「木場修太郎の憂鬱」
「あんた――」
女は気だるげな声で囁いた。
「警察官だろう? いいのかいこんな処に居て?」
「五月蝿ぇ」
男の四角い顔が不機嫌そうに硬直した。
「別に取って喰おうって訳じゃねぇ。客の身分なんか関係も糸瓜もあるか」
警察だったらナントカ強化週間で娼婦捕ってブチ込むじゃないのさ――そう云って女はころころと笑い転げた。娼婦の顔の奥から女の素顔が垣間見えて――木場の少し居心地が悪くなった。
昭和二十六年、埼玉栃木の両県と幾つかの市町村が売春取締条例を制定。国会の腰砕け対応とは裏腹に、世間は色町と云うレッテルを嫌い始めている。嫌ったからと云って、世の中の男が色町に通わぬ訳ではない。現に、木場もこうして此処に居る。だが、確実に、
――居辛い世になるか。
木場は煙草を口に銜えようとして止めた。隣の女は、煙草の煙が嫌いらしいのだ。娼婦にしては珍しい方だと思う。だが、嫌いなものは嫌いなのだろう。一瞬、干菓子が嫌いな馬鹿な友人の顔を思い浮かべた。
――少し、冷えるな。
木場は、少し喪失感に囚われている。あの事件の後では――。
隣のこの女の肌の温もりが、やけに眩しい。
「何サ、また他の女の事でも考えているのかい?」
「馬鹿馬鹿しい」
「チェ、全くもう――」
妬けるねェ、と女は微苦笑した。
「あんたと居るとね――」
居心地が好いんだから、と女は木場の胸にしがみ付いた。筋肉隆々たる胸板に、女の柔らかい胸が押し付けられる。
小振りだが張りのある隆起の先端に咲く可憐な蕾は既に硬く尖っていて、その刺激に木場の肉体は用意に反応する。
居心地の良さ――木場もそれを求めて此処に来る。この女とは何故か馬が合う。
木場と云う匣の中に何かを詰めるでは無しに、丁度木場と云う匣を収めてくれるだけのスペエスが用意されているようだ。
娘は匣の中にぴつたりと嵌つてゐる。
途端、厭な物を思い出してしまった木場は、思わず顔を顰める。
「どうしたのさあンた、今日はサ――」
仕事で厭な事にでも遭ったのかい、と女も流石に心配する。馬鹿野郎、機密事項だ民間人に話せるかい、と木場はおどけるしかない。
突然女は真剣な眼差しで木場を見据え――木場は少し狼狽える。
「厭な事があったらサ、忘れろなんて云わないよ――」
只ね――女は木場の上に跨る。女の柔らかく華奢な肉体の全てが押し付けられ、木場の肉体は男性として完全に反応する。
「あンたに惚れちまったんだからね――」
男と女で居られないなら、せめて雄と雌でもいいから――それっきり、言葉は続かない。
女が、木場を呑み込む。そこはもうじっとりと濡れていて、沸騰した女の香りが漂ってくる。
うまく薬液(ローション)を仕込んだな、と木場は無理に思う。仄見えてしまった物は、娼婦の営業の手練。
――あるいは女の素顔。
女の動きに敏感に肉体は反応しながら、木場はバツの悪さを味わっている。女は木場の上で時折硬直するように痙攣する。
繕ったような嬌声は一切挙げない。食いしばった歯の隙間から、吐息が漏れる。
遂に支え切れず、女の上半身は木場の胸に縺れ込む。
熱を持った二つの膨らみが、木場の胸で踊り、弾ける。だが腰は熟れた果汁を滴らせながら、痙攣するように浮いて行く。
引っ張られる按配で、木場には少し苦しい態勢だ。だが、女は気にも留めない。
多分、女は云ってくれるだろう。馬鹿だねぇ、色町で女買って別れ際に惚れたのだの云い出すなんざ野暮だよぅ――。
遊びなんだからサ、気軽においでよぅ――。だが、如何に木場が鈍感だろうと――或いは如何に鈍感そうな仮面を被ろうと――それが見えてしまう事はある。
馬鹿な男の思い上がりであれば善い。だが、所詮此処は馬鹿な男と馬鹿な女の溜り場である。利口馬鹿と云う事だってある。
だから、この女の前では木場は警察官と云う仮面を被る。女も娼婦と云う仮面を殊更に被りたがる。
そして、残酷な花遊びは続いて行くのか――。木場は少し憂鬱になる。関口から訊いた、友人の拝み屋が云ったと云う残酷な台詞が胸に痛い。
――幸福になるなんてのは簡単なことさ。人間であることを辞めてしまえばいいのだ。
そして木場は、色町を後にする。