかなかずばりと切り出さず、もう帰るしかないようだと諦めかけた彼女だったがいったん行為をはじめると輝は堰を切ったような勢いで、どちらとも判じかねた。  
ただ、たしかに彼女であるのを確認するかのように名を呼びながら抱きすくめてくる。  
薄い闇の中で感じるのは相変わらずの強い違和感と──たぶん、まだ馴れていないから──彼の躯の熱さだけだった。  
その意味は彼にしかわからないことなのだが、同じ不安を共有していたいと未沙自身がどこかで願っている。  
認めるのは怖かったが、彼を愛しているのかもしれない。  
 
だが、この瞬間にはそんな醒めた思考は未沙の頭には浮かばなかった。  
彼の熱さと同様、未沙の躯もたぶん彼にはひどく熱く感じられているのだろう。未沙は唇を開き、我慢できずに小さく喘ぎを漏らした。  
「んっ…あん、あ…」  
自分の声だと思えないような声に未沙はぎょっとして一瞬躯をこわばらせた。ひどく甘い声に聞こえた。  
猛々しいものが、我が物顔に腰の奥で暴れている。  
初めて抱かれた時の違和感ともかすかに違う。痛いとか──苦しい、というのとも違うような気がする。  
彼の荒い息遣いが乳房の間で続き、未沙は必死でその首にかけた腕に力を込めた。  
 
しっかりつかまっていないと、なにか……声をあげてしまいそうだ。  
 
未沙は唇を噛んで、大きく咽を仰け反らせた。  
(いや…)  
変な声をあげたくなかった。あるいは輝は喜ぶかもしれないが、それが、無性に恥ずかしかった。  
まだ、…たった、二度目なのに。  
なのに『気持ちがよすぎて』制御できない。  
(気持ち…いい…?)  
女の快楽は、愛されていると感じる事により開花するものなのかもしれない。  
名の合間に時折、可愛い、と囁く彼の言葉に嘘はない。  
疑い深い女にもそれだけはわかる。  
そういう男だと彼女の理性と本能が知っている。  
何度もケンカをし、少しずつ歩み寄り、言の葉を耳朶に受け、あの夜初めて愛された。  
そう、愛されている。  
だから、  
この上ない快楽を約束された彼女にはもうどんな歯止めも効かない。  
未沙は思わずまた喘いだ。躯中を強く、抱きしめられた。  
 
「…未沙……」  
 
耳朶に吹き込まれるその声が、腰からじくじくと滲んで湧きあがり、重く溜まり続ける不穏な感覚を弾いた。  
その重みをかき回されると背筋にぞわりと波がたゆたい、甘い声が漏れてしまう。  
「あっ…あ…」  
「未沙」  
「あ…」  
こぷり、と溢れた粘液の感触。すぐに熱く蕩けた泉に差し込まれ蕩けあう、一際滑らかな感触。ちいさな突起を、胎内まで続くその熱い幹が押しつぶした。  
未沙は髪が舞うほどに強く頭を振って声をかみ殺そうとした。無駄だった。  
「ん…っ!」  
「…未沙」  
怖い、と彼女は喘いでいる自分の声を聞きながら思った。  
輝の声が、かすかにうわずっている。  
「…もうダメだ」  
混乱しながらもどこかとろんとした目で彼女は輝の顔を見る。  
 
上気した顔にしとやかな表情がわずかに残っているぶん、その、行為に酔ったような目は輝に余計に深い満足感を与えた。  
彼が動くと彼女の中がひくひくと蠢き、もう限界がそこまできていることを予感させたが、輝にとっては少々荷が重かった。  
「ごめん」  
何を謝るのか尋ねてくる目を閉じさせる勢いで最後に未沙の躯を突き上げた。  
「あっ…!」  
小さく悲鳴をあげる彼女を折れるほど腕に抱きしめて、彼は果てた。  
 
*  
 
「だから、さ…あの…ごめん」  
輝は、なにやらさっきからぶつぶつと言い訳をしていた。  
彼女は紅潮した全身を横たえてぐったりと輝の首に腕を巻き、その体の下で彼の明るい瞳をうっとりと眺めていた。  
「まだ、その…うまくいかなくて…」  
未沙はかすかに眉を寄せた。なにを輝が気にしているのか、彼女には理解しがたかった。  
「もっと巧くなるから。たぶん」  
「巧く?」  
未沙はかすかに頬を赤らめた。輝が少し表情を緩めた。  
「修行させてくれたらね」  
「…修行?」  
「…まだ残ってるんだよな、あれ」  
ますます赤くなった頬を隠そうとしたが、輝が顔を近づけてきた。  
ゆっくりと柔らかな唇を吸われ、やがて同じくゆっくりと首筋の肌にキスが移動し、その執着に応じて未沙は目を閉じた。  
 
「未沙…」  
「……」  
「……もう一度…は、ダメ?」  
「…ダメ、です」  
否と伝えながら、彼女は彼の背中にぎこちなく、なめらかな腕を滑らせた。  
目を閉じていても、明るい目が細くなり、彼が笑うのが解る。  
 
翌朝8時にはきっと、一分の隙もない軍服に身を固めた彼女は、一条君、と少しよそよそしげに呼びかけてくるに違いない。  
そして輝はたぶん彼女をまた大尉と呼ぶのだろう。  
閨の中でのこの親しさはまだそういったレベルのものだった。  
だが、この『一条君』と『早瀬大尉』は、互いにそう呼びつつもたぶん──時間が許せば──昼食くらいは一緒に食べに行くのだろう。  
 
*  
 
──つまりは、そういう微妙な距離。  
マクロスの街の中で、それだけわずかに距離の縮まった男と女が、二人。  
 
 
 
 
(おわり)  
 

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