意識が定まらない。混乱している。  
 ――何が起こってる?  
 暖かくて、切なくて、嬉しくて、少し苦しい。  
「ひ……の?」  
 自分の顔の横に日野の顔がある。  
 自分の体に日野の腕が回されている。  
 ――自分が日野に求められている。  
「本当に嫌だったら抵抗しろよ」  
 耳元で囁く声。  
 抵抗なんて出来よう筈もない。こんなにも大地薫は、日野秋晴の暖かさに溺れているのに。  
「嫌じゃ……ない」  
 恐る恐る抱き返して、意志を伝える。  
 受け入れる意志を。  
「……」  
 無言のまま、秋晴が指を滑らせる。  
 大地の肢体を這う指先は、一つ一つボタンを外し、肌を覆う布を剥いでいく。  
「……なんか、手慣れてないか?」  
「……俺も毎日着てる服だからな」  
 それだけ応えて秋晴は再び脱がしに掛かる。黙々と作業的に動く手を、大地は制して言った。  
「日野……少し、怖い」  
「――あ」  
 言われて気付いた秋晴は慌てて手を止める。そこからどうして良いのか分からずに、手を躊躇わせたまま静止した。  
「……悪ぃ。調子乗りすぎた」  
 うなだれて言う秋晴に大地はそっと手を伸ばす。  
 頬に触れた指先がそっと秋晴の顔を撫でていく。  
「その……もう少し優しく……キス、とかしてくれると嬉しい」  
 そう口にして、大地は言葉の恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じた。  
 こんなの自分らしくない。そんな思いが、それ以上の言葉を紡ぐ邪魔をする。  
 降りかけた沈黙を秋晴の声が破った。  
「して……良いのか?」  
 ぽつりと零された声に、大地は息を呑んだ。  
 視線がぶつかる。ぶつかった視線が僅かにぶれる。ぶれた視線の向く先は互いの唇。  
「するからな?」  
 言葉にして確かめて、秋晴は大地の肩を掴んで寄せた。  
 なにもかにもがぎこちなく、居心地の悪さを感じながら、それでも互いは止まらない。  
 近付いた距離はそれぞれの呼吸が掠める程。顔に感じるそれが、こそばゆくて、気恥ずかしい。  
 しかし、やはり接近は止まらない。  
 数十センチの距離は十数センチに。十数センチが数センチに、更に果てしなく零に近付いて――  
「おい」  
 それが秋晴の声で止まる。  
 何の比喩でもない。まさに目と鼻の先に秋晴の顔を見詰めながら大地は疑問符を浮かべた。  
「どうして……止めるんだ?」  
「いや、目をだな? なんつうかその……閉じろ」  
 言葉の通り、開いた大地の瞼が上下する。意味を一瞬計りかねて、しかしすぐに思い至る。  
 
「あぅ。す、スマン」  
 一旦離れて深呼吸。気を落ち着かせて仕切り直す。  
「よ……よし来い」  
 きゅっと瞼を閉じて、顎を微かに上向かせ待ち構える。  
 微かに開いた唇が、秋晴を誘う。  
 閉じた視界では、ただ互いの呼吸音だけが距離を告げる目安だ。それすら極度の緊張感から精度は落ちる。  
 故に、大地にとって、接触は不意に訪れたように感じられた。  
 湿ったような柔らかさが唇に触れる。それが秋晴の唇であると理解した瞬間、熱さが接触した部分を中心に広がった。  
 痺れにも似た熱のさざ波が全身に行き渡り、力が抜けていくのを感じる。  
 それが、ただ押し付けただけの不器用なキスであっても、大地にとっては甘美な口付けだった。  
「ふぅ……ん」  
 無意識に自分からも唇を押し付けて感触を貪る。  
 口づけが――深まる。  
「ん……っ」  
 ぞくりとする感覚。濡れた弾力のある物体が侵入してくる。  
 歯を撫ぜ、内頬をくすぐり、舌を絡めとる。  
 それがなんであるかを認知するより先に、大地は本能的に自ら舌を絡めていた。  
 鼓膜に内側から響く水音。  
 霧散した意識。その微かに残った部分でまるで溺れているみたいだと、そう考える。  
 長い口づけを交わし、やがて秋晴から唇を離した。大地は無意識に追いすがったが追い付く事が叶わず、白糸の橋だけが二人を繋ぐ。  
 ぷつりとそれが途切れてから、漸く大地に思考というものが帰って来た。  
 躰が熱い。  
 一気に体の芯が燃えたように、火照りが広がっていく。  
 数時間前に一人で慰めたのとは比べものにならない程に疼きが沸き立った。  
 せき立てるような情動に戸惑う。  
 恐れはある。しかし、それ以上に繋がりたい――愛しい人と。  
「日野……」  
 粗方脱がされていた服を自ら剥いでいく。それが邪魔なものだと言わんばかりに。  
 否。事実として邪魔だった。肌を触れ合わせるには、その服は障壁でしかない。  
 だから大地は排除する。自分たちの接触を妨げる、その全てを。  
 自らの服のみならず、秋晴の服すらも。  
「ちょ? 大地?」  
 先とは逆に、大地の指先が秋晴の身体の上を這い、執事服を取り除く。  
 驚きながらも秋晴の身体は正直で、否が応にも興奮は高まる。  
 滑るように身体を撫でる大地の手が、背中を駆け上る寒気を与えてくる。  
 ぞくぞくとした快感に打ち震えながら身を任せ、大地の成すが儘にさせる。  
 
 ――そうして。  
 二人を隔てるものは布一枚、糸一筋としてなくなった。  
 
 † † †  
 
 酩酊感。揺らいだ思考の中。象牙のように白い肌だけが、脳裏に刻まれる。  
「サラシ……だったんだな」  
 脱ぎ散らした衣服の中。一筋の白い帯を指して秋晴は呟いた。  
 慎ましやかな膨らみを更に抑えつけ、その存在を完膚無き迄に殺していた布が執事服の黒の中、白く浮かんでいる。  
 恥ずかしげにその布の端をつまんで弄びながら、大地はこくりと頷いた。  
「こんなもので抑える必要なんてないのかもしれないけどな」  
 自嘲気味にそう零した大地を、秋晴は真摯な瞳で見つめた。  
「綺麗だと思うけどな」  
 その、たった一言で大地の抱えるコンプレックスなど吹き飛んでいた。  
 自分が肯定された。綺麗だと、そう言って貰えた喜びに身を震わせる。  
 明確な喜びを与えられ、大地の深奥に更なる火が着く。燃え盛る業火のような情動に身を任せ、秋晴の胸元に飛び込んだ。  
「うぉっ!」  
 とっさの事にバランスを保てず、秋晴は大地と折り重なり、背中から倒れた。  
 肌と肌が触れる。密着した部位が灼け付くような熱さを持つ。それはやがて快感となって、二人の本能を揺さぶった。  
 躊躇いなどなく、更なる暖かさを求めて体は絡み合う。  
 秋晴の掌が大地の肢体を撫ぜ、白い肌に朱を与えていく。  
 余す所など無いように、隅々まで這い回る。無論、胸元まで。  
「ふくっ……」  
 自分以外の指が初めて触れる違和感のある快感に大地は身を捩る。  
 その仕草は秋晴にとって淫靡に誘うかのような艶を纏う舞だった。  
「ひぁっ!」  
 もっとその舞を見たくて、刺激を強めてみる。  
 たどたどしい指先は無遠慮ながら、秘部を更に潤さんと荒々しい思いを代弁するように動く。  
 経験の無さからくる加減のない愛撫は容赦なく大地を責め立てる。  
 時折走る痛みすら快感に変えて大地の体が跳ねる。  
 互いの意識は真白に染められ、貪るような交歓に耽っていく。  
 そんな中、ただ一つ秋晴の思考にノイズを走らせる物が一つ。  
 衝動。  
 大地の内に潜りたい。その身を穿ちたい。そんな、雄の本能。  
 気が付けば秋晴は大地の体を組敷いて、猛る情動を大地の中心に向けていた。  
 視線が数瞬絡み、意志を伝える。  
 許可――否、許可と言うよりは懇願に近い瞳で大地は秋晴を見つめる。  
 迷うこと幾許。秋晴は己が肉欲に従い、腰を進ませた。  
 
 粘膜の接触、抵抗感、覚悟を決め、貫く。  
 つぷん、と熱の内に取り込まれた。  
「あっ……くぁぁあ!」  
 苦鳴を漏らす大地に心が痛んだが、止まる事は到底出来そうになかった。  
 せめて、と可能な限り挙動を遅延させる。  
 それでも動く度に大地の唇からは痛みに耐える痛ましい声が零れた。  
「ごめん……大地」  
 そんな資格はないと思いながら呟いた謝罪に、大地は応えた。  
「謝るな……っ、僕は平気だ」  
 そう言って、秋晴の背中に腕を、腰に脚を回して引き寄せる。止めるなよ、と念を押すように。  
 秋晴は謝る事を止め、ただ行為に没頭する。大地を労りながらも一定のスピードで動き、快感に浸る。  
 肉が絡む感覚。互いにとって初めてのそれは、秋晴には悦びを、大地には痛みを与える。  
 歯を食いしばり耐える大地に約束通り謝罪はせず、ただ早く終わらせてしまおうとだけ考えて動く。  
「ひぐ……っ、ぅくっ」  
 堪え忍ぶ声が聴いていられなくて、それから無理矢理に意識を遮断する。そうして快感に集中し、終わりを近付ける。  
 己を突き上げる衝動。灼けるような官能。白痴に染まるような意識。  
 肌と肌が絡み、肉と肉が絡み、魂までもが絡みつく。  
 ――愛しいと、心から想える。  
「大……地っ」  
 一際強く、下半身の奥が脈動する。  
「ひ……の…………日野っ、日野ぉっ……!」  
 ただお互いだけを見つめて、お互いだけを想い合う。  
 体を重ねて、想いを重ねて、触れ合いに浸る。  
「う……あっ!」  
 ――大地の中で、秋晴は果てた。  
 白い爆発が、秋晴の何もかもを吹き飛ばして蕩けさせる。  
「あっ……あ、あぁ…………あ」  
 白い喉を反らして大地は秋晴を受け止める。  
 互いに指一本動かせぬまま、ただ荒い息だけを聴いて余韻を過ごす。  
「大……丈夫か?」  
 自らを抜き出しながら、秋晴が問う。  
「ん……」  
 その感覚に身をびくりと、一度震わせて大地は頷く。  
 全てが終わって、二人はどっと疲れを感じた。  
「限界だ……」  
 大地の横に体を横たえて、秋晴は呟いた。  
「ボクもだ……」  
 大地が答えて、二人は見つめ合う。  
 不意に手が触れて、そのままなんとなく握りあう。  
「今日はもう寝るか」  
「ん……」  
 既に疲れから来る眠気で、すっかり朧気な思考が二人を包む。  
「……おやすみ」  
「……おやすみ」  
 二人、声を揃えてそう言って、意識を放り投げる。  
 
 互いの温もりを感じながら、二人の意識は睡魔の闇に落ちていった。  
 
 † † †  
 
 ――数日後、理事長室。  
 
「んふふ〜♪」  
「どうしたんですか? 理事長」  
 やたらと上機嫌な楓を、またかこの天然はと言わんばかりに冷たい目で密柑が見つめる。  
「いや〜、日野くんと大地くんがですね〜、実に私好みの雰囲気を醸し出している気がするんですよ」  
「……はぁ」  
 なんとまた、変な所で鋭いと言うか。  
「二人には幸せになってもらいたいですね〜」  
 脳天気極まりない楓の言葉に、多少の苛つきを感じながら、密柑は答えた。  
「そうですね」  
 そればっかりは本当の、確かな願いだった。  
 
 † † †  
   
「“秋晴”っ! 早く行くぞ!」  
「おう!」  
 いつも通りの朝。表向きは少しだけ、裏側は大きく変わった二人。  
 扉から出ようとして、しかしそうはせず大地は振り向いた。  
「あ、その前に……」  
「ん? ……あぁ」  
 意図を察して秋晴は大地の頬に手を添える。  
「ん……ちゅ」  
「……ん」  
「……っは……。よし、行こう」  
「おぅ」  
 困難多けれど、想いは一つ。  
「……秋晴」  
「ん……なんだ?」  
「好きだ」  
「知ってる」  
 ――二人の日々が、今日も始まる。  
 
終  
 

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