● 間隙跳躍 ● 
 
 ――人の群れのなかを、縫うようにして歩いた。 
 私鉄電車の終点駅。 
 乗換駅でもあり、映画館や歓楽街、大規模デパートなど、一通りの条件が揃った巨大都市の 
玄関口は、終点であるにもかかわらず、乗客のほとんどが目的地としているため、車内の人口 
密度は増加する一方で、だから終点駅に到着した電車のドアが開くと、まるで堰を切ったよう 
に人のかたちをした土石流が改札へ雪崩れこんでいくのだ。 
 平日の朝はおそらく、もっと凄まじいのだろうが、あいにく今日は日曜日で、しかも美月え 
りかは基本的にこういう駅とは無縁な生活を送っていた。 
 高校二年生の、秋。 
 進級してから半年が過ぎ、再び衣替えの時期を迎えようとしていた。 
 穏やかな時間が流れていた。 
 自分を取り巻く空気が暖かい。 
 これまで自分と他人との間にあった、隔絶された感覚は、もう彼女を打ちのめすことはない。 
 日本に残ったのは、正解だった。 
 細い糸を辿るように、まるで何かにすがるように、美月えりかが親戚の地を踏んだのは去年。 
それがいまでは遠い昔のことのような気さえした。 
 わかっている。 
 こういう幸福感をもたらしてくれた恩人が誰であるかなんて、考えるまでもない。 
 彼を想う。――と、彼女に備わった人を外れた感覚が、彼の居場所を告げる。迷うことはな 
かった。迷路のような駅構内を、彼女は早足でいく。人の流れの間隙を見切ることはたやすく、 
だからよどみなく彼女は彼との距離を詰めていく。 
 見つけた。 
 所在なさげなふうに、びくびくと何かに脅えているような、そんないつものスタイル。 
 どこまでも変わらない彼がいた。 
 嬉しくなる。どうしてやろうかと思う。 
「正面から行くのは芸がないわ。ここは背後にまわって……」 
 何をしよう。とりあえず、挨拶代わりの膝かっくんでもキメてみようか。話はそれからだ。 
 かっくん。 
 攻撃的挨拶に対する抗議と、ややあっての安堵。彼の表情はくるくると変わった。どうやら 
彼女が待ち合わせの時間に遅れたことで、要らぬ心配をしていたらしい。 
「ハァ……。まったく、ヨウちゃんは余計な心配しすぎだって」 
 えりかは少しあきれて、それから少し微笑んだ。既にえりかは、彼の親友であるところの歪 
谷透から、彼が如何に少女まんがに毒された想像をめぐらせるかについては聞き及んでいる。 
待ちぼうけをくらっていた間、彼の脳内でどれほどドラマチックな不安が吹き荒れていたかは、 
えりかにとって興味をそそられる部分ではあった。 
 それにしても――。 
 改めて、ずれを感じることが多い。 
 えりかも彼も、「自覚」した時期はほぼ同じくらいだというのに、こうも違う。それはおそ 
らく歩んできた環境、かかわってきた人間の個性の差か。 
 ――今日の彼らは、たとえば車に轢かれたとしても死ぬことはない。 
 試したことはないが、おそらくトラックに体当たりされても平然と立ち上がれるだろうし、 
銃で撃たれても弾丸は体外へ排出されてしまうだろう。痛みはどうにもならないとしても。 
「仕方ないだろ。……って、そっちが遅れなければこっちだって心配なんかしないよ」 
「なによなによお、まるでこっちが悪いみたいな言いかたじゃない」 
 待ち合わせの時刻に遅れたのは紛れもなく彼女だったが、高圧的に出られると、彼としては 
怯まずにいられない。それが彼の習性なのだった。 
「そ、それじゃ、そっちは心配されなくてもいいの?」 
「あー。そういうのもちょっとイヤな感じよね」 
 なるほど、とえりかは手を叩く。 
 事実と感情は別物だってことは、彼女も分かってはいるのだ。 
「でもヨウちゃんに指摘されるのはなんかムカつくわ」 
 納得はするけれども、面白くない。だから腑に落とすために上を向いてみた。 
 赤い空があった。 
 夕方。 
 ここ最近の休日は、三人で過ごすことが多くなった。 
 美月えりかと歪谷透、そして彼――犬神鷹介と。 
 去年は五人だった。それぞれが、それぞれの理由から行動を共にしていて、まるで、絡んで 
もつれた糸のような関係だった。 
 賑やかで楽しかったのは事実だが、当時のことを振り返ると、えりかは少し気分が重くなる。 
いまの自分は、あの頃のように丸くない。はしゃげない。 
「どうしたの」 
「……ん?」 
「何か見えるとか」 
「ああ、何でもない。ちょっと、考えごと」 
 ――疎遠になったわけではない。気を遣ったのだ。 
 口にはしなかったが、傍からみれば雰囲気で判った。 
 田中一と、泉田はるか。 
 歪谷という毒気にあてられていた泉田はるかを射止めたのは、開き直った田中の熱意と行動 
力の賜物だろう。 
 美月えりかと出会い、仲間の存在を知ったことで、犬神鷹介は一つのハードルを越えた。 
 そして恋慕の対象であった泉田はるかは、彼も含めた周囲の人間の誰しもが認める「いいひ 
と」、田中一の気持ちを受けいれた。 
 もう、犬神鷹介を縛る枷は無い。 
 美月えりかにとっても、遠慮をする必要はなくなったのだ。 
 ――それなのに。 
「おっきいなあ」 
 目的の場所についた二人は、揃って建物を見上げた。 
 そこは民法放送局の自社ビル敷地内に設けられたライブハウス。 
 二人が仰ぐのは、ライブハウスの奥に鎮座まします自社ビルだった。瀟洒なビルが建ち並ぶ 
オフィス街のなかにあっても、その威容は突出しており、テレビ局が如何に儲かる商売である 
かを周囲に誇示しまくっていた。 
「あんまり、ぱっとしない印象のチャンネルなんだけどなあ」 
「ぼろい商売なんでしょうねえ。あーうらやましー」 
 凡庸な感想を口にして、会場に入る。チケットに記された席は二階のR席。右翼だった。 
 一階は最前列付近以外はすべて立ち見になっており、びっしりと人で埋まっていた。 
「二階かあ。なんかノリ辛いかもね」 
 正直な感想をえりかは漏らした。開演前から期待と群衆下のなかという状況で早くも昂奮の 
色を強くする一階の客に対し、二階の客はシートをあてがわれて遠目からステージを見なくて 
はならない。 
「真下に人がたくさんうねっているってのも、なんか逆に醒めるような感じがする」 
「そうかな。あたしは逆にいろいろ想像しちゃう。ほら、天井の照明器具。あれが落ちてきた 
ら、一階、ほとんどみんなペシャンコになっちゃうなあ、とかさ」 
「とかさ、じゃないだろ。何だよ、そんなこと考えてたの」 
「あはは。ほら、始まるよ」 
 メタル調にアレンジされたドラえもんの曲を「メタドラ」と名づけてヒットさせたユニット 
の、今日はライブの日――。 
「そういや、おまえら揃いも揃ってドラえもんマニアだったよな」 
 県立津波高校の三階踊り場で、美月えりかは歪谷透から声をかけられた。常に犬神鷹介を引 
き連れて移動する(えりかにとってはそういう印象が強い)歪谷にしては珍しく一人だった。 
「何よ、ご挨拶ね」 
「やる」 
 学生服のポケットから封筒を取り出し、えりかに放り投げた。 
「っとと、何よコレ」 
「あいつと行ってこいよ」 
「はあ? 何言ってんの?」 
 えりかと歪谷は似た部分がある。ゆえに多くの説明を必要としなかった。 
「何もクソもねえ。行ってこいって言ってんだよ」 
「だからどうしてあたしが」 
「あんま言わせんな。あいつに渡したって十中八九どうにもならねえのはわかんだろ」 
「…………! ……何よそれ。そりゃ、あいつは」 
 とはいえ、他人である以上は完全な意思の疎通など不可能なわけで、えりかは歪谷の言葉を 
曲解してしまう。 
「そうじゃねえ。勝手に穴に落ちるなよ。とにかく行ってこいって」 
 肩を叩き、歪谷はえりかにチケット入りの封筒を押しつけた。 
「そうか。群集心理が働かないんだ」 
 ボーカリストが勢いよく登場すると、一階は早くも突き上がる拳と縦ノリで荒波と化した。 
 立ち見の利点はここにある。隙間無くスペースを埋められることにより、周囲の人間は文字 
どおり人垣――遮蔽物となり、羞恥心を麻痺させる。客のリミッターが外れるのだ。 
 対して二階の、余裕ある座席配置はどうにも逆効果だ。楽しみたくて来ているのに、もどか 
しい気持ちにさせられてしまう。鷹介にしてもそれは同じなのか、突き上げる拳がいまひとつ 
弱々しい。 
「なに恥ずかしがってンのよ、こういうのはね、ぶわーっといかなきゃ、ほらほら」 
 ならばとばかりにえりかが鷹介を鼓舞する。エンジンが暖まってきたのか、加速を始めるバ 
ンドの演奏と相俟って、やがて二人はライヴに没入していく――ように見えた矢先に、それは 
起こった。 
 激しい曲が一段落し、ゆったりとしたバラード調に切り替わる。えりかは振り上げていた手 
を膝の上に戻し、一息つこうとして、硬直した。 
 隣に座る彼の手が、自分の手の甲に置かれたから。 
 見ない。 
 えりかは犬神鷹介を見ない。 
 ステージに目をやったまま、動かない。 
 鷹介もまた、同じく。 
 ただ、えりかの右手に、自分の左手を乗せていた。 
 バラードが終わり、再び叩きつけるような演奏が始まっても、そこだけ、時が止まったよう 
だった。 
「何の、つもり」 
「ごめん」 
「それ、答えになってない」 
 バンドの演奏は山場を迎え、ギターが鳴き、ベースは重く唸り、ドラムはいよいよ狂い出す。 
音響の豪雨のなか、二人の発する声は小さく、聴き取れる者など皆無だった。 
 二人を除いて。 
「ありがとうって、言いたかったんだ」 
「言えば、いいじゃない」 
「安っぽくなると思った。だから、伝わらないかな、ってさ」 
「馬鹿みたい」 
 それは、誰に向けられた台詞だったか。えりか自身、よくわからなかった。 
「……ごめん」 
「謝らないで」そんな言葉は聞きたくなかった。美月えりかは、犬神鷹介に謝られたくなんて 
なかったのだ。そもそも今回のことにしたって――。「ああ、そう……か。ヨウちゃん、透く 
んから、どんなこと言われてきたの」 
「えっ……?」 
「だいたい、察しがつくわ。あたしが、ヨウちゃんを励まそうと思ってわざわざチケットを取 
ったとか、そんなところじゃないかしら」 
「……うん」 
「やっぱりね」 
 馬鹿げてる。えりかは苦笑しようとして、失敗した。 
 泉田はるかには感謝しているし、信頼してもいる。けれどあの日を境に、彼女の存在はえり 
かにとって羨望の的になり、嫉妬の対象となったのだ。そして、そんな自分に愕然となった。 
「全部、透くんの差し金だから」 
 吐き捨てるように呟いて、えりかは席を立った。 
 急いで、出口へ向かう。 
 早足は、すぐに駆け足となった。 
 この日のえりかが本気になって走れば、追いつける人間はいない。 
 出入口付近に待機していたスタッフのうち、果たして何人がえりかという名の風を目視する 
ことができただろう。 
「待てよ!」 
 肩を掴まれ、えりかはそこで止まった。 
 そこには、自分と同じように、息を切らせ肩を上下させる鷹介がいた。 
 降りた駅はとっくに通り過ぎて、どこだかわからない街の歩道上。 
「馬鹿。追いかけなくてもいいのに」 
 えりかは苦笑した。今度は成功した。 
「そういうわけにもいかないだろ。ほら」 
 鷹介は視線を落とした。つられて足元を見たえりかが気づいて声を漏らす。 
 えりかの履いていた靴が、ぼろぼろに崩れていた。 
「あんなふうに走ったら、靴がもたないって」 
「本当……。何やってんだろ、あたし」 
 えりかは片足を上げてみる。そこにみっともなくぶらさがったそれは、底が剥げかかり、あ 
ちこちがずたずたに破けていた。露出した肌には擦り傷も見えた。 
「ばい菌が入っちゃうよ。足、洗わないと」 
「うん。そうね」 
 申し訳程度の鷹介の言葉に、力無くえりかは頷いた。 
「タクシー呼ぶ?」 
「こっから家まで幾らかかると思ってるの? そんなおカネ、ヨウちゃん、ないでしょ?」 
「ばっちり……とはいかないけど、多少は持ってきてる。心配しなくていいよ」 
 胸を張りながらも、深夜料金は何時からかかるのか鷹介は知らなかった。そもそも学生の時 
分からタクシーを利用する機会など滅多に無いのだから、これは当然だろう。とりあえず、普 
通に料金が加算されていった場合を計算すると、所持金でどうにか、といったところだった。 
「…………」 
「どうかした?」 
 覗きこんだ鷹介は、えりかがあらぬ方向を眺めていることに気づき、視線の先を追ってみた。 
 きらびやかなネオンが瞬くホテルがあった。 
「靴は、コンビニでサンダルでも買えばいいよ」 
 えりかは言った。すがるような瞳で。 
 鷹介は彼女から目を逸らせない。逸らしてはいけないような気がした。 
「……足、洗わなくちゃな」 
 それが答え。 
「うん」 
 えりかは、うつむいて恥じらった。 
 犬神鷹介が初めて目にする、美月えりかの表情だった。 
 こんな顔をされたら、どうしていいか、わからない。 
「そ、その代わり、今日のこと、ちゃんと説明してもらうから」 
「口に出して?」 
「ああ」 
「……ヨウちゃんは、ずるいよね」 
 鷹介は墓穴を掘った。 
 言葉というプロセスを飛び越えて意思を伝えようとしたのは鷹介のほうなのに、えりかには 
それを強いる。矛盾してはいないかと、彼女は鷹介をなじっているのだ。 
「ずるい、か。返す言葉がないよ」 
「反論されても困っちゃう。だから、これは多分、必要なことなんだと、あたしは思う」 
 照れ隠しか、それとも自分自身に言い聞かせているのか、鷹介にはわからない。 
 受付を済ませ、部屋へと向かう。 
 動悸は高まり、呼吸が苦しくなっていく。それは全力疾走の後遺症ではなく、抑えようのな 
い緊張の発露だ。 
「あれ、嘘じゃないから」 
「あれって?」 
 部屋の鍵を開け、なかに入った。ベッドとテレビと冷蔵庫、わかりやすい位置に浴室。必要 
最小限の、それでいて無駄に豪華な、男女が事を成すためだけの部屋――。 
「二五歳未満の男に、キョーミなんてないってこと」 
「ああ、そういえば、そんなこと言ってたよな」 
 鷹介はベッドに腰を下ろし、楽しげに笑う。 
 あれはまだ、出会って間もない頃だった。 
 それは喩えるなら、どこまでも広い、砂漠のような世界。 
 そこには人間という砂しかない。それが常識。犬神鷹介のような、砂にあらざる者であろう 
と、砂漠の粒子の一部として呑みこみ、淘汰してしまう。そんな砂漠のなかで、異分子が、自 
分と同じ異分子を認識できる機会など、神の御業による確率操作(イカサマ)でもない限り、 
本来あり得ないことだった。 
「初対面からして強烈だったからな。よくおぼえてる」 
「『ああ、これが臆病で小心でオトメチックで、すぐ泣くというクズみたいな友達か』」 
 浴室から、あの時の言葉。 
「はは。そのまんまだ。そっちもおぼえてたってわけか」 
 鷹介は磨硝子に浮かび上がる影を見て、慌てて目を逸らした。そこには人のかたちがあるだ 
けで、別に何が見えるわけではない。だがこの状況、その影は鷹介の鼓動を否応無しに早めて 
いく。 
(足を洗ってるだけ。それだけ……だよな) 
 物事には、等しく流れというものがあると、鷹介は思う。 
 時間、場所、状況、感情……。諸々の条件が重なると、その流れに対して人は抗えなくなっ 
てしまう。流されてしまう。いまの自分たちはまさにそれだった。 
 ホテルの部屋に、二人きり。 
 それも、ただのホテルではなく、男女が性交をするためのホテルなのだ。 
 どうやらワケアリらしい美月えりかに促されたとはいえ、あの場で断ったとしても特に問題 
はなかった筈だ。 
 それなのに、このざま。 
 泉田はるかが好きだというなら、どうして自分は他の女性とこんな場所にいるのか。そう考 
えると鷹介は己の弱さに俯かざるを得ない。美月えりかは後輩で、喋らなければ確かに可愛く 
て、そんな彼女に望まれたことを、誰が拒否できるだろう。――などと心のうちで弁解してみ 
ても、説得力は余りなかった。 
 いま、鷹介とえりかは同じ部屋にいる。狭い空間で、同じ空気を吸い、同じ気持ちを……抱 
いている? 
 犬神鷹介は健全な男子で、だから気持ちを抑えることができない。 
 下卑た期待や想像が先走る一方、そういう自分を戒める声も確かにあって、鷹介の心のなか 
は複雑なシグナルが明滅し、一つに落ち着くことはなかった。 
 同じとはいっても、心が通じ合えるわけではない。 
 多分、人と同じくらい言葉を必要とし、同じくらい、言葉を必要としない。 
「ヨウちゃん」 
 浴室の前に、美月えりかが立っていた。 
 亜麻色の長い髪にリボン。薄い空色の長袖ワイシャツに、膝下までのスカート。 
 軽やかな印象そのままに、えりかは裸足でそこに立っていた。 
 黄金色に輝く瞳が、きつく鷹介を捉え、離さない。 
 不穏な空気を鷹介が感じたときには、既に決着はついていた。 
 人に非ざる瞬発力は、かかとで軽く床を叩くだけで十分な成果を上げた。 
 まるでコマ落ちしたように、鷹介の上にえりかのからだがあった。 
 上と下。 
 それはこの建物のなかでは、ごくありふれた情景だった。 
 女が、男を組み敷いていることを除けば。 
「な――ッ」 
 おそらく鷹介は、いきなり力を発現させた彼女に文句を言おうとしたのだろう。しかしそれ 
は、ついにえりかの耳に届くことはなかった。 
 塞がれたから。 
「…………!」 
 少女まんがにずぶずぶと腰まで浸かった彼にとって、思い描いていた初めてのキスの想定パ 
ターンは、他人からすれば赤面を通り越して青ざめるくらい自分に都合のいいシチュエーショ 
ンばかりで占められていた。 
 よって、こんな状況は頭のなかにはなかった。 
 パニックで、感触を味わういとまもなかった。 
 ゆっくりと、えりかの唇が離れていく。 
「隙だらけ」 
 それがえりかの、触れ合った唇から紡がれた言葉。 
「どういう……つもりだよ。わけ、わかんねえよ」 
「単純な追っかけっこなら、エンジンの差で互角かもしれない。だけど、こういう狭い空間で 
力を使わせ合ったら、ヨウちゃんはあたしにかなわない。これのコントロールにかけては、あ 
たしはずっと前から訓練してきたんだから」 
 強い口調だった。 
 鷹介を馬鹿にしているのではない 
「ヨウちゃんはあたしに比べたら、まだ、全然、ダメなのよ」 
「…………」 
 えりかは鷹介を組み敷いたまま、金色に輝く瞳で彼を射抜く。 
 両肘と右の太腿、左の脛にそれぞれ、遠慮のない重圧がかかっていた。えりかと同じ血族で 
ある鷹介だからこそ耐えられる、普通の人間なら骨ごと潰されるほどの圧力が、ベッドに悲鳴 
を上げさせていた。 
 
「……約束は、守れよ」  
 鷹介は痛みをこらえながら、押さえつけられた四肢を除いて唯一自由になる首を曲げ、えり  
かに顔を近づけた。彼にとって、今日のえりかの行動、言動は理解不能なものだらけだったが、  
それでも、彼女が何かに迷い、進むべき方向へ踏み出せないままでいることだけはよくわかっ  
た。かつての自分が、そうだったから。  
 鷹介は意識を身のうちに沈めていく。感覚のケーブルを、心の深い部分にあるコンセントに  
挿しこむようなイメージ。――と、今宵の満月のように、彼の瞳が黄金の色彩を帯びていく。  
「あ――っ」  
 二学期に入り、引退はしたものの、歪谷の率いていた津波高校空手部では、時流に影響され  
たか、寝技の練習も取り入れていた。革命家を志望する歪谷にとって、空手はあらゆる格闘技  
のなかで最も実戦的なものであるという確信があるらしく、寝技練習といってもその内容はタ  
ックル、マウントポジションへの対処法に終始していた。「相手が組み技できても、返しかた  
さえ知っていればどうってこたぁねえからな」というのが、彼の持論であった。よって一蓮托  
生である鷹介も、組み打ち状態からの返しかたを半ば強制的に反復練習させられていたのだが、  
まさかこんなところでその技術を使う機会が訪れるとは、たちの悪い冗談のように思えて、知  
らず、鷹介は苦笑していた。  
 あっけなく、態勢は逆転した。  
 力の応用に関してはえりかに一日の長がある。しかし単純な力では鷹介が上回っており、加  
えて妙に実戦的な空手の技まであった。  
「くっ……」不覚を取ったことが悔しいのか、顔を背けたえりかは次の瞬間、目を見開いてか  
らだを震わせた。「ひゃっ……!」  
 鷹介の右手が、えりかのスカートのなかに伸びていた。  
「しっぽは、出してなかったんだな」  
 感心したように鷹介が言う。  
「な、何を」  
「いや、あれだけ力を使っていればさ、おれならしっぽが出ちゃうから。そっちはどうなのか  
なって」  
「ヨウちゃんと一緒にしないで」  
 
 ――彼らは狼。  
 人の範疇を超えた力も、月の満ち欠けに左右される限界も、すべては人狼としての種に根差  
すものだ。だから、彼らにとっての完全体とは、すなわち、そのもの。力の過ぎた行使は強制  
的な変身という副作用を伴う。  
「そりゃまあ、そうか。おれが力をコントロールできるようになって、まだ一年が経つか経た  
ないか。年季の違うそっちにしてみれば、比べられること自体が不本意ってところか」  
「よく、わかってるじゃない」  
「でも普段から、そっちは長いスカートを穿いてるよな。髪も伸ばして、肌をなるべく見えな  
いようにしてる。それは、不足の事態に備えてのことだろ」  
「…………」  
 えりかは反論しない。回答を渋っているのではなく、かっと赤くなった顔に――自分自身に、  
声を失ったからだった。  
 見られていた。  
 自分はちゃんと、犬神鷹介から見られていた。  
 その事実に、からだの芯が熱くなってしまう。  
 そしてそれが、たまらない。  
「……どうして、こうなるのよ」  
 違う、と、えりかはかぶりを振った。  
「あたしはヨウちゃんなんか嫌いなのに」  
 ――女々しくて、すぐ泣いて、ぐじぐじ悩む。そんな男は論外だった。  
「それなのに、なんでこんな、苦しいくらい、好きになっちゃってるのよ……っ」  
 否定したいのに、できない。  
 いまだってそうだ。男と女が愛を晒し合う場所に、犬神鷹介と二人きりでいるという、その  
事実を認識するだけで、どうしようもなく顔が火照ってしまう。期待してしまう。  
 なんという卑しさ。  
「口で説明しろって、言ったよね」  
「……うん」  
 鷹介は茫然としていた。先刻のキスは何が何やらわからず、彼のなかでまだ消化できていな  
い。そこへ、えりかの言葉が追い討ちをかけたのだ。冷静に受け止められるわけがなかった。  
「あたし、約束を破るつもりはないから。もういい。全部、ヨウちゃんに知ってほしいから」  
 
 それは態度としての好意ではなく、言葉に乗せた気持ちの吐露。  
「なんでこうなっちゃったんだろうって、ここんとこ、ふとんのなかで飽きるくらい考えた」  
 えりかは部屋の天井に目を向け、ここへ入る際の約束を果たすべく語りはじめた。  
 今日のことを説明するためには、二人が本当の意味で出会ったあの時まで遡る必要があった。  
「前にも言ったけど、いつかは逢えるだろうって、楽観してはいたの。だって、どんなに稀少  
な種っていっても、フツーに考えたらこの世界にあたしの家族だけなわけ、ないものね」  
 それでも、弱り目に祟り目だった鷹介が逆切れして、自らの正体を彼女に明かすまで、美月  
えりかは家族以外の「同種」と遭遇したことがなかった。  
 ――それは鮮烈な一日。  
 硬貨を指でたやすく曲げ、小石を弾丸の威力で投じることが可能な高校生はそういない。ま  
してやしっぽの生えた、なら尚のこと。  
 実質的に鷹介が打ち明ける前に、その時のえりかはざわめいていた。  
 予兆はあった。インスピレーションと彼女が名づけたそれは、当初、歪谷透から感じられた。  
だから、とりあえず懐いてみて、辿ることにしたのだ。  
 つながっていたのは、犬神鷹介。  
 からかう対象としてはこの上ない、けれど異性としては対象外――だった。  
「どうして生き物は、惹かれあうの?」  
 唐突に、えりかは質問した。  
「どうしてって、なんつうか、その、自然の摂理、かな」  
 猫とシャチは愛し合うことはない。  
 犬と猿の「つがい」など、ありえない。  
 同種は、同種に対してのみ求愛するのだ。  
 彼女が彼を同種と認識した瞬間、革命は始まった。  
 少しずつ、水にインクを垂らすがごとく、彼女のなかの書式が、書き換えられていった。  
 知覚した時には、もう遅かった。  
 どうしようもないくらい、犬神鷹介を意識する自分がそこにいた。  
 それは侵蝕。――美月えりかという人格を無視した、種としての命令。  
 冗談ではなかった。従えるわけなどなかった。そこには自分がないように思えた。  
 本能が送る信号は、まるで自分の好みなんてどうでもいいとばかりに、一方的に犬神鷹介へ  
の愛情を募らせていく。気がつけば、えりかは鷹介を見ただけで発情するようになっていた。  
 
 ――まるで犬や猫。  
 えりかは、長い間ひとりきりで生きてきた、稀少種のメスだ。  
 月の満ち欠けに左右される身体能力をもち、万物の霊長たる人間をも超越した存在の、けれ  
ども普通の女子高生。人と同じように生活し、趣味や嗜好をもち、ささやかな希望と夢を抱い  
て日々を過ごしてきた。  
 それが崩れていく予感がした。  
 犬神鷹介という、同種のオスの存在によって。  
 彼は、ただ彼女の前に現れただけ。それだけ。なのに絶好の機会とばかり、えりかのからだ  
は繁殖するための、種を維持するための機能を発露させた。  
 めまいがするほどの劣情を気取られぬために、はしゃいで跳んで、遊び倒した。そうするこ  
とで周囲には自分が鷹介をていのいい玩具対象として見ているのだと思わせたかった。またえ  
りか自身も、鷹介に必要以上に触れる理由をそこに見出していた。どうしようもないほどに昂  
ぶった気持ちも、彼とからだを接することで誤魔化せたから。  
「でも結局、バレバレだったってわけね」  
 えりかは苦笑する。今回のことを仕組んだのが歪谷透ならば、彼女の芝居などとっくの昔に  
見抜かれていたことになる。それはたいていのことには動じない美月えりかをして、気持ちを  
奈落に沈める事実だった。  
「どうしてこんなふうにみっともなくなっちゃうんだろ。一人で勝手に盛り上がって、期待し  
て、落胆してさ……。なんか、ほんと、馬鹿みたい」  
 えりかの瞳が、涙で揺らいでいた。  
「いまだってそうだよ。あたしのからだ、おかしくなってる」  
「……ああ、そうだな」  
 えりかの頬は上気し、吐息も熱かった。  
 しかし何より、鷹介はスカートのなかに忍ばせた手で彼女の変調を感じ取っていた。  
「濡れてる」  
「キス……したから、もう歯止めが効かないの」  
 この部屋に入ったときから、既に決壊は始まっていた。我慢ができなくなっていた。  
 欲しい。  
 この男が欲しい。  
 それは、あきれるほどにシンプルな欲求だった。  
 
 生きていくうえで睡眠が必要だから、人は起きていることができない。  
 生きていくうえで食事が必要だから、胃腸はその機能を発揮する。  
 ならばいま、えりかのからだはまさしくその役割を全うしようとしていた。  
 ――心を、無視して。  
「違う……。あたしは、こんなの……望んでない」  
 えりかは鷹介の胸に顔を埋めた。  
 まだるっこしい手続きの果てに、からだを重ね合う。そんな道程を恋と名づけられるなら、  
えりかにとっての理想はそれだった。  
 好きという感情を降り積もらせていく。相手を知っていく。至る道は幾つもあるだろう。け  
れどそこには心がある。辿る道は違えど、からだの関係を安易に結ぶことを彼女は良しとして  
いなかった。だのにいま、えりかのからだはこれまでの自分を否定しようとしていた。  
「こんなのは嫌なの……。こんな、するためだけのなんて。もっと、ちゃんとした……。なの  
に、どうして――」  
 湧き上がってくる想いを抑え切れなかった。  
 からだのせいでは、確かにあるのだろう。  
 しかし彼に嫌われたくないという感情は、えりかのなかに既にあったものなのだ。  
 だから、手を触れられただけで動悸が激しくなった。  
 先に言葉がないから、勝手に思いが膨らんでしまう。  
 犬神鷹介はこの間まで自分ではない女性に恋焦がれていて、告白までしたというのに。  
 すぐに気持ちが切り替わるわけがないと知っているのに。  
 案の定、それは落ちこんでいる自分を励まそうとしてくれたことへの、彼なりの感謝のかた  
ちでしかなかった。  
 都合よく解釈して、舞い上がって、失速して、地面に叩きつけられた。まったく、なんてい  
うみっともなさだろう。  
「――あのさ」  
「…………」  
 顔を戻すと、困ったふうに笑う鷹介がいた。  
「そっち、なんかいろいろ複雑そうだな」  
「悪かったわね」  
「で、そっちから見て、おれは単純だと思う?」  

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