「シモーヌ。やっぱり行くのかい?」
ダントンは心配そうに眉をひそめて小声で言った。
「ええ、ダントン。平民議員の候補が警備隊に狙われて亡命しようというのよ」
その候補は平民たちのリーダーの一人である。
ここで彼をみすみすザラールたちの手に渡すわけにはいかない。
そんなことになれば無実の罪で処刑されるのは分かり切っている。
「けど、今のパリは危険だよ。警備隊も増員されたって聞くし」
そう言いながらもダントンは、シモーヌがどんな危険が待ち構えていようと諦めたりしないことを知っていた。
「気を付けて。危なくなったら逃げるんだよ」
「ええ、そうするわ」
シモーヌはダントンを安心させるために、ことさら明るい口調で答えた。
シモーヌは花屋の2階で衣服を脱ぎ捨て全裸になった。
高貴な血を引くといわれるシモーヌの裸体は芸術品の域に達していた。
ド・フォルジュ侯爵の養女となった頃の、ほんの小娘だった肉体とは異なり、すっかり大人のラインを形成している。
シモーヌは秘密の戸棚からレオタードを取り出し身に付けた。
1年前に手に入れたレオタードは、既に体のサイズに合わなくなっていた。
「…………」
シモーヌは鏡に映った自分の姿を見て、無言で顔を赤らめた。
豊満な乳房は、胸の部分を突き破らんばかりに張り出し、2つの突起がハッキリと浮き出している。
更にはお尻の割れ目はもちろん、ぷっくらと盛り上がった恥骨の具合から、秘密の縦筋まで隠しようもなく顕わになっていた。
しかし秘密の衣装であるだけに、簡単に新調するわけにもいかない。
信用の置ける仕立屋が見つかるまでの辛抱だと、自分に言い聞かせるしかなかった。
それにどんな恥ずかしい格好をしても、肝心の素顔は誰にも知られていないのである。
赤いアイマスクとベレー帽で素顔を隠し、唯一新調したブーツを履く。
そして愛用のサーベルを腰に吊してマントを羽織る。
これが愛と自由の戦士、ラ・セーヌの星の扮装である。
ラ・セーヌの星は窓を開け放ち、夜空に向かって口笛を吹く。
何処からともなく、白馬が掛けてくる。
窓辺から飛び上がったラ・セーヌの星は白馬の鞍に着座し、そのままパリへ向けてシテ島を後にした。
平民議員候補は、夜の闇に紛れてパリを抜け出す手筈であった。
粗末な馬車に乗った候補は、人気のない道を選んで郊外へと出ていく。
ザラールの警備隊の目を逃れ、上手くパリを脱出出来たのは僥倖であった。
しかし、もうここまで来れば安心だと思った瞬間、行く手を遮るように検問所が現れた。
「怪しい馬車だ。改めさせてもらうっ」
横柄な警備隊員が剣を突き付けながら馬車を取り囲んだ。
そして、一人の隊員がドアの取っ手に手を掛けた時であった。
「およしなさい。何の罪もない御者をいたずらに怯えさせるのは」
低く静かな、それでいて聞く者に有無をいわせない迫力を持った女の声が響いた。
驚いた隊員たちが当たりをキョロキョロと見回す。
「あっ、あそこだぁっ」
一人の隊員が大木の枝にすっくと立った仮面の女戦士を発見した。
「市民に対するいわれなき暴力は、このラ・セーヌの星が許しません」
ラ・セーヌの星は枝の弾力を利用して大きくジャンプすると、馬車の屋根に飛び乗った。
「やっちまえ」
警備隊の面々は相手を女一人と侮ってか、怯む様子は全く見せない。
「仕方ありません。お相手しましょう」
ラ・セーヌの星は腰の剣を引き抜くと、馬車の屋根から飛び降りた。
相手は剣を持った、一般兵士が5人である。
ラ・セーヌの星が一度に相手が出来る、ギリギリ限度であった。
如何に彼女が剣の達人でも、生身の人間であり男女の体力差というものが厳然と存在していた。
しかし女相手と知って、男が侮って掛かることこがそラ・セーヌの星に最大の利をもたらす要員になっていた。
それに体のラインをはっきりと出してしまうコスチュームや剥き出しの太腿が、敵を攪乱する武器になるのだ。
いきなり始まった乱戦に、馬がいななき、眠りを妨げられた野鳥が木々の間を飛び交う。
剣と剣がぶつかり合い、激しく火花が散った。
力では圧倒的に不利なラ・セーヌの星が大木の幹に追いつめられていく。
しかし彼女は最大の武器である身の軽さを利用して、枝の上へとジャンプして剣を逃れた。
そしてその勢いを利用して空中から兵士を攻撃する。
「ウワァーッ」
一人の兵士が倒れ、他の4人が怯む。
「今ですっ。お逃げなさい」
ラ・セーヌの星は馬車に向かって逃走を促した。
だが、馬車は沈黙を守ったまま動こうとはしなかった。
「どうしたのですか……あぁっ?」
馬車に駆け寄ろうとしたラ・セーヌの星が見たものは、ドアを開けて降りてくるザラール隊長と部下4人の姿であった。
「ザラール……罠だったのですね」
ぐるりと取り囲まれたラ・セーヌの星に焦りの色が浮かぶ。
「私の部下が、こんな怪しい馬車を黙ってパリから出すはずがないだろ。まんまと引っ掛かりおって。これは人気のない場所へとお前を誘き出す罠だったのだ」
これだけの敵を相手にしては、ラ・セーヌの星に勝ち目はない。
後は囲みを破ってこの場を逃げるしかなかった。
「うぅっ……まずい……」
一瞬出来た隙を狙って、御者のムチがラ・セーヌの星に襲い掛かった。
「アァーッ?」
ラ・セーヌの星の剣に絡み付いたムチが、彼女の手から剣をもぎ取った。
空中で剣を振り落としたムチが再度しなり、ラ・セーヌの星の脇腹を強かに打つ。
「キャァァァーッ」
脇腹に焼け付くような痛みを感じ、ラ・セーヌの星の口から絶叫が迸った。
「ふふふっ、いい声で鳴くぜ」
ラ・セーヌの星はその場に片膝を付いて苦悶の表情を浮かべる。
「観念するんだな」
ザラールの指揮により、ラ・セーヌの星を取り囲んだ包囲陣がジリジリと輪を縮めはじめた。
「うぅっ……」
ラ・セーヌの星は首を巡らせて周囲を確認するが、どこにも逃げ道はなかった。
おまけに剣を奪われて丸腰である。
これでは彼女に勝機は見出せない。
「掛かれっ」
ザラールの指示で兵士達が一斉に襲い掛かってきた。
地面にしゃがみ込んでいたラ・セーヌの星は転がっていた石ころを掴み取る。
そして立ち上がりざま、正面の兵士に向かって投げつけた。
「うわっ」
不意を突かれて兵士に隙が生じる。
そこにラ・セーヌの星の飛び蹴りが炸裂した。
フランス式ボクシングとも言うべきサファーデは、友人アルビーの技を見よう見まねで習得したものである。
それでもバランスを崩した兵士を蹴り倒すには充分だった。
囲みの一角を破ったラ・セーヌの星が脱兎の如く駆け出す。
ラ・セーヌの星は、走りながら落ちていた兵士の剣をブーツの爪先に引っかけて蹴り上げる。
そして宙に浮いた剣をジャンプして掴み取ると、立ち止まることなく駆け出した。
「追えっ、追うのだっ」
マントをなびかせたラ・セーヌの星は快速を生かして兵士たちを引き離す。
しばらく走ると前方にセーヌ川支流の土手が見えてきた。
「あれを利用して……」
ラ・セーヌの星は追跡者を一気に引き離すために、急な斜面を利用することにする。
身の軽いラ・セーヌの星は、飛ぶような早さで川縁の土手を駆け上がった。
装備品の重い兵士はその動きについていけず、あっという間に置き去りにされる。
「馬鹿者っ。何をやっておる」
ザラールの叱責が飛ぶが、兵士たちの足は前に進まない。
その様子を肩越しに確認したラ・セーヌの星はホッと溜息をついた。
しかし土手を上りきった瞬間に、その顔が凍り付く。
なんと土手の上には、10人もの新手の兵士が銃剣を構えて待ち伏せしていたのである。
「しまった」
とっさに地面に転がったラ・セーヌの星の頭上を、激しい銃弾の雨が通り過ぎていった。
素早く起きあがったラ・セーヌの星は、土手の上を下流方向へ逃げる。
ようやく土手を上がってきた兵士も合流し、20人近くになった一団がラ・セーヌの星を追う。
「意識を集中しなければ。いつものようにいかないわ」
逃げるラ・セーヌの星の足下に激しい砂埃が上がり、その度彼女は高くジャンプして避ける。
「私をここで殺すつもりはないようだわ。生け捕りにするのが目的……」
兵士たちがわざと銃の照準を外していることは直ぐに分かった。
しかし生きたまま捕らわれるようなことになれば、死ぬより辛い運命が待っている。
その時、ラ・セーヌの星の行く手に橋が見えてきた。
見れば幅の狭い橋であり、彼女が両手を広げたくらいしかない。
このままでは追っ手を振りきれないと判断した彼女は、躊躇なく橋へと足を進めた。
そして中ほどまで来ると、いきなり足を止めて踵を返して追っ手に対して身構えた。
幅の狭い橋の上では、自由に剣を振るえるのは先頭の一人だけであり、数の優位をいかせない。
しかし軽快なステップワークを武器とするラ・セーヌの星も、サイドステップを封じられる。
おまけに後退も出来ないので、足を止めての斬り合いを挑まれることとなる。
そうなると、膂力で圧倒的に劣るラ・セーヌの星が不利であった。
「くっ……いつもの敵より手強い」
それもそのはず、ザラールが今回新たに手勢に加えた兵士は、血筋より剣の腕を第一に選んだ手練れであった。
だがラ・セーヌの星には誰よりも多く真剣勝負をこなしてきた経験がある。
上体へのフェイントから太腿への攻撃で、ようやく一人目を倒す。
内腿の動脈を切り裂かれた兵士がその場に倒れる。
ラ・セーヌの星は相手を刺殺することは考えていなかった。
相手を殺してしまえばそれまでだが、敵の数を減らすには手傷を負わせた方が効率がいい。
負傷者を後方に運ぶために2人、介抱に1人を戦わずして排除出来るのだ。
またそうすることで兵士の命を奪わずに済むのである。
一般兵士レベルで不必要な恨みを買う必要もない。
次の兵士は腹を刺突され、大声を上げて橋上をのたうち回った。
3人目が突いてくるのを軽く捌いて切り返す。
剣と剣とが斬り結ぶ中、後方に控えていた兵士が横槍を入れようと欄干によじ登った。
しかし丸みを帯びた作りの欄干に足を乗せた瞬間、兵士は足を滑らせて落下した。
落下した兵士の体は急流に飲み込まれ、あっという間に見えなくなる。
仲間の不幸に気を取られていた兵士に、ラ・セーヌの星の切っ先が突き刺さった。
残された兵士に動揺が走る。
上手く行けば、後数人倒すだけで敵の気勢を削げそうであった。
しかしラ・セーヌの星の優位はそこまでだった。
なんと橋の反対側からも別の部隊がやって来たのである。
橋上で前後から挟み撃ちされるラ・セーヌの星。
こうなると今度は橋の狭さが彼女の不利になった。
「フフフッ、ラ・セーヌの星よ。もう逃げ場はないぞ」
ザラールが勝ち誇ったような笑い声を上げる。
「命が惜しかったら、大人しく降伏しろ」
追いつめられたラ・セーヌの星は半身になり、前後を慌ただしく確認する。
「だっ、駄目だわ」
ラ・セーヌの星の顔が悔しそうに歪む。
そして焦りの色が浮かんだ目で、唯一残された逃げ道を見詰めた。
「それっ、一斉に掛かれっ」
ザラールが叫ぶのと、ラ・セーヌの星が欄干を乗り越えるのが同時であった。
大きな水音と共に水柱が上がる。
「狼狽えるな。準備に抜かりはないわ」
兵士の動揺を押さえ込むようにザラールが叫んだ。
その声を合図に橋桁に潜んでいた数艘の小舟が姿を現せる。
それは警備隊の権限で、むりやり協力させられた近くの川漁師たちの漁船であった。
漁師たちは水柱の上がった場所を中心に、下流へ向かって次々に投網を投げた。
冬の川は凍りつく寸前まで水温を落としていた。
ラ・セーヌの星の体は直ぐさま冷え切り、体力がどんどん失われていった。
急流に揉まれるマントが体の自由を奪うが、凍えきった指先では留め金を外すことも出来なかった。
「息がっ……うぅっ……」
意識を失いかけたラ・セーヌの星の体の上から何かが覆い被さってきた。
それは漁師が投げ込んだ漁網であった。
「あうぅっ?」
網の口が絞られ、ラ・セーヌの星が中に閉じこめられた。
振り解こうと藻掻けば藻掻くほど、網目が体に絡まっていく。
やがてラ・セーヌの星は体重を失ったかのような失調感に支配される。
網が船の上へと引き上げられはじめたのである。