それは、鬼怒間会長が皇前卓球部部長に告白し、目出たく付き合うことになった日の出来事である。  
「お前達のおかげだ。礼をいう」  
 部長に対する気持ちをどうするか、何かとリンは天野と住と陽菜に(と、いっても、陽菜はほとんど聞いているだけであったが)相談していたことから、うまくいった首尾を彼女は真っ先に報告に来た。それでなくても、幸せな出来事というのは誰かにしゃべりたくなるものだ。  
 そんなリンに対しておそらく、最も役に立つアドバイスをしたであろう住は、  
「いえいえ」  
 にこにこと笑いながら、祝福した。  
「おめでとうございます」  
 陽菜が、謹厳実直に祝詞を述べる一方、おそらく、単に面白がって、二人の仲をつっついていただけであろう、まるで自分が彼女の恋にさも貢献したかのように天野は言った。  
「まー、断られるハズもないっスよ!」  
 さらに彼女は偉そうに、  
「筋肉苦手っていう弱点あるけど、それも愛の力で乗り越えられるハズ!! そのまま結婚までいっちゃってください!」  
 ご機嫌であった。特に、具体的付き合った経験がないから、どうすればよいかリンに聞かれたときに、言葉に詰まってしまって何も有効なことをいえなかったことから、天野はリンがうまくいったことにほっとしていた。それで、つい、調子のいいことが口に上ったのだ。  
その天野の様子から、意地悪なのか、天然なのか、住はにこにこと、  
「じゃあ、次は恵と佐々木くんだねー」  
「だからカンケーないって!!」  
 天野は、顔を真っ赤にして怒鳴る。住にしてみれば、天野が佐々木を好きなのは本当に見え透いている。天野の方も、住が気がついていることをほとんどわかっていながらも、話題をごまかすために、あわてて陽菜を持ち出す。  
「だいたいあたしだけじゃないっしょー?! るなっちだってまだ―――」  
 彼女くらいの美少女でも、付き合う相手はいないと言おうとしたが、  
「あ、天野さんそのことで相談が・・・」  
 陽菜は天野の言葉を遮った。  
「実は私の父が、私と社長の結婚をすすめているのですが、私はどうしたらよいのでしょうか?」  
 
(告白とか付き合うとかを一気に超えて、いきなり、結婚話?)  
その話に、住とリンは顔を赤らめ、一方天野は、  
「なー、もうっ!! どいつもこいつもラブリやがって―――!! どうせあたしは一人ですよーだ!!」  
 目元をうっすらと赤らめて、相談と言いつつも、実は満更でもないような陽菜の表情に、まるで、  
「私はあなたとはちがって、相手がいるのよ」と、言われたような気がして、天野はひがんでしまったようだ。泣きながら走り去っていってしまった。あまつさえ、遠くで「ばーか、ばーか!!」と捨て台詞まで叫んでいるようだ。  
「あ、天野さん・・・?」  
 仕事では有能だが、それ以外には天然で抜けたところがある陽菜は、天野の反応が理解できず、呆然と彼女を見送った。  
「それで? その話はどういう経緯で持ち上がって、どこまで進んでるの? 工具楽くんも了解してるの?」  
「うむ、参考までに、聞かせてくれるとありがたい」  
 住も、リンもすでに天野のことなど忘れ去って、興味津々だ。  
「あの・・・天野さんを追わなくていいのでしょうか?」  
 自分のせいで、彼女に不愉快な思いをさせたのかと、陽菜は少々見当違いの心配をしていた。  
「大丈夫、大丈夫、本気で傷ついてる訳じゃないから。十分もすれば、ケロッとしていつもの恵にもどってるよ」  
 何のかんの言いつつ、天野とつきあいの長い住はあっさりしている。で、実際に、その通りになるだろう。その件については、陽菜は住の意見を尊重した。  
「そんなことよりも、さっきの続きだけど・・・」  
「あ、はい。実は・・・」  
 ずっと、仕事で海外に行ってきた陽菜の父と、我聞の父が帰国したこと、そのときに、我聞と陽菜の仕事ぶりをみて、陽菜の父が二人が付き合っていると勘違いしたこと、  
さらに、また二人の父が海外に出張するにあたり、我聞に陽菜を嫁にもらってくれるようにと頼んだことなどを語った。  
 
「それで、どうするの?」  
「わかりません。社長も困っているようです」  
 結婚なんて、最初は冗談だとしか思えなかったが、陽菜の表情は困惑しながらも真剣で、からかったりするのは気が引けた。  
元々、まじめの上に生がつくぐらいの陽菜である。しかも、話が人生の一大事に関わることである。  
自分たちには当分先だと思っていたことが、彼女には目の前の現実として迫っていると見て取れた。そこで、住は質問を少し変える。  
「じゃあさ、國生さんは、どうなるといいとおもっているの?」  
「そうだ、どうしたいのだ?」  
 リンも同調する。  
「私は・・・・」  
 今まで通り、工具楽屋の一員として、仕事ができればいいこと、工具楽家の人たちも、  
家族同様にしてくれて、そのことが自分は嬉しくて、  
ずっと、この状態が続けばいいと思っていることなどを語った。  
(そういうことを聞いているんじゃないんだけどな)  
 住は思った。きっとリンも同様だろう。だが、陽菜がここまで自分の思いを自分たちに語るのは今までなかったことである。  
信用してくれているようになったんだな、と嬉しく思った。だからこそ、不用意なことは言えないし、また、いい加減にごまかしたくもない。何か、本人にとって有効な意見を言えれば、と思う。  
「そうじゃなくて、國生さんは、工具楽くんをどう思っているの?」  
 
「どう思っているか、ですか」  
 工具楽我聞・・・。  
 いつも一生懸命で、人が困っているとお節介なまでに世話を焼く人。  
少々考えが足りないところもあるが、根本的に優しいことは間違いない。  
そして、工具楽屋や、自分の家族を大事に思っていて、そのための努力を惜しむようなことはしない。  
ただ、努力の方向がよくずれていることが玉に瑕だが、それでも最近はかなりよくなってきていた。そういう人だ。  
 陽菜は素直に我聞について考えていることを答えた。  
「いや、そうじゃなくてだな」  
「國生さんは彼のことが好きなの? 嫌いなの?」  
 意図が伝わらないことから、住は単刀直入に聞いた。そこがわからなければ話が先に進まない。  
 やきもきする住とリンに、陽菜はあっさり、  
「好きですよ」  
 その言葉に、おおおっ、と思わず声を上げそうな二人に、陽菜はさらに続けた。  
「頼りになる方ですし、尊敬しています」  
 がっくり。そういう意味か!  
「特に困っている人に、気持ちだけで動けてしまうところが社長のいいところです」  
 あーあ・・・。  
 恋愛の方向からそれてしまった。  
脈なし・・・か。そうすると、陽菜は、結婚はきっぱりと断るという意志を明確にした方がいい。住が、そう忠告しようとしたところに、陽菜は続けた。  
「それと・・・そうですね、後先考えずに安請け合いしてしまうところは困りものですが、足りない部分は私がフォローすれば良いことですし・・・・私は社長について行くって決めていますから」  
 
 いつぞや桃子にも言ったようなセリフだが、初めて聞いた住とリンは思わず顔を見合わせた。  
(なんか、すでに一生共に歩く覚悟って感じだな)  
(うんうん、もう、何年も連れ添った奥さんが旦那さんにあきれてるんだけど、全部許しちゃってるくらい彼が好き、みたいな?)  
(それだ、それが近いな)  
(恵がすねるのもこれじゃ、しょうがないよね。本人が、どう思っているかわからないけど、これじゃのろけてるみたいなものですよねー)  
陽菜に背を向けて二人でひそひそと話した。  
「何を話しているんですか?」  
「い、いや、それで、いったい、どこが困っているんだ? それなら、結婚してしまえばいいではないか? 好きなのだろう?」  
「いえ、結婚とか、そういうつもりではありません。私は工具楽屋のために働いているのです」  
 だめだ、この娘は頭がいいはずなのに、経験のないことにはからっきしだ。自分の気持ちもよくわかっていないらしい。  
「工具楽の方は何と言っているのだ?」  
「社長も家族同然と言ってくださっていますし、私が工具楽屋でずっと働かせていただけるという点は問題ありません」  
「そうじゃなくて、結婚について!!」  
「社長も困っているようです」  
 話が元に戻ってしまった。堂々巡りだ。  
(國生さんって、実は天然ボケ?)  
(意外な一面だな)  
 たいしたやりとりでもないのに、陽菜との会話にだんだん疲労感が漂ってきた。  
「要するに、まとめると、結婚話は早すぎるってことか?」  
 リンは、我聞と陽菜が困惑していることについて、ごくごくありきたりの理由を出した。それに対し、  
「私は、そもそも誰かと結婚することを考えたことはありませんでした」  
 十二歳のときに、父を亡くして(実は生きていたが、そう思いこんでいた)、天涯孤独になったことから、もう、自分には人並みの幸せはないものだと思っていた。  
それが、先代に拾われて、工具楽屋で働かせてもらって、それだけで満足だった。だから、それ以上を望むのは、分不相応だ。  
 
 その話を聞いて、二人はまたひそひそと、  
(ようするに、本当は結婚して本当の家族になりたいけど、遠慮があって、できないってことかな)  
(それとも、まだ、本当の恋愛になれていなくて、自分の気持ちに気付いてないとか?)  
(ありがちですねー)  
「本当に、どうしたんですか?」  
「い、いや、それじゃあ、これからもずっと、その会社の秘書とやらを続けるつもりなのか? 一生?」  
「社長が許可してくだされば、ですが」  
 陽菜の返事にはためらいがない。  
「たとえば、工具楽くんが他の女の人と結婚しても? 國生さんはずっと一人で秘書をしているの? それでいいの?」  
「社長はきっと、私を置いてくれると思います。私はその信頼に応えるだけです」  
 確かに、我聞が陽菜に出て行けなどということはあり得ないだろう。だが、  
「しかしな、もし、仮にあいつが他の女と結婚していてだな、その奥さんは、おまえのような女が亭主の周りをうろうろしていたら、やっぱり不愉快になると思うぞ」  
 リンは皇の仕事のパートナーに、常に自分より美人の女が付き添っていたら、不安であるし、嫌だ。たとえどんなにきれいな関係でも、だ。  
 リンはそう言った。  
「國生さんの方はどうなの? もし、会長さんの言うとおりになったら、工具楽くんが他の女の人と一緒にいるのをずっと、何十年も間近で見ているんだよ? それでもいいの?」  
「私は社長の信頼に応えるだけです」  
 そう答えた陽菜には、少なくとも表面上は全くふつうの様子だった。  
 
「なんだか、私たちに相談って言ってたけど、本人が気がついてないだけで、とっくに答えが出てるみたいだったねー」  
 何とはなしに、住とリンは恵も交えて下校の道を歩いていた。話題はやっぱり先ほどの陽菜の態度だった。  
「何それ? 何の話?」  
 その場にいなかった恵がその話を聞きたがる。  
「だからね・・・・・・」  
 住はかいつまんで恵が走り去った後のことについて語った。  
「うーん、るなっちって、実は純情乙女? まったく、いつの時代の人よ。NOKの朝のドラマのヒロインかっての」  
 佐々木に対して素直になれない恵がまた偉そうに言う。立ち直りが早い。ちっとも懲りていない。まるで誰かのようだ。  
「でも、微笑ましいよね。あの二人。なんのかんのいっても結構お似合いだし」  
「さっさとくっついちゃえばいいのに、じれったい」  
「恵は佐々木くんに國生さんをあきらめてほしいだけじゃないの?」  
「さ、ささやんはカンケーないって!!」  
「いいかげんに素直にならないと、誰か他の人にとられちゃうよー」  
「だれが、あんなおちょーしモンの彼女になるってーの? そんな女の顔が見たいわ」  
 あくまで強がる恵に、やれやれ、と住もそれ以上は言わない。  
「しかし、なんだな。國生の気持ちが本人の中で整理されてないなら、我々がどうこうすることはできんだろう」  
 三人で一番背が低いものの、さすがにリンが年長者らしい意見を述べた。  
「そうですねえ、慎重に見守って、壊さないようにさり気なく手助けするくらいですかねえ」  
「えー? なーんだ、つまらない」  
「恵も、気をつけてよ」  
「わかったわよ」  
 
 一方、陽菜は我聞の教室を訪ねていた。  
「お疲れ様です。本日の業務ですが、山川ビルの解体です。現地には、保科さんが既に行っているはずですから彼女の指示に従ってください」  
「わかった。ありがとう」  
 放課後、授業が終わると、陽菜はいつもの通り我聞に仕事のスケジュールの確認を行う。とは、言いながらも、学校が終わってからの短い時間ではたいした額の仕事にはならない。  
しかし、本業が激減したので、小さい仕事といえども疎かにできない。しかも、いつもはどこをどうしているのかわからないが、おいしい仕事をとってくる辻原がまだ入院中である。  
(辻原さんが復帰するまで、何とか仕事をつながないと・・・・)  
 辻原が休職届を出して我也を探しに工具楽屋を出奔して以来、陽菜は中野井とともに営業にも出ていた。今は辻原も帰ってきてはいたが、真芝の第一研に進入したときの重傷が完治しないのだ。  
「それじゃ、行ってくるよ。國生さんの営業の方も、うまくいくといいね」  
「はい。社長もお気をつけて。それでは」  
 陽菜は我聞と校門で別れた。我聞は山川ビルに、陽菜はこれから営業に行くのである。  
営業まですることになって、当然、陽菜の仕事は増えたし、慣れないことに戸惑うことも多い。  
 それでも、工具屋のためと思えば、今の彼女はそのこと自体には、それほど負担には感じていなかった。負担ではないのだがしかし、ここのところ、営業に出かけていると、何となく気が晴れない。  
 本業のように、人目をはばからなければならないわけでもないし、やりがいはあるし、何よりも、仕事があれば我聞が張り切る。  
彼は、仕事がなければないで、トレーニングは欠かさないのだが、仕事しながら元気よく生き生きとしている姿を見ていると、彼女自身も元気がわいてくるような気がする。  
 そんなことを考えながら辻原にもらった営業先のメモを見ていると、ふと、ついさっき、住やリンに言われたことが心に浮かんだ。  
(國生さんの方はどうなの? 工具楽くんが他の女の人と一緒にいるのをずっと、何十年も間近で見ていなきゃならないんだよ? それでもいいの?)  
(私は、彼の仕事仲間に女がいたら嫌だ)  
 確かに、もし、我聞に彼女ができたら、いくら秘書でも、今みたいにずっと一緒というのは不自然だ。そこまで考えたとき、  
(負けないわよ! ハルナ!)  
 何の脈絡もなく(少なくとも陽菜自身は理由がわからなかった)、九州の静馬家に預けられる桃子の威勢の良い姿が頭の中に出てきた。  
(どうして、桃子さんのことを思い出すんだろ?)  
 
 真芝が壊滅して以来、桃子は工具楽屋の寮に移り住み、果歩と同じ普通の中学校に通い始めていた。それで、時間があると何かと工具楽屋に顔を出し、頼んでもいない仕事を引き受けていた。  
 やっている仕事は主に、優の手伝いだが、優の趣味丸出しの仕事ぶりとは違い、ひたすら工具楽屋のためにまじめに技術開発をしていた。  
 さらに、時間があると、陽菜の経理の手伝いもしてくれていた。当然、我聞のような単純な計算ミスなどするものではない(笑)。  
 現在の桃子と同じ十四歳の時、自分はどうだっただろうか?  
 そのころの自分は、工具楽屋で働き始めて、二年弱。ようやく努力の甲斐あって、仕事の失敗も減ってきて、実際に少しはみんなの役に立てるようになり始めたばかりだった。  
 元々、陽菜は、実は、それほど器用な方ではない。それが、工具楽屋でも一目置かれるようになったのは、ひとえに早くから「仕事」というプロの世界に身を置いて、そのために一心不乱に自分を磨いてきたからだ。  
 そんな一方、桃子は十四歳の身で、既に真芝の研究所の所長。少し、場数を踏めば、今陽菜ができている程度の仕事はあっさりとクリアするようになるかもしれない。  
 
 桃子が我聞を慕っているのは間違いない。  
 それが、単に命の恩人だからなのか、それとも、男性として、我聞を見ているのか。  
 そもそも陽菜はその方面に関しては、今まで興味を持ったことがなかったことから全くわからない。  
 だが、もし、桃子と我聞が結婚したら、自分はどうなるんだろう?  
 先代に拾ってもらった当時、陽菜は我也に対して、父親を慕うような気持ちで仕事をしていた。  
 実際、仕事をしている時は、我也は陽菜の父親と言ってもよかったのだ。  
 しかし、たまに、仕事場に工具楽屋兄姉妹弟が現れると、我也はやはり彼らの父親で、自分は単なる一社員だということを思い知らされて、  
疎外感から、我聞を始め、工具楽屋兄姉妹弟のことはあまり好きにはなれなかった。  
 いまは、もう本当に家族同然と言ってもらっていることから、工具楽屋兄姉妹弟に感じた嫉妬にも似た疎外感を感じることはない。  
 だが、もし、桃子と我聞が将来結婚し、自分は秘書、という立場だったら・・・・。  
 そのときは、我聞は、桃子とその子たちのものとなっているはずだ。そして、果歩、珠、斗馬は家を出ているだろうから、また、あのときの疎外感を感じるような生活に戻るのだろうか?  
 もし、そうなったら自分は・・・・・。  
 
 住に聞かれたときは即答で、それでも良いと返答したものの、今、深く彼女の言葉を具体的に吟味してみると、そのときの自分の考えの浅さに愕然とする。  
 
 陽菜が、そこまで考えたときに、ふと、時計に目をやる。  
(いけない! アポを取っていた時間!)  
 ついつい、物思いに沈んでいる間に、予定の時間を過ぎてしまっていた。  
 慌てて、スーツに着替えて得意先まわりに出かけた。  
 
 しかし、その日の営業の成果は、やはりというか、散々であった。特に、最初に予定していた相手先の指定時刻に遅刻したのは痛かった。  
「約束した時間を守れないような相手とは仕事することはできん」  
 たいした時間の遅刻ではなかったものの、中小企業の主で、謹厳実直、頑固を地でゆくような相手だったことも運が悪かった。  
 こんなとき、辻原であれば、調子のいい嘘を並べ立てて、自分のペースに巻き込み、何とかしたことであろうが、陽菜にそのような真似ができようはずもなかった。  
 特に、常日頃から約束を破るのは最大のタブーとしている彼女は、相手の正しさにただただ平謝りに謝ることしかできなかった。  
 
 ぼんやりしていて、時間に遅れて、言い訳できるようなこともない・・・・・。  
 
 ただでさえ、相手は高校生の自分を小娘と思って、信用しない傾向があるのだ。  
 結局、五件ほどまわった先は、得意先である二件は何とか許してもらえたが、あとの三件はほとんど門前払いも同然であった。  
(社長の信頼に応えられなかった。こんなことじゃ・・・)  
 仕事に集中できないなど、陽菜らしくなかった。  
 しかも、特に体調が悪いわけでもなく、基本的なことである、約束の時間を守るということを凡ミスで失敗するなど、自分が信じられなかった。  
(どうしよう、みんなに合わせる顔がない)  
 ここで、深刻になってしまうところが、陽菜の欠点であった。  
 優だったら、  
「あー、ごめんごめん、失敗しちゃったー。次がんばるねー」  
 とか言って、ケロッとしているところだ。  
 仕事に対して、プライドが高く、まじめなところはいいのだが、自分に厳しすぎる傾向があるのだ。  
 陽菜は、工具楽屋に帰りにくくなってしまい、今日最後の相手先の近くの公園で落ち込んでしまっていた。  
 そこで、ふと、思い出して、辻原にもらったメモを取り出す。  
 メモには、今日出かけた相手先の他に、三件ほど、会社の住所が書いてあったが、その上に打ち消しの二重線が引いてあった。  
「その三件は、行く必要がないです。陽菜くんに行ってもらうようなところじゃないんですよ」  
 メモをもらったときの辻原の言葉を思い出す。  
(でも、失敗した分は取り返さないと)  
 陽菜は三つのうちで、その場所から一番近い会社から訪ねることにして、公園を後にした。  
 
 
「ちくしょう、人使いが荒すぎるぞ、あの女」  
 我聞と一緒に山川ビルの解体に来ていた番司は、仕事が上がるなり保科に対し、ぶーたれていた。  
 もっとも、彼も仕事がなくて、我聞と一緒に保科に仕事をまわしてもらっている立場であるから、面と向かってはあまり強いことは言えない。  
「それにしたって、安すぎるぜ。土方のバイトと大差なねえ」  
「おい、それくらいに・・・・」  
「おめーだって、パシらされてるじゃねえか、なんで・・」  
「使ってやってるってのに、だれが人使いが荒いって?」  
 その言葉と同時に、保科の正拳突きが番司と我聞に突き刺さる。  
「なんでオレまで・・・?」  
 悶絶しながら我聞が抗議する。  
「うるせー、お前の監督不行届だ! 後輩の教育はしっかりやっとけ!!」  
 仙術使いの後ろを取るとは保科も侮れない。  
 あるいは番司と我聞が未だに未熟者なのか・・・・。  
 言いたいことと、やりたいことをやると保科は引き上げていった。  
 
「あーあ、ちぇっ! この程度のビル、仙術さえ使えりゃ、あんな女にでかい顔をさせるこたねえのに」  
 保科が消えると、頭から水をかぶりながら番司はまた少し不満を漏らす。  
「まあ、そういうな。あの人だって、普段から努力しているんだ」  
 保科のユンボに対する思いと努力を知っている我聞が取りなす。  
「おめーだって、殴られてんじゃねえか。それともなにか? ああいう女がいいのか?」  
「いや、保科さんに手を出すのはいろんな意味で問題があると思うが・・・(気性は荒いし、見た目は中学生みたいだし)」  
 その答えに、番司はフン! と不満そうに鼻を鳴らす。  
「ところで、今日はもう上がりなんだよな。少しつきあえよ」  
「そうだが、遅くなると果歩が心配する」  
「あの生意気な妹か」  
「む?! 良くできた自慢の妹だぞ。訂正しろ」  
 こわしの仕事でなければ、いつも温厚で、どこか天然ボケがはいっている我聞が珍しく険しい声で返す。大事な家族に関して、彼は少しムキになる傾向がある。  
 それを見て取った番司は素直に謝る。  
「わりい。だが、まじめな話だ。少しつきあってくれや」  
「む、いいだろう」  
 
 人気のない空き地で、番司は切り出す。  
「このあいだ、陽菜さんのおやじさんとおめーの親父さんが、出かけるときの騒動は覚えてるよな」  
「ああ・・・、それがどうした?」  
 例の武文が我聞に娘を嫁にもらってくれと頼んだことから、我聞は、我也と工具楽弟妹と番司まで巻き込んで大乱闘を演じたときのことである。  
「あの話をおめーはどう思っているんだ?」  
「い、いや、家族同然といったが、結婚とかは・・・・」  
 そもそも、陽菜の気持ちはどうなのかわからない。それに、陽菜はともかく、高校二年の我聞はまだ結婚できる年齢に達してさえいない。  
「おめーは陽菜さんを家族同様と言ったが、オレは陽菜さんに一人の男として、交際を申し込むつもりだ」  
 真剣な番司の様子に我聞は、心が動揺するのを感じた。思わず大声を出す。  
「そんなこと、國生さんが受けるはずがない! 國生さんは工具楽屋の家族だ」  
「別に、家族だろうが、他人と付き合って悪いことはねえだろ。とにかく、オレは陽菜さんが好きだ」  
 その宣言に我聞は精神的にやや圧倒される。  
「もし、おめーも陽菜さんが好きなら、正々堂々とオレと勝負しろ。単に仕事の上での関係なら、保護者でもないおめーに文句を言われる筋合いはねえぞ」  
「し、しかし、國生さんの気持ちも考えなければ・・・」  
「だから、アタックするんじゃねえか。何にもしなかったらどう思っているかもわからねえ」  
 きっぱりと言い切る。  
「で、おめーはどうなんだ? 陽菜さんをどう思っているんだ?」  
 奇しくも、陽菜が昼間、住に聞かれたこととおなじ問いを番司は我聞に発した。  
 
 國生陽菜・・・。  
 工具楽屋社長秘書。  
 同じ学校の卓球部で一緒の女生徒。  
 いつも冷静で、常に工具楽屋のためを思って仕事をしている人。  
 少々きついところもあるが、最終的にはうっかり自分を何のかんの言いながらもフォローしてくれる。  
 きっと根本的には情に厚いからだろう。  
 そして工具楽屋の業務を大事にして、そのための努力を惜しむようなことはしない。  
 ただ、失敗に厳しすぎてとっつきにくいところがあるのが玉に瑕だが、それでも最近はずっと柔らかく、融通がきくようになってきていた。そういう人だ。  
 
 我也が行方不明になって社長を継いで間もない頃は、陽菜は仕事第一でそれ以外のことを切り捨てる傾向があって、ことさら我聞には厳しかったことから、正直、彼女のことが苦手であった。  
 それが、様々な仕事を通じて、だんだん信頼されていくようになってくると、無表情で冷たい印象の強かった彼女も、いろいろな表情を見せてくれるようになっていった。  
 卓球部の活動にしても、学校の行事にしてもそうだ。  
 卓球の勝負にムキになってみたり、喫茶店のメイドの衣装を着て会長に食い下がったり、笑顔を見せることも格段に多くなった。  
 
 自分は彼女のことが好きなのか?  
 
 自問する我聞は、すぐに彼女が好きであるという答えが出るが、それが、いわゆる女性に対してのものであるかというと、ピンと来ない。  
 だが、たとえば、自他共に友人という認識がはっきりしている、同じ卓球部の天野や住に対するものと同じかというと、それは明らかに異なる。どちらかというと、絶対的な信頼を置いているという意味で、果歩や珠に感じる感情に近いような気がする。  
 
 結局、陽菜をどう思っているかという番司の問いには「わからない」と答えるしかなかった。その答えに、白黒はっきり着くことだけを考えていた番司は拍子抜けをする。  
 もし、我聞が陽菜を何とも思っていなければ、たとえ玉砕するにしても大手を振って陽菜にアタックできたし、我聞が陽菜のことが好きならば堂々の勝負というわかりやすい形になっていたはずだ。  
「真芝壊滅の立役者もだらしねーなー。そんなことなら陽菜さんはオレがもらうからな」  
 番司は宣言して引き上げていった。  
 
 悶々と悩みつつ、我聞は、工具楽屋に帰り着いた。そこでは、中野井と優が不安げな様子で我聞が戻ってくるのを待っていた。  
「あ、社長、陽菜くんと一緒じゃなかったのですか?」  
「え? 國生さんは今日は営業の方に出ていたはずじゃ・・・・?」  
 中野井の心配そうな問いに、我聞は怪訝な顔で答える。  
「それがまだ戻ってないのじゃよ。予定していた相手先は全部確認したのじゃが、最後に行った会社を出てからも、もう二時間以上も経っているんじゃ」  
「それで、もしかしたら、我聞くんの方に行ってないかと思って・・・」  
 携帯に電話しても電源が切られているらしく繋がらない。陽菜に限って、途中で寄り道して遊んでいるということは考えられない。  
「いったい、どうしたんだ・・・」  
 
 
(ここは・・・・?)  
 陽菜が目を覚ますと、あたりはすっかり暗くなっていた。少し頭がぼんやりしている。  
 陽菜は順番に思い出そうと頭を振った。そう、新たな取引先を得ようと、辻原のメモを元に、飛び込みの営業を行っていたはずだった。  
 それなのに、なんだか口の中に違和感を感じるし、両手が不自由だ。それに寒い。彼女は寒さに思わず身震いをした。そこで、はっと気がつく。  
(な?! どうして裸に?! それに、この革のベルトは?!)  
 そう、陽菜は両手をがっちりと革製のベルトで拘束されて、全裸で万歳の状態でかろうじて足が着く高さにつり下げられていたのだ。身につけていたはずのスーツと下着は、ごちゃごちゃに床に散乱していた。  
 それだけではなく、さるぐつわまで噛まされ、声を出すこともままならない。よく見れば、暗いのも当たり前、上方に明かり取りの小さな窓があるものの、今いるこの部屋は半地下のようである。  
 明かりといえば、足下にある卓上用の電気スタンドだけである。  
(どうしてこんなことに?! 社長・・・・!)  
 さるぐつわを噛まされているので、叫んで助けを呼ぼうにも呻り声にしかならない。  
 そして、少しでも両手を拘束しているベルトを弛めようと懸命にあがく。  
 と、そこへ、  
「おや、お目覚めのようだねえ」  
「へっへっへ・・・・」  
 初老の女の声と、下卑な複数の男の含み笑いが聞こえた。  
 
 時間は少し遡る。  
「このように、ビル・建物の解体を安全にかつ確実にお客様のニーズに合わせて行っております」  
 辻原のメモに書かれ、打ち消し線がしてあった三件のうち、今日予定していた最後の営業先から最も近かった会社で、陽菜は五十代らしき女社長に、工具楽屋の業務を説明していた。  
 この会社は、不動産関係を扱っていて、時間がなかったため簡単にだが、調べたところ当然古いビルの解体の機会も熟知しているとの情報であった。  
「安いのはいいとこだが、仕事ぶりが信用できるのかねえ?」  
 女社長はうさんくさそうに陽菜を横目で眺める。  
 営業するようになった最初のうちは、陽菜に対してそういう風に接する顧客の態度に内心腹を立てたが、最近は当たり前のこととして受け入れるようになっていた。  
 なにしろ、陽菜はまだ高校生なのである。いくらスーツを着ていても、世間一般の常識からすれば、こんな歳の若い女の子が一人で飛び込みの営業を任せる会社など信用できるものではない。  
「仕事の質ですが、お気に召さなければ最初の支払いは結果を見て下さった後で結構です」  
 陽菜は食い下がった。  
「ふーん。ところで、あんた、ずいぶん若いねえ。なんで解体業なんかやってんの? 学校とかに行かなくていいの?」  
 陽菜は、お世話になった工具楽家のためにも、学業と兼業で働いていることを説明した。  
 すると、女社長は感心したようだった。  
「いいだろう。今時感心な娘さんだ。なかなかしっかりしているようだし、あんたに免じて試しに一度頼んでみようか」  
「ほんとうですか?! ありがとうございます!」  
 陽菜の顔がパッと、晴れる。  
「まあ、とにかく、長々としゃべってのどが渇いただろう? コーヒーを入れ直すから飲んで行きな。わたしゃ、コーヒーにはうるさくてね。自信があるんだ」  
 
 そう、そのまま女社長が淹れてくれたコーヒーを飲んで、それから気がついたら裸で吊されていたのだ。  
「上玉じゃねえか。歳はいくつだ?」  
 三人いる中の一人の男が陽菜のあごに手をかけ、顔を上に向かせて品定めする。陽菜は辛うじて自由な両足をばたつかせて抵抗しようとするが、そもそも腰が伸びきった状態であるので、蹴れたとしても力が入らない。  
「十七歳の女子高生だとさ。さっき所持品を確かめたのさ」  
 女社長がにやにや笑った。さらに、陽菜に対して、ここは、不動産関係と言っても、いわゆる非合法な取引、有り体に言えば地上げのような土地転がし、不法占拠などを行うところだと告げた。  
(暴力団の事務所だったんだ・・・)  
 だから、辻原は陽菜に行くなと言っていたのだ。せっかくの彼の心遣いを、陽菜は拉致されたことで台無しにしてしまった。  
「さて、裏モノを撮って、後はヤク漬けにしてウリに出すんだろ。とりあえず、味見をしようか」  
 本番を裏ビデオに撮って、ボロもうけした後、麻薬漬けにされて、売春婦として稼がせようと言うのだ。  
 陽菜はその、あまりにも生々しくもおぞましい未来に恐怖でがたがたと震え出す。真芝第一研で我聞と我也が倒れ、追いつめられたときもこのような種類の恐怖は感じなかった。  
 あのとき、自分はどうなっても我聞を助けてほしいと思ったが、どうなっても、というなかに、具体的に自らの身体が陵辱されることまで考えていたわけではない。  
 陽菜の価値観は潔癖で、しかも、工具楽屋の本業に関わっているとはいえど、俗世の欲望に関しては未だ年齢相応に世間知らずであった。  
 
「待ちな」  
 女社長が手下たち三人が服を脱いで陽菜を陵辱しようとするのを制止した。  
「なんでだよ? いまさら仏心か?」  
 男達は不満そうな声を上げる。  
「お前達を呼んだのは、写真を撮らせるためだよ」  
 女社長は地上げ屋以外にも、副業として、売春や裏ビデオの撮影販売をやっていて、それには家出娘などを使っていた。つまり、そのためには身元が割れにくく無防備な少女が必要だったのだ。  
 そこに、陽菜が営業の際に漏らした、父親が遠くに出張に行っていて、知り合いの会社に世話になっているという情報から、この娘をどうこうしても、すぐには発覚しないと踏んだのだ。  
 話しているうちに、陽菜を拉致すると決めた女社長は、契約すると言って、陽菜を油断させて、コーヒーに睡眠薬を盛った。陽菜が意識を失うと、この部屋に運んで売り物になるかどうか身体を確認した。  
 そうすると、この娘はまだ生娘なことがわかった。処女は価値が高い。処女を抱けるのならと、金に糸目をつけない輩は大勢いる。しかも陽菜は美少女だ。どのくらいの値が付くか、考えただけでもよだれが出る。  
「いいかい! あんたらがやるのは、この娘の処女を売った後だ。商品価値を下げるようなことをするんじゃないよ!」  
「・・・へーい」  
 明らかに不満そうだが、手下達は女ボスに従った。  
 その後、陽菜はポラロイドであらゆる角度から裸体を撮られてしまった。その写真を得意先ばらまくことで、陽菜の処女を競りにかけるのだ。  
 写真を撮られている間中、陽菜はあまりのことに、怖くて、恥ずかしくて、涙が止まらなかった。  
(お父さん、お母さん、社長・・・・・)  
「でもよー、何だって、ポラロイドなんだよ、今時? 画像もわりィし、デジカメで撮って、ネットでばらまけば簡単じゃねーか?」  
「ばかだねえ。ネットで配信すればログが残るだろうが。メールでも、サーバーの管理人の目に触れるだろう?」  
 顧客は大金持ちで、いわゆる社会的地位ってのが高い奴らが多い。そういう輩と安全に信用関係を結ぶには、アナログの方が都合がよく、また、あまりはっきりした画像よりも、本物を手に取りたくなるような微妙に不鮮明なものの方が購買意欲をかき立てるのだ。  
 そう、ボスは自らの売春哲学を語った。  
 後になると、陽菜が処女であったこと、女ボスが用心深かったことが、陽菜達にとって最後のところで幸運だったということがわかることになる。  
 
 
(國生さん、どこに行ったんだ・・・)  
「とにかく、手分けして捜そう」  
 陽菜が行方不明と聞いた我聞は、いてもたってもいられず、  
多少大げさになっても、みんなで捜しに行こうと主張した。  
仮に、陽菜が何かの都合で連絡が取れないだけだとしてもいい。  
 それならせいぜい、陽菜はあきれた目で自分を見るだろう  
が、後で笑い話になるだけだ。  
 だが、下手をすると、「本業」関係のトラブルである可能性  
がある。  
「最近、本業はなかったけど、真芝の残党とかが復讐を狙っていたのかも・・・」  
 優も不安げだ。中野井の顔にも緊張感がみてとれた。  
「人手が要りますな。しかも、『本業』をある程度理解してくれている人間が」  
「じゃあ、とりあえず番司くんにも来てもらおうよ。彼なら力  
になってくれるだろうし、仙術関係者だし」  
 我聞は、ついさっきあのような陽菜に対するアタック宣言を  
されたばかりだったので、複雑な気持ちだったが、背に腹は代  
えられない。  
 電話で事情を話すと、番司はタクシーですぐに飛んできた。  
「陽菜さんが行方不明だと?! てめー、家族を守るとかいっときながら、なにやってんだ?!」  
 そのセリフは我聞の心にグサリと突き刺さった。番司に言われる  
までもない。本人がそれは一番気にしていることだ。もっとも、  
今回のことで我聞をどうこう言うのは筋違いだろう。  
(陽菜さん、絶対オレが助け出して見せます)  
 まだ、陽菜がどこその敵に捕まったとも限らないのに、番司は  
もうすっかり姫君を救出に赴くナイトのつもりだ。  
 
 とにかく、探す場所と手順を決めなければならない。  
 優は、もし、陽菜が帰ってきてもいいように、工具楽屋で待機し、  
中野井は内閣調査室の西に連絡を取ることにした。  
 そこで、我聞と番司は手分けして、陽菜が最後に廻った営業先  
から工具楽屋への道を何度も往復して陽菜を捜したが、手がかり  
すら見つからない。  
(本当に、真芝の残党に掠われたのかも・・・・)  
 ついつい、悪いことばかり考える。  
「ええい、他に陽菜さんが行きそうな場所をどこかしらねえのか?! おめーは?! 行きつけの店とか、何か?!」  
 番司は、苛立ちから、我聞を責める。それに対して、我聞は確信を持った口調で答える。  
「いや、國生さんが連絡をしないまま、こんなに遅くなって、オレ達に心配をかけることはあり得ない。絶対に何かあったんだ」  
 第一研に潜入した辻原からの連絡があって、その電話が切れて、  
頭に血が上ったあの日。  
「約束してください。必ずみんなで帰ってくること」  
 我聞は陽菜に約束した。自分にその約束をさせた彼女が、  
自分達に心配をかけるようなことをするわけがない。  
 我聞の確信を持ったその言葉で、番司は自分が我聞に比べて、  
陽菜のことを全く知らないことに気がつく。  
 そして思わず、我聞の顔を見直す。我聞は普段のにこやかな彼に似合わず、  
表情が強張り、陽菜を失うことへの恐怖にも近い心持ちで、彼女を心配して  
いることが見て取れた。  
(やっぱりこいつも・・・・)  
 その表情で、番司は我聞の気持ちを読み取った。  
 そんな番司の様子には気がつかず、なおも考える我聞は、そこで、ハッと思いつく。  
「もしかしたら、辻原さんのところへお見舞いによっているかもしれない」  
 営業のノウハウを教えてもらいがてら、お見舞いに行っているということは  
十分考えられそうだ。それに、もしそうなら、携帯の使用が御法度の病院で  
陽菜の携帯の電源が切られている理由もわかる。  
 もっとも、いつもの陽菜であれば、仮にお見舞いに行くにしても、  
工具楽屋の方にも一言連絡をいれてから行くだろう。  
 とにかく、思いついた可能性にすがって、二人は辻原が入院している病院に向かった。  
 
「辻原さん、予定の時間をとっくに過ぎているのに國生さんが社の方に戻ってこないんです。今日は、こっちに来てませんでしたか?」  
 辻原の病室を訪ねるなり我聞は切り出した。対する辻原は、  
病院の早い夕食をとっくに終えて、のんびりと雑誌を眺めて  
いたところだった。  
「いいえ、今日は来てませんよ。昨日営業先のメモを渡したばかりですから特に来なきゃならない予定はないはずですが」  
「寮の方にも帰ってないようなんです。今、社の方には優さんに待機してもらっていますけど、何の連絡もないんです」  
「それは妙ですねえ」  
 辻原も考え込んだ。  
「何か心あたりはないですか? どんな些細なことでもいいんです」  
 我聞はわらにもすがる思いだった。  
 その必死の様子に辻原は何か思うところがあったようだが、それはさておき、陽菜がたち廻った先については思い出したことがあった。  
「もしかすると、行かなくていいと言っておいたはずの、あそこに行ったのかもしれません」  
「なんだそりゃあ?! どういうことだ?!」  
 番司が病院だというのに大きな声を出す。  
「やめろ、番司。どういうことです?」  
 我聞が辻原に聞く。それを受けて、辻原は話し出した。  
 
 元々、陽菜に渡した営業先のメモは、辻原が自分用に作成したものだった。  
辻原自身であれば、元は裏の人間。暴力団関係の多少やばい相手でも、  
相手の後ろ暗いところをつついて、交渉を優位に運ぶこともできたし、  
腕力沙汰になっても排除できる。いままで、工具楽屋に取ってきた  
おいしい仕事の何割かは実はそういう相手だったのだ。  
 ところが、陽菜にそんなことを説明するのは、まだ時期尚早と判断した。  
なぜなら彼女は未だ高校生であって、会社を経営する上で、大人のそういう  
汚いところに関して免疫がないからだ。  
また、彼女自身が優等生であり、ルールを破ることに対する抵抗があり、  
蛇の道は蛇的な感覚もない。  
 だから、営業先を書いたメモを渡すとき、今の潔癖な彼女が行っても  
差し支えのないところ以外は、打ち消し線を引いて、また、その場所は  
廻らなくていいと言っておいたのだ。  
「ですが、きっと、陽菜くん自身が気を利かせたつもりだったのでしょう。完全に塗りつぶすか、はっきり理由を説明して行くなと言った方が良かったかもしれません」  
 裏の仕事に精通する辻原といえども、やはり、やくざと取引しているなどとは、  
工具屋の面々にはあまりあまり知られたくはないことでもあった。  
 我聞が成長すれば、社長である彼には、いずれは言わざるを得ないことであったが、  
今回は自分が復帰するまでの短い間であったし、しばらくは汚れ仕事は  
全部自分が引き受けるつもりだったのだ。  
 
「てめーのミスが原因か?!」  
「やめろ、番司! そんなことより、その三カ所というのは?」  
「ええ、こちらです」  
 地図を広げて場所を示す。現在三人がいる病院からはどれも同じくらい離れていて、  
しかも相互にも結構離れている。  
 その三件に、試しに電話をかけたが、どこも工具楽屋の者は行ってないという。  
 だが、おそらくどこかが嘘をついている。何となくだが、我聞はそう思った。  
そうすると、三件の中で、國生が最初に訪問したところが最も怪しい。訪問した後、  
無事にそこを出たなら、嘘をつく必要がないからだ。  
 もっとも、本当に陽菜がその三件の内のどこかを訪問していれば、だが。  
「やっぱり、直接探りに行くべきだぜ。どこから廻る?」  
「とりあえず、我々も三手に分かれましょう。一刻も早く救出に行った方がいいです」  
 辻原は着替えながら病院を抜け出す準備を始めた。それに対し、番司が地図を睨みながら聞く。  
「どこが一番可能性が高い? 誰がどこに行く?」  
「多分、ここが一番怪しいと思う」  
 三カ所の内の一つを指し、我聞がきっぱりと言った。  
「その根拠は?」  
「國生さんが、今日最後に廻った先から一番近い。その三件を廻るなら、そこから廻るのが一番効率がいい。國生さんならそうする」  
(ちっ! そうかよ・・・)  
 内心で番司はため息をついた。結局、陽菜を理解して心が繋がっているのは、  
我聞であって、自分は所詮、彼女にとって「商売敵」でしかない。せいぜい、「同業者」、か?  
 確信を持って言う我聞に番司は、  
「わかったよ、おめーはそこへ行け。他の二件はオレ達に任せろ。その代わり、絶対助けろよ」  
「もちろんだ」  
 
 
 陽菜の全裸写真を撮り終えた女ボスと手下達は、吊されたままの  
陽菜を残して部屋を出ると、きっちりとドアを施錠した。  
これでは万が一拘束から逃れたとしても、逃げ出せるものではない。  
 もっとも、女ボスにしてみれば、手下が勝手に陽菜を味見すること  
を防止する意味もあったようである。  
(辻原さんが行かなくていいって言ってたのは、こういうことだったんだ・・・・全部見られちゃった・・・・見られちゃった・・・私・・・・社長・・・!)  
 既に自らの身体を汚されたように感じて、陽菜は絶望感からまた泣いた。  
今度こそ、もう恥ずかしくて工具楽屋のみんなにも会わせる顔がない。  
 だが、そのとき、  
 
 あきら・・・める・・・な・・・  
 
 洗脳された父に追いつめられて、絶望したあのときの我聞の声が、  
陽菜の記憶の底から聞こえた。  
 
 あきらめちゃだめだ・・・國生さん・・・・  
 
(そうだ、しっかりしなきゃ・・・)  
 まだ、現実に犯されたわけではない。少しでも逆転の可能性を高くする  
ように努めなければ・・・。  
 このまま泣いていても、売られてしまうのを待つだけだ。  
 それに、我聞は絶対に心配して今頃陽菜を捜してくれているはずだ。  
 
(そう、社長は絶対に助けに来てくれる。だから、まず、泣くのをやめて、呼吸を整えて・・・それから・・・・)  
 
 よく考えなければ・・・。陽菜はまず、拘束にゆるみができないか確かめてみた。  
だが、幅広の革のベルトはラバーを挟んで陽菜の両手にしっかりフィットしていて  
抜けられるものではない。  
 
(だめ、私の力じゃとても無理・・・。他になにか使えるものは・・・)  
 冷静にもう一度いろいろと考えてみる。連中は陽菜にさるぐつわを噛ませている。  
それは、騒がれると困るからである。なぜ困るかというと、騒がれると人に知られる  
からだ。  
 
 そう、騒げば声が届く距離に助けてくれそうな人がいるということだ!!  
 
 きっとこの部屋は半地下と言っても、それほど防音性のいい建物でもないのだろう。  
大声を出せば通りにいる人が気づいてくれる可能性が高い。  
 何か大きな音が出せるものはないだろうか? そうでなかったら、光か、煙か・・・・。  
 陽菜は改めて部屋の中を見回す。だが、そこはやはりガランとした殺風景な部屋であり、  
あるものと言えば、床に散乱する陽菜の服と、点いたままの卓上用の電気スタンドだけだった。  
 その電気スタンドも、陽菜が辛うじて自由になる足の届く範囲からわずかに遠かった。  
 
 あのスタンドの光を明かり取りの窓に当てられれば・・・・。  
 
 外部に向かってSOSを発することができるかもしれない。しかし、必死で足を伸ばすが、  
どうやってもスタンドには届かない。心が折れそうになるのを必死でこらえて、  
さらに方法を考える。  
 そこで、とりあえず足が届く範囲にあった服を引き寄せる。  
だが、手を使わなければ、服を着ることはおろか下着を身につけることもできない。  
 それに、服にはライトの類は入れていなかったし、武器になりそうなものも、  
大きな音を出せそうなものもなかった。  
 しかし、ある事件以降、肌身離さず大事にしていたものスラックスのポケットに入っていた。  
 陽菜はわずかな望みをかけてそれを取りだした。  
 
 
『東和建設』  
 我聞は、目的の会社の前に着いた。  
 本当に陽菜はここを訪れたのか?  
 さらに、別の場所に移されず、まだここに捕らわれているのか?  
 それだけではなく・・・陽菜は無事でいるだろうか?  
 
「社長、行く前に、一言だけ」  
 病院を出発する時に辻原に呼び止められた。  
 辻原は、我聞が行こうとしている会社は、単に地上げ屋なだけでなく、売春の斡旋も行っているらしいことを告げた。  
 つまり、陽菜は既に辱めを受けている可能性がある点を覚悟しておいた方がいいというのだ。  
「そんな!!」  
「とにかく、なにかをされてしまっていても、彼女を包んであげられますか?」  
「当たり前です! そんなの陽菜さんのせいじゃない!」  
「では、行きなさい。気をつけて」  
 
 陽菜が行方不明になってから既に三時間以上経つ。「何か」をされるには十分な時間だ。  
 だが、どんなことになっていても陽菜は自分たちの家族だ。  
(とにかく、突貫だ! なんとしても國生さんの居場所を問いつめてみせる)  
 我聞は門をくぐった。  
 
「ほうほう、それは関心だねえ。その若さで会社を切り盛りしているとは」  
「いえ、社長ですから」  
「いやいや、しっかりなさっているこった。将来が楽しみだねえ」  
「それほどでも・・・」  
 意を決して『東和建設』の扉を叩いたものの、応対した初老の女性は穏やかそうな人物で、我聞はすっかりほのぼのとした相手のペースに、ドップリはまってしまっていた。  
 契約を取り付けようと焦ったとはいえ、陽菜でも見破れなかった女社長の本性を、お人好しで単純バカの我聞があしらわれるのは無理もない。  
(こ、これはなにかの間違いだったか?)  
 
 あまりに穏やかそうで品の良さそうな初老の女性が、  
応対する者であったことから、我聞には迷いが生じていた。  
 元々、あまり人を疑うということがないところが我聞の長所だ。  
最初、陽菜がここを訪ねたはずだと相手に詰め寄ったものの、  
あっさりかわされてしまった。  
 しかも、相手の老婦人は我聞のいささか非礼とも言える訪問と目的にも、  
穏和な態度を崩さず、我聞の必死さに同情の言葉さえかけてくれたのである。  
 だが、ここは、ある程度確信をもって来たのだ。どう考えても、  
効率を重視する陽菜は、順番からして他の二件よりも先にここを訪ねたはずだ。  
(しかし・・・この人が悪党とはどうしても思えない・・・・)  
 辻原にも、この会社の人間が売春を斡旋しているらしいことも聞いている。  
 内心悶々としながらも、何とか話をつないで建物内を調べる許可を取ろうとするが、  
相手はにこやかな態度を崩さずに言う。  
「早く社員の人が見つかるといいねえ」  
 老婦人は言外に「話は終わったよ。うちは関係ないよ、よそを捜しな」と言っているのである。  
 ここで、はいそうですかと、引き下がりたくはなかったが、かといって、  
礼儀から言っても「家捜しさせてください」などと強引に言える雰囲気ではない。  
 元々は、問いつめれば、相手はすぐに物騒な力づくで自分を排除しようとするだろうと考えていた。  
そうなれば、思う存分仙術を駆使して陽菜を捜すことができたのだが、  
こう、紳士的にこられると・・・・。  
 改めて忍び込むことも考えたが、自分の技は隠密に向いていない。  
もう、これ以上は話をつなぐのが不可能な状態であったが、我聞は苦し紛れに、  
「すみません。全く今までの話とは関係がないんですが、実は、オレ、庭の植木に  
興味をもってまして、最後にここのお庭を拝見してもいいですか?」  
 実は我聞の庭いじりは家庭菜園オンリーで、植木などとんとわからないが、  
少しでも時間を稼いで、せめてこの建物の外観なりとも把握しておきたかった。  
 
(しつこい小僧だねえ。いっそのこと小娘と一緒に処分しちまおうか)  
 女ボスはしかし、その考えを頭から追い出す。  
 せっかくここまで穏便に運んできたのだ。  
 わざわざ新たなリスクを背負うのはばかばかしい。  
 そう、我聞まで処分するとなると死体の始末まで考えなければならない。  
 だから、とりあえず、敷地を一回りだけさせたらさすがに帰ってもらおう。  
 それでも、なお粘るなら、警察を呼ぶと言って追い払おう。そう決めると、  
「ええ、かまいませんよ」  
 とにこやかな表情を崩さずに我聞の頼みを許可した。  
 
 表に出て、庭木を見るふりをして何か手がかりになるものがないかと目をこらしたが、何も発見できない。  
 既に夜十時になろうとしているのだ。建物から漏れる明かりはあるとはいえ、足下は相当暗い。  
 仙術で鍛えているとはいえ、もし仮に陽菜の遺留品が落ちていたとしても、発見できるかは微妙なところだ。  
(ここは、違うのか? それとも、改めて忍び込んだ方がいいのか? 陽菜さん・・・)  
 建物を一回りして、いよいよ、もうこれ以上ここにいる時間を引き延ばすことができないところまで来てしまった。  
 女社長は口を開いた。さすがにうんざりした気持ちが口調に混じる。  
「そろそろ、いいですか?」  
 だが、そのとき、我聞は建物の下の方、ほとんど足下ぎりぎりにある、  
小さな窓の色が、微妙に黒から紫に点滅していることに気がついた。  
(なんだ? あの窓、色が変わっている?)  
 しかも、その点滅は一定の周期で点滅しているようである。  
 
 短く、短く、短く。長く、長く、長く。また、短く、短く、短く・・・・・。  
 
(モールス信号?! 助けを求めているんだ!! やっぱり陽菜さんはここにいるんだ!!)  
 
 陽菜は必死で足を使い、手鏡で電気スタンドの光を明かり取りの窓に反射させていた。  
 手鏡は、足の指を使って、ふくらはぎが攣りそうになりながら、スラックスのポケットから取り出した、  
 手鏡と言っても、化粧直しのコンパクトだから、大きさ自体は小さい。  
 足先でうまく明かり取りの窓に反射光を当てても、その光は弱く、果たして外から見えるかどうかは心許なかった。  
(お願い! だれか気づいて! 社長!)  
 そのとき、鍵が開く音がした。陽菜は慌てて、手鏡を散乱する服の下に隠した。  
「でもよ、いいんですかい? ボスに止められたでしょう?」  
「なあに、処女だけ残しとけばいいんだよ。オレ達だっておいしい思いをしねえとな」  
 二人の手下は、ボスの意に反して、陽菜を嬲るつもりなのだ。  
「んーー!! むーー!!」  
 今度こそ、絶体絶命だ。陽菜は恐怖に目を閉じた。  
 しかし、そのとき  
 
 どがーーん!!!  
 
「な、なんだあ?!」  
 うろたえる手下どもの声が上がる中、明かり取りの窓が丸ごと吹き飛んだ。建物自体にも大穴が空いている。  
 
 あれは!! 収束爆砕!!  
 
 間髪入れず、建物に空いた大穴から黒い影が飛び込んできた。そしてその影はたちまちのうちに手下どもを残らず叩き伏せた。  
 さらに、爆砕の音を聞いて駆けつけてきた増援も全く寄せ付けない。  
 強い。一言で言って、それだけだ。通常の人間相手であれば、おそらく百人や二百人が武装して束になっても我聞を倒すことは不可能だ。  
 
(社長!! やっぱり来てくれた!!)  
 
 陽菜は声を伝えようと身をよじって声を出そうとしたが、さるぐつわのせいで言葉にならない。  
 だが、我聞は、すぐに陽菜の戒めを引きちぎり、さるぐつわも解いてくれた。そして、上着を掛けてくれた。  
「陽菜さん!! 助けに来た!!」  
「社長!! ありがとうございます!」  
 陽菜が劇的な救出劇に感動して我聞に感謝の言葉をかけたが、我聞はほとんどその言葉を聞いておらず、自分が空けた大穴の方を振り返った。  
「おまえら・・・・陽菜さんに何をした・・・?」  
 
「ひ、ひいいいい!!」  
 我聞は眼光鋭く、建物に空いた大穴から、外の庭にいる女社長に、押し殺した声をかけた。彼女は、常識外の仙術の威力を目の前にして庭にへたり込んでいる  
 その声は、普段の些かずれていたり、緊張感が乏しい我聞とは打って変わっていて、彼が本気で怒っていることを示していた。  
 元々我聞はあまり自分のために怒るということがない。彼が他人に対して怒るのは、自分の親しい人間が危険にさらされたときだけである。  
「ま、まだ何もしていません!!」  
 女社長は腰を抜かしてしまっていたので、逃げることも抵抗することもできないことから、早口にいいわけをまくし立てた。  
 まだ、陽菜の処女を売りに出そうとしたことから、まだ、彼女には、何もしていないこと、  
裸にしたのは単に身体の状態を確認しただけであることなどを叫ぶように弁解した。  
 我聞は無表情にその言葉を聞いていたが、無言のまま、ひらりと半地下から女ボスのところまで駆け上がると、その襟首をつかむ。  
「本当か? もし嘘だったら・・・」  
 ボスは、我聞の迫力に襟首を捕まれた瞬間に失神した。  
「社長!!」  
 
 陽菜の呼ぶ声で、我聞は慌てて陽菜のところに戻ってきた。  
「社長、ありがとうござい・・・・あっ!」  
 
 我聞は陽菜を抱きしめていた。  
「大丈夫だ、國生さん。ずっと・・・ずっと工具楽屋にいればいいから・・・・」  
 いきなり抱き寄せられて、驚きに目を見張ったが、その言葉に目を丸くした陽菜であったが、ただ何も言わずに、素直にコクリと頷いた。  
 それは決して不快な気分ではなかった。むしろ、今日の失敗で落ち込んでいた気持ちがすっかり楽になるような気がした。  
「それに・・・あいつらにどんなことをされていても、國生さんは國生さんだし・・・・オレは全然気にしない!」  
 
 ぴくっ!  
 
「ちょっと待ってください? 何ですか? それは?」  
 我聞とすれば、真剣に言っているのだが、微妙に不用意なセリフに、たった今まで、心が満たされて、あたたかな気持ちでいた陽菜の声のトーンが急降下する。  
 南極のペンギンでも凍り付きそうな冷たい声である。  
「もしかして、もう、私が彼らに淫らなことをされたとでも思ってたんですか?」  
「え?」  
 実は最悪の状況を考えていた我聞は、冷たくて怖い時の陽菜に戻ったことで、自分の早とちりに気がつく。  
 それで、よせばいいのについ弁解する。  
「いや、その、あの女社長は、ああは言ってたけど、國生さんこんな格好だし、てっきり、その・・・・」  
   
 その言葉に、我に返った陽菜は、自分の格好をハタと見直し、そして・・・・・・。  
 
 建物中に陽菜の悲鳴が谺した。  
 彼女はまだ、我聞の上着を引っかけただけのほぼ全裸だったのである。  
 
「み、見ました?」  
 陽菜は思わず我聞を突き飛ばし、慌てて床に散らばった服をかき集めて身体を隠した。  
「い、いや、その・・・」  
 陽菜に背中を向けて、しどろもどろに何か言い訳しようとする。  
「見ましたね?」  
 その冷たい迫力の陽菜の声に、我聞は思わず正直に答えてしまった。  
「・・・・・はい」  
「・・・・・・」  
 
 沈黙が怖い。  
 
「・・・・忘れてください」  
 世界が凍り付いたかと思えるような寒くて、重い沈黙の後、陽菜はうめくように言葉を絞り出した。  
「あ、あの・・・」  
 思わず振り返ろうとする我聞に、さっきまで陽菜を拘束していた拘束具がヒットする。  
「こっちを向かないでください!! 忘れてと言っているんです!!」  
「あ、はい! 忘れます!! 今、忘れました!!」  
 その返事に、陽菜はようやく、少しだけ落ち着きを取り戻して、服を身に着けていく。  
 ようやく、服を着ると、そこで、重大なことを思い出した。  
「写真!! あんな写真、誰かに見られたら・・・・!!」  
 ポラロイドの全裸写真。どこかに流出したらと真っ青になった。  
「よし!! 写真を取り返せばいいんだな? 待ってて!!」  
 我聞が深く考えもせずに、陽菜の役に立とうと、いきなり走り出す。  
「ああっ!! ちょっと待ってください!!」  
 陽菜は、名誉挽回しようと焦って走り出した我聞を追いかけようとするが・・・・・立てなかった。  
 度重なるショックで腰が抜けてしまっていたのだ。  
 
 そして、半殺し状態の手下どもを締め上げて写真を全部取り戻した我聞は・・・・・写真を見て泡を吹いてしまった。  
 
 
 陽菜は腰を抜かしたままだったので、工具楽屋への帰りの道のりを、我聞におぶってもらっていた。  
 本当は、陽菜は立てるようになるまで待ってもらいたかったのだが、何しろ我聞が派手にやりすぎた。  
 一応、辻原や番司に陽菜を見つけた旨の連絡をすると、秘密である仙術がばれないうちに、速やかに撤収しなければならなかった。  
 だが、我聞が取り返した写真を陽菜に渡したときから、二人の雰囲気は気まずくて仕方がなかった。  
「あのー、國生さん、怒ってる?」  
 沈黙に耐えかねた我聞は、背中の陽菜におそるおそる聞いた。それに対して陽菜は思わず早口で答える。  
「怒ってません」  
「ほんとうに?」  
「もう、怒ってませんから、思い出させないでください」  
 陽菜は耳まで真っ赤になっていた。  
 我聞が取り返してきた写真は、陽菜の顔と身体が同時に写っている写真こそ  
なかったので、ヌードが陽菜のものだとわかるものはない。  
 しかし、陽菜のまだ若干未発達な部分の残る華奢な身体、小ぶりな胸、意外に深いヘアが写っているものは何枚もあった。  
 また、陽菜の顔を写した写真も、胸の頂点がぎりぎりで見えないものであったり、  
さるぐつわを噛まされて泣いているものであったりと、かなり、いや、相当過激な  
ものばかりだった。  
 そんな写真を見てしまって、我聞は正直どうしていいかわからなかった。  
 
 一方、陽菜の方は確かに気まずかったが、一時の動揺が収まると、自分でも意外なほど落ち着いていた。  
 確かに恥ずかしい思いはしているが、やくざどもに写真を撮られた時の身も世もないような  
絶望感に比べれば、恥ずかしいのになんだかそれほど不快な気分ではなかった。  
(どうしてなんだろう?)  
 陽菜は自問したが、自分の気持ちがよくわからなかった。  
 わからないと言えば、そもそも、今日は全体的に自分らしくなかった。  
 ぼんやりして、約束の時間に遅れたり、予定を変更して、無理に新たな取引先を  
開拓しようと売り込みに向かったことを、工具楽屋に連絡しなかったり、  
普段の自分の行動ではない。  
 
 どうして?  
 
 陽菜は一つ一つ今日の出来事を思い出して検討してみた。  
 まず、そもそも、ぼんやりして約束の時間に遅れたことだ。  
 あのとき、何を考えていたかというと、住たちに  
「我聞が誰かと結婚した後も國生さんは秘書を続けるの?」  
 と言われて、具体的に桃子と我聞が結婚したときのことを考えて動揺して時間を忘れたのだ。  
 
 そう、あのとき・・・・桃子と自分を比べてみて、桃子であれば、近い将来  
自分よりも工具楽屋の役に立つかもしれないと思い、そうすると、我聞にふさ  
わしいのは桃子ということになるのではないかと考えてしまった。  
 だから、陽菜は、自分はそれ以上に有能でなければ工具楽屋にいられなくなるかと、ミスしたことに焦ったのだ。  
 つまり、彼女は、無意識のうちに桃子と張り合っていたのである。  
 もちろん、その原因は、我聞が桃子のものになるのがなんとなく気がふさぐことだったから・・・・陽菜はようやくそのことに気がついた。  
(私・・・社長のことが・・・好き・・・? なのかな?)  
 今、我聞におぶわれて、広くてたくましい背中にいると、安心して心が満たされる気がする。  
 そういえば、最近は営業に出ることが多くなったので、我聞といる時間も一時期に比べて減っている。  
 もしかすると、営業に出ると気が晴れないことも、単に慣れないからということではなくて・・・・。  
 
 陽菜は、そこまで考えて、身体の芯がカーッと熱くなるのを感じて、それ以上  
自分の気持ちを分析することができなくなってしまった。  
 
 そして、気がつけば、陽菜が監禁されていた東和建設からは完全に遠ざかり、だいぶ遅い時間になってはいたけれども、たまに誰かが通りそうな場所に来ていた。  
 誰かに見られたら、その人が見知らぬ他人とはいえど、同い年の男の子におぶってもらっている姿を見られるのは恥ずかしい。  
「あの、社長。もう、大丈夫ですから、おろしてください。一人で歩けます」  
「いや・・・もう少しこのまま・・・その、少しはオレ、國生さんにお詫びになることを・・・國生さんが行方不明って聞いて、慌てちまって・・・」  
 我聞は真剣に謝ってくれていた。そこで、初めて陽菜はまだ、我聞に助けてもらったお礼をきちんと言ってなかったことに気がついた。  
「社長、いえ、我聞さん。あの、助けていただいて、ありがとうございました。私・・・動転してしまって、あなたはちっとも悪くないのに、失礼な態度を・・・・」  
 無理矢理我聞の背中から降りると、陽菜は姿勢を正して、我聞に対してお礼と謝罪を行った。  
 実際、我聞が駆けつけてくれなければ、陽菜は彼女の『女』を売りに出されてしまったところであった。  
「そんなこと! オレの方こそ、気がつかなくて・・・・」  
 二人して、しばらく押し問答的にお互いがお互いに謝る。そして、不意に、二人とも、そんな自分たちがおかしくなり、吹き出してしまった。  
 
「じゃあ、これで、お互いに謝るのは終わりにしよう」  
「そうですね。それにしても、よく、私が捕まっていた場所がわかりましたね」  
「辻原さんに、もしかしたら、國生さんが行っているかもしれない、危ない場所を教えてもらって・・・・」  
 それで、陽菜なら、効率よく三カ所を廻るだろうからと、東和建設が一番怪しいと思ったのだ。  
 陽菜は、意外に思った。我聞は道徳的な正しさや感覚は優れていたが、論理性や推測推理は  
苦手だと思っていたのに、まさに、陽菜はそう考えて、東和建設を最初に訪ねたのだ。  
「それで、何か、窓が微妙に点滅していて、助けを求めているのがわかったんだ。あれはどうやって・・・?」  
 陽菜は、以前にもらってから、ずっと身につけている我聞の母親の形見の手鏡を取り出して、  
それで明かりを窓の方に反射させたことを説明した。  
「この手鏡のおかげで、命拾いさせていただいたことになりますね。先代や、社長のお母様にも感謝しないと・・・」  
「國生さんが、その手鏡をもらってくれてて、何とか間に合ってよかった・・・。  
もし、どこかに連れ去られて二度と会えなくなったら、ずっと工具楽屋にいてくれ  
なかったら、オレ・・・・」  
「え?」  
 いつにない雰囲気で、我聞は陽菜をじっと見つめて、そのまなざしに、陽菜の方も吸い込まれるように、二人の距離が近づいていき・・・・。  
 
 
「あー!! こんなところにいた! 連絡をくれてから、遅いから、みんな心配して捜してたんだよ?」  
「わあっ!?」  
「きゃっ!?」  
 遠くから呼ぶ優の大きな声で、二人は思わずどきりとした。  
「陽菜ちゃん、無事だった?」  
「あ、はい。ご心配をおかけしました」  
「みんなも待っているよ、早く帰ろ?」  
「はい」  
「我聞くんもお疲れさん」  
「は、はい。社長ですから、社員を守るのは当然です」  
 先ほどの我聞の謎めいた妖しい雰囲気は、優の明るい声に一掃され、いつものきまじめで健全な工具楽我聞の雰囲気に戻っていた。  
(気のせいだったのかな?)  
 陽菜はなんだか、少しもったいないような気がしたが、いつもの、安心できる調子に戻ったことで、やっぱりそれはそれで喜ばしく思った。  
 
 結局その夜、工具楽屋は陽菜の帰還に興奮状態となり、皆遅くまで残業してしまうことになった。  
 もちろん、東和建設は摘発するように手を回し、証拠の類も警察にわたるように匿名で電話した。  
 すべての処理を終えて、陽菜が寮に帰ったのは、日付が変わって三時間ほど後のことだった。  
 そして、シャワーを浴びると、陽菜はベッドに倒れ込んだ。  
 瞳を閉じると、昨日の衝撃的な一日の情景、主に、我聞が助けに飛び込んできてくれたところ、困ったように言い訳するところ、自分を背負って、工具楽屋に連れ戻してくれた時のことが思い出された。  
(おやすみなさい、社長)  
 陽菜は、それらを心に浮かべながら、穏やかな気持ちで眠りについた。  
 
FIN.  
 
 
 
 
 

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