それは1月7日の早朝のことだった、時刻は7時半過ぎ  
 今年は工具楽家で過ごさせてもらった年末年始は去ったものの学校の冬休みの方はまだ終わらず、しかし工具楽屋(株)はとっくに仕事始めを迎えていた  
 そんなどこか中途半端な日だったが、陽菜は関係無く毎朝の習慣で早く起きていた  
 既に着替え、そろそろ朝食にしようかと準備を始めた頃に玄関の呼び鈴が鳴った  
 「・・・?」  
 こんな朝早く、いったい誰だろうか  
 隣に住む優さんかと思ったが、彼女は朝早く起きられる人ではない  
 陽菜は首を傾げながらも、部屋の中でも肌寒い今日の気温の最中にいつまでも玄関先で待たせておくのも悪いと思い、ぱたぱたと玄関口に立った  
 「どちら様ですか?」  
 「あ、おれ、我聞だけどー」  
 「社長!?」  
 陽菜はがちゃりとドアを開けると、上着を着た我聞が白い息を吐きながらも確かにそこにいた  
 「おはようございます、社長」  
 「うん、國生さんおはよう。ごめん、寝てた?」  
 「いえ、とっくに着替えも終わっていました」  
 我聞は陽菜の姿を見て、「あ、本当だ」と勤勉で真面目で厳しくも優しい社長秘書には愚問だったことに気づいた  
 しかし、早朝の訪問者が我聞だということはわかったが、訪問の理由は何だろうか  
 「・・・えっと、國生さん、朝食はもうすんだ?」  
 「今、準備をしているところですが、食べていかれますか?」  
 少しばかり大胆な陽菜の申し込みに我聞は慌てて首と手を振った  
 「や、それはまた今度で。それより、ウチに七草粥を食べに来ない?」  
 「七草粥ですか・・・」  
 そういえば今日はそんな日だったか、陽菜は気づかずパン食にしてしまうところだった  
 「そう。國生さんも一緒にどう?」  
 「・・・しかし、よろしいんですか?」  
 「うん。だから、こうして呼びに来たんじゃないか」  
 我聞の言うことも尤もだ、呼びたくもない相手をわざわざ早朝に出かけて誘いに来るわけがない  
 陽菜はそれから「すぐ行きます」と二つ返事で答えた  
 
 2人ははぁと白い息を吐きながら、霜をさくさくと踏みながら並んで歩いた  
 「・・・社長、七草粥に入る野菜を全部言えますか?」  
 「おう! 芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎよう)・(はこべ)・仏座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)だろ?」  
 「流石社長、正解です」  
 我聞が胸を張り、誇らしげに「全部、ウチの菜園や庭で採れるからな」と言った  
 今朝早く摘み取ったそれらは果歩が調理をして待っていると、我聞は付け加えた  
 「では、秋の七草は言えますか?」  
 「あ、秋の七草!?」  
 ここで我聞の顔が曇り、うんうんと唸りだした  
 陽菜はふっとため息を吐いた、どうやら我聞は食い意地だけで憶えていたらしい  
 確かに春の七草は野菜、秋の七草は花だからといって・・・せめて1種類でも良いから名前くらいは憶えていてほしいものだった  
 尤も果歩や斗馬なら同じ質問をしても答えられただろうが、珠は我聞と同じ様な結果になったことだろうが  
 「萩(はぎ)・尾花(おばな/ススキのこと)・葛(くず)・撫子(なでしこ)・女郎花(おみなえし)・藤袴(ふじばかま)・桔梗(ききょう)です。  
 ちなみに花言葉は順に想い(内気・思案)・心が通じる(憂い・なびく心)・恋の溜め息・思慕・永久(美人)・あの日を思い出す(躊躇)・変わらぬ愛です」  
 ここまで一息に言ったところで、陽菜ははっとした  
 ついすらすらと挙げたそれらの花言葉はまるで・・・・・・自分達のことを示唆しているようなものではないか  
 思わずチラッと我聞の方を見たが、当の本人は「流石國生さん、よく知ってるなぁ」とただただ感心しているだけだった  
 その反応にほっとする反面、陽菜は何だかもやもやしたものが胸の中で残った  
 ・・・そんな話している内に我聞と陽菜は工具楽家に到着した  
 
 玄関に入ってから果歩のお出迎えがあり、さっと2人は居間の方に通された  
 その時、陽菜は少し玄関に靴が多いような気がした  
 そして、その通された居間には案の定優さんや中之井が座って待っていた  
 「やー、おはよう、はるるん」  
 「おはよう、陽菜くん」  
 「え・・・優さん、中之井さんも呼ばれてここに?」  
 陽菜が我聞の顔を見ると、「うん、寮の皆も呼んだんだ」と言った  
 我聞の性格上、こういうことは皆でやった方が良いと思っての行動だろう  
 それに独身寮とも言える彼処では、こういった七草粥を食べる機会が無いと思ってだろうか  
 そのどちらでも、陽菜は少しがっかりした  
 「(そうですよね。やはりこういう時は皆さんと一緒ですよね)」  
 少し気落ちしたように見受けられる陽菜に、GHK・デルタ2として果歩が台所から熱々の鍋を持ってきながら言った  
 「お兄ちゃんが言いだしたんですよ、寮の皆と一緒に食べようって、今朝早く。  
 それで珠と斗馬で、手分けして寮の皆を呼びに行ったんです。朝早くからすみません」  
 「い、いえ、私の方はもう起きてましたから、別に・・・。それに呼ばれて嬉しかったです」  
 「あ、そうなんですか。良かったわね〜、お兄ちゃん。朝早くから怒られなくて。  
 ・・・ま、お兄ちゃんの方から陽菜さん起こしに行くって言ってたし、その覚悟はあったのかしら?」   
 陽菜は「え」と我聞の方を覗き見た  
 「そ、それはだな。朝も早いし、珠や斗馬じゃばたばたとうるさいだろうからと思って・・・」  
 「え〜、そうなの〜? それにしては遅かったじゃない、7時には家出たのに、往復で15分もかからないでしょ?」  
 「む」と我聞が詰まるのをいいことに、斗馬は話の間に割って入った  
 「兄上はドアの前で10分程なんて言おうかとずっと迷っていましたぞ」  
 「あ、それ私も見た〜」  
 優さんがにやにやと心の中で笑いながら、表向きはのほほんと間延びしたような声で言った  
 それで同時に呼ばれたはずの優さんや中之井と道で鉢合わせなかったのだ  
 我聞が何も返せずにいるのを、陽菜はぼけっと見ていた  
 「(え? つまり・・・)」  
 ・・・もしかして、他の寮の皆を招待したのは、私を呼び出す為の口実?  
 陽菜はぶんぶんと顔を振り、その考えを振り払った  
 「(まさか・・・考えすぎですよね)」   
 「あ、國生さん、座って座って」  
 我聞に促され、陽菜はちょこんとコタツに足を入れて座った  
 ここの家はコタツが2つあり、今は隣り合わせて置いてあるので中之井や優さんも同じ様にぬくぬくと座っていられるのだ  
 だが、流石に7人座るには狭いところがあり、後から来た陽菜と我聞は誘導されたかのように横に並んで座ることとなった  
 そして、皆の目の前には、そのコタツ机の真ん中にはどでんと2つの熱々の大きな土鍋が置かれていた  
 中身は勿論、工具楽家特製の七草粥だ(生米から弱火でじっくり、途中でかき混ぜたりすると粘りが出て美味しくない/果歩談)  
 「はい、開けますよ〜」  
 かぱっと果歩が同時に2つの土鍋のフタを開けると、それは見事な出来映えの七草粥がたっぷりとなみなみ入っていた  
 粥は通常のご飯の何倍にも膨れ上がるので、これで実質7人前のはずだ  
 「おぉ〜」  
 「見事ですな」  
 「食べるぞー!」  
 予め持ってきていた木の椀を全員に行き渡らせ、各々がおたまで土鍋から直接掬う  
 我聞は自分のを入れる前に、陽菜の椀を先に取り、半分程入れて本人に手渡した  
 「はい、熱いから気をつけて」  
 「ありがとうございます」  
 そして、れんげで冷ましながら皆は食べ始めた  
 
 「おお、うまいな」  
 「味が足りなかったら、ごま塩みたいのもありますからね〜」  
 「あ〜、この味この味・・・二日酔いに効くわぁ、これ」  
 優さんはしみじみとそう言う、どうやら昨晩も浴びる程呑んだらしい  
 しかし、あまりにも粥が熱々なので、皆は冷ますのに夢中になり何となく会話の方が途切れてしまう   
 「おかわりっ!」  
 だが、食べ盛りの珠は止まらない  
 元々粥は見た目よりも量が少ないので、沢山食べないと満腹感が出ないからだろう  
 「おかわりはいいが、ちゃんとと冷ましてから食わんと舌を火傷するぞ」  
 我聞がそうたしなめるのを、珠は「はいっ!」と盛られたばかりの熱々の粥を流し込むように食べながら返事をした  
 陽菜はその光景を何となく見ていた、それから・・・・・・  
  『陽菜、あーんして』  
  我聞が粥をのせたれんげを陽菜の目の前に差し出した  
  『え!?』  
  『ほら、ちゃんと冷ましたから』  
  『そ、そういう問題じゃなくて・・・』  
  『じゃ、どういう問題?』  
  『う・・・』 
  我聞の屈託のない、それでいて意地悪な問いに陽菜は詰まってしまった  
  『はい、あーん』  
  『あ、あーん・・・』  
  陽菜は観念したのか、我聞の言われるままに口を開けて差し出された粥を食べた  
  椀を持った我聞がにこにこ笑うのに、陽菜は同じ様に我聞にしてあげようと・・・・・・  
 「・・・あのー、もしかしてお口に合いませんでした?」  
 果歩がそう言うと、陽菜ははっと我に返った  
 「(や、やだ、私ったら・・・!!?)」  
 なんてことを想像していたんだろう、思わず顔を伏せてしまう  
 そこに我聞が「食欲無いの?」と顔を覗き込まれたのだから、今の陽菜にはたまらない  
 思わず手つかずの椀から粥を掬い、口に放り入れた  
 「あ・・・」  
 「〜〜〜〜〜ッ!!」  
 陽菜はその熱々の衝撃に立ち上がりそうになった  
 冷めていない粥は口内を焼くように動き回り、慌てている所為かのどをなかなか通過してくれない  
 陽菜は口を両手で覆うように押さえ、必死になってそれを飲み込んだ  
 「うわ、大丈夫、國生さん!? て、み、水だ」  
 中之井と果歩が立ち上がり、台所へ走った    
 ようやく飲み込んだ陽菜に対し、我聞は「大丈夫?」と繰り返した  
 「・・・は、はひ、何とか・・・」  
 「よ、良かった。舌、火傷してない?」  
 うまく舌の回らない陽菜に対し、我聞がそう訊くのでとりあえず頷いてみせた  
 「ん、ちょっと見せて」  
 「・・・へ?」  
 我聞は陽菜のあごに自らの右手の親指と人差し指をやり、そっと上を向かせ、口を開かせた  
 その状態から、我聞は陽菜の口内を覗き込むように顔を近づけた  
 「どうかな? 見た感じ平気そうだけど・・・あ、ちょっとだけ舌出して」  
 「は、はのしゃちょ・・・ま、ま・・・」  
 「ま、まがどうしたの?」  
 と、ここで陽菜がびっと『周り』を指差した  
 「あ」と漸くその周りの目に気づいた我聞の目が点となり、ついでに周りの目も点になっていた  
 優さんはきゃーっとどこか嬉しそうで、珠は何故かわけもわからずはしゃいでいる  
 台所へ走り、そして水を持ってきた果歩や中之井は固まっている  
 「・・・えーと」  
 我聞の右手が離れるのと同時に、果歩はそっと無言で陽菜の前に水を置いた  
 陽菜は誰とも目を合わせないように、それを受け取るとごくんと一気に飲んだのだった・・・  
 
 ・・・・・・  
 
 「ふー、(色々と)御馳走様でしたぁ」  
 優さんがたらふく食べたお腹を撫でながら、そう言った  
 他の皆も同様のようで、コタツ机の上の大きな土鍋2つはきれいに空になっていた  
 「大変ご馳走になりました。・・・さて、お邪魔しましたな」  
 と、中之井は早々とコタツから立ち上がった  
 果歩が「あ、今お茶いれますから」と立ち上がりながら言ったが、中之井はそれを制した  
 「いや、お気遣いは無用。ワシはこれから用があるので」  
 「えー、何なのさ」  
 優さんの問いに、中之井はふっとニヒルに答えた  
 「なに、近所の皆が集まっての新春ゲートボール大会じゃ」  
 「(中之井さんにそんな趣味あったっけ・・・?)」  
 ・・・・・・何か決まり損ねた気がするが、そういう理由ならば仕方ないと優さんは寝転がりながら手を振った  
 「これ、食べてすぐに寝ると牛になると言いますぞ」  
 「だ〜いじょうぶ、も〜既に一部は牛並だから〜」  
 帰る間際の中之井の言葉に優さんはのほほんと答えるのを聞き、同時にさっと果歩が横に寝転んだ  
 陽菜はきょとんとしていたが、珠の「はい、どこが牛並なんですか!」と無邪気な問いでようやく気づき、自分も少しだけ寝転びたい衝動に駆られた  
 その横の我聞はとっくに寝転んでいるので、今陽菜が横になれば色々とおいしいのだが・・・・・・  
 しかし、流石に行儀が悪く他人の家でやるのもはばかられたので、ふうと小さくため息を吐いた  
   
 中之井が本当に帰ってしまうと、ここに残るのは我聞と陽菜、そしてGHKの面子だけだ  
 この好機を逃すわけがない  
 今まで寝転んでいた優さんがむくりと起き上がり、元気にコタツの周りではしゃぎ回る珠を横目で見ながら言った  
 「ね〜、折角だから、正月らしい遊びをしよ〜よ〜」  
 「あ、いいですね」  
 果歩がむくりと起き上がりながら、それに賛同した  
 最も、正月や何やらはとうに過ぎてしまっているのだが・・・  
 珠や斗馬が「たこ揚げー!」「はねつきー!」と道具を見せながら主張するが、優さんは即座に却下と言った  
 「だって外は寒いし、それじゃこの人数で遊べないもん」  
 「それもそうですね」   
 「じゃ、カルタとか?」  
 「百人一首も手ですが」  
 我聞と陽菜も意見を出すが、それも優さんが即座に却下を申し渡した  
 「幾ら何でも仙術使い相手に瞬間的な速さが勝負のカルタはかなわないし、百人一首ははるるんに有利すぎだし〜」  
 それなら読み手になれば良いと言うが、ここは全員が遊べるものが良いと優さんは主張し続ける  
 「・・・じゃあ、何があるんです?」  
 「そりゃモチロン、『すごろく』でしょ」  
 果歩は「名案です。体力も知識もいらない、運の勝負ですしね」とぱんと両の手を打ちつつ言った  
 我聞と陽菜、珠や斗馬も反対せず、それをすることに決めた  
 「・・・んで、一番負けの人は一番上がりの人の言うことを1つだけ聞くのよ〜」  
 「流石です、優さん。それは面白そうですね!」  
 「「えぇっ!!?」」  
 そのルールに陽菜は反対したが、優さんは「こういうゲーム性がなくちゃつまらない」と主張し、結果的には多数決でそのルール案も採用に決まった  
 勿論、賛成したのはGHKとして繋がっている4人であり、反対的な意見を持つのは我聞と陽菜2人だけで・・・太刀打ち出来るはずがない  
 果歩が押し入れの奥の方から古いすごろくを見つけだし、駒やサイコロも適当に揃えたところで始まった  
 そう、我聞と陽菜のどちらかをビリにしようと目論むGHKの思惑も知らずに・・・  
 
 ・・・・・・  
 
 「・・・2、3、4! 上がりです、やった!」  
 果歩がとんとんと自分の駒を進め、ついにアガリの最終マスに止まった  
 周りがおぉ〜〜〜と歓声を上げると同時に、ビリも決定した  
 「・・・國生さん、惜しかったな」  
 「はい・・・」  
 そう、GHKの思惑通り、陽菜がビリとなった  
 運悪く序盤から1の目が連続し、逆にトップとなった優さんは5や6の目が連続した  
 イカサマサイコロではないはずなので、これは単純に陽菜の方が運が無かった・・・いや、優さんに運気を吸い取られたのかもしれない  
 「いっえ〜い! これではるるんの罰ゲーム決定〜!」  
 「あ、あの、本当にやるんですか?」  
 「とおっぜん! それとも、折角盛り上がった場に水を差す気なのかな〜?」  
 優さんの言葉がどすどすっと陽菜の胸を突き刺し、もう逃れようもないことを悟らせる  
 ふっふふふ〜んと鼻歌を歌いながら、優さんは立ち上がり部屋の中をグルグル歩きながら楽しそうに思案している  
 「う、う〜ん、ここで貴重な機会を逃すわけにもいかないからな〜、何してもらおうかな〜〜〜♪」  
 「あ、なるべくお手柔らかに・・・」  
 段々と小さくなる陽菜の声なぞ届くはずもない、優さんは「お、そうだ!」と何か閃いたようだ  
 そして、陽菜に囁きかけるように、それでいて皆に聞こえるように言った  
 「ねぇねぇ、はるるんさぁ、我聞くん誘惑して、今年度の開発費を300万円程上乗せしてくれるように頼んでくれない?」  
 「な・・・」  
 おおぉっと、これには果歩も驚いたようだが、優さんにとってすれば一石二鳥な命令だった  
 陽菜が我聞のことを誘惑し成功すればGHKにとっては大成功だし、加えて以前は失敗した開発費の大幅アップにも繋がる  
 もし誘惑に失敗しても、これからの2人・・・我聞と陽菜の間に少なからず影響が出るに違いない      
 というか、これは見ているだけでも酒の肴になるぐらい面白そうな提案だと優さんは自負した  
 「それとこれとは話が違います」  
 陽菜がそう言ってくるのも計算の内、優さんはん〜っと迫った  
 「あ、そお? そっか〜、はるるんはそれぐらいのことも出来ないのか〜」  
 「・・・・・・いえ、出来ないとは言ってませんが・・・」  
 「あ、じゃあやってくれるよね? はるるんはたとえゲームとはいえ、約束は破らないよね!?」  
 とどめの一言と合わせて陽菜の手をガシッと優さんは握った、これで陽菜の性格上、逆らうことなく落ちたはずだ・・・  
 その間、その話題に上がっているはずの人物、我聞は置いていかれている  
 女性2人で盛り上がり、周りはそれをはやし立て・・・・・・我聞自身はどうしたらいいのかわからない  
 「(う、うーむ、國生さんが本気でそんなことするわけないし、第一、工具楽屋〔株〕の財政の厳しさは誰よりも國生さんが知ってるはずだ・・・)」  
 つまり、この命令は優さんの失敗に終わる  
 そう睨んだ我聞だったのだが・・・・・・  
 
 「・・・社長、お願いがあるんですけど・・・」  
 ぎょっとするような優しい声でそう言われ、我聞は隣に座っている陽菜を見た  
 顔は真っ赤だが、じっと我聞を見る目は真剣そのものだから物凄く恐い  
 それでも、今までにない異様な雰囲気に我聞は呑み込まれてしまいそうだった  
 「あ、あの國生さん・・・?」  
 「そんな呼び方をしないで下さい」  
 「え? え、えっと・・・?」  
 「陽菜、でお願いします、社長」  
 口調は今までと同じなのだが、言葉の1つ1つがどこか色っぽい気がする  
 それは我聞の幻覚なのか、それともこれが陽菜の持つ魅力か何かなのだろうか  
 我聞は思わずずずっと後ずさりをするが、それに合わせるかのように陽菜は身体を動かし我聞に近づく  
 「(え? え? えぇっ!??)」  
 コタツを出る以外、もはや逃げ場のない我聞だったが、足が何かに絡め取られているのか抜けない  
 それが陽菜の足の所為だと気づくのに、相当の時間を我聞は費やした  
 「あ、あの・・・・・・こ、國生さん? だ、大丈夫?」  
 「ですから、陽菜、と呼んで下さい」  
 我聞がのけぞると、陽菜は更に近づく  
 この尋常じゃない状態と状況に陽菜は何かに酔っているのではないかと我聞は思った  
 が、陽菜は一切のアルコール分を口にしてはいないし、七草粥は当然ノンアルコールだ  
 つまり、陽菜は素面で正気のはずなのだ  
 なのに今の彼女は、どこか頭のネジがはずれてしまっているかのようだ  
 我聞は必死に抗おうとするが、何故か身体が金縛りにあったように動かない  
 「・・・社長、お願いがあるんですけど・・・良いですか?」  
   
 陽菜は今まで得てきた『誘惑』と呼べそうなドラマや小説のシーンを必死で思いだし、総動員して行動に移していた  
 あくまでこの行動は罰ゲームなのであり、優さんに約束と言われて渋々やっているのだと自分自身に言い聞かせながら  
 それでも何故か、いつもなら出来そうにないことを今の自分は平気でやってのける  
 ・・・・・・何だか自分自身が恐かった、それでも止まらないのは本当に何故だろう  
 
 「お、お願い・・・?」  
 「はい、お願いです」  
 甘く優しくとろけそうな陽菜の声に、我聞は本当に呑み込まれてしまうのを必死でこらえていた  
 普段の彼女では有り得ない、そんないつもの陽菜とのギャップがここまで我聞を追いつめているのかもしれない  
 我聞はもはや寝転んでいるに近く、陽菜はそれに覆い被さるような形でいる  
 周りにいた果歩と優さんは歓声を上げることなくただごくりと息を呑み、最後の良心で珠と斗馬の目を手で覆った    
 「お、お願いをき、聞く前に、う・・・上からどいてくれないかな?」  
 「どいたら、聞いてくれますか?」  
 我聞の背筋がぞくぞくっと震え上がった、おかしいのは頭でわかっているのに・・・もう雰囲気で呑まれてしまっているのだ  
 「あ、あれでしょ・・・? 優さんの開発費を300万円程増やしてほしい、って」  
 「・・・・・・。そうですね」  
 「じゃ、じゃあ本人の口から言わなきゃ。ほ、ほら、ねぇ・・・?」  
 我聞が助けを求めるかのように優さんの方を見たが、その本人は素知らぬ顔でいる  
 と、横に逸れた我聞の顔を、陽菜はぐいっと真っ正面に向けさせ、更に迫った  
 「・・・私の方からお願いしているんですよ? 今は、優さんは関係無いでしょう?」  
 それは陽菜の嫉妬心からきていたのかもしれない、我聞は声を失った  
 「社長、私のこと、一度で良いですから、名前で呼んで下さい」  
 「・・・・・・名前?」  
 「はい」  
 「・・・・・・」  
 陽菜の目は真剣そのものだが、我聞は何も言わない  
 それどころか、我聞は無理矢理起き上がり、覆い被さっている陽菜と身体がどれだけ密着しようが構いもしなかった  
 完全に上体を起こし、陽菜は我聞の腹筋の辺りに座り、ほぼ全身を密着させている形になった  
 
 それから、我聞は空いた両手で目の前の陽菜の両頬をぱしんとはさんだ  
 周りはあっけにとられ、今度は陽菜の方が呆然としている  
 「大丈夫、『國生さん』?」   
 「・・・・・・はい、すみませんでした」  
 どうやら正気に返ってくれたようだ、我聞は安堵した  
 それから陽菜の細い腰を持って、ゆっくりと自分の腹筋から隣に降ろした  
 「・・・はい。これで終わりで良いですね、優さん?」  
 「あ、あ・・・うん」  
 我聞はうんうんと深く頷き、陽菜の方を見た  
 「・・・えっと、社長・・・」  
 「いや、いいよ。そろそろ寮の方に帰ろう、送ってくから」  
 我聞はまだ呆けている陽菜の手を取り、コタツから立ち上がらせた  
 そして、陽菜が着てきた上着を取り、ぱさりと両肩に掛けてあげた  
 周りは口出すことも出来ず、そのまま玄関に向かう2人を追いかけることさえ忘れていた  
 
 ・・・・・・  
 
 2人は何も言わず、陽菜の部屋がある寮の方へと戻っていた  
 工具楽家を出てから、2人は本当に何も言わなかった  
   
 我聞と陽菜が寮の2階への階段の前まで来ると、ようやく陽菜の方が口を開いた  
 「社長、先程は本当にすみませんでした」   
 深々と頭を下げ、陽菜はそう謝罪した  
 「いや、本当にいいって」  
 我聞は頭を上げるように言うと、陽菜は素直に頭を上げた  
 ふっと2人の目が合い、陽菜は背筋が伸びきっていない状態で固まった  
 ・・・どちらもその目を逸らすことなく、ただお互いの目の中を覗き合っていた  
 「・・・・・・やっぱり、おれは今の國生さんの目の方が好きだな」  
 「・・・え?」  
 「さっきはさ、こう・・・色っぽいって言うより、何かに飢えてるみたいな目だったんだ」  
 「飢えてる、ですか?」  
 「うん、言葉は悪いかもしれないけど、そんな感じだった。なんかこのままだと食べられちゃいそうな・・・」  
 陽菜はまた呆然としていた、自分が・・・飢えてる? 何に?  
 「・・・なんか、朝から迷惑かけちゃったみたいだね」  
 「い、いえ、本当に呼ばれて楽しかったんですよ!?」  
 「うん、ありがと」  
 我聞は笑うが、陽菜は叫びたかった  
 違う。本当に、本当に楽しかった。だけど、・・・・・・  
 「じゃ、また」  
 我聞がくるりと踵を返し、自宅の方へ戻っていく  
 
 どんと背中から何かにぶつかった  
 振り返るまでもなかった、陽菜だった  
 「・・・社長、本当に楽しかったんです」  
 「うん」  
 「朝早くても、社長に呼ばれたことが、本当に嬉しかったんですよ」  
 「うん」  
 「嘘じゃないんです」  
 「うん、知ってる」  
 くるりと我聞は陽菜の方を向いた  
 「だって、こんなことで國生さんが嘘なんかつくはずないだろ?」  
 「・・・社長・・・」     
 陽菜はぎゅっと我聞に、今度は正面から抱きついた  
 我聞は少々驚き、ぽりぽりと自分のあごをかいていたが、それからそっと背中の方に両腕を回した  
   
 もし私が本当に飢えているとしたら、それはきっと・・・・・・  
 
 我聞は自身の腕の中の陽菜を見てから、ふと灰色の空を見上げた  
 空気がいつもよりも張り詰めている、きっと雪が降るのだろう  
 そう思って間もなく、上空から何かが降ってくる気配を感じた  
 「・・・ほら、陽菜、雪」  
 ふっと陽菜が我聞と同じ様に顔を上げると、ふわりふわりと羽毛のような氷が降りてきた  
   
 ・・・・・・私の名前を呼んでくれる愛しい人  
 
 陽菜はまた顔を伏せ、更にぎゅっと我聞を抱き締めた  
 我聞はそれに、嫌がることなく応えてくれた  
 
 ・・・今だけでも良いから、もう一度名前で呼んで下さい・・・  
 
 「陽菜」  
   
 我聞の声は灰色の空に溶けて消えた  
 

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