***
「私は、若様の幸せをずっと祈っておりますから……」
零れる涙を気にする素振りも見せずに、千紘は見とれるほど素敵な笑顔を浮かべ、言葉を紡ぐ。
そして、くるりと背を向けると、駆け足で部屋を出て行く。
「千紘くん!」
走り去っていく千紘に向けて、思わず才蔵は手を伸ばす。
だが、その動きが果たされる事はなく、中途半端に伸ばされた腕の先、ギュッと拳が作られただけだった。
「……何をしているんだ、ボクは」
――元々、自分から言い出したことじゃないか。
心の中で呟く、才蔵。
3年前、十曲家を出たあの日からずっと、千紘は側にいた。
時にはその要領の悪さから疎ましく感じることもあったが、何事にも真面目に取り組むその姿勢を才蔵は好いていた。
最初は、頑張ってくれているな、としか思わなかった。
やがて、何故そこまで頑張るのか、という疑問に変わった。
一度、才蔵は聞いてみたことがある。
『私はバカですから、頑張ることしかできないんです』
笑いながら、そう言ったのを覚えている。
自分の事をバカと言い張る千紘だが、そうではないと才蔵は分かっていた。
周りがよく見えている、と言うのだろうか。
ふと漏らす言葉は物事の核心を突いていることが多く、研究に行き詰った時など、千紘の何気ない一言で解決した事も少なくない。
何より――
『ダメです若様… そんな若様イヤです…
若様はもっといつも自信たっぷりで、明るくて…』
涙に濡れた瞳を向けて、才蔵に言ったあの一言。
あれで、才蔵は大切な何かを思い出すことが出来た。
あの一言がなければ、才蔵はここにいなかっただろう。
感謝してもし足りないほどの借りが出来た。
才蔵はそう思った。
――そしてそれが、才蔵を苦しめる事になる。
自分が感謝しているのは、部下としての千紘なのか、それとも一人の女性としての千紘なのか。
真芝が壊滅してからしばらくたった頃に、才蔵は気付いてしまう。
部下として今までついてきてくれた千紘だが、いつの間にか自分が部下以上の存在として千紘を見ているという事に。
最初、それは漠然とした想いであった。
しかし、一緒にいるうちにその想いは大きくなり、そして才蔵は自覚する。
『自分は彼女の事を――』
だが、自分の想いはそうだとしても、千紘の方はどうなのだろうか?
彼女が自分の側にいてくれるのは、自分に仕えているというそのことだけではないのか?
いつか、部下であることをやめて、自分の前からいなくなってしまうのではないか?
疑問は不安となり、才蔵の心に影を落とす。
しかし、それを表に出すことは無く、才蔵は十曲家の再興に力を注いでいく。
まるで、その想いをまぎらわせようとするかのように。
そして、十曲家を買い戻したその日。
元々、十曲家を奪い返すのが目的であり、千紘はその為についてきたのだ。
その目的がかなった今、千紘を縛るものは何も無い。
だから、千紘がもし部下を辞めたいと言うのであれば、才蔵はそれを受け入れるつもりだった。
……つもりだったのだが――
『で、そのデザイナーなんだが……千紘くん、やってくれないか?』
出た言葉は、彼女を縛る新たな鎖。
理由はあった。
彼女がデザインの勉強をしていたのは本当であり、人数が足りないのも本当だった。
しかし、本音は一つ。
彼女ともっと一緒にいたい。
そして、千紘はそれを受け入れ、その関係は続く事となる。
続く事にはなったが。
結局、部下とその主人という関係は変わっていない。
才蔵のジレンマは終わる事無く、むしろ彼女を縛る事を選択した自分を責める棘となる。
だから。
才蔵は決心する。
十曲家が完全に再興する日が来たら、彼女を縛るのはやめよう、と。
自分のわがままだというのは分かっていた。
自己満足だというのは分かっていた。
彼女がついてくる事を認めたのは自分。
ついてきて欲しいと願ったのも自分。
分かったいた。
彼女がそういう判断をするにせよ、自分は苦しむだろうと。
……それでいい。
これは罰なのだ。
彼女を縛り付けた罪と、自分の想いを偽った罪。
その罰なのだ。
どういう結果になるにせよ、自分はそれを受け入れよう――
『私は、若様の幸せをずっと祈っておりますから……』
かくして。
千紘は才蔵の元から去っていった。
――これでいいんだ。
才蔵は思う。
分かっていた。
分かっていたじゃないか。
こうなる事は。
こうなって苦しむ事は。
分かっていたんだ。
分かっていた――はずなのに。
なぜ、自分は――
「……泣いているのですか?」
慌てて振り向いた、視線の先。
「泣いているのですか?」
店の入り口に、山岡がいつもの様に無表情で立っていた。
「……いや、目にゴミが入っただけさ」
才蔵は目を拳で拭うと、才蔵へと向き直る。
きっと、情けない顔をしているんだろうな。
そう思いながらも、それを気にする素振りも見せずに、気丈に言う。
「そうですか」
山岡も深く詮索するような事はせず、会話はそこで途切れた。
「……」
「……」
先に静寂を破ったのは山岡の方だった。
「若様」
「なんだい、山岡くん」
そして山岡は、世間話でもするかの様な気軽さで言葉を続ける。
「いきなりですが、この仕事を辞めようと思います」
その台詞を聞き、才蔵は目を見開いて山岡を見つめる。
山岡は無表情のまま、無感情に才蔵を見つめ返すのみ。
「……そうか」
しばらく山岡を見つめていた才蔵がぽつりと言葉を漏らす。
「千紘くんも、そして君もいなくなる、か……まあ、仕方ないか。
元々、十曲家を復興するのが目的だったしね」
才蔵は視線を山岡から外すと、店内を見回すように首を巡らす。
先ほど、自分で行ったディスプレイがそこにあった。
「……なんでだろう。あれほど願っていた十曲家の復興なのに、今は全然嬉しくないんだ」
自嘲気味に呟く才蔵。
「何か、急にどうでもよくなってきたよ。
あれほど願っていた十曲家の再興の日だというのに、もう何もかもどうでもよくなってきた」
深いため息を吐くと、才蔵はゆっくりと目を閉じた。
まぶたの裏に見えるのは、今までの苦労の日々。
苦労ではあったが、幸せだったあの日々。
そしてその日々を一緒にすごした山岡の顔と……千紘の顔。
もう戻る事の無いあの日々と、あの笑顔。
本当に、自分は十曲家を再興したかったのか。
……最初はそのはずだった。
ならば、いつからなのか。
彼女と一緒にいたいと願いはじめたのは。
だが、その願いがかなう事はない。
これは自分が、そして彼女が決めた事なのだから。
後悔はない、とは言えない。
それでも、これが彼女にとっていいことなのだと思う。
それだけは、間違いない。
間違いないと……思いたかった。
「辞めてもよろしいでしょうか?」
目を開けると、そこにはやはり無表情な山岡の顔。
それはいつもと変わらない表情のはずだったが……なぜかその時は怒っているようにも見えた。
「ああ。君を縛るものは何も無い。好きなように生きるといい」
しかし才蔵はそれについて気にする素振りも無く、投げやりな口調で言葉を返す。
どうでもよくなっていた、というのは本当だった。
だがそれよりも、見られたくなかった。
情けない自分の姿を、もうこれ以上見られたくなかったのだ。
自分の想いを伝える勇気すらなく、信頼していた部下にも見捨てられた。
惨めだった。もうこれ以上、ここにいたくなかった。
いっそ、このまま消えてしまいたい。
そう思っていた。
「それでは、今ここから私はあなたの部下ではありません。
……一人の男として行動させていただきます」
念を押すかのように確認する山岡。
才蔵は怪訝に思い、視線をもう一度山岡へと向ける。
――それは、山岡の拳が才蔵の顔面にめり込むのと同じタイミングだった。
綺麗にディスプレイされた内装を巻き込みながら、才蔵は地面を転がる。
「こんなものなのか! 私が仕えていた男は、こんなものだったのか!」
地面に這いつくばったまま、驚愕の表情で山岡を見上げる才蔵。
山岡は、今度ははっきりと分かるほど怒りのこもった目で才蔵を見下ろしながら、言葉を続ける。
「違うだろう! こんなものじゃないだろう! あなたは、十曲才蔵は、こんな男じゃないだろう!」
そして山岡は、倒れている才蔵の胸倉をつかむと、顔を覗きこむようにぐっと顔を近づける。
「私の知っている十曲才蔵という男は、自信家で、能天気で、そしてもっと強い男だった!
どんな苦境でも決して諦めず、笑いながら乗り越える男だった!
それがどうだ! 今のあなたはの姿はまるで屍だ!
彼女の為と偽って自分の想いを伝える事もせずに諦め、あげくの果てには『どうでもいい』だと!
私は、私と千紘くんはそんな『どうでもいい』事の為にあなたについてきたわけではない!」
「……山岡くん……」
掴んだ胸倉により一層の力を込めて、山岡は叫ぶ。
「私はあなただから、十曲才蔵だから今までついてきたんだ!
あなたの部下としてではなく、一人の人間としてあなたについてきたんだ!」
あなたの側にいたいと私が願って、ついてきたんだ!
そしてそれは千紘くんも同じだ!
彼女は、彼女の意思で一緒にいたいと願い、あなたの側にいたんだ! そんな事も分からないのか!」
「千紘くんがボクと……一緒にいたい……」
「彼女はあなたの側でずっと答えを出していた! それにあなたが気付かなかっただけだ!
……いや、あなたは気付いていたはずだ。だけどそれを認めるのが恐かった。そうだろう!」
投げかけられた、言葉。
それは先ほど殴られた以上の衝撃を持って、才蔵の心に叩きつけられる。
その通りだ、と才蔵は思う。
彼女の願いを、自分は気付いていた。
だけど、それを認めるのが恐かった。
それを認めてしまえば、自分の弱さに気付いてしまうから。
彼女を守っていると思っていた。
だけどそれは違った。
今ならはっきり分かる。
『守られていたのは、ボクだった』
認めたくなかった。
そんな弱さを、気付きたくなかった。
千紘くんに、そんな弱さを見せたくなかった。
頼れる上司でありたかった。
だから――
弱さを見せる前に、彼女を遠ざけた。
彼女を遠ざければ、弱さを見せる事も無い。
彼女の上司であり続ける事が出来る、と。
――それなのに。
彼女に、そんな事は関係なかったんだ。
彼女は、ずっと守ってくれていた。
部下としてではなく。高瀬千紘として。
上司ではなく。十曲才蔵を。
守ってくれていたんだ。
だが――
「遅すぎた、か……」
悲しい笑みと共に、自嘲気味に呟く。
彼女はもう去ってしまった。自分が遠ざけてしまった。
もう、彼女の笑顔は戻ってこない――
「遅いわけがあるか!」
才蔵の呟きに答えたのは、もう一人の部下だった。
掴んだ胸倉に力を入れて、才蔵を立ち上がらせる。
「彼女はまだここにいる!
少し走れば、少し手を伸ばせば、まだ捕まえられる距離にいる!
だとしたら! あなたのやる事は決まっているだろう!」
本当に彼女の事を想っているのなら! 本当に彼女の事を好きなのなら! 本当に彼女の事を愛しているのなら!」
そして山岡は才蔵から手を離した。
優しい笑みを浮かべ、そっと才蔵の胸を押す。
「……行きなさい。まだ、間に合うのだから」
呆然とした表情で山岡を見詰める、才蔵。
しかし、それは一瞬の事。
才蔵の目に力が戻り、きっと口元を引き締める。
そして、ドアめがけて走り出す。
ドアノブに手をかけて――そこで才蔵の動きが止まる。
「山岡くん」
背中を向けたまま、才蔵は山岡へと問いかける。
「なんです?」
「先ほど、この仕事を辞めるといったが……今もその気持ちは変わらないかい?」
「……はい。しばらく、ゆっくりしてから、次の仕事を探すつもりです」
「……もし、戻ってほしいと僕が言ったら?」
「……そうですね……」
そこで山岡は、考えるように言葉を止める。
だが、これは演技。
才蔵がこの質問をした瞬間、答えはすでにあった。
「十曲家が世界的企業になったら考えます」
その言葉を聴いて、才蔵が振り返る。
振り返った才蔵の表情。それは、いつも山岡が見ていた表情だった。
どんな苦境でも絶やす事の無い、自信満々のその笑顔。
「ならば、次の仕事は見つける必要は無いね……すぐにそうなるのだから」
そして才蔵はドアを開けた。
前だけを見つめ、二度と振り返ることなく、走り出す。
――もう迷わない。
背中が語っていた。
***
才蔵が出て行ったドアの先を見つめ、山岡は小さなため息を吐く。
そして、先ほど才蔵を殴った自分の拳に視線を落とし、じっと見つめる。
すでに部下では無かったとはいえ、それまで上司だった男を殴ったのだ。
どんな謗りでも受け入れるつもりだった。
それがどうだ。
『……もし、戻ってほしいと僕が言ったら?』
自分を殴った部下に対して、戻ってほしいと言ったのだ。
――もう大丈夫だ。
山岡は思う。
――それでこそ私が仕えていた男だ。
山岡は思う。
――あの二人は、もう大丈夫だ。
山岡は確信する。
そして山岡は胸ポケットから、古びたロケットを取り出す。
ぼろぼろになった蓋をあけると、そこにはやはりぼろぼろになった写真。
それは、笑みを浮かべた女性の写真だった。
ボロボロでも、色あせる事の無い、優しい笑みを浮かべた、女性の写真。
それは、才蔵にも、千紘にも見せた事の無い、山岡の過去だった。
「大丈夫だ」
写真に向かって呟く山岡。
「私達は一緒になれなかったが……あの二人なら、きっと幸せになれる」
写真の女性と同じ笑みを浮かべながら、山岡はもう一度呟く。
しばらくそうしていた山岡だったが、ふとある事を思い出す。
――そういえば、しばらく帰ってなかったな。
山岡が十曲家に使えるまで住んでいた、彼女と一緒に住んでいた、あの家。
住む人がいなくなってボロボロになっているだろうが、雨露がしのげればそれでいい。
きっと、すぐにあの二人が迎えに来るのだから。
そして山岡は歩き出す。
――しばらくは、過去に浸るのも悪くないだろう。
握ったロケットを握り締めて、山岡は歩き出す。
山岡が、二人と再会するのは、それから二年後の事。
正確には、二人との再会と、二人に似た小さな一人との初対面となる。
***
「……千紘くん……ちょっと、いいかな?」
控えめなノックと共に聞こえてきたのは、聞きなれた声でした。
それは、私が一番聞きたかった声。
でも、一番聞きたくなかった声。
「……っ」
思わず、泣いていた事がばれないように涙を手の甲で拭いました。
……よく考えてみたら、ドアで見えないので意味は無いのですけど。
「な、なんでしょう?」
震える声で、私は問いかけます。
そして一つの事実を思い出します。
「あ、す、すいません! すぐに荷物まとめますから!」
そうです。ここはもう、私の部屋ではないのです。
早く出て行かないと、迷惑ですよね……
「別に、早く出て行けと言いに来たわけじゃないよ」
「へ?」
だけど、苦笑と共に返ってきた言葉は、私の予想とは違いました。
「……最後に、話をしたいと思ってね」
最後に、という部分にアクセントを置いて、若様は私の返事も待たずに話し始めます。
「早いものだね、あれからもう3年もたつのだから」
3年前……それは、若様が十曲家を出た日。
私が若様に付いて行くと決めた、あの日。
「……今だから言えるけど、あの時は恐かったんだよ」
「真芝に乗り込む事が、ですか?」
その告白に、私は驚いて聞き返しました。
真芝にいた時に、そんな素振りを見せた事は無かったのですから。
「いや、そうじゃない……恐かったのは、君たちの事だ」
「わ、私達がですか!?」
そ、そんな若様を恐がらせるような事は……
「も、もしかして、料理に入れる砂糖と塩を間違えた事ですか!?
それとも、食器洗い機を爆発させて、お皿を全滅させた事とか!?」
「……調味料を間違えただけで、料理が兵器になるのをあの時、初めて知ったよ。
食器洗い機の事件にしても、はじけた食器が部屋を一つ壊滅させたしね。
みんな無事だったのが今でも信じられない……って、それは違う……いや、違わなくも無いけど、それとは別のことさ」
「別の事、ですか?」
「そう……君たちを……千尋くんを守る事ができるのか? それが恐かった」
若様はそこで、ドア越しに聞こえるほどのため息をつきました。
少しだけ間を取り、躊躇いがちに言葉を紡ぎます。
「ボクだけなら、何とかする自信はあった。
だけど、君たちも一緒に守れるかと考えた時、ボクにはその自信がなかったんだ。
……本当はあの時、迷っていたんだ。君たちを連れてきてもいいのかどうか」
「……お邪魔でしたか?」
胸の前でギュッと手を組み、私は若様へと問いかけました。
まったく、知りませんでした。
若様がそんな事を思っていたなんて……
「……そう思った事が無いと言えば、嘘になる。でも、それも最初の頃に少し思った位さ。
一緒にいるうちに、君がいてくれて良かったと思う事のほうが多くなっていった。
……だけど、そう思えばそう思うほど、恐さも大きくなっていった」
「若様……」
「当たり前だと思っていたものが失われる恐さは、よく分かっていたからね。
思えば、あの頃は必死だったよ。十曲家の再興の事だけでなく、君たちの事でも頭がいっぱいだった。
部下を守るのは上司の務めだと、ずっと思っていたんだ。
君たちを守れるのはボクしかいない、と本気で思っていたんだ。
……なんて傲慢なんだろう。そんな訳は無いのに。ボクだけが君たちを守っていたわけでは無いのに……」
「ご、傲慢だなんて、そんな! 実際、若様は私たちの事を守ってくれていたじゃないですか!」
そうです。若様は何度も私を助けてくれました。
失敗したら、すぐにフォローしてくれました。
ドジをしたら、笑いながら手伝ってくれました。
転んだら、手を差し出してくれました。
そんな若様が傲慢だなんて、あるわけが無いです!!
「……ありがとう。そう言ってもらえると、少しは救われる……いや、ボクは今まで何度も救われてきたね」
「え……」
ドアの向こうで、若様が苦笑しているのが気配で分かりました。
私、若様を救うような事なんて、何も……
「君のその何気ない一言で、ボクは何度も救われてきたんだ……ボクの方こそ君に守られていたんだ。
……それに気付いたのは、ついさっきだけどね」
「私が若様を……守っていた……」
「そう。ボクが守っているだけじゃなかった。ボクだって守られていた。
……そんな当たり前の事に、やっと気付いたんだ。
完璧な人間なんていない。弱いのはあたりまえなんだ。
そして、弱いからこそ、人は支えあって生きていける……」
若様の台詞はそこで途切れました。
次の台詞が出てくるまでの逡巡の時を、私は静かに待ちます。
きっとこれは、すごく大事な事なのです。
若様が自らの弱さを認めてまで、私に何かを伝えようとしているのですから。
「ボクはさっき、君に自由に生きろと言った。その言葉を撤回するつもりは無い。
君にやりたい事があるのなら、ボクはそれを応援するつもりだ。
……だけど……もし……君にその意思があるのならば……」
そして若様は、ドア越しでもはっきりと聞こえる声で言葉を紡ぎました。
私に向けて。その想いを絞り出すかのように。
「ボクの側にいて欲しい」
「ボクの側にいて欲しい。
部下とか上司とかではなく、一人の人間として、ボクの側にいて欲しいんだ。
ボクは全力で君を守ると誓う。
だから……これからもボクを守ってくれないか?」
ドアの外からかけられたその言葉。
それは、私が願っていた言葉。
願いつつも、叶わないと諦めていた、その言葉。
出来るのならば、今すぐにドアを開けて、若様に会いたい。
会って、その胸に飛び込みたい。
……だけど――
「わ、私なんかでいいんですか?」
嬉しくないわけじゃないんです。
嬉しくないわけがありません。
だけど、込みあがってくる嬉しさと同時に、不安も大きくなっていくのです。
『自分なんかが若様の側にいていいのか』
その想いが、私の心にブレーキをかけるのです。
……きっと私よりもお似合いの人が――
「君じゃなきゃダメなんだ。君じゃなきゃイヤなんだ」
そんな私の葛藤を吹き飛ばすかの様に、若様は言い切りました。
真面目な声で、本気の声で、言い切ったのです。
「で、でも、私ドジですから、絶対に若様にご迷惑おかけしますよ」
「そんな事を気にする必要は無いよ。ボクだって君に迷惑かける気満々だから」
―― ――
「ま、また塩と砂糖を間違えたりしますよ」
「あれはあれで味わいがあっていいじゃないか……いや、狙ってやられるのは勘弁してもらいたいけど」
――いつの間にか――
「お、お皿とか、もうすごい数割っちゃいますよ」
「だったら、割れないお皿を買えばいい。あ、食器洗い機は使わない方向で」
――私の心の中にあった――
「わ、私、可愛くないですよ」
「千紘君は可愛いよ。可愛くないわけが無いじゃないか」
――不安は消えていき――
「え、えーと、私……私……」
――そして残るのは――
「私……若様のお側にいていいんですか」
震える手でドアを開けました。
涙に濡れた瞳で若様を見ました。
ぼやけた視界の中でも、若様の笑顔ははっきりと私に向けられていて――
「勿論さ」
そして、私へと差し出された手。
私はその手を――
「と、その前に」
「……はい?」
「さっき言ったよね……もう若様と呼ばなくていい、と」
「あ……」
若様の言わんとしている事に、私は気付きました。
だけど、その……いいんでしょうか?
ちらりと若様に視線を移すと、若様はやっぱり笑顔で……
「さ、才蔵……さん」
「はい、千紘くん」
そして、私へと差し出された手。
私は差し出されたその手を、今度こそしっかりと掴みました。
今まで私を守ってくれた、その強い手を。
今まで私が守ってきた、その優しい手を。
もう二度と離れないように。
もう二度と離さないように。
「ふ、ふつつかものですが、よろしくお願いします!」
「うん、今度は間違えなかったね、千紘くん」
幸せそうに輝くその笑顔と共に……私は生きていきます。
***
某月某日 天気:雨……じゃなくて、晴れ。きっと、ずっと、晴れ
やっと、この日が来ました。
思えば、若様が家を出てから、もう4年が過ぎているのですね。
長いような、短いような、この4年間。
嫌な事や、辛い事も沢山ありました。
だけどその日々も、今日のためだと思えば無駄ではなかったのだと思います。
繊維工業の老舗、十曲家。
今日ここに、再出発することになりました。
残念な事に山岡さんは辞めてしまったけれど、きっとすぐに戻って来る事でしょう……絶対に戻らせてみせます。
これから、沢山の辛い事があるでしょう。
泣きたくなる様な、逃げ出したくなる様な事もあるでしょう。
でも、大丈夫。
才蔵さんと一緒なら、絶対に大丈夫。
才蔵さんは必ず私を守ってくれます。
私も才蔵さんを守ります。
私は才蔵さんと共に生きていきます。
今日から――十曲千紘として、私は生きていきます。
***
――ニ年後
日課となっていた畑仕事から帰ってきた山岡は、ポストに何かが入っている事に気付いた。
朝に見たときには何も入っていなかった。という事は、届いたのはついさっきということになる。
元々、この場所は山深い所にあり、郵便物が届いた時など無かった。
それどころか、郵便局がここの住所を知っているかどうかすらも怪しい。
……それでも、毎日チェックする事を忘れ無い所が山岡らしいのだが。
「……ふむ」
訝しげに思いながら……それでもある種の確信めいた予感を持ちながら、山岡はポストの中へと手を伸ばす。
それは絵葉書だった。
表面に書かれた名前を見て、山岡は自分の確信が当たっていた事に満足げに頷く。
そして、裏返して写真へと視線を移す。
そこに移っていたのは、一組の男女の……いや、一組の男女と小さな新しい一人の姿。
病院のベッドの上だろうか。よく見知った女性がその赤子を抱いている。
女性は最後に見たときよりも、ずっと綺麗になっていた。髪を伸ばし、幸せそうに微笑んでいる。
そしてその隣で佇む、これまたよく見知った男性も幸せそうに微笑んでいる。こちらは髪を切り、前よりも精悍な印象だ。
二人は赤子を真ん中にして、仲睦まじく手を握りながらこちらに視線を向けている。
そして、その写真の下には男性の字で一言。
『迎えにいく』
先日、十曲ブランドの一つ『CHIHIRO』が世界的なデザイナーコンテストで大賞を取ったというのを聞いた。
今では、世界中から注目される会社になっているらしい。
……彼は約束を忘れていなかった。そして、それを実現させたのだ。
「……さすがです」
山岡は満足そうな笑顔で小さく呟くと、家へと足を向けた。
しばらく掃除らしい掃除をしていなかったので、庭も家の中も荒れ放題だ。
こんな状態で二人を……いや、三人を招き入れるのは失礼だろう。
「早く片付けないとな」
袖を捲くりながら、山岡は嬉しそうに呟く。
あの人は、一度決めた事は必ずやる人だ。そしてやる時の行動はかなり素早い。
山岡は、これからまたあの騒々しい日々が戻ってくる事を心の底から喜びながら、庭の手入れへと手を付け始めるのだった。