不覚。全くの不覚だ。
布団の中、日野秋晴はそんな事を考えていた。
今は平日の昼間。無論、本来なら授業中である。
サボりではない。秋晴にとって白麗綾の授業はサボる事ができるような軽いものではない。
ちゃんと欠席を知らせて休んでいる。
では何故休んでいるのか。
風邪を引いたのだ。
体の丈夫さには自信があるし、体調管理を怠ったつもりもない。だが、現にこうして寝込んでいるのだ。
もう、不覚と思うしかなかった。そして、不覚と言えば、だ。
――大地には悪い事をしたな。
朝にあった一連の出来事を思い出し、迷惑を掛けてしまった、と申し訳ない気分になる。
――怒ってるかも知れないな。
吐き出そうとした溜め息は、自らの咳で吹き飛ばされる。仕方無く秋晴は思考を投げて再び眠る事にした。
* * *
――大丈夫、だろうか。
授業中、大地薫はルームメイトである秋晴の事を考えていた。
朝、顔を合わせた時、すぐにおかしいと思ったのだ。熱に浮かされたような瞳で自分を見つめてくる秋晴と出会したのだから。まあ実際、熱に浮かされていたわけだが。
しかし最初は秋晴が自分に劣情を感じたのではないかと狼狽えてしまった。
ただ、その心配が杞憂であったことは直後に知ることになる。
――思いっ切り押し倒されたな。
思い返して、頬が熱くなるのが分かった。
訝しげに見詰めていた自分に、秋晴は息を荒げて倒れ込んできた。
犯される、とか。でも男として? とか。もしかして気づかれた? とか。自分でも驚く程多くの事を考えた。
考えて――違和感を感じた。沢山の思考が出来たのは、頭の回転が早くなったからではない。
多くを考えるだけの時間が流れたのだ。
押し倒したっきり、秋晴は微動だにしない。ただ、やけに熱っぽい吐息がひっきりなしに大地の耳朶の辺りを撫でるだけだ。その吐息もゼェゼェと言う耳障りな音をさせている。
熱い。その事に気付いた瞬間。薫は自らの思考が一気に醒めるのを感じた。
慌てて秋晴の額に手を当てる。やはり熱い。どうやら熱がある。
大丈夫か、と問い掛けると秋晴は潰れ掛かった、今にも死にそうな声で大丈夫だ、と答えた。
声からして喉もやられている。
大丈夫なわけあるか。そう言いながらなんとか秋晴を立たせ、ベッドに送り返してやると、秋晴は真っ青な顔で、悪いな迷惑掛けちまって。と言った。
良いから病人は素直に甘えておけ、と言い残し、自分は秋晴の欠席連絡をし、食堂まで行って病人食を取ってくる。
しばらくの間、病人である秋晴を放置するのは気が引けたが仕方無い。今は少しでも何かを食べさせてやらねばならない。
可能な限り急いで戻って来ると、秋晴はあろう事か起き上がり制服である執事服に着替える所だった。
慌てて止めさせると、秋晴は渋々ながらようやくベッドに収まる気になったらしい。
持って来た、お粥を初めとする病人食を食べるのを見届けて、今日一日しっかり休め、と釘を刺してから部屋を出た。
そして今に至るわけだが。
――大丈夫、だろうか。
再び考える。秋晴もそう馬鹿ではない。流石にもう無理はしないだろうが、だからといって容態が悪化しないとは限らない。
単なる風邪と言っても所詮は素人判断だ。風邪以外の病でないとも言い切れないし、結局風邪だったとしても心配には変わりない。
こうなるともはやドツボだ。負の想像が渦巻いて授業も頭に入らない。
――仕方無い。
このまま不安だけを抱えて無為な時間を過ごすのは自分の為にならない。
そう自らを納得させる。
一度決めてしまえば後は簡単だ。
「先生」
授業担当の教師――今は座学なので蜜柑ではない――に声をかける。
「体調が優れないので早退して構わないですか?」
「あらそう。大丈夫? 仕方無いですね、早退を許可します」
流石は白麗綾のOG。人を疑うと言うことを知らない。その辺り薫本人にしてみれば助かるが、大丈夫なのかと疑う気持ちもある。
とまれ、今はこれ幸いと荷物をまとめ教室を後にする。
――少し購買に寄ってから帰ろう。
そう考え薫は、若干足を早めた。
* * *
秋晴は浅い眠りと覚醒を繰り返していた。
眠りに落ちては目を覚ます。もはや今見ているのが夢なのか現実なのか、秋晴には分からなかった。
そんな風にしていると不意に、部屋の玄関が開く音がした。静かな室内にその音は存外響く。
どれくらい眠ったかは分からないがまだ放課後と言うことはないと思う。大地が戻って来たと言うことはないはずだ。普通ならば。
「ぁ……ぅ」
誰だ? そう問おうとして自分がもはやろくに喋る事すら出来ないことに気付く。
「……日野?」
声を掛けられる。聞き覚えのある声は大地だ。表した姿は制服のまま。
「具合は大丈夫か?」
――心配してくれてるのか? 大地が?
「食欲はあるか? 昼食にお粥を貰ってきた」
そう言って大地はお粥の乗ったトレーを抱えてベッド横に腰掛ける。
「……少しで良いから食べておけ」
「……あ?」
トレーごと渡されるかと思った秋晴だったが、差し出されたのはお粥を掬ったレンゲだけだった。
「どうした?」
――いや、どうした? じゃなくて。……やっぱり、そうなのか?
そう考えていると、大地が顔を真っ赤にして言った。
「口を開くくらいは出来るだろう?」
あ〜ん、だ。
この年になって流石にそれは厳しいものがある。バカップルじゃあるまいし、恥ずかしすぎる。第一、大地の方だって恥ずかしそうだ。
なんとか首を振って拒否のサインを送る。
大地は不意にそれに気付いたらしく「あぁ」と零した。
「悪い、気が回らなかったな」
――分かってくれたか。
「ふ〜……、ふ〜……はい」
――はい、じゃねえよ。ベタな事しやがって。
大地の吐息で幾分冷まされたそれを秋晴は親の敵のように睨む。
しかし直ぐに諦め、仕方なしに口を開いた。どうせ抵抗なんて出来やしないのだ。
「ぁむ……」
レンゲを口に含んでお粥を食べる。
「美味いか?」
正味な話、風邪で舌が馬鹿になって味なんかよく分からない。それでも持ってきてくれた大地への感謝として首を縦に振っておいた。
* * *
それから大地によるあ〜ん、は秋晴がお粥を食べきるまで続けられた。
「良かった、食欲はあるみたいだな。少し待っていろ。飲み物を持ってくる」
安堵の微笑みを漏らす大地を、秋晴は不思議な気持ちで見送っていた。
――優しすぎる。
大地だ。相手はあの大地だぞ? いくらなんでも優しすぎる。
しかも、食べさせる間中、ずっと照れたような仕草を見せた大地に――少しときめいちまったじゃねえか。
なまじ下手な美少女より可愛い大地があんな仕草をするのだ。その効果は抜群だった。
だがやはり、優しすぎる気がする。
悪い奴で無いことは知っている。だが大地なら体調の自己管理を責める方が秋晴にはしっくりくる。
そこまで考えて、秋晴は一つの考えに思い至った。
――そっか、夢だコレ。
だから、大地が優しくて、やたらと可愛いのだ。
優しさは願望で、可愛さは夢というフィルターの効果だ。きっとそうだ。だから大地に心ときめかしたのは仕方ないんだ。
普通に考えれば穴だらけの理論も、熱に浮かされた秋晴には真理にも等しい。
夢ということで納得してしばらくした所に、大地が戻って来た。
「風邪に効くかと思って作ってみたんだ」
大地が差し出したのはマグカップに入った黄濁色の液体だった。
「さんきゅ……」
お粥を食べた事で幾分喉が潤ったのか、掠れながらも今度は声を出すことが出来た。
マグカップを受け取り、ゆっくりと口に含む。柔らかな甘みと暖かさが喉を下っていく。
「どうだ? 僕の作った卵酒は?」
「あぁ……うま」
――卵酒?
卵酒、……卵、酒?
酒。
「あ……」
慌てて卵酒をベッド脇のテーブルに置く。
体が、熱い。風邪の発熱とは違う。灼けるような熱さだ。
マズい。ヤバい。
体質のせいで、顔に似合わず超が付くほどの下戸の秋晴には卵酒でも十分に忌避すべき飲み物である。
それを秋晴が口にしてしまったのは、大地の「流石にこれくらいなら大丈夫だろう」という楽観と、風邪で正常な判断力を失った秋晴の油断。
つまる所、意識の甘さが招いた不幸。
「だ、大丈夫か日野っ!?」
秋晴の異変に、大地が叫ぶ。
心配そうに表情を歪め、秋晴へと手を差し伸ばす大地。
秋晴が覚えている光景はそこまでだった。
* * *
「だ、大丈夫か日野っ!?」
思わず叫んでいた。
秋晴が急に異変を示したからだ。
「どうした? 具合が悪くなったのか?」
焦り、秋晴へと手を伸ばす。しかしそれは叶わなかった。
「え?」
ぐい、と腕が引っ張られる。薫が事態に反応するより早く、その体は秋晴に抱き止められていた。
「な、な!? ちょ……」
抵抗しようとするが秋晴はびくともしない。朝押し倒された時にも感じたが、筋肉の付き方が違う。
単純な強い弱いではなく、用途の向き不向きだ。自分の筋肉は柔軟性に富むが秋晴のそれは硬さで上回る。
それが、状況からの解放を阻む。
「くっ……日野、やめ……」
「――み……ねぇよ」
「……は?」
「意味分かんねぇよ」
秋晴が、耳元で掠れ声を囁く。
「意味分かんねえ……女みたいな顔しやがって。しかも優しくしやがって。……なんだコレ」
「な……日野、何を言って――」
「――可愛いすぎんだよ、お前」
「――っ!?」
顔が、一気に火照る。
今、可愛いって言ったのか? 日野が、自分に?
「な、なななな何をっ!?」
「つか……眠ぃ」
「は、はいっ!?」
秋晴の体はそのまま後ろに倒れて――。
「…………」
くすー。くすー。
「あ……――」
寝 や が っ た 。
――電池切れるの早すぎだろ!?
そう思ったのも束の間。そう言えば秋晴は風邪を引いているのだ。それも仕方ないのかも知れない。
そもそも逆に考えれば今はチャンスだ。脱出するには最高のタイミングじゃないか。
「よ、よし。ん……」
………………。
…………。
…… 。
――う、動けないっ!?
眠った筈の秋晴はしかし、しっかりと大地を抱き枕にして離さなかった。
本気で抵抗すれば抜け出せなくはないと思う。だが、それによって秋晴を眠りから覚ますのは躊躇われた。
結局の所、薫は優しすぎるのだ。
――しかし、困った。
冷静さを取り戻すにつれ、それまで意識していなかったものが次々と意識されていく。
例えば伝わる体温。
例えば自らを包む香り。
例えば回された腕と体の逞しさ。
胸が、高鳴る。
秋晴に抱き締められる事で感じる、高揚感と安心感。相反する感情に戸惑いながら、薫はただじっとする。
まるでそうするしかないかのように。
――汗の匂いがする。
熱を出して寝ていたのだ。汗をかいたのだろう。不快になる程強い匂いではない、寧ろ薫はそれに“男“を感じてしまい更なる胸の高鳴りを感じる。
薫は自分の胸の内に、なにかもやもやしたものが広がるのを感じる。それは心臓を切なく締め上げるような、疼きにも似た脈動。
薫はそれが何であるかを知っている。
――興奮しているのか、僕は?
甘い痺れは体の芯から。
熱を持って体内を走る電流のようなそれは、明らかな官能の顕れ。
そして、不意にフラッシュバックする先の言葉。
『――可愛いすぎんだよ、お前』
耳元を撫でた囁きは、どうしようもなく薫の“女”の部分を刺激する。
「……っく」
それでも、屈するものかと薫は身を堅くし微動だにしない。
それでも内からの衝動は薫を追い詰める。
身体が求める。心が欲する。せめてもの慰めをと、薫を駆り立てる。
理性が、弛む。撓む。融ける――。
「っはぁ……!」
熱が、疼きが身体を駆け抜ける。耐え難い誘惑に涙さえ滲んでくる。
――じんじんする……っ!
疼きは臨界を超え、暴力的なまでの欲求を叫ぶ。
薫はそれに反するように、一心に唱える。
――ダメだ。ダメだ。ダメだ!
そう思う薫はしかし、自らの芯が潤むのを感じていた。
――ダメなのに。ダメなのに!
薫は気付いていた。ここまで高ぶっていながら、耐える事などもはや出来ないと。
震える指先が、制服のズボン越しに中心に――触れる。
「――っっっ!!?」
刹那、薫の意識は弾けた。
――何だコレ……っ? 気持ち……良いっ!?
自らを慰めた事が無いわけではない。だが、今触れた指先は初めてそれをした時以上の衝撃を薫に与えた。
「っは、ぁ……」
理性の枷が外れる音を聞いた。薫はそんな気がした。
楽器を爪弾くように指先が踊る。一心不乱に甘い快楽を求めて、下半身をこね回す。
溢れ出る蜜は下着を越え、スラックスまで滲んでいた。
これまでにない強い刺激、愉悦に、ただ溺れていく。
「ん……くっ」
秋晴の胸元に顔を擦り寄せる。そうする事で、秋晴の体温と、匂いをより強く感じる。
昇り詰める感覚。頂点に向かって意識が収束していく。
気が付けば手はスラックスの中に潜り込み、下着をずらして直接膣壁を撫で、陰核を弾いていた。
「ふっ……ん、んんっ! くふっ!」
ただ声だけは必死に堪え、押し殺した呼吸を漏らす。
今ある音は、薫の漏らす吐息と、秋晴の寝息。そして衣擦れと慰める指先が奏でる淫らな水音。
意識を引き寄せる物は無い。ただ、行為に耽る事が出来る状況。
頂点へ、ただ、頂点へ。
高く、高く、自らを導く。もう、それは近い。
「はっ……はぁっ! ん……っふぁ!」
――後少し。後少しで。
「ん……」
それは――単なる偶然だったのだろう。
体に回された秋晴の腕に力が込められる。それは薫を軽く締め付ける。
唐突の抱擁に、薫は一気に打ち上げられた。
「〜〜〜〜っ!?」
まるで閃光が瞼の裏で弾けたようだった。跳ねるように体が痙攣して、それを抑えようと身を強張らせてみても体は言うことを聞かない。
ただ上げそうになる嬌声だけは押し殺す。
びくびくと震える体で、秋晴が目覚めはしないかと心配になる。
ゆっくりと呼吸を整えてから、薫は秋晴を仰ぎ見た。
「ん…………」
秋晴は微かに身じろぎをしたが、それだけだった。目覚める様子は見られず、その事に安堵し胸を撫で下ろす。
そうこうしている内に体を昴らせていた熱が引いていくのが分かった。
体の芯から熱が霧散していく。それはじわじわと手足などの体の端々へ広がっていく。――もちろん頭も同様だ。
余韻に滲んでいた思考が徐々に輪郭を戻し始める。ゆっくりと歯車が回りだすように、冷静な意識が薫に返って来た。
――やってしまった……!
何を、自分は何をした? 何をしていた?
バカな、こんなはしたない。こんな、こんな、こんな……
――こんなの……まるで日野が好きみたいじゃないか。
思考が冷静になったのは束の間。薫はあっという間にパニックに陥る。
――いや、でも、その、別に嫌いな訳じゃなく。むしろ知り合いの男の中ではかなり好ましい部類に入るし、知り合いの男なんて片手で数える程しかいないけど、その中で比べたらって訳でもないし。
逆に、日野は自分を男だと思ってるはずだけど実際の事を知ったらどうなるんだろう? 今までみたいなルームメイトでは居られないだろうし。
いや、例えばもし付き合うような事になったらこれは同棲って事になるよな? そうしたら新婚夫婦みたいな事をしたりするんだろうか――ってそうじゃなくっ!
僕はっ! 一体何を考えてるんだ!?
自分の飛躍した思考の恥ずかしさに気付いて、湯気が出そうな程顔が熱くなるのを感じる。
きっと今の自分を絵にしたら目はぐるぐる渦巻きに違いない。
――あぁもうっ! 僕は一体どうしたらっ!?
半ば以上八つ当たり気味に、自らを抱き締め拘束する秋晴を睨み付ける。睨み付けて――。
「……はぁ」
――全く、子供みたいな顔して寝てるな。
普段の人相の悪さが嘘のように、秋晴は安らかな表情で眠っていた。
その寝顔を見ていると、何故か心が落ち着いていった。そして、それだけではなかった。
――好き、なんだろうな。
極自然に、そう思う事が出来た。秋晴の顔を見ていると心が暖かくなるのは、きっとそういう事なのだと納得出来る。
心が落ち着いていく。
そうすると、段々と意識が曖昧になっていく。
抱きすくめられる温かさと、想い人に包まれる安心感。それが、薫の眠気を誘う。
このまま眠るのは惜しい気もするが、それはそれで贅沢かも知れない。何より、今もまだ秋晴の腕から逃れる事は出来そうにない。
「仕方……ないよな」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
それを最後に、しばらくすると薫からも規則的な呼吸音が聞こえ始めた。
秋晴の胸元にうずめた顔に柔らかな笑みを浮かべ、薫は眠りへと落ちていた。
続く