晴れ渡る空は煙らせることなく色付きはじめた水平線を映しだしていた。  
穏やかな海には、傾き紅くなりはじめた陽光が降りそそぎ、遥か後方の水面へと機体の影を描かせている。  
僅かな向かい風の中、どこか線の細い飛行艇がゆっくりとアドリア海を渡っていた。  
 
(・・・・良い午後だ)  
 
午後の日差しを受けつつ飛行艇を操る口髭の男は、陽光の眩しさに目を細めつつ天と海の狭間を飛ぶ。  
男の名はポルコ=ロッソ。  
操る機体は往年の名機、イギリス製飛行艇ショート184。  
第一次世界大戦に於いて活躍したこの機体も、いまや完全に時代遅れの代物になっていた。  
機体の剛性が不足しているため運動性に劣っており、それは旋回性の低さとして顕著に現れていた。  
また剛性不足は出力の大きなエンジンを積む事を許さず、よって上昇速度や最高速そして巡航速度も明かに低い。  
だが機体の許す範囲ならば軽快かつ従順な操縦性は、時を越えた操る楽しさを乗り手に伝えていた。  
 
ポルコは推定現在位置と気象条件と飛行速度から目的地への到達時刻を導き出す。  
このまま順調に飛行を続ければ、日が暮れる頃にはホテル・アドリアーノに着くだろう。  
そう考えたとき、マダム・ジーナのことが脳裏をかすめた。  
彼は今晩ジーナに伝えるつもりだ。ポルコ=ロッソとして生きると。  
 
 
マルコ=パゴットは死んだ人間だった。  
ひたむきな情熱は若さと共に失っている。  
それゆえ国や民族や宗教といった自分が属すべきところに執着しない。  
むしろ、そんなものは軽蔑に値していた。  
 
愛という言葉の意味も変わった。  
盲目的に想いを寄せつつ、友情との板挟みで自らの想いを逸らした若き日々。  
大義に命を賭けて、それによって愛する人々を守れると信じていた戦いの日々。  
どこかへ投げ捨てたもの。  
二度と手にすることの無い想い。  
全てを否定し、自らの意義を失ったあとに残ったのは、くだらないプライドだけだった。  
それすら今では何の価値も無い。  
マルコ=パゴットはあらゆる意味で死んでいた。  
ここに居るのは、ポルコ=ロッソという飛行艇を操るほか何もできない中年男だった。  
 
それでもマルコとしての自分に片をつけなければならない。  
いまだに燻っているのは、燃えかすにチロチロと灯りをともす過去の想い。  
そして僅かに残る仲間と言える者達への情。  
もう逃げることは出来ない。  
 
夜の帳がおりる頃、ポルコはホテル・アドリアーノに着いた。  
 
微かに波立つ海面に着水するとアイドリングでホテルに近づく。  
桟橋の間近でエンジンを切ると、ランプを持って誘導するボーイの待つ位置へと惰性で付ける。  
「いらっしゃいませ、はじめてのお客様でしょうか」  
如才なく笑みを浮かべながら客の人品を探るまだ若いボーイ。  
「いや、マダムの古いなじみだ。ジーナはいるかな?」  
「はい、もうすぐラウンジで歌われる時間です」  
ポルコがタバコを咥える。若者がすっと手を伸ばして、タバコに火をつけた。  
男は深く煙を吸い込み体にニコチンが行き渡る心地良さを楽しむ。  
「ありがとう。艇を頼む」  
若者に微笑を返してからラウンジに向けて歩き出した。  
ボーイは男がポルコだと気付かないのだろう。  
仲間に合図を送り、客の懐具合を確かめさせるよう他のボーイに合図を送った。  
 
ラウンジに入ると、早速フロアマネージャーが近づいてくる。  
「ようこそお出で下さいました。御食事でございますか?」  
先程のボーイとは違う自然な微笑みを浮かべている。  
どうやらフロアマネージャーはポルコに客としての及第点を与えたようだ。  
「部屋を用意してくれ。食事も部屋で取る。それからマダムに、ポルコだが後でたずねてほしい、と伝えてくれ」  
目を見開いてポルコを見つめるマネージャー。  
しばらくして、声と雰囲気から男は確かにポルコであると気付いたようだ。  
「ああっ御無事でしたか! マダムが貴方様のことを、どれほど心配・・・ムグ・・ぐうっ・・」  
大声を出され、慌ててマネージャーの口を塞ぐ。  
「静かにしてくれ。これでも俺は凶状持ちなんだぜ、他の奴らに気付かれちゃ面倒は事になる。それから、ホテルの連中にも俺が生きてたって事を秘密にしてくれよ」  
ポルコは大人しくなったマネージャーの口から手をどけた。  
「わかりました。では、今直ぐマダムにお伝え致します!」  
くるりと身を翻すマネージャーの手を慌てて掴み、彼を引き止める。  
「おいおい・・ジーナがステージに穴を空けたら他の客が不審に思うだろ? 歌の後に伝えておいくれ」  
なるほど・・・そう呟いたマネージャーは、近くにいたボーイを呼ぶとポルコをいつもの部屋に案内するよう指示を出す。  
そして「後程マダムが伺いますので」と、今更取り繕うような台詞をはくマネージャーに、ポルコはニヤリと笑みを浮かべた。  
 
 
食事を終えてひと心地ついた。今はディジェスティーヴォ (食後酒)を味わっている。  
果実を醸した甘いリキュールがポルコの心をゆったりとさせた。  
窓から差し込む月光と漏れ聞こえる微かな波音。ゆっくりとグラスを傾けながらそんなものに心をゆだねていた。  
杯を五回ほど重ねたころ、カツカツとあわただしいヒールの音が近づいてきた。つづいてバタンと思い切り開くドアの音。  
「マルコ!・・・ああ・・・生きていたのね・・・」  
ジーナはポルコの姿を見つめるなり、その場に立ち尽くし、男の無事を確かめると床に崩れ落ちてしまった。  
彼は立ち上がるとジーナに歩み寄り、そっと彼女の身体に触れて立ち上がらせる。  
「久しぶりだな」  
 パンっ!  
男の言葉を聞いたジーナは、急に身を引き剥がし平手でポルコの頬をはたいた。  
「あんたって人は・・女をこんなに心配させておいて、そんなことしか言えないの?」  
彼は忌々しげに己を睨みつける彼女の瞳から視線を外そうともせずに、ジーナの背を押してテーブルへ招き椅子を引く。  
彼女は尚も言い募ろうとするが、渋々テーブルについた。  
ポルコの差し出す細く背の高いグラスを受け取りながらも男から視線をそらせなかった。  
「夕食はまだなんだろ? シェリーでいいな」  
グラスにゆっくりとシェリー酒が満ちてゆく。ポルコがグラスを少しだけ掲げるので、ジーナも仕方なくグラスを掲げる。  
「お互いの健康に」  
 パシャっ!  
ジーナはグラスの中のシェリー酒をポルコに浴びせ掛けた。  
「何が久しぶりよ。何でお互いの健康なのよ。せっかく生きて帰ってきたのに、やっと元の姿に戻れたのに!マルコ、いいかげんにして」   
彼はハンカチで顔を拭う。  
「ジーナ、俺はポルコ=ロッソだ。マルコ=パゴットなんて名前の男はもうこの世にいない」  
 
彼女は手に持った空のグラスを見つめる。  
「・・・それが貴方の出した答え?」  
ポルコは立ち上がると壁に飾った写真達と向き合う。  
流れ行く時を止めたジーナの姿、そして在りし日の友の姿。  
その一枚一枚がマルコだった日々の欠片を呼び起こす。だが、想いは蘇らなかった。  
「この頃の想いは俺の中から消えちまった。もう何ひとつ残ってやしない。思いを馳せる過去ってやつに意味なんて無いんだ」  
ジーナはポルコの傍らに歩み寄ると、壁に飾った写真達に目を通してゆく。  
そして一枚の写真に目を留めると、手を伸ばしてそっと触れた。  
「ここに写っているの、もう貴方でじゃないのね・・・私は何もかも覚えているのに」  
 
  そう、私が覚えている。  
  マルコが忘れたっていうなら思い出させてあげる。  
  何もかも、ここにあるんだから・・・  
 
彼女はポルコの腕を取ると、左の乳房に重ねて抱きしめる。  
そして男の瞳を見つめた。  
「それなら私の中にいるマルコを貴方にあげる。楽しそうな貴方、哀しそうな貴方、希望を失わなかった貴方、戦いに行く貴方、苦しんでいた貴方、全部ここにあるわ」  
ジーナは男の視線が一瞬宙に揺らぐのを見逃さなかった。  
だが彼は苦しむでなく、悲しむ訳でもなく、ただ記憶を手繰るように過去を流し見ただけ。  
「ジーナ、俺も覚えているよ。だがマルコが欲したものや守ろうとしたものに何の価値も見出せなくなったのさ」  
彼女はポルコに迷いのない事を思い知らされた。  
 
「マルコ・・・貴方、姿は元に戻ったけれど、心は人に戻れないのね」  
ポルコは首を横に振る。  
「あの馬鹿馬鹿しい決闘騒ぎの別れ際にフィオがキスしてくれた・・・。あの娘は他でもない、醜い心と姿のこの俺を欲してくれた。だからこそ、俺はあの時ボルコ=ロッソとして生きる事を選べたのさ」  
 
あの娘はマルコではなくポルコを望んだ。  
豚に成り果てた姿かたち。  
取り返しの付かない過去に囚われ、今を見ようともせず投げやりに生きる醜く歪んだ心。  
それでもフィオという娘は、ありのままのポルコを求めたのだ。  
「私はマルコを求めていたから・・・だから貴方を人に戻せなかったの? じゃあ、私は貴方を苦しめていただけなの?」  
ポルコは黙したまま何も言おうとしない。  
ジーナは男の身体にしがみ付いた。そしてシャツをはだけてゆく。  
「そんなのいや・・マルコをあの娘に渡すなんて、マルコがあの娘を選ぶなんて」  
男は服を脱がせてゆく女の手を止めようとはしなかった。  
彼女の目を哀しげに見つめるだけだった。  
ポルコを素裸にさせたあと床に押し倒し、彼女も全裸になる。  
「私を見て! 私だけを見つめて!」  
 
ジーナは男に口付けをした。  
深く舌を差し入れ、己の唾液を流し込み、そして男の口腔を舐る。  
愛撫を返そうとしないのに焦れ、自らポルコの舌を探り出して絡める。  
男の舌が力なく求めに応じた。彼女は喜びに震え、薄く目を開きポルコの表情を盗み見る。  
彼は悲しげに顔を歪めていた。  
 
「マルコ、マルコ・・・」  
唇を離した女は、瞳を潤ませながら男の過去を呼ぶ。  
だが、こたえる者はいない。  
切なさのあまり逞しい首に唇を寄せた。  
厚い胸板に乳房を押し付けて蠢かした。  
男の腕が優しく背に回り、そっと抱きしめられる。  
しかし女の身体を求めようとはしなかった。  
ポルコは愛を交わそうとはしなかった。  
ジーナの頬に涙が伝う。  
男の胸に顔を埋める。  
そして嗚咽交じりに囁く。  
「あなたを愛していたの。あなたを愛しているの。ねえ、私をみつめて。・・お願い、せめて今夜だけでも私を・・・」  
女を抱くポルコの腕に力がこもる。  
「ジーナにとって俺は死んだ人間だ。だから死んだ奴らと一緒に君を抱く。それでも良いのか?」  
女は彼に額をつけて、ぽたぽた涙を零す。  
「あなたに初めて抱かれるのに、マルコはこの世の人じゃないのね。そしてこれで終わり」  
彼女は男の体から離れ、床に身を伏せる。  
ポルコはジーナを抱きあげると、そっと寝室へ運んだ。  
 
くちゅ・・じゅ・・  
ベッドに腰を降ろし唇を合わせる。  
ふたりの唇の間からは小さな水音が漏れていた。  
ポルコは丹念に女の口内をまさぐる。  
なかば焦らすかのような舌の動き。  
それでもジーナは男の首に腕を回し、もどかしげな求めに応じていた。  
腰に触れた男の手が、そろそろと這う。  
「・・うぁ・・ん・・」  
脇から腰のくびれを、そして臀部を柔らかく刺激されて女は首を反らして甘い溜息をつく。  
男の左手が背筋を這い上がりジーナの首を押さえた。  
そして再び深く口付ける。  
彼女の舌を絡め取りながら口を吸うと、唾液がとろとろと流れ込んでゆく。  
 コクン、コクン  
ジーナの喉が小さな音を立てた。  
女の心に火が灯る。  
男の腰に足を絡め、くいと引き寄せた。  
「・・・ちょうだい。あなたが欲しいの、今直ぐ!」  
まだ潤みきってはいない肉壺に男の物をぐいぐいあてがう。  
ポルコの下で淫らに腰を蠢かせ、はしたなく身体を開く女は一匹の牝になりきっていた。  
 
ポルコはジーナの求めに応じ、彼女の中へ己を突き刺す。  
「んうっ!・・・ぅぅっ・・・マルコっ!」  
愛撫も無しに男を迎えた膣が、ぎちぎちと男のものを締め付ける。あまりの痛みにジーナはポルコの背中に爪を立てた。  
それでも更に深くまでポルコを飲み込もうと、男の腰に足をまわして強く引き寄せる。  
「っ!・・・くぅ・・・マルコ・・マルコ・・」  
一番奥まで男が届いた。それでもジーナはポルコを飲み込もうと足掻く。だが、これ以上奥へ入る筈も無く、ただ痛みが増すばかりだった。  
 ・・っ!・・やぁっ・・ぅぁ・・ぁぁぁぁ・・・・  
痛みの余り漏れる小さな悲鳴。そして嘆き。  
「・・あなたは確かにここにいる・・・ほら、私の中こんなに一杯になってる」  
ポルコは悲痛な面持ちでジーナを見つめ、何も言わず胸に抱きしめた。  
そして僅かに腰を引く。  
「やだ! お願い、もっと奥に来てよぉ・・・私の中に、私の奥にぃ!」  
男の胸の中でじたじたと暴れるジーナは、もう一度奥まで男を飲み込もうともがいた。  
「ジーナ・・・俺は、いや俺達はもう死んでいるんだ。もう、いない人間なんだよ」  
男の胸に抱かれるジーナがおとなしくなった。身じろぎもせず、男の胸に顔を埋めた。  
 ・・それでも、あなたはここにいる・・  
もう一度、男の背中に爪を立ててみる。ピクンと揺れる逞しい体。小さな呻き声。生きている人のからだ・・・  
「やっぱりいや・・・マルコはここにいる。幻でも夢でもなく、私あなたに抱かれてる」  
ジーナはその存在を確かめるように男の胸へと頬をつけた。  
しかしポルコは首を横に振る。  
「いま君を抱いているのは、マルコ=パゴットという男の幽霊と、死んでしまった君の夫達だ」  
 
ジーナは背中に回した手を解くと、少しだけ身体を反らして男の顔を見つめた。  
「それなら私が抱いてあげる。あなたの中のマルコを思い出させてあげる!」  
細く白い手で力の限り男の胸を押し、ポルコの体を脇に退ける。男のものが、ぎちぎち締め付ける膣の中から抜けた。  
女は男の体を仰向けにして体に跨り、ポルコのものに手を添えて己の中に導く。  
だが、彼のものが柔らかくなってゆく。  
いきり立っていたものから力が抜けてゆく。  
「・・・なぜ?」  
ジーナは呆然とポルコを見つめた。  
「なぜなの! ねぇ、どうしてなのよ! マルコ、なんでなのよぉっ!」  
女が拳を握り締めて、ドンっ!ドンっ!と思い切り男の胸を叩く。  
ポルコは、そんなジーナを悲しげに見つめると、自分の胸に抱き寄せた。  
「・・ゃ・・・ぃゃ・・・いやあぁぁぁぁぁぁぁっ! うああああぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・」  
ジーナはポルコの胸に縋り付いて泣き叫ぶ。  
皮肉な事に、いまになって彼女の股間は潤み、そして溢れていた。  
女はそれを知って更に泣く。  
ポルコはジーナをそっと抱きしめるしか術を持たなかった。  
 
 
翌朝、そっとベッドを抜け出したポルコは、ジーナの額に軽くキスをしてから部屋を離れた。  
もう、彼は振り替えらなかった。  
ベッドの中の女は、男の残り香に身をゆだねながら身を丸くして耐える。以前、あのアメリカ人に言った言葉を思い出し、そして後悔する。  
もっと単純に、純粋に恋すればよかった、想いをそのまま伝えればよかった・・と。  
 
飛行艇のエンジン音が響き渡る。  
やがてそれは小さくなってゆき、そして消えた。  
 

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