…チャポン。  
 
 静間かなえは、その白い肢体を湯舟に沈め、俯いていた。  
 小さくさざめく水面に、その、虚ろな視線を、彷徨わせて。  
 
 …チャポン。  
 
 湯舟の縁に当たって弾ける湯が、不規則に音を立てる。  
 その揺れと、不確かさが、気持ち悪い。  
 とても−不愉快で。  
 
 …チャポン。  
 「!」  
 
 突然水面が、有り得ない形−そう、例えて言うなら糸の様に、姿を変えた。  
 頭に来て、かなえ自身が、お湯の『形』を変えたのだ。  
 静間流水仙術をもってすれば、手易い事。  
 水は、有り得ない姿を保ちながら宙に浮き続ける。  
 
 有り得ない−そう、有り得ない。  
 
 数時間前の、あの電話。  
 『辻原さんが、第一研の場所を知らせてきて』  
 『そのまま消息を絶ったんです』  
 −サイゴノシゴト、トイッテ。  
 冷静を装おうとしつつも、動揺が見え隠れしていた、連絡者の口調。  
 どうやら、とてもまずい状況らしい−それが、解った途端。  
 
 周囲の音が、何も聞こえなくなった。  
 
 祖母の問いに、電話の中身を伝え。  
 電話の主に、色々と指示を出し。  
 乗り込みに行く準備を整えるべく、  
 こうやって、沐浴して。  
 
 急がなければならないのは、解っている。  
 
 だから。  
 それなのに。  
 何で、こんな。  
 
 有り得ない−有り得ない。  
 
 何が?  
 
 動揺して居る自分が?  
 何も考えられない自分が?  
 それとも−有り得ない。  
 
 初めてあった時から何処か胡乱で胡散臭いひとだった。  
 隙の無い身のこなしは見れば判る。  
 それなのに、気軽にかなちん、と呼んだ。  
 簡単に、間合いに入られた−そんな気がして。  
 それが嫌だったから、事更に、突き放した、  
 つもりだったのに。  
 
 『それを…信じろと言うんですか?』  
 『…私を信じる必要はありませんよ』  
 
 かなちん、と呼ぶ声が、嫌だった。  
 真剣味に欠ける、緊張感の無い声音が、  
 こちらをちゃんと見て無い気がして。  
 それなのに、あんな、きちんとした声も、出せた。  
 それが更に、悔しくて。  
 
 
 でも、それももう−聞けない。  
 
 
 飛沫を上げて、水の糸が、形を変えた。  
 もう少し太く、短く、まるで、人の腕の様に。  
 その先に、握り拳大の、水塊。  
 
 確か、缶コーヒーを握っていた手は、この位。  
 
 塊に、五本の指が生えて。  
 それが、己の肌に触れ−  
 
 「…っ!」  
 
 びり、と身体中に何かが走り、  
 水塊が、砕けて落ちる。  
 
 「はぁ…はぁ…はぁ…」  
 
 かなえは大きく喘いで、目を泳がせる。  
 水の指が、触れようとした場所は、まだ、熱かった。  
 激しい動悸は、おさまる気配も無く。  
 
 「…」  
 
 自分が何をしようとしていたのか、判らなかった。  
 そして、何故、こんなに−  
 
 かなえは頭を振った。  
 
 
 ソウイエバ、マダ、フレラレタコトハ、ナカッタ。  
 フレタコトモ、ナカッタ。  
 
 
 「…馬鹿馬鹿しい」  
 
 下腹に篭る、不可解な熱を振り払う様に、かなえは風呂を上がった。  
 

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