『AWE OF SHE』  
 
 甘い薫り、大気を伝わる体温、浅く荒い吐息。  
 潤んだ瞳、薔薇色に染まる頬、半開きの口唇。  
 薄闇の中に浮かぶ艶姿。虚ろに揺らめく視線が微かに絡む。  
 居心地の悪い照れくささから思わず視線を逸らし、虚空をさ迷う。それでも重ねられた手は離さずに。  
「…………」  
 端的に言ってこっ恥ずかしい。  
 なんだこれは、なんなんだこれは。  
 日野秋晴にとってこんな体験は初めてだった。  
 間接照明だけが灯された部屋。しかもそれが女子の部屋と来ている。挙げ句、部屋の主と向かいあって密着距離でベッドに座っている。妙な緊張感と親密さの折り混ざった複雑な雰囲気から、秋晴は微動だに出来ずにいた。  
 まるで恋人のように。  
 まるで秘事のように。  
 二人は掌を重ね、互いの体温が感じられるような距離で相対している。  
 ましてその相手が、あの――彩京朋美なのだ。  
 まるで初夜を過ごす彼氏彼女だ。  
 いや、あながち間違いでもないのだろうか。彼氏彼女では――ないけれど。  
 付き合う訳じゃない。気の置けない友人同士のじゃれあい、その延長だ。  
 その、はずだ。  
「秋晴……」  
「お、おう」  
 朋美が秋晴を見つめる。気圧されて仰け反りそうになるのをなんとか堪えて秋晴は応えた。  
 真っ直ぐに視線がぶつかる。互いの瞳に映る真意を図るように二人は見つめ合う。  
 きゅっと、朋美の手が秋晴の掌を掴む。縋るような、それでいて躊躇うような。そんな力加減。  
 朋美がゆっくりと身を寄せる。鼻先、いくらか見下ろすような位置まで朋美の顔が近付く。  
 熱の篭もった吐息が秋晴の顎を掠め、総毛立たせた。  
 痺れたような思考。目の前の見慣れた少女を掻き抱きたくなる衝動をなんとか抑える。  
 しかしそれはあっけなく揺さぶられた。上目遣いで放った朋美の、たった一言で。  
 
「ちゅー、して?」  
 
 † † †  
 
 ――遡ること約半日。  
 最早、秋晴にとって恒常業務の一部となりつつあるVSセルニア戦が今日もセルニアが登校してすぐの早朝から(秋晴の意志に反して)勃発した。  
「何をいやらしい目で見ていますの?」  
 本当に、本当にたまたま目を向けた先が丁度教室に入ってきたセルニアの胸元だったと言うだけじゃこの掘削機は黙っちゃくれないんだろうなぁ。  
 というかチラ見しただけなのにあっさり気付く辺りこいつもどういう勘の良さをしてるんだか。  
 
 さて、どう反応したものやら。しばし思考を巡らせシミュレートしてみる。  
 別に見ちゃいない。→「しらばっくれるなんて本当に下衆ですわね!」  
 お前をいやらしい目で見るわけない。→「私に魅力がないとでも言うつもりですの!?」  
 胸じゃなくドリルを見ていたんだ。→「私をバカにしていますの!?」  
 うん。分かっちゃいたんだがいつも通り八方塞がりっぽい。  
「あ〜そのなんだ」  
「なんですの? 言い訳なら聞きますますわよ。聞くだけですけど」  
 ……素直に謝ろうかとも思ったが、その意欲を持って行かれてしまった。なんでこいつは朝からこうまでしてキレられるんだ?  
 願わくば、その余りあるエネルギーを分けて欲しいとすら思う。  
「どうしましたの秋晴? それとも自らの変態性を認める気にでもなりましたの?  
 良いですわよ。それならば然るべき国家権力に通報の上フレイムハート家の誇りにかけて二重に社会的抹殺をしてあげますわ」  
 ……なんっでこんなにコイツはキレてんだろうなぁ!? 俺のことがそんなに気に入らないか!?  
 流石に秋晴の方も怒りの感情を高ぶりを自覚し始めた時、不意に二人の会話に乱入する者が現れた。  
「そこまでですよセルニアさん」  
「……っ! 彩京さん……!」  
「あんまり秋晴くんを虐めないであげて下さい。可哀想じゃないですか」  
「貴女はこの性犯罪者を庇い立てする気ですの?」  
「話が一方的だと言ってるんです。たまたま視線がそこに向いただけという可能性だってない訳ではないと思いますが?」  
 そこまで言って朋美は苦笑を浮かべる。  
「だってほら、セルニアさんのは……目立ちますから」  
 なんてタマだ。と秋晴は内心驚嘆する。  
 それこそ自分のような男子が言ったら間違いなくセクハラに該当するような事をしれっと言ったのだ。  
「それともセルニアさんは自らの身体を恥じていらっしゃるんですか?」  
「何をバカな! 私、セルニア・伊織・フレイムハートに恥じる部分など髪の毛一本からつま先の爪まで一つとしてありませんわ!」  
「でしたら多少、視線を浴びるくらいは許してあげるのも女の度量だと思いますよ?」  
「……っ!」  
 言葉に詰まるセルニアを見て、秋晴は上手くはぐらかしたなと朋美を見る。  
 そうとは気付かれない内に秋晴が故意に、劣情があって見たのかという問題からセルニアの度量という問題にすり替えた。  
 人一倍プライドが高いセルニアの性格を上手く使った誘導だった。  
 
 まして頭に血が昇ったセルニアはその事に気付いていない。  
「というわけで今回の所は許してあげませんか?」  
「〜〜っ! ふんっ!!」  
 ぐるりと踵を返し、セルニアが自分の席へと向かっていく背中を見ながら、秋晴はそっと朋美に耳打ちをする。  
「何が目的だ」  
「どういう事かしら?」  
「お前が何の対価もなく俺を助けるとは思えないんだよ」  
「ふ〜ん……残念。今回は正真正銘の良心からくるボランティアよ」  
「は?」  
「セルニアさんも女の子だからね、イラつく日があるのは分かるんだけど、余りにも見てられなかったから」  
「イラつく……日?」  
「秋晴、言っておくけど、それ以上は本当にセクハラよ?」  
 じとりと睨まれてようやく秋晴も朋美の言わんとする事を理解した。  
「あ〜……すまん」  
 流石にこれは反省すべきだった。  
「わかれば良いのよ」  
「で、だ。やっぱりだな、助けられて終わりってのも俺が落ち着かないんだ。なんかして欲しい事とかないか?」  
「あら、殊勝な心がけね? じゃあ卒業まで使いっ走りにさせて貰おうかな?」  
「な、おま……」  
 無茶な要求に狼狽える秋晴を見て、朋美が悪戯げに笑う。  
「ふふっ、冗談よ。さっきも言ったけどボランティアのつもりだったんだから。でもそうね。せっかくだから後で愚痴聞きでもして貰おうかな?」  
「愚痴聞き?」  
「そう。あんたならわかるでしょ? 私が普段どれだけ猫被って我慢してるか」  
「そりゃまあ……」  
 そのストレスの捌け口にいびられる身としては堪ったものではないが。  
「不安そうにしないの。本当に愚痴聞いて貰うだけよ。何もサンドバッグにしようって訳じゃないんだから」  
「まあ、そういう事なら良いんだけどよ。じゃあどうする? 明日は休みだしどこかに出掛けるか?」  
 そこで朋美は少し考える素振りを見せて答えた。  
「そうね……いや、別に出掛けるのも悪くはないけどどこで誰に見られるか分からないわ」  
「まあ外出するのが俺らだけって訳でもないだろうけどよ。でもどうすんだよ? 白麗陵の方がよっぽど見られる心配が多いだろ」  
「そうでもないわ。多少のリスクがあるけど一カ所だけ他人の目を気にしなくて良い場所があるもの」  
「そんなとこ一体どこにあるんだよ? 人目が付かないなんてそれこそ個室がある上育科の寮くら……い……の」  
 まさか、と秋晴は息を呑む。  
「そう。私の部屋なら人目の心配ないわ」  
 
 † † †  
 
 そして夜である。  
 
 当然、正面きって寮に入ろうものなら即座に門前払いが関の山だろう。  
 ならば忍び込むしかないが、こちらの場合は見付かれば更にヤバい。痴漢扱いされてご用となることだって考えられる。  
 深閑に説教されるくらいならまだしも場合によっては退学、最悪警察に引き渡される恐れすらある。  
 今更になって他にやりようがあったのではないかと後悔するが時既に遅し。  
 今や寮の玄関から朋美の部屋まで半分を超過する行程を消化してしまっていた。  
 こうなれば進んだ方がリスクは少ない。帰りは皆が寝静まった頃を狙えばその際のリスクはぐっと低くなる。  
 ……行くしかない。  
 覚悟を決めて踏み出す。残るは階段を一階分と朋美の部屋までの直線。  
 階段を一気に駆け昇る。階上に辿り着いた所で壁に張り付いて廊下の向こうの様子を伺う。  
「……ちっ」  
 人影が二つ。その二つは話をしながらこちらに近付いてくる。そのままどこかの部屋に入ってしまえば良いが、このままこちらに来るようでは非常にまずい。  
 じり、と後退る。  
 声は徐々に近付いてくる。どうもこのまま階段まで来るようだ。  
 どうする? 引き返すか? 考える暇はない。ここに居ても見付かるだけだ。  
 後退を決意した秋晴だったが、その決意はあっさりと絶望に変えられる。  
 かつ、かつ、かつ。階下から響く足音に自らが青ざめていくのを感じる。  
 万事休すか。思わず頂垂れて瞼を閉じる。  
 まるでギロチンの刃を待つ死刑囚のような心持ちだった。  
 近いのは階段の足音。それが近付いてくる度脈拍が激しさを増していく。  
 足音がすぐ傍で止まり、肩に手が置かれる。  
 ――終わった。ゲームオーバーだ。もう助からない。  
「何してるのよ秋晴」  
「ぅおわっ!?」  
(ばかっ! しーっ!)  
 口を掌で抑えられ、声を制される。  
 見れば口元に指を当てて「静かに」のジェスチャーをしている朋美が居た。  
「あら? 今の声は……」  
「男の方だったような気が……」  
 角の向こうから訝しむ声がする。  
(もう……こっち来て!)  
(お、おう)  
 手を引かれ階段を駆け降りる。降りきった所で壁に張り付き、朋美がざっと廊下を確認すると、再び手を引かれる。  
(ここに隠れて!)  
(なっ!?)  
 背中から押し込まれたのは階段下に設置してある掃除ロッカーだった。基本的に業者が清掃を行うのだが、一応の備品として掃除用具は揃っている。  
 
 お陰で箒やらモップやらをしこたまぶつけたがなんとか悲鳴はこらえた。  
「あ、彩京さん」  
「どうも、ご機嫌よう」  
 ロッカーの扉越し、階段を降りてきたのであろう上育科生と猫を被った朋美の会話が漏れ聞こえてくる。  
「今、殿方の声がしたような気がするんですけど」  
「そうなんですか?」  
「ええ、一瞬なので確かな事は言えないんですが」  
 上育科生の言葉に、朋美は考えるように間を置いてから答えた。  
「寮生のどなたかが男の子でも連れ込んでいるのかも知れませんね?」  
「まさか、そんな上育科生はいませんよ」  
「ええ、そうですね。ですからきっと気のせいですよ」  
「そうなのかしら?」  
「ええ」  
 それから二、三言交わしてから二人の上育科生が立ち去っていく足音が聞こえてきた。  
 それでも尚、息を殺しているとロッカーの扉が外から開いた。  
「もういいわよ」  
 促されてロッカーから出る。  
「悪いな」  
「いいわ、こんなリスキーな事言い出したのは私だし。貸し借りはなしにしてあげる」  
 その言葉については秋晴も異論なく承諾する。  
「しかし、よくもまあ堂々とシラが切れるもんだな」  
「堂々としてなきゃ切れるシラも切れないわよ。そんな事より早く行きましょう。また誰か来るかも知れないんだから」  
「おう」  
 そのまま朋美の先導に従い歩き始める。幸いそこからは誰かに脅かされる事無く部屋まで辿り着くことが出来た。  
「寿命が縮まるぞ、まったく……」  
 中に入り、扉が閉まった所で秋晴は堪えていたものを全て吐き出すように盛大な溜め息を漏らした。  
「何事もなくて良かったじゃない。ちょっと待ってね。飲み物出すから」  
 そう言って備え付けてある冷蔵庫まで歩いて行く朋美の後ろを追うように部屋の中を進む。  
 見慣れぬ女子の部屋だと思うとどうにも居心地が悪いような気もして、秋晴は妙にそわそわしてしまう。  
「まあ座ったら?」  
 言われ、部屋の中央に置かれた小さな応接セットの椅子に腰掛ける。  
 テーブルに置かれたのはグラスに注がれたコーラだった。  
「紅茶とかじゃないんだな」  
「そりゃあこれから盛大に愚痴を吐こうってのに紅茶もないんじゃない? それに私は部屋に居るときはこういう飲み物の方が多いわよ?」  
 そう言って朋美自身も椅子に腰掛ける。  
 
「部屋に一人で居るとき位は好きなものを楽しみたいじゃない? 校舎内だとどうしてもお茶とかばかりになっちゃうから、ね?  
 美味しいんだけど、そればっかりだとやっぱり味気ないし」  
 既に愚痴吐きは始まっているらしく、朋美は饒舌に話し始めた。  
 それに耳を傾け、時折返答を返す。  
 同意をしてやったりすると、意外な程嬉しそうに「そうでしょ?」と返して来て、本当に感情を共有できる相手がいないのだと思わされる。  
 堅苦しい暮らし。演じなければならない優等生。成績を保つ為の労力。  
 孤独なのだと思った。辛いのだろうとも思う。  
 性悪な部分。腹黒い部分もあるにせよ、それを投げ出さずひたむきに耐える朋美を秋晴は単純にすごい、と思った。  
 ――いや、今更か。  
 それらを常に完璧にこなしたからこそ、人望を集め、トップの成績を出し続けているのだ。  
 でもそれは――。  
 
 寂しいんじゃなかろうか?  
 
 本当の自分を誰にも見せずに、優等生の仮面を被り、偽りの自分という殻に閉じこもっている。  
 だとしたら、唯一素の顔を見せることが出来る自分は、朋美にとっての救いなのではないだろうか?  
 愚痴を聞いて欲しいというのも、本心からの願いなのではないだろうか?  
「朋美」  
「それで――え? なに?」  
「お前って凄いよな」  
「な、なによ藪から棒に」  
「いや、改めてそう思ってさ。辛いのによく頑張ってんなって」  
「そ、そう……」  
 急に沈黙が降りてきてしまって焦る。  
(な、なんか変な事言ったか? 俺)  
 気まずさが徐々に重みを増そうとするのを遮ったのは朋美の方だった。  
「朝のさ」  
「え?」  
「朝のアレって実際どうだったの?」  
「アレ?」  
「だから、セルニアさんの胸。本当はどうだったの?」  
「んなっ!? た、たまたまだ! たまたま!」  
「でも、興味はあるんじゃない?」  
「いや……う……」  
 強く否定する事もし難く、言葉に詰まる秋晴に、朋美は意外な程無邪気な笑いを向けた。  
「良いのよ。別に責めてるんじゃないわ。普段こういう下世話な話も出来ないから、なんとなくね」  
「そうか……」  
「で、どうなの?」  
「ない……とは言えねえよ流石に。男の性だな」  
「あはは、オトコの子って感じね」  
 なんとなくバカにされたような気がするが、必死になって反論するのもみっともないような気がして、秋晴は黙り込んでしまう。  
「ま、私もね……男の子についてとか、興味あるけど話せないから……」  
 
「興味って……」  
「バカね。恋愛とかの話よ」  
「う、悪い」  
「その……“そういうの”も興味ないわけじゃないんだけど……」  
 少しだけ顔を赤らめて朋美がぽつりと呟く。  
「え……っ」  
「な、なに言ってるんだろ私」  
 急に恥ずかしくなったのか椅子から立ち上がると、そのままベッドまで歩いてうつ伏せに身を投げる。  
 秋晴から見えないようにシーツに埋めた顔を僅かに向けて、朋美が零す。  
「…………試してみる?」  
「……何をだよ?」  
「秋晴は女の子に興味がある、私も男の子に興味がある。だけどお互いに何も知らない。だから試してみようかなって」  
「……だから、試すって何を」  
「恋人ごっこ……かな?」  
 心臓が早鐘のように鳴る。今目の前の少女が何を言っているのか、にわかに理解出来なくなる。  
「イヤ……かな」  
 嫌ではない。単純な見た目の話をすれば整った顔立ちをしているし、十分に魅力的な存在だ。  
 性格も、確かに腹黒さや人にトラウマを植え付けた挙げ句ほじくり返すような所はあれど、結局の所は嫌いになれないのだ。  
 でなければ何故、今まで友人付き合いを続けて来たのか。  
 つまるところ、日野秋晴は彩京朋美という存在を嫌いになれない。あまつさえ、好意とも呼べる感情を持っているのだ。  
「いやじゃ……ない」  
「じゃあさ」  
 言って朋美が身を起こし、ベッド上にぺたんと座る。  
「こっち来てよ」  
 誘われるまま、フラフラと立ち上がりベッドに近付く。  
「ちょっと待って」  
 朋美が枕元にあったリモコンを手に取る。照明用のものだったらしく、操作に応じて室内が薄暗くなっていく。  
「少しは雰囲気出るかな?」  
 照れたように言って、朋美は自分の正面を掌で軽く叩いた。  
「座ってよ」  
 心臓が早鐘のように鳴るのを聴きながら、秋晴はベッドへと上がる。僅かに軋んだベッドの音が、二人分の体重を主張するように鳴る。  
 静かに伸びて来た手が、そっと重ねられる。それに伴って互いの距離が近付く。  
「あくまで恋人ごっこ……だからね」  
 確かめるような朋美の声を、秋晴はどこか遠くの事のように聞いていた。  
 そうして――。  
「秋晴……」  
「お、おう」  
「ちゅー、して?」  
 話は冒頭に戻るのだった。  
 
続  
 

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