…早朝。私立葵学園の学生寮である彩雲寮二一二号室。 未だ眠りの国にとどまる部屋の主を現実に引き戻すのは、無粋な電子音では無い。  
キイ……。  
本当に微かな音の後、一礼に続き、『鈴を鳴らす』という表現そのままの声が部屋に響いた。  
「…お早うございます、式森様。御目覚めの時間です」  
「…………」  
部屋には何の変化も無い。 声の主は全く同じ呼び掛けを繰り返し、数度目でやっと返答を得る。  
ぼふっ、という音に続き、眠気が色濃く残る声が響く。「くぁ……。…おはよ。リーラ」  
「はい。お早うございます、式森様。今朝も、良い天気でございます」  
部屋の主である少年…式森和樹の声に、紺のブラウスにゆったりとしたロングスカート、清潔なエプロンドレス…という、典型的なメイドルックスにしなやかな長身を包んだ妙齢の美女…リーラは、たおやかな微笑と共に答えた。  
…一度、目を覚ませば後は早い。彼女が持参した洗顔用の水で顔を洗い、卸したての様に糊の効いた学生服を着る。  
その足で階下の食堂へと向って、朝食を味わい更に身仕舞いを整えると、リーラの部下が渡してくれた弁当を手に、自室へ帰る。  
「どうぞ」  
部屋で待っていてくれた彼女が、声と共に差し出してくる学生鞄を受け取る。  
「御帰りは何時頃になりますでしょうか?」  
「うん。約束とかも無いし、寄り道とかしないから、いつもと変わんないと思うよ」  
「はい。では、時間を見計らってお迎えを回し…」  
「いいってば」  
断りの声に、幾らかの残念さを覚えながらも、丁重に頭を下げて主を送り出す。  
「畏まりました。御早い御帰りを、御待ちしております」「うん。じゃ、行ってくるよ」  
「はい。どうか、お気をつけて……」  
軽く片手を挙げての挨拶に今一度頭を下げたが、気配が動かない事に気付き、顔を上げる。  
「…式森さ」  
言い終わる前に、その優美な肢体は動かなくなる。  
「あの、式森様?」  
「ちょっとだけね。その…、今日はリーラ分が足りないから」  
忠実なメイドであり、護り手にして、年長の恋人でもある彼女の躰を軽く抱き抱えて、和樹は小声で囁く。  
「…はい。お気にますままに」  
…しばし抱き合うと、自然と離れる。  
「…じゃ」  
「はい。和樹様」  
 
 
入口にずらりと居並ぶ手すきのメイド達の声が唱和する。  
『行ってらっしゃいませ、式森様』  
その声に送り出され、和樹はのんびりと歩き出す。  
以前の様にギリギリまで惰眠を貪り、結果全力疾走で体力を浪費する事も無く、又、メイド達によって食生活も劇的に改善され、体調もすこぶる良い。  
彼女らと初めて関わった際には、すったもんだが有ったものの、彼女達抜きの生活など今の和樹には到底、考えられなくなっていた。  
学校では、例によって自己の利益の確保と他人の追い落としに血道を挙げるB組連中の騒ぎや、隙あらば人をモルモットにせんと企む、保険医兄妹らのオモチャにされる…。  
そんな毎度の『恒例行事』を済ませ、実際以上に疲れた足を引摺り、和樹はいまや居館と化した寮へと帰り着く。  
『御帰りなさいませ、式森様』  
声と共に、朝より増えたメイド達が一斉に一礼する。  
その内の何人かに労いの声を掛けつつ、館内へと入ると礼儀作法の教本に載りそうな完璧な礼と共にリーラが和樹を迎えた。  
「御帰りなさいませ、式森様」  
「ただいま。リーラ」  
「御部屋へは、私がお連れする。皆は持ち場に戻れ」  
それを合図に、瞬く間にメイド達は視界から消える。  
「お荷物をお渡し下さい」  
「え。あぁ…うん」  
断ろうとするが、真っ直ぐに見つめて来るリーラの視線に負け、鞄を渡す。  
「あ、ありがとう」  
(やっぱ、慣れないなぁ…) 彼女の後に付いて歩きながら、内心呟く。  
自室に着いて、部屋着に着替えて腰を落ち着けた所で、予め用意されてただろうお茶と菓子が運ばれて来る。  
程なく空になった茶器と脱いだ制服を持ってリーラは退室するが、それと前後して和樹も部屋を出た。  
用足しついでに寮内をうろついていた所で、横合いから声が掛けられる。  
「よう、坊や」  
振り向けば、廊下に置かれたソファーに腰掛け、悠然と煙草をふかすメイドを見る。「セレン。またサボリ?」  
「まーな。最近はドンパチもねーし、家事はあたしよか上手い奴ぁ大勢いるしでさ、やる事たぁ無ぇ」  
「僕はいいけど、リーラに見つかんないようにね」  
「わかってるって。あーそうそう。今日の夕飯はどうすんだ? 部屋と下、どっちだよ?」  
「下でいいよ。リーラ達に伝えておいて」  
「おっけー。んじゃ、あたしゃこれで」  
そんな友達同士の様な会話を終え、二人は別れる。  
 
 
「あ〜だる…」  
その広さからすれば、無駄に豪華な家具が置かれた部屋に気の抜けた声が響く。  
アンティークとしての価値を全体から発散している机に突っ伏した和樹は全身で溜息をついた。  
夕食前から追われていた、明日提出の課題が漸く片付いたのである。  
腹がくちれば眠くなる。  
隙あらばトンズラしそうになる意思を、本日分の忍耐心と勤勉さの最後の在庫を掻き集め、支えたのだった。  
「…風呂入って寝よ」  
これまた立派過ぎる箪笥から着替えを取り出し、風呂場へと向かう。  
一日の汚れを落として部屋に戻った頃には消灯時間となり、後はもうベッドに潜り込むだけだが…。  
「大事な事っぽいけど、なんだろな、これ…」  
明りを消して横にはなったが妙に寝付きが悪く、半端な眠気を誤魔化そうと、少し前にリーラから渡された鍵を眺めていた時。  
「…式森様。もう御就寝みになられましたか…?」  
時間柄か、控え目な声とノックが耳に届いた。  
「…リーラかい?」  
「はい」  
「ん、まだ起きてるけど…どうかしたの?」  
言いながら一旦ベッドから出て、扉を開ける。  
和樹を見て、深々と一礼するリーラに声を掛ける。  
「…じゃ、中に入って。もう立ち話って時間じゃないし」「はい。夜分遅い所、お手数をお掛けして、誠に申し訳ありません」  
心底、恐縮しした口調で答えつつ、和樹の勧めに応じて部屋へと足を踏み入れる。  
二、三のやり取りがあった後、向かいに腰掛けたリーラに話を促す。  
話自体はメイド長としての報告の類いで、すぐに終わったが。  
「…その。今宵は、しきも…いえ、和樹様は、私を必要とはなさらないのですか……?」  
この、常の彼女からすれば唐突過ぎる言葉が両者の沈黙を破った。  
「え゛…あーっと、その。それは…」  
俄に挙動不審になる和樹の前で、リーラはゆっくりと立上がり静かに確実に間を縮める。  
「和樹様…」  
その声に普段の凛とした響きは無い。  
「き、今日はいいや。うん。リーラも疲れ…」  
なおも狼狽えまくる和樹だが、寄り添い、その目を覗き込むかの様に上体を近付けたリーラは囁き掛ける。  
「駄目…ですか?」  
「そうじゃなくて、」  
「どうか、お願いします…。駄目などと仰らないで下さいませ…」  
気付けば、白皙の肌は淡く色付き、その声は酷く熱い。  
「…和樹様。あの鍵はお持ちでいらっしゃいますか?」  
「え? あぁ、うん」  
間近での声に、水飲み鳥の様に頷くとリーラは安堵したかの様に『良かった…』と漏らす。  
 
「一体、なんの鍵なの?」  
その当然の疑問に対し、リーラは答えず和樹の身体から離れる。  
「リーラ…?」  
きょとんとする和樹を見つめながら、リーラはその正面。少し腕を伸ばせば届く辺りまで下がる。  
「和樹、様……」  
掠れた声で主を呼んだリーラの手が、エプロンごとスカートを掴んだ。  
「…見ていて下さい、和樹様。目を逸らさないで、どうか私を…、私だけを……」  
言葉の途中から、スカートの裾がゆっくりと上がって行く。  
「ちょ……っ!!」  
何が起こるかを悟り、和樹の顔は瞬時に赤くなるが、視線は縫い付けた様にリーラから離れない…否。離せないでいる。  
「ーーーーーー」  
リーラの顔も又、和樹に劣らず赤い。だが、彼女も和樹を見つめたまま、手の動きは止まらずにいる。  
…弱い常夜灯の下、次第に露になる彼女の躰。  
細く引き締まった足首からふくらはぎ、膝頭から肉感的な太股までを包む純白のストッキングに負けぬ、白さを持つリーラの素肌。  
遂にストッキングを吊るすガーターまでもが晒け出される。  
「リー、ラ……」  
それ迄、酸欠の金魚の様に口をぱくぱくさせていた和樹はやっと口を開いた。  
「どうか、そのままに……。見て戴きたいのです。私が、あなた様だけのメイドである証しを……」  
言い終わる前にリーラの両手が胸元まで上がり、そこで止まった。  
…そこに、予想だにしない物が在った。  
…珠の様に滑らかで純白い、リーラの下腹部を覆い隠すかの様に、それとは対照的な武骨な塊が見えた。  
女性の下着と言うには、余りにも固く、大きくて微塵の飾り気も無い、金属と鎖で構成された物がそこに在る。  
「な、なんなのさ、それ……?」  
しばし呆然とした後、やっと口を開いた和樹は、問い掛ける。  
「その…、これが、先程の答えです……。和樹様にお渡しした鍵だけが、これを外せ……」  
たくし上げたままのスカートを持った手が微かに震え、声量も落ち着かない。  
「お願い、致します、和樹様……。あの鍵を、私にお使い下さいませ。お情けを戴きとうございます……」  
羞じらいと期待、願望に思慕が入り交じる声には、兇暴な迄の破壊力が含まれており、和樹の意識を彼岸の彼方へ追いやるには過剰に過ぎた…。  
 
 

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