「何だって!?先日猿が来たときにはいて、僕が来たときにはいないとは。どういうことだ京極堂!」
大げさに腕を、頭を動かし、信じ難いと嘆く探偵に、え、榎さん偶然だよ。
偶然。と、猿と呼ばれた男が慌てて止めに入る。
「いいや!偶然なんかじゃないぞ!
こいつはたまあに、僕が来たときを狙っていなくなるんだ!」
「榎さん。そんないちゃもんを……。
偶然榎さんが来たときに居なかっただけでしょう?
連絡とかして、それで居なかったならそりゃあ、京極堂が悪いけれども……。」
「僕がそんなことするわけないだろう。」
自宅である古本屋。自室とも客間ともなっている、古書で囲まれた部屋で騒ぐ客人。
家の主はそれを毛の先にも気に留めない様子で、落としていた本から漸く頭を上げると大儀そうにそう言った。
「だから榎さん。何度言えば分かるんですか。榎さんが来たときに、
僕は丁度本の買出しに行っていたんですよ。前々から約束していたのでね。
約束を破るわけにはいかないじゃあないですか。商売なんですから。」
京極堂のその言葉に、榎木津はすうっと、眉を寄せ、目を細める。恐らく「視て」いるのだろう。
――ややあって、ふん。と不機嫌そうに鼻を鳴らし、俯に落ちないぞ。と呟いた。
「覚えているぞ。確か先々月もそう言ったな。そして本当に居なかったみたいだな。」
だから榎さん、さっきから京極堂が云っているじゃないですか――。そんな関口の言葉が探偵と古本屋の間に空しく響く。
「でも、納得はしないぞ!――京極堂、お前は何か『隠して』いるだろう――?」
え?――と驚き、関口は店の主に振り向くが、男は相も変らぬ仏頂面で、黄ばんだ古書に目を落としている。
そんな様子に榎木津は再び不機嫌そうに鼻を鳴らすと帰るぞ、猿。と声を掛けた。
「え?ぼ、僕も――?」
「当然だ!主が帰ると云っているのに、独り残る僕が何処にいるッツ!さァ来い猿ッ!」
そう言い、ずんずんと榎木津は音を立てて廊下を踏みしめる。
ああとかううとか声を漏らしながら、関口は榎木津の後を追った。
その姿が見えたらしい。盆の上に茶を載せた千鶴子が慌てて「お帰りですか?」と声を掛ける。
うん。そうだ僕は帰る!千鶴ちゃんまたね!と榎木津は大きく手を振って返す。
わたわたと、不器用に辞儀をする関口の姿。せめて見送りをと千鶴子は思ったが、
どうにも歩が追いつかず、待たれもせず、がらがらと戸が開く音がしたところで諦めた。
独り居間に残る夫の元へと戻ると、こちらは先刻と変わらぬ様子で本に目を落としている。
毎度変わらぬ光景に、千鶴子はほんのすこし苦笑しながらも隣に座し、夫のために茶を淹れる。
こぽこぽ、と言う音ともに、真っ白い湯気がゆらゆらと立ち上がった。
「お食事をして行かれるのかと思ったのですが、帰られてしまいましたね。」
「何時もの事だ。何、どうせまた近いうちに関口君辺りが訪ねて来るだろう。その時にでも今日の残りを出してやれば善い。」
夫の言葉にくすり、と笑みを零しつつ、今日の食事は御裾分けをすることにしよう。と、千鶴子は思った。
自分が里帰りをしていたり、客人が居る時は別として。
そうでもない場合、当然食事は夫婦の会話の時間となる。
会話は大抵、御近所の他愛もない話から始まり、自分の最近楽しんでいる陶芸の話やら、
夫の読んでいる本の話に花を咲かす。相手のような経験があるわけではない。
だが、経験がなくとも楽しそうに、あるいは不満そうな表情で話をしているのを聞くのは楽しいものだ。
分からないことに関しては、解説をするし、解説される。
……もっとも、千鶴子がそれをすることは、その話題を出す最初の一回のみ位で、
それさえも滅多にないことだったが……。
議論でもなく、とりとめもなく流れては変わり行く会話の話題は、
やがて先程の榎木津達の話となった。
「そう言えば、今日はお二人はどういった御用でいらしたんです?」
「ああ。何時ものことだよ。関口は貸した本を漸く返しに。榎さんは昼寝にだ。」
「何やら随分と不機嫌そうな様子でしたけれど……。」
「自分が来たときに、僕が居なかったのが不満だったらしい。何時もの事とは言え、迷惑な話だ。」
騒がしいことこの上無い。たまにはゆっくり本でも読ませて貰いたいね――。
そう云いながら茶を啜る。――好いじゃあないですか、賑やかで――。
食事を終え、自分の隣で丸くなっている石榴を抱き上げ、胸に抱く。
猫はにゃあ。と一度抗議の声を上げたが喉を、頭から背へかけてを撫ぜられると、うっとりと目を閉じる。
「淋しくなくて、好いです。私は気にしませんよ。」
石榴を撫でる。膝の上で眠る猫の体温が、じんわりと衣ごしに伝わって来る。
その熱が、重さが存在する証となり、愛しい。――善いのかい。君は、それで――。
何やら重い夫の声に、千鶴子は頭を上げた。え?と声を出す。だから、だ。
僅かばかり苛ついた様子で、夫は繰り返した。
「君はそれで――善いのかい――?」
視線は膝の上で眠る石榴に向けられている。
話は榎木津達がいると、賑やかで好いという話だった。淋しさを感じなくて良い、と――。
「ああ」
声が漏れる。合点がいった。微笑みながら、夫に答える。
「善いんですよ。そりゃあ、ずっとかどうかは知れませんが。
――雪絵さんだって、淋しいでしょう――。」
――うちも、猫か犬か飼おうかしら――。
外には、雨が降っていた。
雪絵がそう云ったのは梅雨の頃。確か、活動写真の帰りに、喫茶店に寄った時のことだった。
「あら、善いんじゃないかしら。うちに居るのは猫だけれども、可愛いものよ。何時も眠ってばかりだけれども。」
ふふふ。と千鶴子の言葉に雪絵も笑う。でも、飼うのなら、犬が好いわ――。と雪絵は応える。どうして?と、問うと。
「だって何だか、犬の方がこっちに構ってくれそうですもの。」
窓硝子は曇り、雨音を奏でる。霞んで見える外の花が、寒そうに肩を寄せ合っていた。
「そうね。それでは、犬の方が善いかもしれないわね。」
今度、タツさんにそれとなく言ってみようかしら――。ふふ、と雪絵は微かに笑い、コーヒーに口をつける。
その会話はそれきりとなり、その後、雪絵が動物を飼う様子はなかった。
千鶴子の方からもその事に関して特に聞こうともせず、
ふとしたことから挙がった話題の中で交わされた言葉であったから、
もしかしたら、雪絵はその事を忘れてしまっているかも知れなかった。だが。
――ああ、雪絵さんは淋しいのかも知れないな――。と、そう思った。
――子供が出来るなら、関口さんお子さんと、同級生が好いですわ――。
そんな言葉で、夫に子供の事について切り出したのはそれから間もなくのことだった。
確かに、結婚当初は忙しく、子供をつくろうとはしなかったが、別に子を厭んでいるわけではない。
ただ、きちんと産もうする機会がなく、出来なかっただけだ。機会さえあれば産んでいたことだろう。
けれども、雪絵の言葉で思ってしまった。子供が産まれ、自分の子と、雪絵の子。共に育ち、生きて行けたら。
――それはどんなに、素晴らしいことだろう――。
千鶴子の言葉に、夫は一瞬ぱちくりと目を瞬き、一つ溜め息を吐きながら、
――全く君も、随分とした好きものだな。人が善い――。
そう言って、千鶴子のいれた茶を啜った。
茶に口付けたその時に、夫が微かに微笑んだのを見てとって、千鶴子も笑った。
「好いんですよ、今は。する事が沢山あって、色々な方が見えて、楽しいですもの。」
自分で餌さえ獲れない猫もいるしな。茶をすすりながら言った、
夫の言葉に千鶴子は悪戯を思い浮かべた子供のように微笑む。
「あら、家にいる猫は一匹だけじゃあないですよ。」
千鶴子がそう言うと、夫は怪訝な様子で眉をぴくりと上げる。
「また暫く、実家の手伝いに行かなくてはならなくなりましたから、
その間家の方は宜しくお願いしますね。
何日分かお食事は作っておきますから、きちんとそちらを食べて下さい。
本を読むのに夢中になって、鍋を焦がしたり、店屋物ですまそうとしたりしないで下さいよ?」
千鶴子がそう言うと、夫は不機嫌そうに音を立てて茶を啜る。
声を上げずに笑っていると、今日は僕が食器を洗うから、君は先に休んでいたまえ。
と告げられた。千鶴子は口許に寄せていた手を下ろし、夫を見つめる。
夫は、いつもと変わらぬ様子で静かに茶をすすっている。
怒らせてしまったのだろうか?そんな不安に捕られたが、それにしては空気が随分柔らかい。
どうしたのかと思いつつ、疲れてないのだから気にする事はない。
それより風呂が沸いているから、先にどうぞ。と、風呂を勧める。
返って来たのは「分かっているよ。」と言うそっけない返事だった。
「そんな事は分かっている。――だから、先に入って、褥の準備をしていてくれ。と、言っているんだ。」
声は幾等か苛立っており、何時もよりか幾許か早口だ。
だがそれが照れからだという事だと知れると、何だか胸がほんわりと熱くなり、嬉しさと、愛しさから、
一言「はい。」とはにかんだ笑みを浮かべながら千鶴子は応えた。
風呂から上がると寝るための布団の支度をした。
ひんやりとした毛布が、暖まった体に心地好い。
横になりながらそっと瞼を閉じると、そのまま眠ってしまいそうなる。
――もしもこのまま、眠ってしまったら。一体あの人はどうするかしら――。
そんな思いが、頭をよぎる。
きっと夫は、それこそ自宅近隣が壊滅したかのような不機嫌な表情で溜息を吐き、
自分に毛布をかけてくれるに違いない。そして翌朝、食事の場で千鶴子は皮肉を言われるのだろう――。
その光景が目に浮かぶようで、千鶴子はゆっくりと身を起こしながら、くすくすと笑った。
からり、と。丁度その時襖が開き、夫が寝室に入って来た。
紺色の浴衣に、黒の帯。完全に水気の抜け切きっていない洗い髪が項に張り付いている。
笑っているところが見えたらしい。眉を顰め、訝しげな表情を浮かべている。
「なんだ独りでくすくすと。僕のいない間にそんなに愉しい事でもあったのか?」
貴方が来る前に、寝入ってしまったら。貴方は一体どうするだろうと、考えていたのですわ――。
そう告げると、夫は顰めていた眉を益々顰め、この上ない不機嫌そうな表情で、千鶴子の隣にどさりと座した。
蒲団が沈む。千鶴子が触れていた蒲団の箇所が、少し上がる。
機嫌の悪いその様が、想像した中での夫と全く同じで、それが可笑しくて。
視線をずらしている、夫が何やら子供じみていて――。
必死に口を両の手で抑えるものの、収まらず、千鶴子の肩を小刻みに揺らした。
「何だ、今日の君は――。――笑ってばかりじゃないか――。」
若い娘でもあるまいに。そう呟かれても、それでも笑みは止まらない。
何だか目に涙さえ浮かんでくる。頬の緩みは収まらなくて、肩の震えも、止まらなくて。
とん、と肩を軽く押されただけで褥の上に倒れこんだ。
濡れないように、と肩に掛けた手拭いがはらりと落ちる。
乾き切らない濡れ髪が、少し冷たい。発作は治まり、見詰め合う。
夫の顔が近づいてくる。瞳をゆっくりと閉じる。目蓋に、柔らかな温もりが下りた。
くちづけは、眼から頬へ、唇へと――。始めは軽く、幾度目かには強く、激しく――。
交わす間にはくぐもった声が、解放されてからは、熱い吐息が漏れる。
交わすその間に、解いていたらしい。結わえた帯は緩められ、触れるだけのくちづけは、
首筋、鎖骨、胸部へと、ゆるりと這って移動する。
両の乳房まで来たところで、雪に開いた二つの花を舐められた。ぴくん、と身体が震える。
抱き起こされ、夫の肩に腕を置く。ちろりと舐められ、緩急をつけては紅梅が吸われる。
丁度、夫の膝に座るような姿勢となると、浴衣の裾から手が入れられ、大腿部を撫ぜられる。
それだけで、ぞくりと震える。肩は肌蹴、腰から下の浴衣は大きく広げられ、
僅かにばかり巻かれた帯で、上下の布を支えている。
唇は花から離れ、胸もとへ、腹部へ――。行く先々で、くちづけ、吸われる。
夫は大抵こうだ。人目に留まるようなところには跡一つとして残さないが、
そうでないところには満遍なく刻印を印す。そして事の最中は、殆ど喋らない。
普段言葉を紡ぐために使われるその唇は、千鶴子の肌に触れ、愛撫することに使われる。
態度で示される今、言葉など、要らないのだろう。きっと――。
浴衣の中に手を入れられ、直接、尻を撫ぜられる。僅かに声が漏れる。
紅梅を再び吸われる。しゅるり、と音がする。帯が完全に解かれた。
最早留めるものは何一つ無く、肌は完全に外気に晒される。
肌寒く感じる中、夫の触れる箇所だけが暖かい。
電撃が走る。声を上げる。くちゅり、と音がする。くちゅり、くちゅり、と。
腕が震える。身体が震える。夫の頭を掻き抱く。胸に触れる。
ちろり、と舐められる。身体が火照ってゆく。
じんじんと自分の中心が熱を帯び、切なくなって行く。
身が離される。涙目で夫を見つめると、腕を取られ、夫の胸へ、浴衣の下へ導かれる。
意地悪、ですわ。そう呟くと、夫は口の端だけを上げて笑った。
そうっと衣を掴み、震える手で夫の浴衣を脱がしていく。最奥が熱い。
触れて欲しいと身体が悲鳴を上げている。指が震える。目に涙が浮かぶ。
夫は何もしない。目を、見れない。顔を背けたままで、ぎこちなく千鶴子は夫の浴衣を脱がして行く。
身体が冷えて行く。頬と、真なるところだけが熱を持って、普段平然と結わえている夫の帯を、解いて行く。
するり、と。解かし終わると、衣を広げ、「それ」が目に入ったところで慌てて顔を背けた。
何となく、夫が笑ったような気がして、頭を上げる。――やはり、夫は笑っていて――。
くちづけを、与えられた。
厭らしい音がする。頬に集まった熱が身体中に拡散してゆく。
最奥を掻き分ける指は一本、二本と増え、千鶴子は喘ぎ声を上げる。
引き抜かれた瞬間に、とろり、と太腿に温もりが零れる。
喪失感に夫を見つめようとした瞬間に、足を掬われ、褥に倒れる。
自然、足は開いたままとなり、自分の背と頭を支えていた腕が離される。
再びくちづけを与えられると、まるで釣られた魚か何かのように、必死で夫の唇を求める。
自ら舌を重ね、絡め、吸う。ぽろぽろと、涙が熱く頬を濡らすのを感じた。
肩を抱く。細いと云われる夫の肩は、女の自分に比べると十分広く、硬い。背に、腕をまわす。
――行くよ――。
準備が出来たのか、耳元でそう囁かれた声に、はい。と千鶴子は頷いた。
嬌声を上げる。涙が零れる。望んでいたもので隙間が埋まり、一個となれたことを身体が歓ぶ。
打ち寄せ、押し寄せる波のうねりに離されまいと回した腕に、力を込める。
やがてうねりは大きくなり、夫の肩にきゅ、と爪を立て――――。
秋彦さんっ、という呼び声に応えるように、大きな波が上り詰め――。
千鶴子、と自分の名が耳に響くのを感じながら、千鶴子は真っ白い中に吸い込まれていった。
――ああ、明日からまた忙しくなるな――。
目が覚めると、夫はそんな事を呟きながら、煙草の煙をくねらせていた。
枕辺にある明かりに照らされて、白い煙がゆらゆら揺れる。
ぱさ、ぱささと聴こえる、僅かばかりの音。外には雪が降っているようだ。
仕事の請け負いで、関口君はどうだか知らないが、榎さんは暫く来ないだろうな。
積もりそうだ。その言葉に、夫を見上げる。
だが、一応念の為、仕事を入れていた方が良いかもな――。
そんな言葉で何となく、昨日の榎木津の不機嫌さの原因が、解ったような気が千鶴子はした。
大抵、仕事は特別な事情でもない限り、暇を見て執り行う。
だが、偶に三日か五日ほど、休みもなしに買い入れの注文やら何やらを入れることがある。
確か先々月も夫は仕事を五日ほど、入れてはいなかったか。
そうして確か、その仕事を入れる前の晩は自分と――――。
「あなた。若しかして、偶に続けて仕事を入れるのは――。
――榎木津さんに、会わないためなんですの――?」
まさかと思い、おそるおそる聞いた言葉に、
夫はこれ以上ないほど不機嫌に眉を顰めて
「どこの世に、自分の妻の裸を見られて喜ぶ夫がいると云うんだ。」
と答えた。一拍間をおいて、込み上げて来た喜びと可笑しさに、千鶴子はくすくす、と笑いながら肩を震わせ――
――すっ、と。夫の唇にくちづけた。
煙草の灰が、はらりと落ちた。
◇終◇