衝立ての向こう側から、水音が聞こえてくる。  
 ぱしゃん、ちゃぷん…静寂の中にただ一点の波紋。鼻腔をく  
すぐる仄かな湯気に交じって、石鹸の香りも漂っている。  
「堕悪“零”、そこに掛けてある着物を取ってちょうだい。」  
 声を聞いて、死神の青年は目を開けた。寝台から身を起こし  
、衝立ての方を見やると、横からすらりとした腕が伸びている  
。彼女の指差す先をたどり、彼は立ち上がった。  
「――ああ、いいお湯だったわ。」  
 差し出された衣服を受け取りながら、彼女――夜叉姫は微笑  
んだ。まるで無邪気な少女のように、可愛らしく小首を傾げて  
いる。  
「どうしたの、さっきから何も言わないけれど。」  
「……いや…」  
無表情に返事をする、堕悪“零”の声は低かった。まるで、「  
唸る」という表現の方が適切にも思える。相対してその言葉を  
聞く夜叉姫の目は、徐々に細められていく。  
「不満げな返事じゃ。わらわに何か、気に入らぬ事でも?」  
否定も肯定もせずに軽く首を振った青年の姿に、ますます彼女  
の眼光はきつい色を滲ませていった。  
 寄れ、と命じられる。堕悪“零”は手招きのままに、ふらり  
と彼女に歩み寄る。  
 はさり、乾いた音を立てて、彼女の着物が落ちた。  
「抱き締めて頂戴。」  
惜し気もなく裸体を晒し、青年に向かって手を広げる。白磁の  
ように滑らかな肌の上には、わずかな湯滴が残っていた。  
「…そう、そうよ、いい子ね堕悪“零”。」  
 うっとりと相手の肩口に頭を預け、夜叉姫は彼をあやすよう  
に言う。  
「あなた、彼奴とは肌を交えたことはあるの?」  
「…いいや。幼女の姿をしている女に、手は出せない。」  
「そう。……そう。」  
クックッと、喉の奥から湧き出す笑声が、空気の塊に化けて堕  
悪“零”の肌を打つ。夜叉姫は、さも愉快な様子で身を震わせ  
ていた。  
 ややあって漸く笑いを収めると、今度は彼女の方も、青年の  
背中に腕を回した。腕から肩へと指先で辿っていき、最後は背  
骨に沿って撫で下ろす。ぴくっと身じろぎした彼に気付くと、  
満足げに口元を歪ませる。  
 そして唐突に、  
「――ッ!」  
――ガリッ。鋭く研がれた爪が、食い込んで皮膚を裂く。思わ  
ず顔をしかめた堕悪“零”の様子を、上目遣いに確認して彼女  
はニタリと笑った。  
(上目遣いの…表情だけ見れば、美しいのに。)  
見下ろす視線の着点を、彼女の眼から少しずらして、彼は一瞬  
、そんな事を思った。  
 
「ッ……つぅっ」  
「痛い? 痛い? …ああ…良い顔をしておるわ、のう、堕悪  
“零”よ。」  
 一通り満足を味わうと、夜叉姫はズッと爪を引き抜いた。ぽ  
んと堕悪“零”の背を叩き、腕の力を緩めるよう合図する。二  
人の体の間に生まれた空間に、血濡れた手を持ってくると、次  
にはその赤をぺろりと舐める。  
 ――人差し指から、中指、薬指、順を追って丁寧に。重力に  
従って滴る雫も、綺麗にその口の中へと消えていく。  
 何も言わず、脇目も振らずにその作業に集中している夜叉姫  
は、どこか、嬉しそうに見えた。  
 ぼんやりと行為の終わりを待ち続ける堕悪“零”の方は、し  
かし、彼女の顔ではなく細い指先に注意を集める。  
 今や唾液の交じった彼の血液は、鮮やかな赤色をしていた。  
死神となった身の内に、まだそんなものが流れていたという事  
実は、何か不思議な感情を心にもたらす。  
 やがて全ての赤が消えると、夜叉姫は小さく息をついて堕悪  
“零”を見上げた。  
「何だ?」  
「…いいえ?」  
丸く大きい人形の瞳で、彼の顔をじっと眺める。  
「痛いか?」  
やっと紡がれた次なる言葉に、彼が少し戸惑った様を見せると  
、「背中じゃ」と冷静に告げる。  
「…痛い。」  
 じくじくと、うねるようなむず痒い痛みだった。正直に答え  
ると、夜叉姫は得たりと頷く。  
「その傷はしばらく治すでないぞ。貴様はわらわの物だという  
証じゃ。」  
元より、彼に否と答える権利は無い。しかし彼女は、それでも  
尚「諾」の返事を求める。  
「そうじゃ…良い子じゃ、堕悪“零”。わらわの愛しい死神様  
!」  
目を細め、笑みを浮かべてぺったり体を密着させてきた彼女の  
髪を、黙って彼は、撫で続けた。  
 
 しゃ、しゃら、と響いていた、衣擦れの音が止んだ。  
「行くぞ、堕悪“零”。」  
現れた夜叉姫に、こくりと一つ頷いて返す。  
 彼女はもう、完璧に衣裳を着込んでいた。先に立って歩むの  
を後ろから見ていると、長い打ち掛けの裾はずっと地を擦って  
いる。  
「何をしておるのじゃ。」  
「うん?」  
「隣を歩きなさい。あなたはわらわの死神様でしょう?」  
「分かった、が…どこに向かっている?」  
「下界じゃ。」  
 短く答えた声音は、驚くほど冷えきっていた。  
(…ああ…)  
堕悪“零”は得心する。  
「黒姫の、所へな。」  
果たしてその考えは当たっていた。  
「大和という国を知っている? 小さな島国だが、この世の全  
てを宿した所じゃ。それをあの娘、こともあろうに…! くっ  
、くくッ!」  
「何だ?」  
「貴様を甦らせるのだそうじゃぞ? なんと、愛されたものだ  
。なんと、図々しい娘だ!」  
“しにがみさまは、”“わらわのしにがみさまは、にどとかえ  
ってはこないのに!”  
ほとんど吐息のみで吐き出されたその言葉が、あまりに深く暗  
い憎悪を帯びているので、思わず彼は、背筋にぞくりと寒気が  
走るのを感じた。  
「背は痛むか?」  
「……ああ。」  
「それは良い。」  
嬉しそうだった。その喜びは、余りに冷えた色をしていた。堕  
悪“零”は、それと同じ物を、自らの内に探す。  
 憎くて、どうしようもなくて、悔しくて、淋しい。黄泉の中  
に、つまりは彼の体の中に、同じくらい濁ったものがあった。  
痛くて痛くて、吐き出したいが、飲み込んだままでいたい。そ  
の紙一重の部分を、目の粗いやすりでこそがれているような不  
快な感じだ。  
「…っておれ、くろひめ…!」  
 ささやく横顔が、あくまで笑顔の形に固まっている。堕悪“  
零”は、何も言わず、瞳を伏せる。  
 ――彼の人間へ続く扉は、まさに放たれようとしていた。  
 
 
 

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