「 いやぁ、奥さんが留守だと言うから、猿と君しか居ないのだと思っていた。なあんだ、  
敦っちゃんが居るならそう言えよ、京極。 」  
 
陰鬱な事件が幾ら起ころうが、この男の調子は変らない。きっと槍が降ろうが雨が降ろうが、東京大震災がもう一度来ようが  
この竜巻の化身はびくともしないんだろう。  
京極堂も京極堂で、こんな奇っ怪な榎木津の行動によくも驚かない物だ。  
変わり者の最たるところは実際は榎木津でなくこの京極堂なのだろうか。二人に言わせれば其れは私だと言うのだが全く未だ以って納得がいかない。  
 
「 嫌だなあ榎さん。僕はこの猿を居候させた覚えはないぜ?大体、妹が家に居て何が不思議なんだ?僕が不思議とするところは  
此処のところ2,3ヶ月まったく姿を見せなかった関口と、そもそも姿を見せることが珍しい君とが寸分のタイミングで  
現れることだ。 」  
「 ふっふっふ、甘いよ京極。僕は美女の居るところを嗅ぎつけるのは得意なんだ。ただその美女の居るところに偶然猿が居たりするから  
折角愉快な気分だったのが結構不愉快だ。猿、君は帰れ。」  
「 榎木津さんも、お茶如何です?」  
私が二人の先制攻撃に遭って例の如く失語症を発しかけたところ、気を利かせてか敦子君が台所から戻ってきた。いい玉露の香りが漂う。  
「 ああ!全く掃き溜めに鶴とは言ったものだ。頂こう、うん頂こう。」  
「 ところで榎さんは何の用なんだい? 」  
漸く言葉が出たところで、少し嫌味を聞かせてみたが、言ってみてからこの男に効果が無いことを気づいた。大抵仕掛けたこっちが馬鹿にされ返すのだ。  
 
「 猿めたまには気が利くな。僕はな、出不精な京極のためにこれを渡しに来たのだ。郵便は信じないし、自分から出かけては来ないので  
仕方なくわざわざ探偵業を御休みしてこの本の虫に外字本を届けにきたわけだな。まあ買ってきたのは和寅なんだが、あれは下僕だから  
定期的に包んで遣ってる給料以外はお使いとか勘定はしないのだ。」  
そういうと榎木津は少し離れた位置から京極堂へ、新聞へくるんだ其れを投げ渡した。  
 
「 まあ、何ですかそれ 」  
 
敦子君と僕が覗こうと乗り出すと、京極堂は素早い仕草でそれを懐へ仕舞ってしまった。どんな装丁なのか見せてくれても減りはしないだろうに。  
仲間はずれはいつもの事だから、別段気にかける必要は無いか、と自分を納得させる。  
 
「 ところで猿は何の用なんだ。まさかまた面倒な事件に首を突っ込んで、故事の亀みたいになっているのをこの偏屈に  
助けてもらおうとかいう訳かな?」  
「 い、いや、・・・ 」  
「 関口君は古本を売りに来たのだよ。僕が留守の間に上がっていてね。敦子も追い出せばいいのに・・・戻ってきた僕に売ったついでに図々しく居座っているというわけだ。」  
「 猿らしい理由だ。じゃあ敦っちゃん、僕はこれで失礼するよ。」  
 
私に湯のみを押付けると、敦子だけに挨拶してさっさと帰ってしまった。そう言えば今日も今日で実は面妖な出で立ちだったのか、と去る姿を見て気づく。  
10月とは言えまだまだ暑いこの時期に紫の奇抜なセーター、そのくせ下は古ぼけた短いジーンズなのである。  
別に服装など詳しくも無いが、どうも榎木津の短パンは足が長いので又却って不恰好でいけない。  
 
「 さて敦子。ちょっと奥の部屋へおいで。お前に話しておきたいことがある。」  
不意に立ち上がった京極堂が、隣へ座っている敦子へ向き直って唐突に告げた。  
 
「 なあに兄さん、改まって。お説教されるようなことならしていないわよ。それに、関口さんがいらしてるし。 」  
「 関口はいいのだ。放っておけば直に寝てしまうか帰ってしまうだろう。そういうことだ関口君。ちょっと外すよ 」  
 
帰ろうとも思ったが、何故だか私は、何か特別な事でも起こる様な気がして、彼等兄妹の会話に聞き耳を立ててしまう事になる。  
 
生活感の無い京極堂が睡眠をとる様子というのが、長い付き合いの私でも容易に想像できない。  
そもそも彼等二人は寝間などで何を話すのだろうか。  
摺足で近付いていく。咎められる事に覚悟が出来ているかと言えば、全く出来ていないのだが、気になって仕方が無いものは、どうにも追求せずに居られない。  
そうして鬱病を再発させてしまったら、滑稽極まりない。その時ばかりは呆れ果てて、見捨てられてしまうだろうか。  
そうした思念に駆られている所に、それは聞こえて来てしまった。  
 
*  
 
 
――何かに取り憑かれて、しまったのだろうか。僕は長く、陰惨なものに関り過ぎてしまったのかもしれない。  
 
組み敷いている女の名は、中禅寺敦子と云う。僕はこの年の離れた女の事を、生れた直ぐから良く知っている。  
色づき始めたのは本当につい最近のことだ。光陰矢のごとし、人間の感じるところの時間は例外なく実に相対的で、あっという間に過ぎるときもあれば  
非常に緩慢に、欠伸の出るようなときもある。  
敦子の場合は前者の典型的な例で、この間赤ん坊だったのが、今はもう格好こそ男のする様なものこそすれ、体付きは立派に女なのだ。  
僕等は全く似ていない。全く、似ていないが血を分けた物同士だ。だが時折思う。  
そもそも人類の始祖というものは同一で、そこから根を分けただけであって、広い目で見ればそれらは親子兄弟姉妹、変わりないのだと。  
遺伝的に近いもの同士には奇形が生れる為、人が歴史を字に記す頃には既に禁忌とされてきた近親相姦――生命の始まりは禁忌だと僕は考える。  
林檎とは禁忌、其れを口にすることは性交の象徴と一説に聞く。アダムとイヴは、血を分けた者だった。原罪は、消えない。  
そしてその血は稀に先祖がえりを起こす。そうした先祖がえりが、今正に僕のしている事だ。  
 
――敦子は僕の妹だ。僕は、敦子の、兄だ。  
 
榎木津から貰った洋書は、所謂性儀の教本だ。――榎木津は良く喋るが深くは詮索はしない。しかしきっと見えてしまっただろう。  
洋書の内容が分るか分らないかは問題で無く、『そうした人間』だからだ。惨めたらしい僕の垂れ流した妄想の断片がきっと、畳から流々と流れて行ったに違いない。  
 
敦子が、僕の胸板を烈しく叩く。僕には、敦子の声は届かない。左掌で両腕を纏めて、懐の本の適当なぺエジを開いて、暴れる足を太股から開かせて、  
嫌がって歪む口元へキスをする。  
順序立ては得意だし、準備無くこんなことをする程無謀でも無い。誤算は、関口だ。彼が見ていたらどうしよう。彼はどうしようもなく率直に僕に意見するだろう。  
その時が、実は僕の一番恐れるところだ。  
彼は懊悩するだろう。鬱をぶり返すかも知れない。あるいは、木場の旦那にでも・・・否、それは無い。彼はそんな活発な性格ではない。  
 
――ほら、やっぱりだ。あんな風に、襖の隙間から出歯亀をしているしか脳がないのだ・・・・  
 
*  
 
「 兄貴!兄さんてば!やめて! 」  
 
――僕は、憑き物にでも遭ってしまったのだろうか?京極堂に限って、そんなことなどない、というのが、僕の愚かなところなのだろうか。  
僕の妄想か。敦っちゃんがアイツに拠って、蹂躙されるのを心の奥底で望んでいるんだろうか。  
この襖を開け放ってしまえば全てが明らかになるのに、こうして愚鈍な亀のようにぼおっと覗き見をしているしか脳が無いのか・・・  
 
京極堂は、敦子のベルトのバックルを乱暴に弄って、抜き取る――ファスナの隙間から飾り気の無い白い下着が視界に入って、不意に私の下腹部が熱を帯びてくる。  
 
「 さ、敦子。見っとも無く暴れるのは止めろ。服が破れるし、先生が気づいてしまうぞ? 」  
「 何を言ってるの!兄貴が退けばすむ事でしょう!こんな・・・気でも違ったの!? 」  
「 違ってや無いさ・・・只機会が出来てしまった。それだけの事だ。僕の妹を何年やっている?そんなことも解らないか。」  
 
――滅茶苦茶だ。絶対にどうかしている。・・・そう、思いたいというのが本心だ。細君と妹と、決して常に平凡とは云えないが幸せに見える暮らしの中、  
こんな機会をずっと狙っていたなんて。  
 
気づけば、私は膨張した私自身をでろり、と出して、その画を肴に、自慰に、興じている。こんな馬鹿な光景があるか。いや、実際あるのだ。  
興奮した私は、モラルや常識など逸脱して、そのトリミングされた現実を、悦んで見ている・・・  
敦子の胸元が肌蹴た。ボタンがぶちぶちと千切られて居るのだ。あれは本当に私の良く見知った京極堂なのだろうか。もしや良く似た変質者ではなかろうか。  
 
――あれは、妖怪だ。兄の姿を模して、敦っちゃんを陵辱せしめんとする、悪い、ものだ。  
 
京極の姿をした妖怪は、その癖毛と和装を乱しながらシャツを無理やりに引き剥がすと、小振りな胸を纏っている薄布へ手を掛けた。敦子と私の目が、合った。  
 
――千鶴子さんが帰って来やしないだろうか。僕は、彼女を呼ぶべきだろうか。  
――引き止めるべきだろうか。それとも、此の侭、帰るべきか。  
 
独り善がりな思惑は交錯するだけで、思考さえも既に自慰の域だ。私の手は、私をとことん卑劣に貶める。  
「 関、関口くん。視ているのだろう?――君は今僕を妖怪変化だと思ってはいないかね。いいや、思っているだろうな。  
僕が敦子にこんな真似をする訳が無いと、そう思っているんだろう。それはね、関口君。  
僕に要らぬ期待を欠け過ぎていると言うものだよ。僕だって俗物的な部分は沢山在るさ・・・君や旦那や榎さんと同じさ。  
――ただ僕の場合、・・・こう言った形で発露してしまうというだけなのだよ。」  
 
――詭弁だ!!君は敦っちゃんを抱きたいのを、そんな風にごまかしているだけだ!!  
 
「 視たいならそこでずっとそうしていろ。千鶴子なら、君の細君と出かけているよ。・・・暫く戻らない 」  
「 兄貴――義姉さんに仕切りに出かけろって言ってたのは――そういう事、だったのね 」  
敦子が、京極堂の胸板を押しのけて、こちらへ逃げてこようとする。その細くか弱い足首を掴んで、悪鬼は獲物を引き摺り戻す。  
 
「 ・・・敦子、暴れるのは寄せと僕はそう、忠告した筈だぜ? 」  
細くも頑丈な男の指が、ブラジャーの背を、ブチリと無残に引き千切る。ホックの金具が此方へ跳ね飛んで、一層情景は生々しくなる。  
 
「 いやっ――先生、助けて!! 」  
小振りだが形の良い胸が、たわわに揺れる。私は間抜けにも自らの物を握ったまま、硬直してしまった。  
普段から兄に似ず健康的に綺麗な敦子が、こんなにも妖艶に映るとは。  
私は生唾を嚥下した以外は、何も出来ずに、只、この猥らな光景を眺めているしか無かった。  
 
 
*  
 
――これは、もう紛れも無く女の身体だった。僕はそう確信した。  
妻の肌も美しいものだが、若いだてらに、細胞が活き活きとしているのが解る。逃げた背中の滑らかさは差し詰めヴェルヴェットの様だ。  
そのヴェルヴェットの双丘を、背後から掌へ捉えると、その弾力は思いの他在った。簡単に潰れるような柔らかさを想像していたのが、  
予想外で却って嬉しかった。  
――洋書のページが変っていた。下腹部の線画が目に留まる。西洋の愛戯というものはどういうものかと思ったが、こうちらりと一見して  
然して変り映えがしない。只折角だからこの教則本に則ってみようじゃないかと思う。  
 
「 腰を上げるんだ、敦子。 」  
「 ――な、ぜ 」  
「 それは、遣ってみてからのお楽しみだ。」  
 
 
*  
 
 
いつだったか京極堂に訪れた時、丁度こんな話をしていたのを、私は薄らぼんやりと思い出し始めた。  
 
 
 
「 そう驚くけどね、関口。どこの国の創生神話もね、最大の禁忌とされる近親相姦が沢山あるのだよ。」  
「 イザナミとイザナギ、佐保彦と佐保姫、アマミキュとシネリキュ、アダムとイヴ、ゲブとヌト・・・。ギリシアの神なんか、実も蓋も無い言い方をすれば節操が無い。」  
 
細君が夕餉の仕度をしている背中で、この男はこんな話をするのだからたまらない。私は飲んでいた茶を噴きそうになって、慌てて頬の中のそれを嚥下してしまう。  
 
「 き、君はまるで、敦子君を抱いてもいいような言い振りをするじゃないか。それはどうかと思うね。」  
「 ハハハ、もし僕があの男のような娘にそんな様な真似をするとしたら、それは僕でなく、悪鬼が、それも飛切り顔色の悪い青鬼が僕に化けたものだよ。」  
「 鬼は化けるのかい?化ける専売特許は狐狸の類じゃあないのかい?」  
驚いた僕に、京極堂も茶を啜って、そうして随分と機嫌のよさそうな薄笑みを浮かべる。  
 
「 化けるのだよ。青行灯、・・・メジャア処は、瓜子姫に出てくる天邪鬼なんかはいい例だ。人を殺めて、その皮を被って。――中国では鬼という字はクェイと呼んで、  
先祖の亡霊か、仏典によれば夜叉・餓鬼・羅刹の事。形としては死者の前へ屈む者の姿を表わしている。敦子が僕に犯されたとしたら、僕がまさかそんなことを、という  
フィルタを以ってすればそれは妖怪変化のみならず、僕のご先祖様の亡霊の仕業かもしれないとも罷り通る訳だ。」  
 
「 本気で言っているかい?」  
「 ああ。僕が過ちを犯すというのは、可能性として0%じゃないから、ビビリ癖の在る君のために予め忠告しておこう。」  
「 ――そうだな、そうした方が、僕の精神衛生上良いのかもしれない。」  
 
 
 
「 ――はぁ、はぁ、兄… 」  
京極の皮を被った鬼は、敦子の股座へ顔を寄せて、其処をぴちゃり、ぴちゃりとしゃぶり始める。加虐的に白い太股へ両手の指をがっちりと食い込ませ、  
態々私の耳へ届くような大きな音を立てて、溢れる愛液を啜っている。敦子は、畳へ半身崩れ落ちて、い草に爪を立てる以外は最早、抵抗する術を喪っている。  
私は私自身の手で果てそうになり、何故か勿体無い様な心持がして、其処でぐっと堪える。いっそ出してしまった方が、正気に戻れるかもしれないのに。  
いいや、きっとこの情事が終るとも終らざるとも、私が正気になど戻ることは生涯無いのかも知れない。  
 
「 もう、歓んでいるな。・・・観客はお前のもっと乱れた姿を見たそうに其処で指を咥えて居る・・・サアビスして遣ろうか。」  
京極堂が秘所から口を離すと、その口端には愛液がてらてらと光って居る。それが、妙に艶かしい。矢張り私の知る中禅寺秋彦ではなく、コイツは人を惑わす鬼だ。  
 
「 入り口がひくひく云っている。・・・欲しいのだろう?――いつ男を喰った。淫乱娘め・・・。何処の誰に嫁入り前の身体を許したのだか知らんが――  
こんなふしだらに育ってしまうとはな。」  
 
――ぐちゅり、  
細い目を更に剣呑に細めて、節ばった指で敦子の秘所を、掻き回す。ぽつ、と指の間から零れた蜜が、畳に落ちて染みを作る。京極堂は裾間から  
いきり立った男のモノを、未だ幼い穴へと突き立てる。敦子の体が弓形に仰け反って引き攣った声にならぬ悲鳴が白い喉から漏れる――  
 
 
「 ――京極堂、もう、やめてくれ・・・ 」  
ストイックな友人への儚い憧れは今や打ち砕かれ、私は冷や汗とも脂汗ともつかぬ液体に塗れて、ぜいぜいと過呼吸を起こしていた――。  
 
 
昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。  
芥川という河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ。」となむ男に問ひける。行くさき多く、夜も更けにければ、  
鬼あるところとも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥に押し入れて、男、弓・やなぐひを負ひて戸口にをり。  
はや夜も明けなむと思いつつゐたりけるに、鬼、はや一口にて食ひてけり。「あなや。」と言ひけれど、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、  
見れば率て来し女もなし。足ずりをして泣けども、かひなし。  
 
白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答えて消えなましものを  
 
『伊勢物語 芥川』より  
 
 
*  
 
 
「 男のモデルは、在原業平。――鬼の正体は、え得まじかりける女の――つまり長年身分違いで手に入らなかった姫君の兄上というのが通説だ。  
業平にまんまと妹を攫われたのだが、其処は貴族、あっという間に妹を奪還せしめたのだよ。口惜しくて口惜しくて地団駄を踏むとは、中々無様じゃあないか。  
真相がわかれば浪漫ティックな物語でも何でもない。兄と鬼でかけているのかね。これでは滑稽過ぎてまるで、ラヂオ落語さ。」  
京極堂はつまらぬ洒落を言うと、骨ばった肩を竦めた。  
 
――しかし、幾ら口惜しいといえ鬼とは大袈裟な。愛した女の兄であろうに。  
喰らわれたように姿を消したのだと文献は記すが、これでは――  
「 君に叱られるかも知れないがね。正直な感想を言えば、これではまるでその兄が妹を、…姦淫したような聞こえがするじゃないか――」  
「 ――近親愛はね、関君。つい昨今まで――身分の高い方々には尚更、当たり前の様に在ったのだよ。」  
 
 
 
 
榎木津は、ビルへと戻る道程で、はた、と足を留めた。  
 
京極堂の気配が何だか異様で、早々に引き揚げて来たにも関らず、  
その京極の気配が何だか厭な作用をしているのでは無いかと、今更になって気になって仕様が無い。  
流れてきたイメエジに映ったのは、鬼の姿。それから、敦子の姿。そして、京極堂の良く読むところの、何れかの本の字列――非常に短い草書。  
それらが混沌と一つに交わって、忌わしい暗さを纏っていたのだ。敦子の無事が危ぶまれる。  
 
――猿には、恐らくそんな重役は無理だろう。引き返さなきゃ。京極の偏屈、愈々歯車が狂ったみたいだな。  
榎木津は、生涯で最も積極的に、今来た道を引き返していった。  
 
私は、惨めにも前を開けたまま、襖より後ずさりをした。全く腰が立たず、逃げ出すこともできない。  
敦子の乱れ声と、京極堂の――あの悪鬼の、忌わしい息遣いが聞こえて来るばかりだ。  
 
「 は――、はぁ、ああ、ああ、あ 」  
身体を蛇の様にくねらせて、兄の魔の手から逃れんとするのも虚しく、悪鬼の耳打ちに脅えて、その度身を縮める。  
眸は穿たれる度に、その光を曇らせて、今にもその輝きは死んでしまいそうだ。  
まるでこの人型の鬼に生気を吸い取られているようだ。その証拠に、鬼の方は、腰を打付ける度に、病的に蒼褪めた顔から、  
段々と血色良く成って行く。  
 
 
 
「 敦子、――お前はどうして、僕の妹に。――何故、今更になって僕を惑わせるのだ 」  
「 あっ、あ、あ―― 」  
「 僕は、僕は…もう人の憑き物など――背負いたくはないのだ―― 」  
「 兄…き… 」  
「 ずっと僕の傍に居て、茶を入れていて呉れ。あんな、あんな男の所に――どんな男の所にも、お前をやりたくは、無いのだ。 」  
 
 
 
「 其処までだ――京極! 」  
 
 
凛とした響きの、聞き覚えのあるトーン。私の背後から、扉という、襖という、あらゆる境界を破って、現れたのは。  
「 この榎木津礼二郎が、、君についている鬼を祓いにきてやったのだ。有り難く思いたまえ。 」  
 
 
西洋磁器人形のような端正な顔立ちが、其れまで見たことの無いような真剣な表情で、敦子と京極堂とを見据えている。  
 
「 え、榎さん… 」  
 
呼びかけると、榎木津は険しい表情で、私のシャツの胸ぐらを掴んだ。  
「 関、君は――一体どうしてそんなにも愚鈍なんだ!君が原因みたいなもんだぞ!」  
 
――僕が原因?  
――何故。  
 
「 憑き物というのはな、君が視てきた通り、怒りや悲しみや、悦び、理解できないドロドロしたものだ!人の心で歪められた現実を、  
京極は一度背負ってそして返してやるのだ。だがな、君が京極にあんまり期待して、この男に自分を浄化する期間を  
ろくに与えず厄介な怪異を、次々と持ち込むから――」  
榎木津が、大きな飴色の眼を見開いて、私を怒鳴りつける。余りの剣幕に私は、例の如く言葉を失って、呆けたようにずるずると腰を抜かした。  
 
「 榎木津さ…」  
「 敦っちゃん、僕はもっと早くに引き返すべきだったようだ。」  
 
寝間へ押し入り、時間ごと固まったような悪鬼――否、中禅寺秋彦の元へ、歩み寄ると、榎木津は、その頬目がけ、  
大きな拳を力いっぱいに打ち付けた。  
京極堂の細身は、堪えることなく、一間くらい吹き飛んでいった。そしてぐうの音を上げて倒れるのを、  
私は大層おののいて、今度は言葉どころか、気を失った。  
 
 
*  
混濁した血色の水の中に浸つて居る。  
やがて其れは大きな海だと、私は悟る。母体の海、羊水の、海だ。  
私の足元に、誰かが座って、此方を覗いている。  
 
「 君は大変愚かなことをしたね。秋彦。関のせいにしてはならないよ。榎さんを怨むのも筋違いだ。敦子は勿論のこと、千鶴子には会わす顔も無いだろうが、  
償わなくてはならないよ。君の鬼はとうに堕ちたのだから。」  
 
「 君は、誰だ 」  
「 僕は、君さ。」  
 
淡々と私に語りかける私の姿が、遠のいてゆく。もう一人の私が消えた空は、一点の汚れもなく、白だった。  
 
*  
 
「 あなた。秋彦さん。――確り。」  
暫く黙って見守るばかりだった私や、暇そうに羊羹を頬張っている榎木津を見かねて、千鶴子――京極堂の細君が彼の肩を揺らすと、  
京極堂は死んだような眠りから、実にゆっくりと瞼を開いた。  
 
「 …千鶴子かい?…此処は?――敦子は…何処へ 」  
「 敦子なら上馬に帰りましたよ。ここは掛かり付けの病院ですよ。――話なら聞いてます。まだ、寝ていて。」  
「 ああ… 」  
起き上がろうとした京極堂の胸をそっと押し返して、千鶴子は再びベッドへと主人を寝かしつける。  
脳震盪を起こしていたようで、しかし大事は無いらしい。よほど強く殴ったのだろう。  
どこか京極堂の顔付きは朦朧としていて、視点が定まっていない。  
 
「 京極、君は千鶴さんの寛大さに感謝すべきだ。そうそう猿もだ。全く何が哀しくて雪ちゃんは君なんかに嫁いだんだろうねェ…  
嗚呼哀しい。不幸だ。こんな猿にあんな美人。世の中不公平だと嘆いている男は一杯居ると思うよ。 」  
「 エノさんはまったくどうして、直ぐ僕のほうに矛先を向けるんだな。 」  
榎木津は私を無視して続ける。  
「 敦っちゃんは僕が責任を持って慰めておいた。本当に敦っちゃんも寛大だ。倒れた君の心配と、僕の拳の心配と、この猿の心配まで  
して行ったよ。まったく男ってのは駄目だよなぁ!! 」  
 
榎木津は、私と京極堂とが気絶した間、錯乱した敦子を抱きしめ、ずっと慰めていた。細君が帰るまで、そうしてずっと、敦子の心の痛みや、記憶を、  
ダイレクトに受け止めて居たのだろう。  
 
「 榎木津さん、関口さん――本当に。 」  
千鶴子が深々と頭を垂れると、榎木津は羊羹を飲み込み損ねてげほげほと咳き込むと、ゆるりと笑みを象って、  
「 いいや、千鶴さんが謝る事じゃない。――ああ、猿と僕はそろそろ失礼します。僕は色々と忙しいので。それに  
こんなのが部屋に居たんじゃ京極に鬱が伝染っちゃう。 」  
「 あ、それじゃあ… 」  
無理やり榎木津に腕を引かれ、病室を後にした。榎木津の腕には、あの洋書が抱えられている。持って行ったほうが良いだろう。  
再び歯車が狂うことなど、きっと誰も望みはしないのだから。  
 
*  
 
「 怒っているかい。…警察に、突き渡すかい? 」  
「 鬼は堕ちたのでしょう?――そんな必要はないですよ。敦子なら、榎木津さんが――。大丈夫よ 」  
「 ……あの男に任せて良かったのかね。…それに僕は未だ、あのお転婆を手放す気は――。」  
 
千鶴子が、言い掛けた私の顔を胸元へ寄せて、頭を抱きしめる。ふわりと、嗅ぎ慣れた花の様な香りが、漂う。  
 
「 強がりは止して。泣きたいのなら、泣いて下さい。私は、笑いはしないわ。貴方が、敦子も私も同じ様にしか愛せないのを、  
私たちは知っているわ。――それは、いけない事ではないのよ。いけないのは、溜めて堪えて、――発露の仕方を間違えてしまうことだけ… 」  
「 千鶴、子… 」  
長い間枯渇していた涙腺が、ほろりと緩んだ。細くも柔らかい肢体へ腕を回し、お互いの体温を重ねる。  
狂った歯車が、カチカチと音を立てて再び規則的に動き始める。  
 
――恐らく歯車は、又狂うのだろう。私は、何よりもそれが恐ろしくて、妻の体温の中で震えていた。  
 
 
終  
 
 

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