空気を求める細い喘ぎは否応無しに死を想起させる。  
 
それは彼の職場が宇宙であることとは関係のない連想だ。  
スーツと戦闘機の機構に何重にもプロテクトされた状態でなんとか生存を許される、絶対零度に限りなく近い世界──それらが破損した状態で放り出されると圧力差で人体の組織など瞬時に破壊されてしまう。  
だから宇宙で死を迎えるときに最後の息など吸う暇はないのだ。空気もない。  
なのにやはりその時がくれば肺は空気を求めるだろうと思う。  
 
細く、途切れるように。震えを帯びた『苦しそうな』喘ぎ。  
 
耳障りなわけではない。理由も──わかっているつもりだ。  
だが、その音ともいえないかすかな音が彼になかば本能的な不安を与えるのは事実だ。  
あまりにも異様な状況のせいかもしれない。  
だがそれだけではない。  
 
とにかくその音は止めなければならない。  
確実に。できるだけ、早く。  
その想いが異常な状況と相まって輝を追い立てる。  
…これから、どうすればいい。  
彼の鼓膜を弱々しく揺する、かすかな喘ぎ。  
…どうやればいい?  
彼の縋るものはそうした自分への質問だけなのかもしれなかった。  
 
***  
 
『………』  
『………』  
『………』  
暗闇にとけ込む広大な空間には寞とした沈黙が押しかぶさっていた。  
巨人たちは顎に指をあて、闇に背を押しつけ、奇妙な表情をその魁偉な体躯に貼付けて中心の台に魅せられたように視線をあてていた。  
いや、目をそらせなかったのだ。  
そこで行われている不思議な<行為>は…彼らはそう判断したのだが…争っているように見えた。  
しかしあまりにも奇妙だった。  
なぜこのゼントランディとメルトランは強化スーツを外し、弱体化した体で争うのか。  
現在まで稼働している記録参謀たちにはすでに失われた記録にはあったのかもしれない。  
だが彼らの知る範囲で長い長いあいだ伝えられてきた戦闘の論理に当てはまらない実例を目の当たりにして、巨人たちは動揺していた。  
『ドウイウコトナノダ』  
『ワカラヌ』  
もしかしたら──エキセドルの脳幹は潜む記録と情報をすべて検索照合した結果、恐るべき結論を導き始めていた。  
──この者たちは。  
 
背中に鋭い痛みが走り、反射的に輝は、長い髪に埋めていた顔をあげた。  
抱きすくめていた力を緩めると早瀬未沙が小さな声で、呻くように囁いた。  
「…ま…だ…なの?」  
まだだよ、と輝は声に出さず呟いた。  
見たところ巨人たちはかなり──いや、相当に──動揺している。ほとんど動けないようだ。  
なんらかの明らかなリアクションがあれば今後の行動に移れるのだが…。  
「…黙っててくれよ。もう一押し…だと思う」  
「だって…」  
未沙は目を見開いた。激しい羞恥のせいかどうか、薄く充血している。  
「信じられない。こんな格好で抱き合うなんて」  
輝も未沙も下着姿だった。  
傍らに脱ぎ捨てたふたつの艦内スーツがつくねられている。  
「抵抗しなかったでしょう」  
「逃亡の機会ができるかもしれないって言うからなにかと思ったら…あ、あんまりにもあんまりなアイディアだから、驚いてたのよ。そしたらあなたが……」  
「こいつらも驚いてる。嘘や冗談で言ったんじゃないよ」  
 
未沙はちらりと周囲に視線をやり、唇を噛んだ。  
「──そのようだけど。…その、あの…それで、いつまでこうしていればいいの」  
「さあ」  
「さあ、って」  
未沙の目が険しくなった。キャミソールというのかスリップというのかそれともランジェリーというのか輝にはさっぱりわからないが、ブラの上に着けているパールホワイトの滑らかな感触の下着姿にはその厳しい眼光はあまりにもそぐわなかった。  
「いい加減にしなさい。上官侮辱罪で帰還後に告発するわよ」  
「帰還できればね。甘んじて受けますよ」  
 
うるさいな──。  
 
この女性士官と言葉を交わしているといつも感じる苛立ちを抑えつけ、輝はまた周囲を窺った。  
ひときわ大きい体躯の巨人が頭を押さえている。肩口が下がり、明らかに様子がおかしかった。  
(…今、か?)  
輝は、まだ何事かいい募ろうとした未沙にのしかかった。振り上げられた腕を掴み、床におしつける。  
唇を塞ぐ。  
「んっ…!」  
暴れたが、無視した。いちいち説明していては千載一遇のタイミングを逃す。  
『ウウ…』  
太く低い呻きが空間を埋め、直後、どん、と台そのものが地響きに揺るいだ。  
巨人たちが口々に叫び、倒れた巨人に駆け寄った。  
『コレ以上ノ観察ハ危険ト判断スル』  
『ヒトマズ退却シロ!』  
輝たちには理解できない言葉で彼らは恐ろしげに言い交わし、倒れた巨人を引きずって闇に消えていった。  
しん、と静まり返った台の上で、小さな声がした。  
 
確かな文字にできる音声ではない。  
強いて表現すれば「ああ…」と「はあ…」の中間か。  
輝は一瞬首を傾げ、それが自分の下にいる人物の唇から漏れたことに気がついた。  
早瀬大尉の顔は真っ赤だった。  
「よ、よくも…よくも…!」  
「やったよ、大尉。あいつら、扉を閉めるの忘れていった」  
未沙は輝におさえつけられたままの手首を翻そうとしたが無駄だった。  
「よくも…あんなことしたわね…!」  
なにを今更。  
輝は肩をすくめかけて、ふと表情を動かした。  
キスしたのはもちろん作戦の一部なのだが──なんだかざわつく感じがあった。  
「…告訴します?」  
「当然よ。見てらっしゃい」  
未沙は憤然として跳ね起きようとした。輝の重みで不可能と知り、ますます逆上した。  
「ちょっと。さっさと離れて!」  
「うん…」  
輝は頭を下げた。  
「あの」  
「なに?」  
「さっき…」  
輝は未沙を眺めた。  
「変な声、あげませんでしたか」  
 
未沙は煩わしげに頬にかかったままの髪を振り払った。  
「なんのこと?」  
輝の体重も振り払えるものなら振り払いたい、その思いが明らかな必要以上に力を込めた動作である。  
 
──だよな。  
 
輝は伸び上がるように彼女から離れた。巨人たちの出て行った扉は閉まっていたが、鈍く反射している操作盤は見て取れた。相当の高さだが、不規則な壁の模様にとりつくことができればなんとかなりそうだ。  
「戻ってこないな。よし」  
艦内スーツを掴んだ。  
なんといっても下着姿のままではみっともない。さっさと着替えなければ。  
一応、傍らの上官には目を向けないように──していたのに、その彼女が声をかける。  
「…一条くん。一条くん!」  
「なんだよ。早く着替えろよ」  
「それ、私の服です。かえして」  
輝は掴んでいたスーツを見た。室内の不気味な色合いの照明のため発色が異なっていた。とり違えたのだ。  
無言で横に押しやり、彼女の差し出したほうをひったくる。  
未沙がため息をつき、ぼそっと呟いた。  
「…頼りない人…」  
聞こえるように言うなよ。  
そう言いたいが現に頼りない間違いを犯してしまった輝は黙ったまま着替えをすませた。  
 
「問題はフォッカー少佐とミンメイさんたちがどこに捕まっているか、ね──もういいわよ」  
お許しが出たので振り返ると、きっちりと艦内スーツに身を固めた未沙が髪をかきあげながら戸口に目を向けていた。  
「みんな、近くならいいんだけど…」  
たしか、巨人たちは『隔離』とか言っていた。ミンメイとカイフンはたぶん一緒に囚われているに違いない。  
だが、と輝は思う。  
キスをしてみせたミンメイたちが一緒に隔離されるのはわかる。  
だが、なぜ自分と早瀬未沙が一緒にされなければならないのか。フォッカーだけが別の場所に連れて行かれた。  
「よくわからないけれど──」  
未沙が言った。  
「あの二人がキスしたとき、私たち、たまたま近くにいたでしょう。喧嘩もしたわ。それで…じゃない?」  
そんな簡単な理由なのだろうか。  
「単純すぎるよ」  
「でも…」  
未沙は立ち上がった。  
「ずいぶん男と女が一緒にいることを恐れていたようだから、この際、単純に考えていいんじゃないかしら」  
「……」  
反対するだけの根拠もない。すべては憶測に過ぎないのだ。  
なので輝は頷いた。  
「ま、そのお陰で逃げ出せそうだしね。急ごう」  
「……本当に。とにかく脱出しなくちゃね」  
未沙も頷いた。  
巨人たちの戻ってくる気配は相変わらずないようだが、それでも気をつけながら輝は台からよじ上り壁の模様に取り付いた。  
苦労してスイッチらしき出っ張りを押すと、扉が意外とスムーズに開いていく。  
「早く!」  
 
廊下──なのだろう。  
果てが遠くの薄闇にとけ込んでいるように見えるほどだだっぴろい空間に駆け出した二人は、身を隠すことのできない心もとなさに思わず足をとめた。  
「どっちに行きます?」  
「そうね」  
未沙は焦った顔できょろきょろと見回し、最後に顔が向いた方角を指差した。  
「あっちよ!」  
(本当か…?)  
そう思いつつ、たしかに行き当たりばったりしかないと腹をくくって輝は床を蹴った。  
 
広大な空間は同じような壁が無表情に続き、どこまでいっても変化というものがなかった。  
思い出したようにあらわれる部屋の入り口は固く閉ざされ、いくら様子を窺っても中に人の気配はない。  
「…おかしい、わね…」  
未沙が息をきらしながら低い声で囁いた。  
「使ってない部屋が、多すぎる…」  
「ほかにもいくらでもあるんだろ」  
巨大さと裏腹に、あるいは巨大さゆえに、そう、まるで──幽霊船に迷い込んだような心地さえする。  
何とはいえない薄気味の悪さに二人は走り続けだった足をとめ、呼吸を整えた。輝はそれほどでもないが、未沙は少し辛そうだ。  
 
ふと、輝は顔をあげた。  
「──なに?」  
「…しっ」  
遠く、響いてくるかすかな音。  
がん…がん……がん…。  
それと、声。  
 
「…おい。おーい!…輝ぅ!早瀬!…誰か!…くそっ!……誰もいないのか?…」  
 
輝と未沙は顔を見合わせた。  
次の瞬間、声の方向へ走り出した。  
フォッカーだ。  
ロイ・フォッカー少佐の声に違いなかった。  
 
がん…がん…がん…。  
全てのパーツと同様やはり大きな扉の前で、やがて二人の軍人は立ち止まった。  
「フォッカー先輩!」  
「少佐!」  
「輝…輝か?おい、早瀬もか」  
扉越しに──ロイ・フォッカーが息を呑む気配がした。  
「お前ら、ほんとにそこにいるのか?どうやって逃げ出したんだ、いったい」  
「じゃあなんで僕らを呼んでたんですか」  
「いや、まあこういう場合は普通仲間を呼ぶもんだろうが。こまかいコトを気にするんじゃない」  
先輩後輩の不毛な言い合いが展開されるかと思われたその時、未沙の緊張した声が低く響いた。  
「しっ。…静かにして」  
後ろを気にしている。  
輝もほぼ同時に振り返っていた。  
走り去ってきた廊下の果てに不穏な振動が起こったような気がしたのだ。  
輝と未沙は顔を見合わせた。  
「もしかして…」  
「気づかれたわ」  
振動は気のせいではなく、だんだんはっきりとしてきつつあった。  
複数の巨人の足音だ──追っ手のものだろう。  
 
「見つかるとやばい。早く隠れろ」  
分厚い扉の向こう側でフォッカーが指示した。  
言われずとも隠れたいが、廊下の片隅にそんな場所などありはしない。  
せっかくフォッカーの居場所までたどり着いたというのにここで捕まっては万事休すだ。  
「先輩。扉をあけてください」  
輝は叫んだ。  
「できるもんならとっくに逃げ出しておるわい、バカ者。動かせるところは全部動かしたんだが」  
「でも、扉の左側──」  
いい募りかけて輝は言葉を濁した。  
輝たちの場合、ロックされていなかったからこそ開閉装置は作動したのである。  
フォッカーがいかに奮闘しようともそれは無駄なあがきというものだ。  
なぜロックされていなかったかというと、それは……未沙が悲鳴をかみ殺したような声をたてた。  
その視線を追った輝の目にも、角を曲がった追っ手の巨人の姿が薄暗い照明を受けてはっきりと見えた。  
「なんだ、輝。扉の…?ええい、どうやったら開くんだ!?」  
フォッカーの慌てた叫びを耳にしながら、輝は傍らの未沙に跳びついた。  
巨人が──さきほど尋問を受けた個体とは明らかに違う風体の、おそらくは『一般兵士』たちが二・三人、たたらをふんで立ち止まった。  
その勢いとともに動揺が、微風となって廊下を押し寄せてきた。  
 
「なに、どうするの」  
未沙は青白くなったような顔色で輝を見上げた。それは照明のせいかもしれないし、おぼろげながらも輝の意図を察したためかもしれない。  
「わかるでしょう」  
輝はしゃべり終える暇もなく、唇を相手のそれに押し付けた。  
「ん、む」  
未沙は呻いたが、抵抗はしなかった。  
抵抗したからといってどうなるわけでもないのをよくわかっているのだろうと輝は思った。  
どちらかというと自分も不本意なのだがこの場合は非常に助かる。  
『ナ、ナンダ……!』  
『ウ…ワ…ア!』  
廊下の奥から動揺の波が打ち寄せてくるのを確認し、輝は顔をわずかに離した。  
未沙が息をつぎ、恨めしげに顔を伏せた。  
「……ほかに策はないの?」  
その耳に小さくいい訳をする。  
「有効な作戦が判明してるんですよ。わかっているなら利用すべきでしょう」  
「別の作戦ならいいのに」  
蚊帳の外のフォッカーが扉を叩き始めた。  
「おい、どうした!大丈夫なのか?」  
がんがんと響くその硬く無機質な音に、巨人たちが気を取り直したように身動きした。  
 
やばい──。  
 
「見つかりました」  
輝は前方に目を据えたままフォッカーに伝えた。  
扉の向こう側の連打がやみ、呪詛のかわりに一発、がん!と最後の打撃音が伝わった。  
「くそ!」  
巨人たちは互いに顔を見合わせている。なぜか──いや、やはりというべきか、まだ一人も踏み出してこようとはしていなかった。  
動くのは視線ばかりで、彼らは釘付けにされたように足を床に張り付けたままだ。  
「…どうしたのかしら」  
腕の中で未沙が囁いた。  
「……」  
希望が細くさしこんだ気がして、輝は彼女を抱いた腕に力を込めなおした。  
最初からあまりにもばかばかしい作戦だと思っていた。  
効果があるとわかってはいても、心のどこかでその効果のほどを疑問視していた。  
だからさきほどの逃亡時にも、キスだけではだめだと思いいやがる未沙に無理にも下着姿になってもらったのだが──。  
ただ驚かせるだけ、そう思っていた。  
だが、違うのではないか。  
巨人たちは、女が共にいることや男女が行う行為にただ驚いているだけではない。石にでもなったかのように微動だにしない彼らから伝わってくるのはまぎれもない恐怖だった。  
「先輩」  
輝は扉の向こう側に伝わる程度の低い声をフォッカーにかけた。  
「逃げろ、輝。とにかくそこから──」  
「しばらく、黙っていてもらえますか」  
「なに?」  
 
「今からなんとかやってみます。静かにしていてください」  
「やるって、なにをだ、輝」  
不審そうなフォッカーの声を無視して、輝は未沙に視線をあてた。  
「いいですね、大尉」  
未沙は顔色は相変わらずだったが、ため息をひとつ落として顔をあげた。覚悟したような光がその視線をややつよいものにしている。  
「いいわよ」  
輝は彼女を抱き直し、ゆっくり顔を寄せた。唇を迎える未沙がちらりと巨人を見た。  
動かぬままのおおきな複数の影はぶれて震えたようだった。  
『…!』  
『アア…』  
言葉にならないどよめきの中、輝は未沙にキスをした。  
 
──もしかしたら  
 
しなる体に掌を添え、彼女の唇におそるおそる舌を滑り込ませた。  
未沙の背中がぴくりと小さく爆ぜた。  
 
──逃げ出せるかもしれない。  
 
未沙の唇の中心は乾いていて、たとえかつてリップクリームやルージュを塗っていたとしてもその効果はとうに失せているようだった。  
そういえばマクロスを出てから何時間たったんだろう、と輝はぼんやりと考えた。  
わずかしかたってない気もする。半日以上たったような気もする。  
乾いた唇を潤しながら小さな硬い感触を舌先で探り当てた。  
犬歯かもしれない。早瀬大尉の犬歯──ふだん見たことも意識したこともないものを舌先で探りながら、輝はふいに自分たちはいかにこっけいな事をしているのかと、そう思った。  
キスも、抱擁も、それからそれ以上のことも。  
だが巨人たちにとってのこれらの行為は、おそらくこっけいどころの騒ぎではない。  
「ン…」  
未沙が顔を小さく振った。  
輝は唇を離した。  
かすかに頬を染めて、未沙は不安そうに囁いた。  
「あの──」  
「なんですか」  
「その…さっきみたいにするの?」  
「一般兵士にも効いてますよ」  
輝は肩をわずかに起こして呪縛されたままの影にそびやかしてみせた。  
「……そのようね」  
未沙は視線を伏せた。  
 
「輝…早瀬。おい…」  
ぼそぼそとフォッカーがあたりをはばかる声がする。  
「やけに静かだが、どうした」  
未沙は羞恥に染まったままの顔を扉に向けたが、無視した。  
黙っててほしいんだろうな、と輝は思った。輝もその点に関しては全くの同意見だ。  
輝の腕を外し、未沙は一歩後ろに下がった。  
扉をほうにむこうとする細い肩を、輝は容赦なく引き戻した。  
未沙が睨むのを睨み返した。  
「見せなくちゃ意味がないよ」  
「………」  
未沙は唇を噛み一瞬葛藤で立ち尽くしたが、なんとか理性を総動員させたらしく、再び、さきほどよりも深く視線を伏せた。  
ジッパーに片手を持っていく。かすかな音をたててスーツが分かれた。  
彼女が肩を捻って腕を抜くのを、輝は手伝った。  
巨人の気配を探りながら上半分を引き下ろす。  
こんな場合でなければ面白いと思うだろう。それほどに巨人たちは呆然としている様子だった。  
「上だけでいいです」  
輝の声に、未沙は顔を火照らせた。ほっとしたように髪を払う。  
監禁された部屋から逃亡するのとは事情が違う。さっきと同じようにするのが確実ではありそうだが、どう事態が転ぶかわからない。いざというときとっさに逃げられなくては、それこそ意味がないのだ。  
 
呆然としていた巨人の一人が、ようやっと声をあげた。  
『…アノ…メルトラン…ハ…』  
その声に気を取り直したように、他の巨人たちがいっせいに声をあげようとした。  
輝は未沙にとびつくと、アンダーシャツの上から片方の乳房をわし掴んだ。  
「きゃあ!!」  
『ウワアアアア!!!』  
『オオオオオ!!!』  
「なっ、なんだ!!どうしたんだ!!おい、輝!!」  
廊下に一斉に大小さまざまの悲鳴と怒号が渦巻き、吹き抜けていった。  
巨人たちがわなわなとうち震え再び言葉を失ったのを見届けた輝は、ふと未沙の動きを目の端にとらえ、とっさに背をそらせた。  
その頬をかすめて未沙の平手うちが勢い良く空をきった。  
「痛いじゃない!」  
「すみません」  
「力任せに胸を揉むなんて!サイテーよ!」  
答えようとした輝を、扉越しの声が遮った。  
「なんだ?胸を揉むだぁ?…こんな場合になにをやっとるんだお前たち」  
こんな場合だからやってるんだけどなあ…と輝は思ったが、それより早く未沙が怒声を浴びせた。  
さすがに頭に血が上っているようだ。  
「黙っててください、少佐!それもこれも少佐のためにしてるんです!」  
「…なるほど。あァ、そうか。うん、いい手だ」  
フォッカーの理解は早かった。  
それが一流パイロットに不可欠の洞察力によるものか、それともただの女好きのなせるわざか、先輩後輩の仲であっても輝にはいまひとつ理解できないのだが、ともかくフォッカーは瞬時に輝たちの必死の作戦を悟ったようだった。  
 
「よし、早瀬。輝。とりあえず抱き合え。巨人の様子はどうだ」  
うってかわってきびきびと、フォッカーは扉の向こう側から指示した。  
輝と未沙は慌てて抱き合った。  
巨人たちはそろそろと動こうとしていたが、輝たちの抱擁に、再び縫い止められたように動かなくなった。  
さきほどまでは全員こちらに向いていたのに、ひとりふたりは体がやや斜めになっている。逃げ出したいがそうもいかない、といった風情が漂い、こんな場合でなければ面白い様子だった。  
「突っ立ってます」  
「逃げ出しそうか」  
「さあ。様子を窺っているようです」  
未沙が言い添えた。  
「なんだか、逃げようか逃げまいかと迷っているようです、少佐」  
「そうか」  
フォッカーの声が低くなった。  
「面白い。腕によりをかけて一目散に逃げ出させてやろうや。な、輝。なあ、早瀬」  
その声に、ふと輝と未沙は顔を見合わせた。この緊急時に不似合いなものを感じたのだ。  
「いいか、輝。俺の言う通りにするんだぞ」  
いつも通りの落ち着いた声がなにやら怖い。  
未沙の、縋るような視線をかろうじて無視すると、輝は答えた。  
「はい」  
「よし。作戦開始だ」  
たぶん両手をぽん、とあわせて気合いを入れているような締まった声で、フォッカーは呟いた。  
 
「えーと、そうだな。キスはもうしたか」  
「はい」  
「うむ。じゃ、これだ。輝、早瀬のファスナーを下ろせ。邪魔だ」  
腕の中で未沙の体がかたくなったのを感じつつ、輝は答えた。  
「もう、下りてます」  
「なに!」  
フォッカーの驚いた声がした。  
「お前にしてはやるな」  
「余計なことを言わないでください。それで、どうするんですか」  
「首すじは出てるか」  
「えーと」  
確認した。アンダースーツと長い髪の毛が覆い隠していて見えない。  
「出てません」  
「よし。出して、そこにキスをしろ。迷うな、命がかかってるんだ。上官命令だぞ」  
「セクハラだわ」  
未沙が呟いたが、ここまでくるともう本当にどうでもよくなってきたのか、あっさりと指でおさえて首すじを露出させた。  
「さっさとして、一条君」  
情緒のないことはなはだしいが、そもそも情緒などかけらにしても持ち得ない状況なのだ。  
輝もやけくそな気分で唇を押し当てた。  
たぶん一生のうちでこれほどキスをするあかの他人はいないことだろう。  
輝の感慨とは全く関係なく、廊下の端で巨人たちが一斉にのけぞった。  
『……ナ、何ヲシテイルンダ!』  
『苦シイ』  
 
「おお、効いとるな」  
フォッカーが嬉しそうに扉のむこうで叫んだ。  
巨人たちの動揺が扉越しにも伝わっているようだ。  
「よし、輝。ただのキスだけでは芸がない。ちょっと舐めてみるんだ」  
「舌ですか」  
輝は疑わしげに扉を眺めた。  
「でもさっきも、キスで試してみましたが見た目は同じでしょう。巨人に効果があるとは思えません」  
「バカ者、自分の上司を疑うのか。さらに効果があらわれるはずだ。いいな、早瀬」  
輝は未沙に視線を動かしたが、彼女は目を閉じて肩を竦めた。反論しないつもりのようだ。  
「変な病気はもってないでしょうね」  
「…持ってるはずないだろ」  
輝は巨人たちを意識しつつ、彼女の首すじに顔を埋め直した。  
唇をおしあて、その隙間から舌を這わせた。  
首すじの皮膚は唇よりもしっとりして、きめ細やかに舌を迎えた。  
そのさえぎるもののないひどく滑らかな感触に、ふと彼は動きをとめた。  
「…ぅ」  
未沙が変な声を漏らして、身動きした。変な気持ちに教われた輝は、もう一度だけ舌ですくった。  
やはり、その感触は甘く、官能的だった。  
「ん、あ、いや」  
未沙が激しく身悶えして輝の肩を押しやろうとした。  
「やめて…」  
 
どくん。  
 
──どうしたんだ。  
 
「先輩」  
輝はしゃがれた声で尋ねた。  
「なんで、ここだと効果があるんですか」  
「うむ、それはだな」  
フォッカーは講釈を垂れた。  
「俺ならともかくだ、お前のような初心者にキスで女の子をうっとりさせる高等技術は期待するだけ無駄だ」  
「そうですね」  
輝はさきほどの未沙の反応を思い出した。たしかに全くうっとりしていなかった。状況が状況(略)。  
「だが女の子には弱点というか、気持ちいい場所というところが必ずある。たいがい首すじとか髪の生え際とか背中とか、唇の子もいるが、ま、そんなとこだ。稚拙な技術でもそこなら…」  
フォッカーはとくとくとしゃべっているが、輝は未沙の紅潮した頬や、ややはずんだ呼吸を見つめていた。  
「で、肝心の奴らの反応はどうだ、早瀬」  
「は、はい」  
未沙は輝の凝視から逃れ、廊下のうす闇を透かした。  
巨人たちの影はやや丈が低くなっている。逃げ腰というにふさわしい、まさにおびえきった体勢でこちらを窺っていた。  
「…怖がっているわ。動けないようです」  
「あと一押しだな。輝!」  
「はい」  
我に返った輝にフォッカーは檄をとばした。  
「今度は胸だ。いいか、優しく触るんだぞ」  
「まだですか、少佐」  
未沙が情けなげな声を出すのを一喝する。  
「まだだ!ここが勝負なんだ!いいか、必ず生きて戻るぞ!!」  
やっているのがセクハラもどきの命令でさえなければ感動的な上官の叱咤だ。  
 
「これだけは頭に叩き込んでおけ、輝」  
フォッカーの叱咤に反射的に凝固した未沙に向き直りながら、輝は耳を傾けた。  
「力任せは絶対にいかん。常にだ。触れるか、触れないか、のデリケートかつソフトなタッチを心がけるんだ」  
「はあ」  
輝は持ち上げた腕をさまよわせた。3秒ほど考えてから、思い定めたように手を伸ばす。  
アンダーシャツ越しにそっと触ったが、未沙の表情はあまり変わらない。  
それどころかどこかほっとしたように眉をおろすその表情を見下ろしつつ、輝はフォッカーに問いかけた。  
「あの…」  
「なんだ」  
「反応がありません」  
「なに?」  
フォッカーは沈黙した。  
しばしの後、フォッカーは「おお」と声をあげた。  
「確認するぞ、輝」  
「はい」  
「早瀬の胸をだ、その、…直接触っとるんだろうな」  
輝は、卵を掴むような線で曲げられている己の指の下でかすかに息づく鈍色のアンダーシャツを眺めた。  
「……いえ」  
「ばかもんっ」  
とたんに罵声がとんできた。  
「そんな事言われても」  
さすがに輝はムッとしながらいい募る。  
「先輩、別に何も言わなかったじゃないですか」  
 
「服を脱がせとるというから安心していたんだ。艦内服越しに微妙なテクニックが活きると思うか。このあほう」  
「脱がせてるわけじゃありません。ファスナーを下ろしてるって言っただけですよ」  
「同じことだと思うだろうが。いいから、とにかくダイレクトだ。直接触るんだ。早瀬の反応をいかに引き出すかが決めてなんだぞ」  
「え…ええ…でも、それは…だけど」  
あやふやな返事に眼下の大尉殿の眉がぴくりと動き、彼女は輝を睨み上げた。  
「…まさか、あなた…本気で」  
輝は思わず視線を外した。  
「いや、僕は別にですね」  
この青二才では話にならじと思ったのか、未沙は扉に叫んだ。  
「フォッカー少佐!いくらなんでも、それはないんじゃありませんか?」  
「なんだ、早瀬。触ると減るとでも言うのか!」  
「さ、触ると…減る?」  
未沙のとまどいをフォッカーは変則技で撃破した。  
「輝が触ったくらいで減るような、お祖末な胸なのかっ。そうじゃないだろう。俺は前々から睨んでいたんだが、お前はからだが細いわりには胸はけっこうでかいはずだ」  
 
「え…」  
未沙は絶句した。  
「俺の目はごまかせないぞ。堅物のお前の無駄に立派な胸が、今、貴重な人命を救うんだ。迷うな!その資源を誇れ!いいか、早瀬!」  
「……」  
輝も同様に絶句しかけたが、さすがに本人よりもはやく立ち直ると力なく呟いた。  
「日頃から何を考えてるんですか、先輩」  
「で」  
急にフォッカーの熱い叫びが指揮官の声に戻った。  
「輝。俺が説得している間にさっさと脱がせとるんだろうな。時間を無駄にするな」  
輝ははっとして廊下の向こうに意識を集中させた。むくれたように頬を赤くして俯いた未沙をなだめるように引き寄せながら、巨人たちが相も変わらず惚けたようにじっとこちらに注意を注いでいることを感じ取った。  
 
「……」  
輝はひとつ、息を吸い込んだ。  
何を言えばいいのかわからないので無言のまま、押し黙ったままの未沙の前に顔を近づけた。  
「……」  
未沙が、奇妙な視線をあげた。  
輝の初めてみる視線だった。──寂しそうだ、となぜか輝は思った。  
迷ったが、ちいさく彼女に呟いた。  
「…任務だと思って…」  
「…わかっています」  
未沙が視線をおろして、それから気づいたように付け加えた。  
「あなたは、余計なこと言わないで。なにか言ったら……許さない」  
それから、彼女は勢いよく顔を横に振り、輝から離れた。廊下のむこうに、つまり巨人たちの方を向いて立つ。  
そして、かすかに震えてはいるものの凛とした声で言い捨てた。  
「…いくわよ。見せなくちゃ意味がないんでしょう」  
アンダーシャツの裾がスーツ内部から引き抜かれ、その下から滑らかな布地がからだの線を素直に描いて光を弾いた。  
輝は目を閉じた。  
任務とは言ったものの、彼女も気丈に振る舞ってはいるものの、いまの視線を思い出すと…やはり、見てはいけない気がした。  
ここにいるのは輝もフォッカーも(扉越しだが)、それから巨人たちもみんな男で、女性は大尉だけだった。  
なんだか、それがとてもかわいそうだった。  
 
やがて下着を引き抜くしめやかな音がたち、輝の胸はさらに痛んだ。  
 
(…そこまでで、いいじゃないか)  
 
先刻の脱出劇の時には感じなかった痛みだ。  
いやがる彼女をかき口説いて下着姿で抱き合うという暴挙(快挙?)を成し遂げた自分なのに、なんで今更こう後ろめたいのかと彼は思った。  
 
実のところそれは扉のむこうのフォッカーという、よくもわるくもすべての責任を預けられる存在があるが故の心の動きだったのだろうが、その時の輝にはわからなかった。  
余裕があったのだ。  
後の、さらに追いつめられた状況事には霧散した、わずかな余裕が。  
 
気づくと輝の腕は未沙を背後から包み込み、そのからだを巨人たちの視線から隠そうとしていた。  
「…一条君?」  
未沙の声に輝は我を取り戻し、内心驚き慌てた。  
(…俺はなにをしてるんだ?)  
後ろから抱き包んでみると、背中はいかにも華奢に思えた。  
肉が薄かった。その肉の奥の骨が細かった。肩幅は狭く、輝の脇にあたる両腕が細い。  
ちいさい、と彼は思った。  
今のいままで向きあっていたときには感じ取りもしなかった頼りなさに、輝はふいに胸に泡立つような哀しみを覚えた。  
それは日常的ではないけれどもやはり馴染みのある感情で──今感じるべきものではないはずの感情で──不思議なことに、その対象としてこれ以上ふさわしくない人間に──。  
輝は囁いた。  
「…もういいよ。ふりをしよう、大尉」  
未沙が斜め後ろに輝を見上げた。  
「──ふり?」  
 
「見えないよ」  
輝は扉にちらりと視線をやった。  
未沙の表情が動き、彼女はかすかに微笑した。  
泣く寸前の微笑というものがあるとしたら、おそらくそれに分類されるだろう。  
「……」  
未沙のからだが、腕に柔らかくもたれかかったのを彼は感じた。  
羽毛が吹きかかったような微妙な重心の移動だったが、その重みの動きがはっきりわかった。  
未沙は、二三度、ヒステリックなリズムの呼吸を重ねた。  
「………そうね」  
彼女は呟いた。  
短い一言に安堵がにじみ出ていて、輝の心は動かされた。  
彼は掌をあげると、不器用な動きで彼女の肩を包もうとした。  
 
「ん、どうしたどうした。…シーンとしとるが、どうだ」  
フォッカーの緊張した声がひそひそと流れてきて、二人はびくりと顔をあげた。  
「……」  
「大丈夫です」  
輝はとっさに応じ、未沙の耳朶に囁いた。  
「…さあ、大尉」  
未沙が代わりに声をあげた。  
「いま…キスするところなんです、少佐。声をかけないでください」  
「おっ、そうか。悪かった」  
未沙は彼の腕の中でくるりと振り向いた。  
「一条くん」  
「………」  
「どうしようもない人かと思ってたけど、あなたって──」  
未沙はためらい、ぽつりと付け加えた。  
「──変な人ね」  
「変?」  
彼は瞬きした。  
「ええ」  
未沙は頷き、口の中で確かめるようにもう一度発音した。  
「…変な人」  
「どこが?」  
「どこって…」  
言葉が途切れて、ふたりはなんとなく見つめ合った。  
 
なんとなく見つめ合ったまま、輝は視界の端に、乱れたアンダーシャツと下着の線を認めてうろたえた。  
見えないように、腰をゆっくりとひき寄せた。  
それだけのはずだったのに力は収まらなかった。  
さらにゆっくりと、胸と胸、唇と唇とが触れあう寸前まで腕は離れようとしなかった。  
輝はとまどい、瞼をおろした。  
 
 
目を閉じてしまうと未沙は柔らかさと華奢とぬくもりだけになり、いい訳だったはずのキスを実行している自分に気づいた驚きはそのぬくもりに押し流されてしまった。  
輝は流されまいと焦った。  
なぜか目を再び開けられない。  
あけてはいけないような気がする。  
フォッカーの声も聞こえない。  
巨人のどよめきを遠くに感じたが、すぐにわからなくなった。  
引き延ばした時間がもとに戻ろうとする勢いを感じつつ、輝は腕の中の感覚を抱きしめ、後ろめたさを紛らわすように性急に未沙の唇の輪郭を確認した。確認し終わると、輝の頭はさらに下に降りた。  
 
「…… ん」  
妙な音が鼓膜をくすぐっている。  
巨人たちの声でもなく、フォッカーの声でもない。もちろんこの艦の機関音でもない。  
「あ…ん、う…」  
目を開けてはいけない気がする。  
絶対だ。  
目を開けたら混乱した現実がものすごい勢いで襲ってきて、それは輝の処理能力を簡単に超えてしまうことだろう。  
舌が滑らかな感触をとらえた。鼓膜をくすぐる音が高くなった。  
 
─なんで俺こんなことしてるんだ?  
 
巨人たちは半ば腰を抜かしたまま、目の前で進行しつつある緊張感に満ちた謎の行為を眺めていた。  
 
握られている両腕が痛かったが、未沙はそれよりも難しい問題に直面していた。  
両腕の痛みは骨ごと肉を圧迫する不快で単純なものだった。  
おそらくこの部下は、すらりとした見た目よりもずっと体重があるのに違いない。  
その重みを、握った指から遠慮のかけらもなく流しこんでくる。  
この男をいい奴かもとなぜ一瞬でも思ってしまったのか、自分の感性に未沙は不安を抱いた。  
こんなに身勝手なやつなのに。  
 
(嘘つき)  
 
結局、一条輝はフォッカーの、女にとっては理不尽きわまりない命令に唯々諾々と従ったという事だ。それが好奇心かスケベ根性かなにかの間違いかはわからない。いや、そんなことはどうでもいい。問題はこの現実だ。  
輝の視線に同情にも似た傷ましさを感じたのは気のせいだったのか。  
それを優しさと勘違いした自分を許せない。  
あまりの状況に弱気になった自分が情けない。  
 
そして、その葛藤とも別に、いまや首筋を這いまわる感覚は無視できるものではなくなっていた。  
未沙は我慢できずに叫びだしたくなる衝動と戦い、必死で息を押し殺している。  
(いやだ…、そんなふうに…舐めないで…)  
「ん…う…」  
呼吸を過度に抑えているのでくぐもった声が漏れた。  
「…ふ…っ、う…」  
フォッカーが得意そうに一般論を述べてみせた通り、未沙に官能面での弱点があるとすれば少なくともそのひとつは首筋のようだった。  
ここで判明しなくてもよさそうなものなのに、よりによって生涯初めての発見が今の今だ。  
しかも、その事実を未沙に突きつけている相手は卑怯で生意気で身勝手な一条輝なのである。  
この男にだけは快楽を汲みだしてほしくない。  
万が一そんなことでもになれば、それは汚点、いや屈辱だ。  
そう考えると腹立たしさと恥ずかしさにくらくらと目眩がした。未沙は思わず目をとじ、慌てて開いた。  
目を閉じると感覚だけを意識しなければいけなくなる。それに気づいたのだ。  
「一条くん…い、一条くん、たら…っ!…」  
顔を左右に振り、輝の視線を捉えようとしたが輝はかたく目を閉じていた。  
その眉をひそめてなにやらひどく真剣な顔を、未沙は睨みつけた。  
「ねえ、ちょ…」  
未沙はちいさな悲鳴をあげた。  
「あっ」  
 
視線をおろさずともわかった。裾が乱れたままの下着の内部に異物が侵入したのだ。  
未沙は艦内スーツを着用するときにはマイクロキャミソールをつけるようにしている。だからその裾は短い。おへその下をやっと覆うくらいの長さしかないのだが、その一番くびれた滑らかな曲線の前側にごつごつとした瘤ができている。輝の掌だ。  
瘤は移動して、アンダーシャツごと滑らかな布地を押し上げた。  
「や、やだ…!…!!」  
押し上げられた布地越しに、まろみを帯びた稔りが見えた。次の瞬間、未沙は軽く息を止めた。  
輝の掌はあっさりと稜線に指先を置き、薄布を払いのけて素肌に直接、触れた。  
「…」  
一瞬視界が狭まるほどの羞恥に未沙は立ち竦んだ。輝の掌は熱く、その熱を直に感じたからだ。  
その掌がひとつだという事にまで、彼女の気は回らなかった。もう片方は背中に廻され、体をホールドしている。  
輝の眉が少し開いた。薄く、瞼の線が揺れた。  
声をかけるなら今だったが、未沙には声が出せなかった。  
輝はゆっくりと指をひきはがし、背を抱いたほうの腕を揺すり上げて未沙の体を抱き直した。  
 
未沙は思い出したように体を捻った。  
怒りもあるだろうがなによりも恥ずかしさが原因と、その反射的な動きが語っている。  
露にされた乳房を隠したいのだ。  
動きでほの暗い廊下の光を集めて白く弾く柔らかそうな稔りがかるく揺れた。輝の指はすでにその柔らかさを識ったが、視神経を刺激した質感は真新しい記憶をひどく不安にさせるものだった。  
仕草の意図とその結果は逆のベクトルを示した。  
「…あ!なにする…や…!」  
未沙が罵った。肩を竦めて逃れようとしたが、拘束する力は揺るがなかった。  
冷たい感触が肌を圧すのを未沙は感じた。輝の鼻先だと認識すると、全身の血液が沸騰するほどの逆上を感じた。  
素肌を剥き出しにされたこころもとなさに他人の鼻先の感触が加わって、実際は輝の体に密着して巨人の目に触れることのない露出が全身のそれに感じられる。  
全ての防御を台無しにされた気分──これほどの心細さを覚えるのははじめてのことだった。  
冷たい感触が広がって、輝の頬と額が寄せられたことがわかった。  
かすかに吐息がかかり、それから突然、溜め息のような空気の渦を浴びせられた。  
目の前を塞ぐ癖のつよい髪が目をさして、未沙は目を閉じて顔を背けた。のけぞるように背をそらし、ちいさく叫びをあげる。  
 
拘束が緩まないのでもはや半分以上諦めてはいたのだが、悪い予測があたるというのは不幸なものだ。  
輝はふくらみの上の稜線に唇を押し付けた。未沙はじたばたして逃れようとしたが無駄であることが再確認できただけだった。未沙は輝の頭を掴んで押しやろうと両手をあげた。  
あげられなかった。  
片手は背中に廻された輝の腕に押さえつけられて動かすのは不可能だった。もう片手は肩まで達したが、そこであっさりととり抑えられた。  
頑として拘束を解かない腕に背中を預け(預けざるを得ない)、未沙は震えながら呼吸を整えようとした。  
輝は曲線を確かめるようにキスを繰り返している。  
「…一条──」  
お願いだから舐めないで、と懇願しかけて未沙は躊躇した。  
言葉にするとかえってこの図々しい部下を刺激しそうな予感がしたのだ。  
その一瞬の隙をついて、案の定柔らかい濡れた感触を感じ取り未沙は唇を噛んだ。  
鼻先は冷たいくせに、やたらに舌は熱い。そのギャップが鼓動をとばした。  
「ね…」  
やめて、と言いかけて未沙は息を短く吸い込んだ。  
濡れた感触が、稜線の先端を包み込んで捏ねた。あまりにもいきなりで、未沙の思考は吹っ飛んだ。  
「ん………は、ぁ……」  
彼女はうめくように長い吐息をはき、肩を一層竦めて首を振った。最後には拒否されることを悟りつつもいやいやをする幼児のような弱々しい仕草だった。  
 
すぐに離れてくれれば何の問題もなかったのに、舌は執拗だった。  
周囲から肌を刻むようになぞり、頂を確かめようとしている。  
乱暴に吸われるよりはましかもしれないが、それでも、その慎重さが未沙にはひどく怖かった。  
「…あ…」  
未沙は悶えた。快感といえるほどのものはなかったが、じわじわと頭をもたげている不穏な気配を輝に悟られたくなかった。  
かなり感覚が混乱してきていた。さっきから何度もこの部下とキスを交わし、抱き合い、意に染まぬ交流を繰り返していたのだが、そのわずかな経験が自分の体に植え付けた安心感に彼女は気づいたのだ。  
輝のぬくもりや匂いに、もはや未沙の感覚は馴れていた。輝の腕の強さや、抱きしめてくる力にも馴れて受け入れつつあった。  
そればかりか輝の舌やその濡れた熱さにも未沙の体は現在進行で順応しつつあり、それを彼女の理性は改めて確認して愕然となった。  
「だめ…!…だ、だめったら!」  
未沙は輝と自分に警告を送ろうとして叫んだ。輝は一瞬顔をあげようとしたが、すぐ続きに戻った。  
その大雑把な無視ぶりに、たぶん彼も現状に馴れつつある、と未沙の理性は分析した。  
きっとやめられない。叫んでも無駄だ。だいいち、と未沙は斜め横の巨大な扉を輝の髪越しに睨んだ。  
誰も助けてくれない。  
 
じわじわと彼女の肌が熱を帯びてきている。  
それは自分の唾液のせいかもしれないし、愛撫のせいかもしれない。単純に怒りのせいかも。  
だがそれだけでもないような気がする。いつのまにか、未沙の抵抗がやんでいた。  
輝は口中の柔らかな核を弄んでいる。ぷっくりともちあがった稔りの先端は、面白いように舌の動きのままに震えて甘えたような弾みをみせた。  
「あ……」  
耳のやや上で鬼よりこわいはずの大尉殿の声がした。すこし掠れていて、勢いがない。  
たちあがったちいさな核にじれったげに舌の先を何度も擦り付けると、その声には喘ぎといっても差し支えないわずかな色が滲んだ。  
「…ぁ…っ」  
その甘さに、輝は顔を上げた。かすかに紅潮した膨らみの中心にはりつめた淡紅色の可愛らしい先端を眺めると、彼は掴んだままだった未沙の片腕を離した。腕は力なく垂れた。  
「……」  
輝は未沙を抱いたまま、壁際に踏み込んだ。背中を支えていた腕を外す。さすがにすこし痺れていた。  
腕の代わりに壁に彼女の背を持たせかけ、輝は顔を近づけた。  
ひどくスムーズなキスになった。未沙は目を閉じて、困ったように呼吸を潜めている。  
輝の意図がわからないのだろう。輝自身にもわかっているとは言いがたい状況なのだから当たり前だった。  
 
──いいのかな。  
頭のどこかで理性が警告している。  
いいはずがないだろうともうひとり、はるか遠くに分裂した思考が自答した。  
相手は威丈高で偉そうで生意気でいけ好かない上官だけど、一応女の子だぞ。ふりをするなんて言って、なんでかわからないけど結局騙したことになるんだぞ。しかも──かわいそうだと思ったはずなのに。  
でもやめられそうにない。それだけはわかる、やめられそうにない。  
──誰か止めてくれないかな。  
ずるいなあ、と遠くの思考が嘲笑った。  
ああ、そうさ。俺はずるいよ、と彼は開き直った。  
すでに行為の目的を半分かた動機からすっ飛ばし、輝はためらいもせずキスの途中で舌を入れた。  
「っん」  
逃げる舌を追いかけ回し、捉えて吸う。未沙は苦しそうに眉を潜め、目を開いた。  
定まらない視線が至近距離で焦点を結び、輝が見ていることに気づく。  
「…んん!」  
彼女は気を取り直し、怒ったように呻いた。  
体をくねらせ、輝を撥ね除けようとした。  
彼女の腹部と腰がやわらかくぶつかり、ぞくりとした隠微な感覚が輝の背筋を走った。  
 
──もう、どうでもいいや。  
 
フォッカーの作戦命令は的確なものだったのかもしれないが、少なくとも輝には不適切なものとなりそうだった。  
初心者ゆえのやけくそぎみの開き直りと歯止めの利かないこらえ性のなさで輝は、加速度を上げて未知の領域に突進していった。  
 
反応を見られた。  
未沙の頭の奥は真っ白になり、全身が怒りでこまかく震えはじめた。  
どうして、この男はキスの途中で人の顔を見たのか。未沙の反応を確かめたに違いない。  
さっきからからだの内側に溜まりつつある不穏な気配、それが表情に現れたのだろうか。  
輝はそれを感じただろうか。まさか、それをこの男はつぶさに感じ取ったのではあるまいか。  
そうだとすれば叫んでうずくまりたいほどの屈辱だ。輝を許さない、いや自分を許せない。  
生産的ではないが激しい怒りに満ちて、未沙は全身の力をこめて輝を押した。  
上半身はおさえつけられていてちっとも動かない。せめてと思い、未沙は腰で輝をおしのけようとした。  
 
──と。  
 
輝が低く呻いて、身をかわした。  
未沙はポカンとして固まった。一瞬おくれて、腰に感じた違和感を反芻した。  
みるみるうちに彼女は真っ赤になった。  
まさかと思ったが、つまり、彼は欲情しているのだ。不穏な気配を押さえつけているのが自分だけではないことを知って、未沙は絶望した。  
どうしてこんなことになったのだろう。  
だが、体が離れたために露になった肌を隠すチャンスができた…未沙は慌てて、両手で胸を隠そうとした。  
しかし相手は宇宙空間の戦闘もこなす卓越した反射神経を誇るバルキリーパイロットだという事実を忘れていた。輝の手が素早く閃き、彼女の動きは阻まれた。  
「あっ…」  
脇腹を両側から掴まれて、未沙は跳ねた。艦内スーツの上半身は腰の周りにまとわりつき、アンダーシャツと下着は押し上げられたままだ。  
すべすべした曲線が巨人たちの目の当たりになった。  
 
マイクローンたちは争いはじめたように──見えた。  
 
最初のキスで度肝を抜かれ、自失していた巨人たちはようやくに己を取り戻しつつあった。  
メルトランディは敵だ。  
だから、争うのはわかる。殺すのもわかる。敵は殺さなければならないはずだ。  
恐ろしいのは、そうでないさきほどまでの様子だった。  
もう今では怖くない。  
理解できる現象によって彼らの状態回復は早められた。  
巨人の一人が無言で持っていた銃を握り直した。  
そのかすかな音に、周囲の巨人たちは忘れていた瞬きを再開した。  
息をつく気配がいくつもおきた。頭の芯が痺れているようだったが、戦闘能力への直接的な影響はなさそうだった。  
彼らは顔を見合わせ、それでも非常に慎重に──じりじりとマイクローンたちの方向へ移動しはじめた。  
戦闘服を剥いだメルトランディからは、彼らはできるだけ、一様に目を背けていた。  
見ると戦闘に差し支える……ような直感が、彼ら全員に働いていた。  
 
未沙は日頃体の柔軟さには人並みの自負を持っていたが、もうこれ以上は逃げられなかった。  
後ろに壁があるからだ。輝は彼女のほっそりひきしまった胴を握りしめ、その手を滑らせた。  
「……!」  
未沙は悲鳴をあげまいと横をむいた。それがまずかった。  
さっきとは違う側の乳房を熱さが覆い、未沙は身をよじった。  
「……〜ん!!」  
今の未沙の体はひどく敏感になっていて、刺激を与えられると彼女の意志とは別に、素直な反応を返した。  
つん、とたちあがっていく先端を彼の口の奥に感じて、恥ずかしさのあまり未沙の瞳が潤んできた。  
あまりといえばあんまりだ。  
「…あ…ぁ…」  
のどの奥に呻きをとどめておくだけで精一杯である。  
輝は、もう一方のふくらみに片手を添えてきた。頂を指に挟むようにひどく柔らかく揉みしだかれて、今度こそ未沙は喘いでしまった。  
「は、……あ…」  
 
こんないやらしいことをされて、どうしてこんな声を出しているのか。  
今がどういう状況か、忘れたわけではないのに、なにをさせているのか。  
未沙は考えようとした。  
ダメだった。  
今はもう、考えられない。  
 
考えることを放棄した途端体が大きく震えた。  
意識しまいとして押さえつけていたものが、マグマのように奥に渦巻いていた快楽がどっと彼女に襲いかかった。  
未沙は喘いだ。  
輝の頭をかき抱くようにして、力が抜けそうになるのを必死ですがりついた。  
 
輝は唇を離した。  
熱さに咽せ、ひとつ息を吐く。とたんに強く引き寄せられ、彼はつんのめるように再び彼女にしがみついた。  
(──?)  
間近に寄せた顔を見た。輝がこれまで見たことのない色の瞳が、引き寄せられるように彼に視線を返した。  
そのかすかに眉根を寄せ、上気した顔は、確かに見慣れた航空管制官のものではあるはずだった。  
なのになにかが欠けていた。いつもの彼女をかたちづくっているはずの輪郭が原型とどめず削り取られ、露にされたその表情はいかにも頼りなく隙だらけだった。  
喉からなだらかに続く剥き出しにされた胸はかすかに上下して、彼女は声もなく喘いでいた。細く、途切れるように、震えを帯びた喘ぎ。  
苦しそうだ、と輝は思った。  
リズムは不安定で、動悸ともあわなくて、その浅く早い響きが気分をますます落ち着かなくさせる。  
どうすれば──やめさせられるのだろうか。  
 
自分が何をしようとしているのか、彼が正確にわかっていたとは言いがたい。  
同じく彼女にもわかっていたとは言えない。  
今や彼らがすがるのは、それぞれの本能的な衝動だけだった。  
輝の掌が強く肩を抑えた。痛みを感じるほどの強さで、未沙は壁に押し付けられた。  
同時に脚元を掬われ、よろけた未沙は、輝の腕に倒れかかった。  
巨大な空間がひっくりかえり──実際には未沙がひっくりかえり──次の瞬間、彼女は輝に顔を覗き込まれていた。  
輝の唇がわずかに開き、だが彼は何も言わず、未沙の躯に覆い被さった。  
 
「あ、…あ…」  
 
あやふやに声をあげ、未沙は輝の背中を抱いた。  
思った通り、彼の躯は今の彼女にはひどく重かった。  
半端な姿勢で対峙していたときとはまた違う、圧倒的な力の差が重みに変わって彼女を押し包んでいる。  
その違いが心地よかった。未沙は肩をよじり、小さく喉をそらせて輝の動きを受け入れた。  
今や馴染みかけた乾いた唇の感触が許した側の肌に落ち、未沙は思わず新たな声を漏らす。  
自分の声が遠く聞こえたが気にならない。誰か別人の声のような気さえする。  
荒い吐息が繰り返し耳朶に触れる。  
その熱い湿度に煽られて、身悶えするように未沙は躯を輝に押し付けた。  
つんと尖った先端も丸い稔りも押し拉がれて歪んで揺れた。  
 
輝がふいに顔をあげた。  
自分の襟に片手をあげた。乾いた小さな音が弾け、しがみついている服の地に弛みができて未沙の爪が滑る。  
彼は艦内スーツを脱ごうとしている。  
それがなにを意味するかはわかったが、未沙にはやめさせる、あるいは拒絶する事ができなかった。  
それどころか、その手の邪魔にならないように顎をひいて彼女は輝を見上げていた。  
目の縁は染まっていたが切羽詰まった表情は真剣で、かすれる喘ぎは合わせた胸を波打たせたまま続いている。  
 
スーツを脱ぎ捨てた輝は彼女の背から腰に手を滑らせ、同じく邪魔な防御物から解放していった。  
未沙はその動きにあわせ、腰を浮かせた。  
少しずつ露になる脚のやり場に迷い、密着する男の腰の横に重ねて添える。  
彼女の困惑はともかく、予想以上に煩雑な作業に輝は忙殺されていた。  
さっきの“作戦”時とは比較にならないくらいクリアしなければならないことが多すぎて(それにこの瞬間にも協力的な彼女の気分がくらりと変わるのではないかという恐れをまだ頭の隅で感じていたために)、気が焦る。  
 
思い出したように輝が手を止め、唇を重ねてきた。  
未沙は瞼を伏せたがねじ込まれる舌は受け入れた。  
彼の焦りがわかったのは、未沙に余裕があったからではなく反対の理由による。  
一条輝は初めてなのだ。彼女も同じだ。  
初めてどうしでよくここまでわけのわからない状況でこんな段階まで至ったものだ、というそれこそ理屈にならない感動がある。  
 
未沙の場合、いつもいつも、できるだけ感情に惑わされることのないように意思の選択をしてきたはずだった。  
なのに理性から何光年も離れた行動にすっぽりはまり込んでいるという現状で皮膚一面を覆うこの伸びやかさはなんだろう。  
そう感じる自分が何者なのかさえ今ではよくわからなくなってきたが、入れ子になった何重もの箱を開けているような苛立たしい面白さに、未沙は吐息を漏らした。  
全てを投げ出してしまいたい。一途に受け止めてほしい。  
輝を何故好ましく思わなかったかなど今はどうでもいい。  
たぶんこの男なら投げ出してきてくれる。どちらもつたなくてもきっと受け止めてくれる。  
未沙はふいに瞳をあげた。離れかけた彼を追い、視線を繋ぐ。  
輝の唇の線が緩み、彼女の衝動は受け入れられた。  
間に合わせでもなおざりでもないキスの濃やかさに、未沙は酔った。  
 
だが、やがて二人は息を弾ませながら互いの躯を押しやった。  
どこまで溺れるのか、その程が見えない事に気付いたからでもある。  
未沙の肩は、輝の掌の熱をそのまま移したように熱かった。  
火傷を恐れるような手つきで(だからきっとそこも熱いのだろう)胸を探っていた彼女の指が脇に入り込み、輝はくすぐったさを堪えた。  
見えない魚を手探りで捕まえるように、泳いでいる彼女の手首を掴んだ。  
 
これからどうしたいかなどばかばかしいくらい判りきっている。  
一刻も早く、このなめらかで熱い腿の間に割って入りたいだけだ。迷う必要もないし理由もない。  
たぶん我侭だが、きっと彼女は気にしない。  
キスの間にも微妙に擦り付けられるたびに反応していたのだが、もう限界だ。  
膝頭を掌で掴み、内側に沿って親指を抉る。  
「…っ…」  
息を小さく呑んで、それでもすぐに納得したように、未沙は膝からゆっくり力を抜いた。  
 
すばやく躯を翻すと、もうそれでおしまいだった。いや──これが終わりの始まりだ。  
輝は彼女の肩の横に掌をつき、やめる理由のみつからぬまま、用心深く躯を沈めた。  
「……」  
複雑な吐息を未沙が漏らした。彼女の躯が少し上に逃げたのを彼は感じて、追う。  
「ん」  
未沙の唇がちょっと歪んだ。唇だけではなく、眉のあたりもこわばった。だが今更やめる気にはなれない。  
輝は、かすかにねじれた未沙の片方の肩を掴んだ。  
「………」  
未沙の目が揺れたように見えたが無視して続ける。  
なめらかな腿に急に力が籠ったのがわかった。  
なだめるように、輝は顔を落とし、キスをした。彼女が縋りつくのを抱き寄せ、その勢いでおしいった。  
途端に、声というより喘ぎそのものの切なげな響きで鼓膜を塞がれた。  
「あ…っ…!」  
「…………」  
輝のほうは表情を押し殺した。  
そこに一旦収まってしまうとこれ以上ないくらい熱くてジューシーな、腕の中の白くてきめ細かな肌とはまるで違う“お行儀の悪い”──期待の通りというかはるかに上回るというか──原始的な感覚が待ち受けていたからだ。  
咄嗟に未沙の目を見ると、彼女も全く同じ事を感じているのがよくわかった。  
だが、気持ちいい。  
輝は衝動を待ち、彼女のちいさな反応のひとつひとつを知り、おそるおそる──  
 
──すぐに熱中しはじめた。  
 
*  
 
ところで当然ながらこの行為に集中していて輝も未沙も気づかなかったが、傍らの扉の奥は不自然なくらいしんとしていた。  
二人の上官はそわそわと足を踏み替え腕を組み、外の気配に耳を澄ませていたのである。  
 
「……くそ、どうなっとるんだ。さっぱりわからん」  
 
フォッカーはいらいらと呟いた。  
ハイパーカーボン並の強度を誇りそうなこの扉にも隙間くらいありそうなものだが、通常の声ならともかく喘ぎや吐息の類は幸か不幸か伝わらないらしい。  
「うーむ…」  
フォッカーにただ一つわかることは、輝と未沙が彼の指示をなんとか遂行しているらしいという一点のみである。  
というのも、先刻あれだけつぶさに感じ取れた巨人たちのどよめきや足音が寞として聞こえない。  
ということは、巨人どもはこの場に釘付けで腰でも抜かしているようだわい、愉快愉快──という推測が(フォッカー的には)成り立つのである。  
だが釘付けだけではいかん。なんとか追い払わうか鍵を奪うかせねばならないのだが…。  
「輝のヤツ、巧くやっとるのかな…」  
自分ならばああもやりこうもやり、完璧に巨人たちを圧倒できるのにとフォッカーは、クローディアに知れたらば絶交ものの自信を漲らせつつ歯ぎしりした。  
 
だがこの時点においては、一旦そろそろと近づこうとしていた巨人たちはたしかに戦闘意欲を完全に喪失していたのであり、フォッカーの歯ぎしりはタダの杞憂に過ぎなかった。  
案じている上官とは扉を挟んだ床の上で、余裕のない二人は互いの躯に腕を巻き、脚を絡めあっていた。  
既に彼女は、できるだけ躯の力を抜いて身を任せるのが一番負担を少なくする方法であることを学びつつある。  
男の腕は強かったからその中で全身の力を抜くと、海に漂う魚にでもなったような感覚が未沙を覆い、そのすっぽりと抱え込まれた感覚は予想外に彼女の羞恥心を蕩けさせた。  
できるだけ──太腿を開き、彼の躯を迎え入れる。  
楔のように、躯の中一杯に彼が侵入していて、その強い圧迫感と脈うつ痛みさえなければ彼女はほとんど幸せといってもいいような高揚を感じていた。  
彼の躯に押しあげられるたびに、未沙は潤んだ目を閉じたままかすかに喉を反らせた。  
その喉の奥から、普段は出そうと思っても出ないような声が漏れる。  
甘い声だった。  
歓び──というのとは違う、まだ未分化のあやふやな響きだが、輝はその声に励まされ、さらに彼女を味わおうと焦った。  
彼女の柔らかい躯は、柔らかいくせにひどくしたたかで、輝をどこまでも受け入れながら拒むような、不安定なものを感じさせる。抱え込んだくびれた腰も、平らな腹も、彼が動くたびにちいさく揺れる尻も、そこに確かにあるくせにどこか作り物めいた感じがした。  
要するに現実感に乏しいのだ。  
 
だがこの時点においては、一旦そろそろと近づこうとしていた巨人たちはたしかに戦闘意欲を完全に喪失していたのであり、フォッカーの歯ぎしりはタダの杞憂に過ぎなかった。  
案じている上官とは扉を挟んだ床の上で、余裕のない二人は互いの躯に腕を巻き、脚を絡めあっていた。  
既に彼女は、できるだけ躯の力を抜いて身を任せるのが一番負担を少なくする方法であることを学びつつある。  
男の腕は強かったからその中で全身の力を抜くと、海に漂う魚にでもなったような感覚が未沙を覆い、そのすっぽりと抱え込まれた感覚は予想外に彼女の羞恥心を蕩けさせた。  
できるだけ──太腿を開き、彼の躯を迎え入れる。  
楔のように、躯の中一杯に彼が侵入していて、その強い圧迫感と脈うつ痛みさえなければ彼女はほとんど幸せといってもいいような高揚を感じていた。  
彼の躯に押しあげられるたびに、未沙は潤んだ目を閉じたままかすかに喉を反らせた。  
その喉の奥から、普段は出そうと思っても出ないような声が漏れる。  
甘い声だった。  
歓び──というのとは違う、まだ未分化のあやふやな響きだが、輝はその声に励まされ、さらに彼女を味わおうと焦った。  
彼女の柔らかい躯は、柔らかいくせにひどくしたたかで、輝をどこまでも受け入れながら拒むような、不安定なものを感じさせる。抱え込んだくびれた腰も、平らな腹も、彼が動くたびにちいさく揺れる尻も、そこに確かにあるくせにどこか作り物めいた感じがした。  
要するに現実感に乏しいのだ。  
 
熱い吐息を漏らす唇を目尻の近くに確認しながら、輝はこれがただのエロティックな幻想ではないのかと疑っていた。  
もう、彼女の中のものは臨界点に達していたし、いつそうなってもいい筈なのだが、それを惜しいと思うのはそのせいかもしれなかった。解放を望む熱望と、それをためらう意地汚さを持て余しながら、彼は顔を少しあげて彼女を覗きこんだ。  
数えるのも忘れるほど何度も繰り返したキスは滑らかに受け入れられ、その優しくて甘い反応にますます非現実感が強まる。  
──まるで─そう─恋人との─行為のようだ。  
輝にはそういう経験がないから、今している行為とそれとの区別がつかない。  
輝は口を開きかけた。何か言いたかった。  
だが、  
「…う…」  
輝は未沙の首筋に顔を落として歯を食いしばった──とっくに限界だったのだ。  
彼は何度か、小刻みな波に背筋を震わせた。  
その異変に気付いたのか、未沙の唇が──二人分の唾液で濡れている──わなないて、彼女は目をうっすらと開けた。  
「……」  
そのまま、彼女は荒い息を整えようと焦る輝の首に廻していた腕を引き寄せた。  
「あ…」  
暖かい彼女の頬に、輝は囁いた。  
「……あの…」  
「…………しっ」  
未沙は唇を少し尖らせて、潤んだような瞳を輝に合わせた。  
その困ったような瞳は今までに輝が彼女を見た中で最高に色っぽかった。  
「…お願いだから……命令よ」  
「………」  
 
熱い吐息を漏らす唇を目尻の近くに確認しながら、輝はこれがただのエロティックな幻想ではないのかと疑っていた。  
もう、彼女の中のものは臨界点に達していたし、いつそうなってもいい筈なのだが、それを惜しいと思うのはそのせいかもしれなかった。解放を望む熱望と、それをためらう意地汚さを持て余しながら、彼は顔を少しあげて彼女を覗きこんだ。  
数えるのも忘れるほど何度も繰り返したキスは滑らかに受け入れられ、その優しくて甘い反応にますます非現実感が強まる。  
──まるで─そう─恋人との─行為のようだ。  
輝にはそういう経験がないから、今している行為とそれとの区別がつかない。  
輝は口を開きかけた。何か言いたかった。  
だが、  
「…う…」  
輝は未沙の首筋に顔を落として歯を食いしばった──とっくに限界だったのだ。  
彼は何度か、小刻みな波に背筋を震わせた。  
その異変に気付いたのか、未沙の唇が──二人分の唾液で濡れている──わなないて、彼女は目をうっすらと開けた。  
「……」  
そのまま、彼女は荒い息を整えようと焦る輝の首に廻していた腕を引き寄せた。  
「あ…」  
暖かい彼女の頬に、輝は囁いた。  
「……あの…」  
「…………しっ」  
未沙は唇を少し尖らせて、潤んだような瞳を輝に合わせた。  
その困ったような瞳は今までに輝が彼女を見た中で最高に色っぽかった。  
「…お願いだから……命令よ」  
「………」  
 
何も言うなというその命令は簡単に遂行できそうだったが、輝はそれより、やっと我が手に取り戻した理性と状況判断の  
必要性に慌てふためいた。  
そういえば、すっかり忘れて(!)いたが巨人たちは──と彼が横に首を廻すと──そこにはただの茫漠たる空間に果ての見えない薄闇が広がるばかりである。  
「いない…」  
輝が小さく叫ぶと、未沙の表情が少し引き締まった。  
「え」  
「いないんだよ、大尉!」  
輝を押しのけた未沙がしなやかに躯を捻り、胸を腕で隠しながら起き上がった。  
「………」  
「………」  
いない。本当に、巨人たちの姿は綺麗さっぱりと消え失せていた。  
二人は唖然として顔を見合わせ、慌てたようにそれぞれ背を背けた。  
「いつの間に逃げたのかしら」  
未沙が散らばった下着だのシャツだのに手をのばすのを目の端にとらえ、輝も慌てて右に倣った。  
背後を見ないよう注意しながら急いで身支度を整え、輝はジッパーをあげながら巨人たちが立ち尽くしていたはずの廊下の果てに走りよった。  
うっすらと乱れた埃の跡らしきものはあるが、それ以外には巨人がいた痕跡はなにもなかった。  
いや、ただ一つ──  
「大尉!」  
輝が呼ぶと、未沙が小走りに駆け寄ってきた。  
急いだにも関わらずすでにきっちりとスーツを着こんでいて、狼藉の気配ひとつない。  
「これ、なんだと思います?」  
輝が指差したものは、ごく薄い板のようなものだった。一見認識票にも似た感じの、巨人たちのサイズに比べるとかなり小さなチップだ。  
「さあ…」  
未沙は苦労して、それを抱え上げた。輝が手助けして裏側を確認する。  
「…なにか、回路…でも入ってるのかしら」  
「……鍵?」  
輝は未沙を見た。未沙が眉をあげて口を開く。  
「この際、なんでも試してみ…」  
 
その時だった。  
 
「…おい!!おい!輝!早瀬!!」  
扉の方角から久々にお馴染みの声が聞こえてきた。  
「聞こえんのか!こら!」  
どんどん、と叩く、というよりも蹴りつけているような打撃音もする。輝と未沙は慌てて扉に走りよった。  
「先輩!」  
「少佐!」  
未沙は口早に報告した。  
「鍵のようなものを巨人たちが落としています。試してみますから、少し後ろに下がっていてください!一条くん」  
輝に向き直り、彼女はてきぱきと指示をした。  
「なにか、足場になるようなものを捜してきて」  
「あ、ああ」  
その凛とした、というよりもやや冷たい口調に彼は目を瞬かせて未沙を一瞬見つめた。  
「なにしてるの。早く!」  
言い捨てて、未沙は例のチップに向けて踵を返した。その、翻った髪の隙間から染まった耳朶がちらりと見えた。  
「………了解」  
急にひどく気恥ずかしくなって、輝も慌てて反対方向を向いた。  
 
───いや、今は余計な事を考えてる暇はない。  
 
努力と予想は正しく報われてやがて頑丈な扉が開いた時、輝も未沙も無言だった。  
さきほどからの状況変化の激しさに途方に暮れていたといってもいい。  
「よしよし、よくやった!」  
上機嫌のフォッカーが飛び出してきて輝にいきなり組み付いた。  
「さすがは俺の後輩だ。ん、巨人ども、慌てふためいて逃げていきおったな。わはははは」  
自分よりさらに長身のフォッカーの抱擁にたたらをふみつつ、輝は顔をあげた。  
「…え?」  
「いやあ面白かった。何を叫んどるか、意味がわかればもっとよかったんだが」  
「叫…んでましたっけ」  
鈍い反応を返す輝に、フォッカーは怪訝そうな顔になった。  
「何を言う。巨人どものあんな恐怖の叫びは初めて聞いたぞ」  
「………」  
輝は、傍らの未沙に横目をくれた。未沙も呆然としている。  
彼女も輝と同様に、さきほどそのような叫びはついぞ聞いた記憶がないのだ。いや…  
 
輝との行為の最中で、聞くどころではなかったという事なのか。  
 
輝は俯いて、ぼそぼそと尋ねた。  
「あの…先輩。巨人の逃げて行くの、部屋からもわかりましたか…?」  
フォッカーは頷いた。  
「おう。ガチャガチャとすごい剣幕で逃げていきおったわ。ひとり、途中で転んどったな、そういえば」  
「…………」  
そこまで熱中していたのかと、凄まじい恥ずかしさを覚えて顔から火が出そうだった。  
さらに俯く輝に、フォッカーは声を潜めた。  
「…で、何をしたんだ、おまえ。よっぽど驚かせたんだろうが…胸か?尻でも撫でたのか?」  
「…………」  
そんなものです、と彼は呟き、フォッカーの好奇心に満ちた質問をそこで強引に打ち切った。  
 
未沙が必要以上のキビキビした口調で割り込んだ。  
「フォッカー少佐!早くこの場を離れましょう!」  
輝は慌てて同意した。  
「そ、そうですよ先輩。指示をお願いします」  
「うむ、そうだな。ではとりあえず、格納庫のありそうな階層を見つけるか」  
フォッカーは上官らしく威厳に満ちて頷くと、ふたりに片手を振った。  
「ついてこい、輝、早瀬!」  
「はい」  
「わかり…」  
ほっとした風情で走り出す未沙の腰が目に入り、輝は思わず視線をそらした。  
その気配を感じたのか、未沙がちらりと輝に振り向き、顔を赤くして睨みつけた。  
「一条くん、急いで!」  
「……ああ」  
なにをしたのか覚えてはいるけれど、もう忘れたほうがいいようだ。  
やっぱり幻みたいなものだったのだろう、あの親密すぎたひとときは。  
 
どんどん先を走って行くフォッカーと未沙を眺め、輝はそう思った。  
とりあえずは脱出だ。異様な体験だったが、それについてはあとでゆっくり考えればいい。  
それだけを念じて輝は薄闇に向かって走り出した。  
───後に彼女とどれだけ親密な関係になるか、その時には神ならぬ身にはわかるはずもなかったのだ。  
 
 
impulse──衝動。  
 
 
 
 
 
 
 
おわり  
 
 

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