朝、シータに伴って市場へ出かけた。小さな市場の人ごみの中、大声でシータを呼びながら  
近づいてきた男がいる。隣にいた自分に驚き、紹介されていささか敵意のこもった目に  
値踏みされた。清潔で朴訥とした男はそれでも笑顔で握手を求めてきた。農作業で節くれた  
頑丈な手だった。  
 
年に数回はここへ訪ねてくるのが習慣になっていた。あの今思い出せば苦しいような  
懐かしさに襲われる出来事も、今は遠い昔のことになろうとしている。鋤を持つ手を止めて  
空を見上げる。どこまでも青い空に吸い込まれそうな気がして目を閉じた。目を開けると  
シータがすぐ傍にいた。  
「・・・あの時の事を思い出しているの?」  
一つにまとめた栗色の髪が日に光り、前髪をあげた額が白かった。憂いをこめた  
まなざしが真っ直ぐに見つめている。  
「・・・いや、」目をそらしてつぶやくように言う。  
「風が気持ちいいだけだよ。」  
 
ゴンドアに来た時はシータと共にヤクの世話をした。女が一人で何とかやっていけるほどの  
家畜と畑。長い年月に培われた安定がここにはある。パズーは息をついた。今日はあまり  
仕事がはかどらない。時折どうしても物思いに囚われている自分をシータが見ている事は  
知っていた。知っていたがどうにもならなかった。暮れる夕日が辺りをオレンジ色に染めて  
振り向くといやに大きな太陽が地平線に触れようとしている。  
「・・・きれいね。」  
「・・・。」  
「いつも見ているのに、いつもきれいだと思うの。」  
パズーは夕日に染まったシータを見ていた。彼女は美しかった。昔から整った顔立ちを  
していたが、今この瞬間の彼女の美しさはどうだろう。細面の白い顔に細い首、すらりとした  
それでいてやせぎすではない健康そうな体、凛とした佇まい。不意に強く衝動がこみ上げて  
パズーは目を伏せた。今この瞬間に彼女を力一杯抱きしめる事ができるなら、どんなに  
心が満たされるだろうか。  
 
「僕、鉱山を出るんだ。」  
夕食後、こう切り出したパズーにシータが顔を上げた。  
「僕の父さんの相棒だった人が僕を探し出してくれてね。僕に会いに来てくれて、僕の  
作った飛行機を見てくれたんだ。彼は飛行船の事業に取り組んでいて、それがやっと  
軌道に乗ったところらしい。今後は飛行機事業にも目を向けて、開発を始めるんだそうよ。」  
「・・・。」  
「飛んでみないかと言われた。・・・親方も賛成してくれている。」  
「・・・それは決めたことなのね?」  
「・・・うん。」  
それはパズーがゴンドアには住まないという事だった。  
 
井戸で水を浴び、居間に用意した寝床にもぐりこんだ。小さい頃は一緒の部屋で寝て、  
たわいもないおしゃべりをした。眠るまで本当に埒もない話をして、別に他に誰も  
いないのに声を忍ばせてくすくす笑いあった。  
・・・台所で水音がする。シータがまだ起きているようだった。  
(・・・約束があったわけじゃない)  
それは苦い思いを伴う考えだった。頭の中でマッジの声がする。  
(私ならついて行くわ。殆ど会えなくても平気。どこに住んだってかまわない。  
私にしなさいよ、私の方がいいはずよ。)  
(あの人はダメよ、あなたの所に行けないわ。わかっているはずよ、パズー。  
住んでいる世界が違うのよ)  
・・・何か反論がしたかった。だができなかった。それは本当の事だった。シータが立てる  
水音を聞きながら目を閉じる。市場で会ったあの男・・・ペーターと名乗った・・・。  
(あの男なら、ここでシータを幸せにできるだろう)  
月明かりの闇の中で眉をしかめた。その方がいいのだとわかっていて胸が苦しかった。  
 
 
不意に気配を感じて振り向き、思わず起き上がった。白い寝巻きを着たシータが月明かりに  
照らされて立っていた。  
「・・・どうしたの?」  
問いかける声がかすれるのが自分でわかった。湿り気を帯びた長い髪が月明かりに  
柔らかく光り、彼女のすらりとした体に沿うようにウェーブを描いている。  
胸が高鳴り、喉が渇くのを感じたが、努めて落ち着こうとし、再び声をかけようと  
彼女を見ようとして突然いい匂いと柔らかな感触に包まれた。  
 
シータが抱きついてきたのだと事態を理解するのに少し時間がかかった。理解してから  
混乱し、慌てた。シータの震える体をともすれば強く抱きしめたがる自分の体と  
戦いながら、かといって強く押しのけることもできず、やっと声を出した。  
「・・・シータ。シータ。・・・ダメだよ、」僕は、と言いかけた口がふさがれた。  
月明かりの中でシータの唇がお願いと小さく動くの見て・・・あとは、もう、  
どうしようもなかった。  
 
強く抱きしめた滑らかな肌に安堵の息をもらし、視界の中に入るシータの全てに  
口付けせずにいられない。渇く者が水を求めて喘ぐように、シータが欲しい。  
震える腕と手が自らにまとわりつくのを遠い意識で感じながら、せりあがる息に  
せかされて彼女にのめりこむ。閉じられた瞼、なかば開けられた唇、白い首筋、  
そして、そして・・・。  
 
苦しい。気持ちいい。痛い。悲しい。うれしい。  
・・・愛しい。  
 
痙攣が背骨を駆け上がり、脳髄を直撃する。視界が消える。「・・・シータ。」  
 
青白い闇に飲み込まれ、螺旋状に絡まり沈み込む中で、吐息のように小さく  
彼女が自分の名前を呼ぶのを聞いた。  
 
 
・・・気がつくとシータを抱きしめたまま眠っていたようだった。シータは  
眠っているのか身動きしない。シータの肩越しに月を見上げる。  
何を迷っていたんだろうか。今までの逡巡が嘘のように思える。こうなる前から、  
ずっと前から、否、彼女が空から降ってきた時から、自分が帰る場所はここにしか  
なかったというのに。この腕の中の彼女の中に。  
きつく抱きしめると彼女が少し苦しそうに身をよじった。顔を両手で挟み込むと  
頬が濡れている。・・・ずっと泣いていたのか。  
頭を胸に抱え込んで髪に顔を埋めた。シータのすすり泣きが聞こえる。  
「・・・愛しているよ、シータ。」  
びくりとシータが顔を上げる。  
「ずっと言いたかった。ごめんね。つらい思いをさせてしまったね。」  
シータが顔を伏せた。肩の震えがひどくなる。しゃくりあげて泣き声を立てた。  
大きくなる泣き声を聞きながらさらに深く抱きしめる。  
 
・・・このぬくもりを頼りに生きるのだ。  
冒険家だった父を待ち続けた母。病弱ながら明るく笑顔を絶やさなかった母。  
こっそり泣いていた淋しがり屋の母。父に看取られずひっそり死んだ母。  
そして父と同じ道を歩んでいる自分。・・・母は幸せだったのだろうか。  
 
泣きじゃくるシータを抱きしめ、自分も少し涙ぐみながら、白く明るい月を見ている。  
 
 
その知らせを持ってきたのは、パズーの直属の部下だった人だ。その人の  
事をあんまりよく覚えていない。その知らせを聞いてから数日の記憶が曖昧なのだ。  
パズーは秋になったら帰ってこれるよ。と言った。パズーは約束を破った事がない。  
この一事を除いて。  
著しく不利になった形勢で、味方を助けに行ったという。  
 
・・・彼と過ごした時間は本当に貴重で大切だった。幸せだった。こんな時が  
ずっと続けばいいと思っていたのに。例えずっと一緒に過ごせなくても。  
 
気がつくと上の娘と、ペーターのおかみさんのハイジが上から顔を覗き込んでいた。  
「・・・わかる?」とハイジが聞いた。ナニガ?あなたの事が?私のことが?  
それともパズーの事?  
 
「それでも食べてくれるから助かるわ。」とハイジが言った。「3ヶ月ですって。」  
「?」  
「あなた、妊娠しているのよ。」  
 
後からハイジにこの時のことを確認してみたことがある。「あなたも私とおんなじ。  
ここでしか生きていくことができないんだわ。」と彼女が言った。  
「例え悲しくってつらい人生でも、ここを探して彷徨うのね。」  
 
 
生まれた子供はパズーにそっくりな男の子だった。ジョゼフと名づけたその子は  
時に笑ってしまうほどパズーに似ていた。そして時にパズーと似ていないところを  
見つけて隠れて泣いた。一度ジョセフは怒ってのたまったものだ。「父さんは  
こんなに大事な母さんをおいて一人でいってしまった」と。「母さんを一人にした」と。  
それは正しいことではない。一人にしたのはパズーの意思ではないし、私は  
幸せだったのだから。決して不幸ではなかったのだから。多少パズーの事を覚えている  
上の娘が訂正していた。パパはママの事が大好きだって言っていたよ・・・。  
 
 
今日はジョセフが町から帰ってくる。上の娘ももうすぐきてくれる。最近は家畜を  
人に頼み、小さな畑を耕して糸を紡ぎ、孫のためにベストを作る。時々暖炉の火を見つめながら  
そこに隠されていた石の事を思い出す。あれがなければパズーとも会えず・・・。  
ふと風を感じて見回すと戸口に初めて会った頃のパズーが立っていた。  
「やぁ、シータ。迎えに来たよ。」  
(迎えに?どこへ?)  
「遅くなってしまった。」というパズーは結婚した頃のパズーだった。  
「ごめんね。ずいぶんつらい思いをさせてしまったね。」  
(・・・。)  
「約束していたのに・・・」というパズーはあの朝見送った・・・。  
 
「パズー!!!」  
 
「さぁ行こう」  
「待って、パズー」  
「?」  
「私、こんなに年をとってしまって・・・。」  
ハハハと、パズーは快活に笑った。  
「シータは年をとったって素敵だよ。僕、言わなかったっけ?」  
「でも・・・。」  
「気になるなら、ごらん、シータは僕のお嫁さんじゃないか。」  
ふと自分の手を見るとなめらかで白い肌が、栗色の髪が風になびき・・・。  
「結婚式だね。」  
「パズー、パズー。もうどこへも行かないで、離れていかないで、お願い。」  
「ずっとそばにいるから・・・。」  
 
ジョゼフが家に着いた時、シータはまだ生きていた。ジョゼフの顔を見て  
幸せそうに微笑んだ。待っていたのだと人々がうわさした。  
 

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!