ドアノブを回すと、コーヒーのいい香りが鼻をくすぐる。
そのままリビングに入ると、タケルがいつものようにマグカップを用意してくれている。
「ただいま」
「お帰りルカ。早かったね」
「練習、早めに切り上げてきた」
ルカはそう言ってソファに座ると、タケルが二つのマグカップを持って、ひとつをルカの前にコトリと置いてくれる。
タケルはいつもルカの帰りを予知しているかのように、うまい具合にコーヒーを淹れてくれるのだ。
そのへんは、流石だと思う。
「ありがと」と言おうとして、ふとタケルの顔を見たとき、ルカはなんとなく違和感を感じた。
笑ってはいるけど、影がある。いつものタケルの笑顔じゃない・・・?
「タケル・・・どうかした?」
「い、いや・・・なんでもないよ」
「ないでもないことないだろ?どうしたんだよ!」
なんとなく、ルカは悪い予感がした。そして思った。
タケルは優しいから・・・
人には心配かけたくないって思うから・・・
だから一人で抱え込んじゃうんだよ・・・
少し声を荒げたルカに驚いたのか、タケルは眼をそらし、俯いてしまう。
二人の間に気まずい空気が流れる。
二人はしばらく黙っていたが、タケルが顔を上げ、ゆっくりと口を開こうとした。
そのとき。
「たっだいま〜〜!!」
「ただいま〜〜」
玄関が急ににぎやかになった。この声は・・・
エリーはカバンをどっかりと降ろし、ソファに座り込む。
「あ〜疲れたぁ」
ミチルは買い物袋をキッチンへと運んでいる。
「ルカ、タケル君、お腹すいたでしょ。今作るから」
タケルは一瞬ルカの顔を見て、すぐに笑顔で「手伝うよ」などと言ってキッチンへと向かっていく。
ルカは複雑な顔で、タケルの後ろ姿を目で追っていた。
コンコン。
誰かがドアを叩く音が聞こえる。
「どうぞ」タケルは顔を上げ、声をかけると、ガチャリとドアが開いた。
「ルカ・・・?」
「タケル、まだ話の途中だったよね」
ルカはゆっくりとベットに座るタケルの隣に腰を下ろした。
「何があったの・・・?」
険しくなったタケルの顔を、ルカは心配そうに見つめた。
そして、タケルは小さく息を吐き、しぼり出すように話し始めた。
「仕事場で、モデルの子に・・・」
そこまで言って、タケルは自分の唇に触れる。その唇は震えていた。
ルカは、いつか林田にされたことがフラッシュバックし、思わずタケルから目をそらす。
「オレ・・・やっぱり怖いんだ・・・そういうことされるのって・・・」
タケルは唇を噛み締めて、絡ませた指に力を込める。
その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。
他の三人はもう寝てしまったのか、家の中はしんと静まり返っている。
ただ、二人のかすかな息遣いだけが部屋の空気を震わせた。
「タケル」
先に口を開いたのはルカだった。タケルは頭をを上げ、ルカの横顔を見る。
「・・・なんで私が、あんたにこんなに心開けたと思う?」
「・・・」
「あんたが、私を男とか女とかで見ないで、一人の人間として見てくれた人だからだよ」
そういって、ルカはタケルの手に自分の手を重ねた。
「だから私は、頑張れたんだ・・・・・・ここまで」
ルカの手は、思ってたより少し大きくて、温かくて、優しかった。
タケルの視界がぼやける。
「タケルは、私のこと・・・・怖い?」
タケルは、首をかすかに振る。
「・・・・怖くない」
「私も・・・・タケルは怖くないんだ」
なんでだろう、ルカ。
オレは君といると違う自分になれる気がする。
あんなに女の人がニガテだったのに、君と一緒にいると安らぎさえ感じるのだから。
―――君のことが好きだから?
ルカ・・・・
オレ、君に触れていいのかな・・・・?
タケルはゆっくりとルカの肩に両手を乗せる。ルカは、まっすぐにタケルを見つめた。
タケルはその視線に内心どきりとしながら、「ルカ・・・」と少し掠れた声を出した。
ルカは、それが合図だったかのように、ゆっくりと目を閉じる。
タケルは、自分の唇をルカの唇に重ねた。
タケルのキスは、少しぎこちなくて、優しいキスだった。
タケルは顔を離し、ルカの華奢な体を抱きしめた。決して力を込めず、優しく。
ルカも、安心しきったようにタケルに体を預けた。
タケル、あなたは言ってくれたよね?私を支えたいって。
すごく嬉しかった。
抱きしめてくれたとき、あんなにも、あなたの存在を大きく感じたことはなかった。
タケル、私もあなたの支えになりたい。
せめて、あなたにのしかかる重荷を、少しでも軽くしてあげたい。
あなたは、私の重荷を軽くしてくれたから。
ルカはタケルの広い背中を優しくさすってやる。
やがて、その背中は細かく震えだした。
「ルカ・・・・ありがとう」
タケルは自分の頬に温かいものが伝うのを感じながら、小さく呟いた。