某月某日 天気:雨
やっと、この日が来ました。
思えば、若様が家を出てから、もう4年が過ぎているのですね。
長いような、短いような、この4年間。
嫌な事や、辛い事も沢山ありました。
だけどその日々も、今日のためだと思えば無駄ではなかったのだと思います。
繊維工業の老舗、十曲家。
今日ここに、再出発することになりました。
そして、今日から――
「今日から……」
私はそこで筆を止めました。
せっかくの晴れの日……いえ、天気は雨なんですけど……と、とにかく、何か、カッコいい言葉で締めたいのですけど……
……
…………
………………思い浮かばないです。
「はぁ……」
自分の語彙の少なさに、ちょっとだけ落ち込みます。
こんな私が、これから若様のお役に立てるのでしょうか……
「私ってバカだしなぁ……」
呟きと共に、私は窓の外へと視線を移しました。
季節は夏から秋へ変わろうとしている時期。
少し前までうだる様な暑さと騒々しい蝉の声が包んでいた青い空は、秋を誘い連れる雨によって、どんよりと覆われています。
……まるで、今の私の心のようです。
「千紘くーん、そろそろ準備しないかー」
「あ、は、はい! 今行きます」
ドアの外からかけられた声に、私は買ったばかりの日記を閉じました。
最初の1ページ目は、まだ書きかけですけど……いいや、後で考えます。
役に立つか、立たないかって事も、今さら考えてもしょうがない事。
私は、若様についていくと決めたんです。
バカはバカなりに、一生懸命頑張るだけです!
「うん、頑張ろう!」
心の中で再確認。言葉に出して再決意。
そして私は立ち上がると、クローゼットを開けました。
そこにあるのは、この日のためにずっとしまっていた一着の服。
「……ふふ」
思わず、笑みが漏れます。
これを見たら、若様はどんな反応をするのでしょうか?
ちょっと、楽しみです。
私は着替えながら、ここまでの道のりに思いを馳せていました。
十曲家の買収騒ぎから始まり、真芝への所属、こわしやとの戦い、そして――真芝の壊滅。
そう、真芝が壊滅してから、もう半年以上が過ぎました。
あの場にいた真芝関係者の大半は、こわしやと内閣調査室によって捕まったと聞いています。
真芝関係者……それは若様も例外ではありません。
最後は真芝を裏切ったとはいえ、真芝に所属していたのは変えようの無い事実。
「逃げましょう」と、私と山岡さんは言いました。
若様が真芝に所属したのは、あくまで十曲家の再興が目的。
真芝に付き合って、若様まで捕まる必要はないのですから。
混乱の隙を突けば、天才の若様が逃げる事など簡単なはずです。
だけど、若様は首を縦には振りませんでした。
「どんな理由があろうとも、ボクが真芝にいたことは事実。ならば、その償いはするべきだ」
「で、でも……」
「君達はこなくていい。ボクのわがままに付き合っただけだからね」
そして若様は、自ら内閣調査室の男のもとへと歩いていきました。
「お前も真芝か?」
かけられた、不躾な言葉。
その言葉を真正面から受け止め、若様は言葉を放とうとしました。
だけど――
「そ――」
「そいつは違います」
放たれた言葉は若様のものではありませんでした。
視線を移した先。そこにいたのは、さっきまで若様と戦っていた相手でした。
「我聞くん……」
天才の若様がライバルと認め、倒す事を目標としていたこわしや。
彼が、若様と内閣調査室の間に割って入っていたのです。
「彼は俺たちの協力者なんだ。だから捕まえる必要はないです」
「……そうでしたか。ご協力感謝します」
男は頭を下げてそう言うと、背中を向けて去っていきました。
その後ろ姿を、無言で見送る二人。
「……なぜ、ボクを助けたんだい?」
気まずい沈黙を破ったのは、若様の方でした。
我聞さんの背中に向かって、言葉を放つ若様。
「お前はもう、真芝じゃないからな」
背中を向けたまま、答える我聞さん。
「だが、真芝だったのは事実だ」
「ああ。それは償うべきだ」
「ならば……」
「捕まるだけが、償う方法ではないだろう」
そして、我聞さんは若様へと振り向きました。
「お前なら、別の方法で償う事ができる。そう思ったんだ」
身体には無数の傷があり、身に着けたシャツは血と埃でボロボロでした。
その傷のいくつかは、若様との戦いでついたもの。
それでも、我聞さんは屈託の無い笑顔を若様へと向けて、そう言ったのです。
――できるだろう?
その笑顔と共に放たれる、無言の問いかけ。
さっきまで戦っていた相手だと言うのに、我聞さんは若様の事を信じきっていました。
……若様はその笑顔を正面から見つめかえし、そして――
「ふ、ふふふ……ふははははは!」
嬉しそうに笑いだしました。
「ふははははは……当たり前だろう! ボクを誰だと思ってるんだ! この天才、十曲才蔵に不可能など無いのだよ!
この程度、利子とノシつけて、綺麗さっぱりお返しするさ!」
いつもの自信満々な表情を浮かべ、高らかに宣言する若様。
「そうと決まれば、善は急げだ。さあ、行こうか、千紘くん、山岡くん!」
自信満々で、それでいて楽しそうな表情を浮かべたまま、若様は我聞さんに背を向けました。
そして、堂々とした足取りで歩き始めたのです。
若様は一度も振り返りませんでした。我聞さんも声をかけませんでした。
だけど。
この二人には、別れの挨拶なんて必要ないのでしょう。
お二人は……親友なのですから。
「まったく、我聞くんにはやられてばっかりだな」
歩きながら、かすかな声で漏らした、その言葉。
口調とは裏腹に、その表情は今まで私が見た事もないほど輝いていて……
そんな表情をさせた我聞さんに、ちょっとだけ嫉妬して。
そんな表情をさせてあげられなかった自分に、とてもがっかりして。
いつか、私もこんな表情をさせてみせる。と、心に誓ったのです。
その後、若様は独力で十曲家の再興へと動き出しました。
だけど、その道のりはとても辛く……いえ、そもそも道なんてなかったのかもしれません。
真芝が壊滅したとはいえ、一度吸収された十曲家を買い戻すには莫大なお金が必要でした。
……お金はあったのです。
真芝から研究費用として渡されていたお金は、十曲家を買い戻すには足りないまでも、十分な足しになるだけはありました。
だけど、若様はそのお金を使おうとはしませんでした。
「ボクはもう、真芝じゃない」
そして、その全てを戦争によって親を失った子供たちへの支援として寄付したのです。
それでも、まだお金のアテはありました。
研究の成果として若様が開発した、兵装防護服。
その技術を買い取りたいと、いくつもの組織が接触してきたのです。
提示された額は、十曲家を買い戻すのに十分なものでした。
十分なものでしたが……若様はその全てを断わりました。
それどころか、貴重な研究資料を全て、地雷処理の慈善団体へと提供したのです。
我聞さんの爆砕に対抗するために作られた防護服は、地雷処理においても効果を発揮しました。
人を殺すために作った兵器が、人を殺す兵器を壊すために使われる。
「我聞くんに教えられたからね」
――こわすものは間違えない。
そう言った若様の表情は、とても晴れやかなものでした。
後で知ったのですが、その戦争自体、真芝によって引き起こされたものだったようです。
……きっと、これが若様なりのケジメの付け方だったのでしょう。
結局、若様の手元に残ったものは何もありませんでした。
だけど、それでよかったんだと思います。
私も、山岡さんも、何も言いませんでした。
言う必要なんてありませんでした。
私達は若様を信じていますから。
とはいえ、やはり先立つものがないとどうしようもありません。
その問題を解決する為に若様がとった行動は、過去に十曲家と親交のあった会社や資産家に、融資をしてくれるようにお願いするというものでした。
人に頭を下げた事の無い若様が、地面に頭を擦り付けんばかりに、必死で頼み回ったのです。
一度断わられても諦めず、若様は何度も足を運びました。
しかし、過去に親交があったとはいえ、それだけで融資をしてくれるような会社や人なんてそうそういるわけがありません。
何より、一度真芝に吸収された事によって、十曲のブランドは地に堕ちたも同然でした。
そんなブランドに対して融資をしようとする者は、誰一人として……
「……話を聞かせてもらおうかね」
……一人だけ、いました。
その年の割りに鋭い雰囲気を纏ったお婆さんは、過去に十曲家から着物を購入していたという縁で若様にコンタクトを取ってきたのです。
「十曲の服には、ちょいと思い入れがあってね。なんなら、全額融資してやってもいい」
「本当ですか!」
「ああ、利子もいらない。返済期限も特に決めない、返せる時に返してくれたらいいさ。ただし……」
次の瞬間、お婆さんの纏う雰囲気が、一気に強いプレッシャーとなって若様へと向けられました。
「私が気に入らなかった場合、融資した金はすぐに返してもらう……それでもよければ、融資しよう」
プレッシャーと共に放たれた、言葉。
それは、少し離れた場所にいた私でさえも思わず立ちすくんでしまうほど、強く、厳しい言葉でした。
だけど、若様はそのプレッシャーを正面から受け止めると、
「了解しました。その条件でお願いします」
考える素振りすら見せずに、その条件をあっさりと受け入れたのです。
「ほう……いい返事だ。よっぽど自信があるのか、それとも何も考えていないのか……どっちだい?」
「十分考えた末に出した結論です。勿論、自信もあります」
「……その自信はどこからくるんだい?」
「それは……」
そして若様はゆっくりとこちらに視線を移しました。
私と山岡さんを見つめ、そして優しい笑顔を浮かべて言ったのです。
「ボクを信じてくれる人がいる限り……ボクは、ボク自身を信じていこうと決めたんです」
「……なるほどね」
お婆さんは満足げに頷きながら、座っていた椅子から立ち上がりました。
「金は出してやる。満足できる着物ができたら送って寄越しな……勿論、私が生きているうちにな」
「そこまでお待たせしません……一年以内に送りますよ」
「期待しないで待ってるよ」
心なしか嬉しそうな表情を浮かべながら、お婆さんは立ち去りました。
若さまの講座にお金が振り込まれたのは、その次の日でした。
「せっかちなお婆さんだね……それだけ期待されていると思っておこうか」
そう言った若様の表情も……とても、嬉しそうでした。
その後、若様はそのお金を元に、買収された十曲家を買い戻しました。
言葉にすると簡単に聞こえますが、現実はそう甘くはありません。
何度も交渉を重ね、時には騙され、時には裏切られ、だけど時には助けられながら、少しづつ奪われたものを取り戻していったのです。
そして、真芝が壊滅してから4ヶ月後。預かったお金が無くなった頃、ようやく全てを取り戻したのです。
しかし、これで終りではありません。
今は、真芝に買収される前に戻っただけ……いえ、ブランド力が落ちている今の状況では、前よりも悪くなっていると言えるでしょう。
真に十曲家の再興と言うには、ここから這い上がっていくしかないのです。
「大丈夫。ちゃんと考えはあるさ」
若様の考えとは、前までのように繊維、そしてその繊維を使った生地を売るだけでは無く、
その生地を使用して独自の服飾ブランドを立ち上げるというものでした。
自社ブランドを利用して生地のクオリティの高さをアピールしていけば、自ずと契約してくれるメーカーも増えてくれる。
それが若様の言い分でした。
ですが、これには一つ大きな問題があります。
生地は元々自信があるからいいとしても、肝心の自社ブランドを手がけてくれるデザイナーがいないのです。
お金も無くなった今、有名デザイナーを起用する余裕なんてありません。
だからといって、今後の十曲家を担うプロジェクトに無名のデザイナーを起用するのはリスクが高すぎます。
何かアテでもあるんでしょうか? ……と、私が思っていたその矢先。
「で、そのデザイナーなんだが……千紘君、やってくれないか?」
……きっと、この時の私の顔はすごく間抜けな顔をしていたに違いありません。
「デザインの勉強をしていると山岡君から聞いたのだが……」
とっさに山岡さんに視線を移すと、山岡さんは素知らぬ顔で視線を外しました。
……秘密にしといてくださいって言っていたのに……
確かに、少しでも若様のお役に立とうとデザインの勉強とかしてましたけど……
だけど、それはあくまでお手伝いとしての話です。
勿論、私は無理ですと断りました。
しかし、若様も譲りませんでした。
「できないのなら、できるまで頑張ればいい。実際、そうやってここまできたんだ。大丈夫。千紘くんにもできるさ」
……正直に言うと、私には自信がありませんでした。
デザインの事だけではありません。
私自身に、自信が持てないでいたのです。
何をやっても失敗ばかりで、何をやっても上手くいかなくて。
そんな私を最後まで見捨てないでいてくれたのが若さまでした。
だけど、今回も見捨てないでいてくれるとは限りません。
このプロジェクトは、今後の十曲家にとって凄く大事なものです。
それがもし、私のせいで失敗したら……
だから、やっぱり……
「一人で無理なら、手伝ってもらえばいい。勿論、ボクも精一杯手伝う。だから……一緒にやってくれないか?」
断りの言葉を入れようと顔をあげた私の目に映ったのは、優しげに微笑む若様の顔と、差し出された若様の手。
……私には自信がありません。
だから……だから……だけど――
私だけでは無理でも、若様と一緒なら……この人と一緒なら、何でもできる。
それだけは、自信を持って断言できます。
なにより、若様が私を必要としてくれるのなら、私はそれに答えたい。
そして、私は若様の手に自分の手をそっと重ねました。
ふ、ふつつかものですが、よろしくお願いします!
「……千紘くん、それは使い方を間違えてないかい?」
……そうかも。
それからの日々は、試行錯誤の連続でした。
生地の材質をチェックして、それにあうデザインを作っていく。
生地にあわせてデザインを変え、デザインにあわせて生地を変え。
そして、やっと納得できるものが出来たののは、夏も盛りを過ぎた辺りでした。
「うん、これならあのお婆さんも納得するだろう」
そう若様は言いましたが、私は不安で、気が気ではありませんでした。
これでダメなら、残るのは多額の借金だけなのです。
「こらこら、千紘くん、おどおどしない。あれだけ頑張ったんだ。自信を持とう」
笑顔と共にかけられた、若様の言葉。
……そうだ。私だけじゃない、若様もあれだけ一生懸命がんばったんだ。
これで、ダメなわけが無いです!
……それが、空元気だというのは自分でも分かっていましたけど、それでも私は笑顔で頷きました。
作った自分がこんな調子では、皆さんにいらない心配をかけてしまいます。
ダメだったときは、そのときに考えればいいんです。
「大丈夫。きっと気に入ってもらえるさ」
着物を送ってから返事が来るまでの一週間は、みなさん平静にしている様に見えて、やっぱり緊張していたみたいです。
あの山岡さんですら、ドアが開く音がするたびにビクリと背中を震わせていましたから。
そして、一週間後。
一通の手紙が届いたのです。
それにはただ一言。
『これからも精進しな』
一応、気に入ってくれたみたいです……気に入ってくれたんですよね、これ?
「やれやれ、あのお婆さんも素直じゃないね」
そう言う若様も、嬉しそうに顔が綻んでいました。
本当は、飛び上がって喜びたいのでしょうけど……ふふ、素直じゃないのは、お互い様のようです。
「おばあ様、荷物が届いていますけど」
山深くに立てられた神社の一室。
静馬かなえは襖を開けながら、部屋の主へと声をかけた。
「おや、届いたのかい。そこにおいといてくれ」
部屋の主であるかなえの祖母、静馬さなえは部屋の中央でお茶を飲みながら、かなえへと言葉を返す。
「これ、何なんです?」
さなえに荷物が届くのは年に何度も無い。
ふと気になったかなえは、返事を期待せずに問いかけた。
「ああ、ちょっと馴染みの所が久しぶりに着物を作ると聞いてね。ちょっとお金を出してやったのさ」
「お金、ですか?」
「はした金さね。どうせ使い道も無い金だ」
「ふーん……ちょっと、見てもいいですか?」
お世辞にも気前がいいとは言えないさなえがお金を出したという事は、そんなにいい着物なのだろうか?
そんな好奇心がわいてきて、かなえはさなえの返事も聞かずに小包みを開けた。
「わあ……確かにいいですね」
その着物はさなえが着るにはちょっと若すぎる気がしないでもなかったが、それでもいい着物というには変わりが無かった。
なにより、感心したのはその生地だ。
薄く、軽いが、安っぽい感じは全然しない。
色ムラもなく、綺麗に染められたその生地に、かなえは思わずため息をもらす。
そして、ふと気付く。
さきほど、さなえが着るには若すぎると思ったが、この生地の良さを生かす為とかんがえれば、あのデザインも納得できる。
デザインだけでなく、生地だけでなく、両方の良さを生かしたこの着物。
「……私も欲しいかも」
思わず、声に出すかなえ。
そんなかなえを横目で見ながら、さなえは口元に薄い笑いを浮かべながら言う。
「そんなに欲しいなら、私が買ってやるよ」
「え、いいんですか!?」
「ああ……それと同じのでよければ、いくらでも買ってやる」
「……同じ?」
「つまり……」
手にしていた湯のみをちゃぶ台において、さなえは先ほどまでの薄い笑みではなく、
はっきりとした意地悪な笑みを浮かべてかなえへと向き合う。
そして、やっとかなえは気付いた。
自分が手にしている着物。それが留袖だという事に。
「早く、相手を見つけろって事さ」