翌朝。  
陽菜の目覚めは、快適と呼べるものではなかった。  
何時に眠りについたのかは分からないが、相当遅くまで起きていたことだけはわかる。  
それでも普段と同じ時間に起きることが出来たのは、それだけ眠りが浅かったということだろう。  
身体も、全体的にイヤに強張っている。  
あれだけ何度も何度も何度も震え、仰け反り、もがき悶えたのだから、当然なのかもしれない。  
 
毛布をどけて無理やり身体を起こすと、全裸のままだった。  
汗やローションや恥ずかしい蜜で、身体中がべとべとして、とても気持ち悪い。  
陽菜の眠っていた場所は無事だったが、シーツの大部分がじっとりと湿ったままだ。  
早々に脱がされてしまったが、昨晩身に付けていた服、特に下半身を覆うものは、  
シーツ同様に濡れたままで、ベッドの片隅にまとめれられていた。  
 
(・・・シャワー、浴びなきゃ・・・洗濯も・・・)  
 
シーツと服を洗濯機に押し込んで熱いシャワーを浴びても、気分は全く晴れなかった。  
 
(学校、どうしよう・・・)  
 
体調が悪い訳ではないが、行く気にはなれなかった―――人に会いたくなかった、というのが本音だった。  
昨晩の自分の痴態は気を失っていた時以外はほぼ記憶に残っていた。  
誰かに会って、そんな痴態の欠片でも見つけられてしまったら・・・そう思うと怖くて仕方なかった。  
 
(だめ・・・学校なんて、行けない・・・)  
 
学校へ病欠の旨を電話で伝え、ひとつ息をつく。  
普段から仕事で欠席することも多く、こんな連絡は馴れたものだったが、自分の声が動揺していたのがよくわかる。  
睡眠も足りないし、午前中は眠ろう、午後になって回復したら、仕事だけは行かないと、と思い、  
仕事から優のことを連想して、体が強張る。  
陽菜は優の策略など気付いていないから、昨晩のことには自分も責任があると思い込んでいる。  
だが、それでも・・・  
 
(優さん・・・いやだったのに・・・どうして・・・酷すぎます・・・)  
 
思わず涙が滲む。  
確かに、それはものすごい快感の塊のようだった。全く抗うことも出来ずに飲み込まれてしまった。  
でも、望んで求めたわけじゃないのだ。  
それ以上考えたくなかったから、今は無理やり考えないようにして、眠ってしまおう、と思った。  
が、もう一箇所、連絡を入れなくてはならないことを思い出す。  
秘書業務のひとつとして、毎朝社長にその日のスケジュールを伝えること。  
そのために、最近は毎朝、我聞と待ち合わせて登校していた。  
我聞の性格からして、陽菜が現れるまでは遅刻ぎりぎりまで待つことは間違いない。  
 
(連絡・・・しなきゃ・・・)  
 
本当は、今一番話したくない、会いたくない相手だった。  
彼のことを思って、どんなことをしたか。何度、彼のことを求め声を上げたか。  
まともに顔を合わせられるはずがなかった。声だって聞かれたくなかった。  
幸い我聞は携帯を持っていないので、工具楽家へ電話をかける。  
 
(果歩さん・・・珠さんでも、斗馬さんでも・・・社長以外の方が出てください・・・)  
 
もし社長が出ても、用件だけ伝えてすぐに切ってしまえばいい、できるだけ短く・・・  
そう自分に言い聞かせ、それでも祈るように他の方が出てくれればと思っていると、  
受話器を取る音がして  
 
『はい、工具楽ですが』  
 
不運にも、声の主は我聞その人であった。  
 
『もしもし? もしもーし?』  
 
どきんどきんと、陽菜の鼓動が高まる。  
昨晩、その顔と一緒に想像していた、その声。  
身体の一番奥で、きゅんっと音がする。  
 
『も〜しも〜し?』  
「あ、あ、あの・・・」  
『お・・・あれ、その声は・・・』  
「こ、國生です、お・・・おはようございますっ」  
『お、國生さんおはよーっ どうしたの、仕事?』  
「いえ、あの・・・」  
『? どうしたの? なんか変だけど、もしかして風邪?』  
「あ、その、は、はい! それで、今日は学校の方・・・お休み頂こうと思いまして・・・」  
『そうか、分かった、ゆっくり休んで、しっかり直してくれ!  
 ・・・普段から仕事で苦労させちゃってるからな、疲れが出たんだろう。  
 俺が不甲斐ないばかりに・・・面目ない!』  
「や、その、あの・・・そんな、社長のせいじゃないですからっ、  
 じゃ、じゃあ、切りますね、すみません、失礼しますっ!」  
『え? あ、國生さ・・・』  
 
ツー、ツー、ツー  
無理やり会話を打ち切ると、その場でぺたりと座り込む。  
顔が、火照っている、きっと真っ赤なのだろう。  
そして、火照っているのは顔だけじゃない。  
我聞の声が、昨晩の記憶を引き出す。  
何度も思い浮かべたその声が、実際に携帯を通して、耳を通り抜けて、身体中に響いた。  
 
(社長・・・しゃ・・・ちょう・・・どうして・・・どうしよう・・・ああ・・・)  
 
折角シャワーを浴びて汚れを落とした肌が、また汗でじっとりとしてくる。  
嫌な予感がして、出来れば意識したくなかったところに、意識を向ける。  
更に嫌な予感が高まって、そこへおずおずと手を触れる。  
―――下着の下の、いちばん敏感なところへ。  
 
(やっぱり・・・そんな・・・どうして・・・)  
 
そこは、うっすらとだが、確かに湿り気を帯びていた。  
ただ確かめるだけのつもりで触れた指が、昨晩のように燻り始めたそこを刺激して、びくんと身体が震える。  
指が、勝手に動き出す。  
陽菜はしばらく、その体勢のまま動かなかった。  
ただ、身体が時々びくびくと震え、徐々に息が荒くなる。  
 
「・・・・・・んうっ!・・・」  
 
息が詰まったような声を上げ、大きくひとつ身体を震えさせると、  
座ったまま横にあるベッドにぐったりともたれかかった。  
そこに当てていた指には陽菜の蜜がべっとりと絡み、折角代えたばかりの下着も、また濡れてしまった。  
 
(声・・・聞いただけで・・・わたし・・・自分で・・・! イヤだったのに・・・!  
 こんなに、なっちゃうなんて・・・いや・・・そんな・・・私、どうなっちゃったの・・・  
 もう、これじゃあ、外出られない・・・学校も仕事も・・・どうしよう、どうしよう・・・!)  
 
自分のことが信じられなくなり、どうしていいか分からなくなって、どうしようもなくて泣いた。  
しばらくして少しだけ落ち着いた。  
時計は8時20分を指していた。  
そろそろ我聞は教室に着いた頃だろう、寄り道などしていなければ、だが。  
陽菜は、職場へ電話をかけて、体調不良で有休を取りたいとの旨を専務へと伝えた。  
こんな状態で、社長がいて優がいる職場に、出勤なんてできるわけなかった。  
 
電話を終えると、陽菜はベッドに潜り込む。  
あんな、恥ずかしいことをしてしまったのは、昨晩のことを引きずっているからに違いない。  
このままでは、本当に学校にも会社にも出られたものではなかった。  
だから、今度こそちゃんと熟睡して、立ち直らなくてはならない、  
そう言い聞かせて、新しいシーツの上で丸くなるように寝そべり、頭から毛布を被った。  
 
だが、陽菜の望むような深い眠りは訪れなかった。  
浅い眠りと共に訪れる夢には、我聞や優が現れて、陽菜を優しく抱いたり、昨晩のように激しく責め立てたりした。  
そして目覚めると、息は荒く、身体はびくびくと震えていた。  
片手の、時には両手の指が、自分の秘所に押し当てられていた。  
情けなくて恥ずかしくて悔しくて、枕に顔を押し付けるように伏せて、泣きながらそれでも眠ろうとした。  
他のことをする気力はなかったから。  
そうやって、床に伏しながら残り少ない体力と気力を削り続け、  
疲弊し切った陽菜が本当に深い、夢も見ない眠りにつけたのは正午近くであった。  
 
 
陽菜が目覚めたのは、夕暮れから夜へ変わろうかという頃だった。  
ぱちっと目を覚ますと、しばらくそのまま身体の様子を探ってみる。  
ややだるさはあるが、概ね問題なさそうだった。身体の火照りも消えている。  
そのままベッドから起きだすと、キッチンへ向かい冷蔵庫から冷たいお茶を出し、グラス一杯を一気に飲み干す。  
立て続けにもう一杯飲み干して、「ふぅっ」と息をはく。  
 
「もう、大丈夫・・・かな・・・?」  
 
確かめるように声に出してみる。  
昨晩声を出しすぎたせいか、ややかすれ気味ではあるが、それ以外は問題なさそう。  
 
「あとは・・・」  
 
今の陽菜にとって一番の懸念―――我聞のことを、思い描いてみる。  
今朝の電話の声、職場での姿、本業のときの、学校での、修行中の・・・  
それから、今度は小さく安堵のため息をつく。  
確かめるまでもなく、陽菜の身体はおかしなことにはなっていないようだった。  
 
「どうやら明日は学校にいけそうです・・・仕事もためちゃいました、がんばらなくちゃ・・・!」  
 
久々に明るくなった表情でそう言ってから、少し照れたように顔を赤らめて笑う。  
調子を試すための独り言だったはずが、いつのまにか想像していた我聞に語りかけていたから。  
陽菜の心の中で、我聞の占めるウェイトは昨晩でいきなり大きくなってしまった。  
でも、それが例え陽菜の無意識下の思いの発現であったにせよ、優の意図的な刷り込みであったにせよ、  
過程がすっぽりと抜けてしまっている以上は、変に現実離れした感覚であることには変わりなかった。  
だから・・・  
 
(明日は社長にも会えます・・・あは、私・・・会いたいって思ってるのかな・・・?)  
 
声に出すのは恥ずかしかったので、心の中で思うだけ。  
会ってみて、話してみたら、自分が我聞に本当はどんな感情を抱いているのか、わかるかもしれない。  
昨日の、そして今朝の想像は、あくまで勝手な想像。  
自分が彼のことをどう思っているか、そして彼が自分のことをどう思っているか、  
それはゆっくり、時間をかけて知ればいいことだった。  
ただ、いつも元気で考えなしで、それでも頼るに足りる彼に会えば、もっと元気を取り戻せそうだったから、  
それで会いたいと思ったんだろう、と納得することにした。  
そんなとき。  
 
『ピーポーン』  
 
びくっ、と震え、陽菜の身体が強張る。  
優かもしれない・・・仕事もはける時間帯なので、可能性は一番高い。  
そう思うと、自然と身構えてしまう。  
 
また、昨晩のようなことをされたら・・・そんな思いがふと頭を掠めるが、  
 
『國生さーん、えーと、俺・・・我聞だけどー』  
 
(!?   え・・・?)  
 
どきん、と心臓が鳴る。余りにも意外な訪問者に、陽菜は激しく混乱する。  
 
(な、ななな、なんで社長が・・・)  
 
『・・・む、寝てるかな・・・なら騒ぐのも悪いし帰るか』  
「あ、まって、ちょっとまってくださいっ!」  
 
ドアのすぐ傍のキッチンにいたので、先程の声より抑えた我聞の独り言まで聞こえた陽菜は、  
思わずあわてて返事をする。  
 
『お、國生さん起きてたか、心配で来て見たんだけど、調子はど』  
「すぐ、すぐ開けますので、ちょっとだけお待ちくださいっ!」  
 
居留守、というか寝留守?でやり過ごすべきだったのかもしれないが、応えてしまったものは仕方ない。  
ドアの傍にいるのですぐに開けられるのだが、何せ陽菜は本当に目覚めたばかりだったので、  
大慌てで身支度を整えるべくばたばたと部屋を駆け回る。  
 
(顔洗わなきゃ、歯も磨いてないし・・・、って寝癖ついてる! 急いで直さなくてはっ!  
 ええと、着替えもしなきゃ・・・って病気してたことになってるからパジャマじゃないとだめかな・・・  
・・・下着、また汚しちゃったんだっけ、これだけは変えないと・・・ええと、なるべく新しくてかわいいの・・・  
 ―――って何考えてるのわたし!)  
 
そんなこんなで、なぜかバタバタと騒がしい陽菜の部屋の前で頭に「?」を浮かべ不審そうな顔をしている我聞は、  
「すぐ」と言われてから10分近く待たされる羽目になった。  
 
「す、すいません社長、随分お待たせしてしまいまして・・・」  
「い、いや、ははは、気にしないでいいから」  
 
やっと開いたドアから顔を覗かせた陽菜は、なぜか軽く息を切らして、顔も赤い気がする。  
中から聞こえたどたばた音が気にならないこともないが、とりあえずは当面の陽菜の方が気になって  
 
「それより、國生さん、起き出して平気だった? 顔赤いし、なんか息もつらそうだけど・・・  
 まだ熱とか、あるんじゃないの?」  
「あ・・・これは、いえ、ちょっと慌ててただけで・・・あ、でも、体調は朝よりずっとよくなりました」  
「そっか、確かに朝の電話の時より、随分声が元気そうだ、とりあえずは安心かな」  
「はい・・・あの、申し訳ありません、ご心配おかけした上にわざわざこちらまでいらして頂いてしまって・・・」  
「なーに! 社長として社員の病気を見舞うなど、当然のこと、國生さんが気にする必要はない!」  
 
会話しながら、陽菜は自分の体調を改めて確かめる。  
我聞の顔を見ても、声を聞いても、朝のようなことにはなることは無さそうで、やっと安心できた。  
 
「でも、正直ちょっとびっくりしました・・・あ、いや、もちろん社長においでいただいて、  
 本当に、本当に嬉しかったのですが、私てっきり優さんが来たかと・・・」  
 
さり気無く本当に、と二回言って強調してみたりする。  
優かもしれない、と緊張したあとで違うと分かり安心したのももちろんあるが、  
実際に我聞に会ってみて、本当に嬉しい、と思ってしまった。  
 
(やっぱり私、社長のこと、頼りにしてるのかな・・・)  
 
「ああ、優さんはね」  
 
我聞は苦笑交じりに話し出す。  
 
時間を少し戻して午後5時過ぎ。  
我聞が部活を終えて出社すると、やはり陽菜は仕事の方も有休になっていた。  
 
(辛そうな声してたもんな・・・早く良くなるといいんだが・・・)  
 
幸いに解体の仕事も本業もなく、簡単な書類整理と中之井さんの説教  
(社長がしっかりせんから陽菜くんに余計な苦労が云々・・・)で時間は過ぎていった。  
 
そんな感じで定時も近づいた頃、今日は珍しく口数の少なかった優が口を開く。  
(ちなみに毎朝目覚まし代わりに起こしてくれていた陽菜があんなだった上に、  
当人も寝たのは明け方近くだったので、当然のように大遅刻、さすがに中之井さんに説教されてへこんでいたらしい)  
 
「陽菜ちゃん、大丈夫かな、心配だねぇ」  
 
もちろん当人が最大の原因を作っているのだが、まさか寝込むとまでは考えておらず、さすがに心配していた。  
 
「今朝、うちに電話あったときは、なんだか声出すのも辛そうだったな・・・」  
「こっちにかけてきた時も、疲れきったような声じゃったわい」  
「むぅ・・・心配ですね・・・」  
 
我聞、しばらく腕組みして考えると、  
 
「そうだ、優さん、帰りにちょっと様子みてきて貰えませんか、食事のこととかも気になるんで」  
 
本格的に寝込んでいたりしたら、食事どころじゃないだろう  
一人暮らしの経験は無いが、誰も看病してくれない環境で寝込んでしまうような病気をしたら、  
いくらしっかりした國生さんでも辛いに違いない。  
部屋も隣で女性同士の優さんなら、國生さんが部屋に入れるのにも抵抗なかろうし、いろいろ助かるに違いない。  
そう思いついて声を掛けてみたのだが、  
 
「んー、心配なのは本当に心配なんだけど、ごめん我聞くん、私、今日の仕事がまだしばらくかかりそうで・・・」  
「・・・自業自得じゃ」  
 
中之井さんにじろっと睨まれて首をすぼめるような格好をすると、  
 
「それで、代わりと言っちゃ難だけど、我聞くん、陽菜ちゃんの様子見てきてくれないかな?」  
「え、お、俺!?」  
「うん、普通の男子高校生だったら、年頃で一人暮らしの美人の同級生で秘書で病気の女の子の部屋になんか、  
 とても危なくて行かせられないけど、朴念じ・・・じゃなかった、立派で頼れる我聞社長なら、  
 絶対に間違いなんて起こらないからね!」  
「お・・・おお! もちろんですとも! 病気の社員を見舞うのは社長として当然の勤め!  
 この大役、見事果たしおおせて見せましょう!」  
 
なんか余計な言葉が聞こえた気もしたが、とりあえずそう言うと一目散に駆け出してきたものだった。  
 
「・・・まあ、社長ならまず間違いなく問題などおこらないじゃろうが、大丈夫かのう?」  
「ん?間違いなく、ならいいんじゃないのー?」  
「いや、社長は問題なくとも、陽菜君が気にしはせんかな、と。流石に部屋に入れるわけにもゆくまいし・・・」  
「どうだろう〜、ほら、陽菜ちゃんは我聞くんから家族同然って言われてるし、  
 そんなに気にしないんじゃないかな?」  
 
もちろん昨晩、陽菜に我聞のことを気にするように仕向けたことはおくびにも出さない。  
 
(まあ、気にしすぎてドアも開けてくれない、なんて可能性もあるけど、ね・・・)  
 
「ま、こうなっては社長に任せるしかないのう、優君は自分の仕事をすすめなさい」  
「へ〜い」  
「返事ははい、じゃ!」  
 
こんな感じで工具楽屋の夜は更けていったらしい。  
 
「・・・とまあ、こんな訳で、俺が来ることになったんだけど、迷惑じゃなかったかな?」  
「いえそんな、迷惑だなんて、すごく嬉しいです! でも・・・」  
 
その後の言葉が続かず、クスクスと笑い出す。  
 
「ん、國生さんどうした?」  
「い、いえ、すみません、その、優さんが遅刻って・・・あはは」  
「ああ、そのことか、そうそう、それなんだけど、  
 丁度タイミング悪く夜更かししたらしくて、出社したの午後になってからだったらしいんだよね  
 優さんらしいといえばそうだけど、もう中之井さんがすっごく怒っててさあ・・・」  
 
我聞もつられて、おかしそうに笑う。笑いながら、陽菜を見てまた少し安心する。  
最初はちょっと荒かった息も今は普段どおりだし、顔はうっすら赤いままだけど、楽しそうに笑う陽菜を見ていると、  
体調は確実に快方へ向かっているとみてよさそうだった。  
 
(それにしても・・・國生さん、昔に比べて随分よく笑うようになったな・・・今も厳しいのは相変わらずだけど、  
 こんなに楽しそうにしてるのって無かったよな・・・)  
 
そんな風に思いながら何気なく陽菜の笑顔を見ていたつもりが、いつの間にか目が離せなくなっていた。  
 
(・・・國生さんって、こんなに可愛かったっけ・・・おかしいな、毎日会ってるはずなのに・・・)  
 
なんとなく、鼓動が大きくなってきてる気がする。  
 
(い、いかん、俺は社長だぞ! こ、こんな不埒なことを考えては優さんや中之井さんの期待を裏切ることになる!)  
 
そんな我聞をよそに、陽菜は優のエピソードがおかしくて堪らないらしく、まだ笑っていた。  
相当なお説教をくらったと聞いて、なんだか昨晩の意趣返しが出来たような気がして、  
優へのわだかまりと胸のつかえが少しだけ和らいだ気がした。  
やっと笑いが収まって前を見ると、なぜか頭を必死に振っている我聞がいた。  
 
「・・・? 社長、どうかされましたか?」  
「い、いや、あはははは、なんでもない、なんでもないから!」  
「・・・?」  
「そ、そう、それよりも、体調崩してて買い物とかできてなかったんじゃない?  
 必要なものとかあれば買出しいってくるから、遠慮なく言ってよ」  
 
んー、と少し考えてみるが、特にさしあたって必要なものはなかったはずだ。  
 
「ありがとうございます、でも大丈夫です、冷蔵庫の中も一通りのものは入っていましたし・・・」  
「そ、そうか、ならよかった」  
 
(やっと落ち着いた・・・いかんいかん、社長としてあるまじきことを考えるとは・・・まだまだ未熟だ・・・)  
 
「じゃあ、他になにか俺で出来ることあれば働くけど、なにかあるかな?」  
「う〜ん・・・そうですね・・・」  
 
正直、特に何もないのだが、そう言ってしまうと我聞が帰ってしまいそうで、つい答を引き伸ばしてしまう。  
と、  
 
「・・・クシュン!」  
「あ! 國生さんその格好でドア開けてたら冷えちゃうだろう、いやすまん、引き止めちゃっていたな、  
 だいぶ良くなったみたいだけど、まだまだ病人なんだ温かくしなきゃ・・・気付けなくてすまん!」  
「そんな、私が引き止めていたようなものですから、お気になさらないでください・・・」  
「とにかく、今日は温かくして早く寝るのがいいよ、用事がないようなら俺も帰るからさ」  
「はい、社長、わざわざありがとうございました・・・・・・・・・あ、あの・・・」  
「ん、なに 國生さん?」  
「もし、あの、よかったらなんですが・・・」  
「ん・・・?」  
「部屋・・・すこし寄っていかれませんか・・・?」  
 
我聞は落ち着かなかった。  
一人暮らしの、しかも同い年の女性の部屋に入るのなんてもちろん初めてなので(しかも二人きり)、  
いくら朴念仁とはいえ彼なりに緊張しているらしい。  
ついさっき、思わず陽菜の笑顔に見入ってしまったのも、その緊張に拍車をかけていた。  
ついついきょろきょろしてしまい、陽菜に  
 
「あ、あんまり見回さないでください・・・」  
 
と注意されて、慌てて目線を正したものだ。  
今は、リビングに腰掛けてなるべく前を向いてるようにしながらも、やはりちらちらと部屋を眺めてしまう。  
 
(お・・・俺は何をしているんだ・・・社長としてこれはどうなんだ・・・)  
 
一人暮らしの女子社員の部屋に一人で入り込むなど、保科さんあたりに知れたら、それこそ一生“セクハラ社長”と呼ばれ続けそうだ。  
だが、社員の頼みを断るのも社長として如何なものか・・・病気で不安になってる社員の力になるのは社長として当然の仕事ではないか・・・  
などと、一人葛藤を続けている。  
 
一方、陽菜も落ち着かなかった。  
我聞が来てくれただけで、本当に嬉しかったし、話ができて随分ほっとしたものだった。  
それだけで十分だと思ったはずなのに、彼が“帰る”という言葉を発した瞬間に、急に寂しさに襲われた。  
 
(まだ帰らないでほしい、もっと話していたい・・・)  
 
思わず招き入れてしまった。  
一人暮らしの年頃の女性が、男性を部屋に入れるのがどういう意味か、今更ながらに考えてしまい、  
恥ずかしくて堪らないし、下手すると昨晩のことを身体ごと思い出してしまいそうで、  
今更ながらに胸がどきどきと不安に高鳴っていた。  
そんな陽菜が、カーディガンを羽織ってから、  
 
「お茶の支度しますので、そこに座っていてください」  
 
と言ってキッチンへ駆け込んだのは、二人にとってお互いに有難いことであった。  
 
悩んだところでどうにもならないと悟った、というか考えるのを諦めた我聞は、再び部屋を遠慮がちに見回す。  
部屋には、観葉植物の鉢が沢山置かれている。  
 
(そういや工具楽屋の鉢植えも國生さんが世話してたっけ・・・)  
 
食べられるもの専門ではあるが、我聞にも“家庭菜園”という趣味がある。  
 
(性格は全然違うけど、案外通じるところもあるんだな・・・)  
 
などと鉢植えの観葉植物を眺めているうちに、陽菜が温かい紅茶を載せた盆をもってリビングに入ってくる。  
我聞が微笑みながら鉢植えを眺めているのを見て、なんとなく陽菜まで嬉しくなってしまう。  
 
「わたしガーデニングが好きで、暇のあるときによくそういうお店回っちゃうんです、  
 それで気に入ったのがあるとついつい手がでちゃって、気付いたらそんなに増えちゃいました」  
「あはは、國生さん会社の鉢植えも世話してるから、そういうの好きなのかなとは思ってたけど、  
 こんなに沢山あってちょっと驚いちゃったよ」  
「観葉植物の世話してると、なんだか落ち着いたというか・・・平和な気分になれるんです・・・  
 それで、すごく気に入ってるんです・・・あ、お茶どうぞ、熱いので気をつけてくださいね」  
「うん、ありがとう、見舞いに来たはずなのに働かせてしまって、悪かったね」  
「い、いえ! 引き止めて部屋まで来ていただいたのは私がお願いしたのですから・・・」  
 
そんなことを話しながら、二人して熱い紅茶をすすり、ふぅっ、とため息をつく。  
そのタイミングが同時だったものだから、二人顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。  
 
それでお互いにリラックスできたのか、しばらくガーデニングと家庭菜園の話ですっかり盛り上がってしまう。  
最近は通学時や部活の合間でも、仕事以外の話題でよく喋るようにはなっていたが、  
部屋の中で二人きりで面と向かって、というのはさすがに初めてで、  
それが二人の間にこれまで以上の親密な空気をもたらしたのかもしれない。  
陽菜は昨晩のことを忘れて、我聞は社長のことを忘れて、二人とも、とてもとても、幸せな気分でいた。  
だから、ふと話が途切れたとき、二人は無意識に、言葉もなく、お互いの顔を見つめていた。  
 
(國生さん・・・まずい、これは・・・でも・・・やっぱり・・・いかん・・・可愛い・・・)  
 
(社長・・・どうしよう・・・私、やっぱり・・・社長のことを・・・?・・・ううん、わからない・・・でも・・・)  
 
「こ・・・國生さん・・・」  
 
「・・・社長・・・」  
 
二人の鼓動の音が、それぞれ相手に聞こえるんじゃないかというくらいに大きく響く。  
心のなかでは共に葛藤を抱えつつも、その目は決して互いの目から逸らさない。  
小さなテーブルを挟んで、少しずつ、二人の顔は近づいてゆく。  
このまま進みつづけたらどうなるか、お互いに分かっている。  
でも、止まれない。  
そこには引力が存在するかのように、二人は引き寄せられていく。  
もう観葉植物も紅茶も見えない、二人の目には、相手の顔しか映らないくらいに近づいていた。  
鼓動はさらに早く高くなり、考えていたことなど既に消えうせている。  
互いの荒くなった息遣いが肌で感じられるくらい近づいて、さらに近づいて、二人とも自然に目を瞑り、  
目を瞑っても唇と唇が間違いなく衝突する、それが確信できる距離まで近づいたとき  
 
 
♪ちゃっちゃら、ちゃちゃちゃ、ちゃっちゃっ ちゃっちゃら、ちゃちゃちゃ、ちゃっちゃっ  
 
 
流れる笑点のテーマ曲。  
 
 
石化する二人。  
 
 
♪ちゃっちゃーちゃちゃーちゃちゃちゃちゃちゃ、ちゃーちゃーちゃちゃちゃー  
 
余りといえば余りにもなBGMに二人とも固まったまま動くことすらできない。  
ただただ、笑点のテーマ曲が無情に流れつづける。  
 
(・・・何だ・・・一体なんなんだ・・・社長業務を忘れた俺への天罰かっ・・・!?)  
(何・・・何が起きてるの・・・って!この曲は!)  
 
なんとか正気に戻った二人は目を開けて、真正面にあるお互いの顔に今更ながらに驚いて、思い切り飛び退る。  
我聞はそのまま壁に激突して頭を抱え、陽菜は音源を捜して右往左往する。  
この曲は陽菜の携帯の呼び出し音、しかも相手は・・・  
 
「は、はいっ! こ、こ、國生ですっ!」  
 
真っ赤な顔で、叫ぶような声で電話を取る。もしかすると少し怒っていたのかもしれない。  
 
『え、あの・・・コンバンワ・・・あの、果歩です・・・我聞の妹の・・・』  
 
その声圧に思い切り引いたであろう、果歩の腰の引けたような声が受話器から聞こえてきた。  
さすがに陽菜もハッとして、慌てて普段どおりの声色に戻そうと努力する。  
 
「こ、こんばんは、すみません、ちょっと慌ててしまって・・・それで、何か御用でしょうか?」  
『あの、お兄ちゃんがまだ家に戻らないんですが、会社の方に電話してみたら、もう留守電になってて、  
 陽菜さん、ご存知無いかなと思ったんだけど・・・今日はお休みされてたんでしたっけ・・・ごめんなさい』  
 
「あの、社長でしたらこちらに・・・社長、果歩さんからです」  
 
頭を抱えていた我聞だが、果歩と聞いてすこし“しまった”という顔をすると、携帯を受け取る。  
 
「もしもし、果歩か?」  
『へ?お兄ちゃん? こんな時間までどうしたの? っていうか、陽菜さんと一緒って、陽菜さん病気じゃないの?』  
「あ、いや、それはだな・・・えーと・・・」  
 
助けを求めるようにちらと陽菜を見ると、完全にうつむいてしまっている。きっと顔は真っ赤であろう。  
 
「いや、國生さんが体調崩してたから、社長として見舞いにきていたのだ!」  
『お見舞い・・・ってお兄ちゃん!もしかして陽菜さんの部屋にいるの!?』  
「あ、まあ・・・その、そうだが・・・いや!決してやましいマネなどしていないからな!!」  
 
言わなきゃいいものを、妹の手前、とりあえず体裁を繕わずにいられない。  
 
『ふぅ〜〜〜〜ん? でも、お見舞いって、こんな時間かかるものなんだ、へぇ〜〜〜〜?』  
「いや、そ、それは、その・・・なんだ・・・」  
 
病気の陽菜の部屋に我聞が見舞いに行っている。  
GHKとしてこれ以上ない程のシチュエーションに、既に何かあったのでは! と期待しまくりである。  
もちろん、寸刻手前に自らが最大のチャンスを粉砕したことなど知る由もなく。  
 
「そう、そうだ! 國生さんに夕飯をつくってあげているところなんだ!  
 だからすまん、もう少し帰るの遅くなりそうだ!」  
 
我聞、苦し紛れにもなんとか取り繕う。我聞としては随分マシなフォローの部類であろうか。  
 
『ふうん、そう〜?じゃあ、陽菜さんのこと、しっかり、し〜〜っかり、看病してあげなさいよ?  
 じゃあ、陽菜さんにまた代わってくれる?』  
「お? お、おう、分かってるさ! ・・・國生さん、果歩がまた代わってくれって・・・」  
 
それを聞いてうつむきっぱなしの陽菜が顔を上げると、それはもう予想通りに真っ赤に染まり、  
どんな顔をしたらいいか分からない、そんな表情をしていた。  
 
(俺も似たようなものだろうな・・・むぅ、まだドキドキしている・・・情けない)  
 
そんなことを思いながら陽菜へと携帯を返す。  
 
「は、はい、代わりました、國生ですが・・・」  
『陽菜さん、ごめんなさいね、病気のところにお兄ちゃんお邪魔しちゃってるみたいで・・・  
 あの、料理がどうとか言ってますけど、うるさかったり邪魔だったり変なことしようとしたら、  
 容赦なく追い出して下さって結構ですから!』  
「は、はい・・・っていえ! 変なことなんてしてませんから!」  
『へ・・・? あ、あら、そうですか・・・じゃあ、いい機会だからいつも仕事で迷惑かけられてる分、  
 存分にこき使ってやってくださいね! あれで意外に料理は上手いし、洗濯も掃除もできますし、  
 今夜いっぱい貸し出しますんで、た〜〜〜っぷり甘えちゃってください! じゃ、お大事に!』  
「は、はい・・・って、えええ! 果歩さん? 果歩さん!?」  
 
つー、つー、つー。  
一気にまくしたてられてほとんど一方的に切られてしまって、話の中身が遅れて頭に入ってくる。  
ええと、なんでしたっけ・・・社長を・・・?  
 
「えーと・・・果歩はなんて・・・?」  
「はい・・・社長を一晩、貸して下さると・・・」  
「・・・は?」  
「こき使って甘えろ、と・・・」  
「・・・・・・」  
 
呆然、というか唖然として、さっきとは全然違う意味で、しかし再び顔を見合わせてしまう二人。  
 
「むぅ・・・」  
「・・・」  
 
((き、気まずい・・・))  
 
しばらく顔を見合わせてから、はっとして目を逸らすと、我聞は天井に、陽菜は床に目をやって、  
なんともいえない時間を過ごす。  
電話で中断されたとはいえ、危うく、なのか惜しくも、なのか複雑ではあるが、キス寸前までいってしまった、  
しかも前触れもなく唐突に。  
それでもう混乱しきりで、お互いにもうどうしていいやらわからない。  
 
(だめだ、この空気は重すぎる・・・なんか、なんか喋らなくては耐えられん・・・!)  
(わたし、社長のこと、どう思ってるの・・・社長は私のこと・・・あああもう! とにかく何か話さないと・・・)  
 
「ねぇ、國生さん」「あ、あの・・・」  
 
意を決して口を開いてみたら二人同時で被ってしまう。  
 
「あ、なに、どうしたの?」  
「いえ、あの、社長から先に・・・」  
「あ、そう・・・えーと、さ・・・さっきは口から出任せで喋っちゃったけど、國生さん、お腹すいてる?  
 もし夕飯まだだったら、折角だし俺が作ろうか?」  
「え・・・でも・・・」  
 
ぐうぅぅぅぅぅ。  
 
言葉で答える前に、お腹が声をあげる。 陽菜、また真っ赤。  
 
「あああああ、あの、こ、こ、これは、あの・・・」  
「・・・ぷっ、あはははは」  
 
あまりのタイミングのよさに、さっきまでも気まずさも忘れて思わず笑い出す我聞。  
陽菜としては、考えてみれば、昨晩、優を迎える前に夕飯を取ってから24時間以上何も食べていないのだ、  
当然といえば当然の反応であったが、もちろん我聞はそんなこと知る由もない。  
あんまり我聞が可笑しそうに笑うものだから、陽菜もむきになって、  
 
「しゃ・・・社長わらいすぎです!」  
 
恥ずかしそうな、それでいてムッとしたような顔で精一杯キツい顔を作ったつもりだが、  
 
「ご、ごめん、あは、あはは、いや、なんか普段の國生さんとのギャップがありすぎて・・・ごめん、あはははっ」  
「・・・もう、知りません!」  
 
抑えようとしても笑ってしまう我聞に、陽菜はすねたように口を尖らせて、ぷいっと顔を背ける。  
特に意識していないが、二人ともいつのまにかさっきまでの気楽な雰囲気に戻っていた。  
 
「くくっ・・・さて、それじゃあ國生さん、なにかリクエストある?  
 これでも社長はじめるまでは家事やってたからな、大概のものは作ってみせるよ?」  
「・・・・・・」  
「む、いや、すまん、ほんとこの通りだから、お詫びに夕飯つくるから勘弁してくれ・・・いや、してください!」  
 
思ったより怒っていると感じたか、慌てて頭を下げて手を合わせたりしている。  
 
「・・・ぷぷっ、あははっ」  
 
今度はそれを横目で見ていた陽菜が笑い出す。  
我聞もほっとしたように、頭に手を当てて笑っている。  
 
「じゃあ、果歩さんのお言葉に甘えてこき使わせて頂きますね・・・う〜ん・・・どうしようかな・・・  
 うん、それでは、献立は肉じゃがでお願いします!」  
 
「・・・肉じゃが?」  
「はい、肉じゃがで! 社長もお好きなんですよね? 以前、果歩さんに教えていただきました」  
「確かに肉じゃがは俺の大好物だけど、今日は國生さんのお見舞いだし・・・  
 遠慮せずに國生さんの好きなもの言ってくれりゃいいのに」  
「いえ、社長がお好きなものでしたら、きっと得意料理でしょうから、きっと美味しいんじゃないかなと思って・・・」  
「なるほど! そういうことなら、腕によりをかけて作らせてもらおう!  
 それじゃあ、冷蔵庫とキッチン借りるから、國生さんはゆっくりしていてくれ!」  
 
しっかり気合をいれてキッチンへ向かう我聞を微笑ましく見送ると、ふぅっと息をついてベッドにもたれかかる。  
自分の部屋にいて、こんなに楽しいと思ったのは初めてかもしれない・・・いつも部屋にいるときは一人だったら。  
 
(楽しいときって、同じ景色でも全然違って見えるんだ・・・)  
 
いつもは静かな、ときとして寂しいと思う部屋。 いくら観葉植物を置いても、にぎやかにはならない。  
それが、人が一人いるだけで、こうも変わってしまった。  
 
(でも、優さんが来たときはこんな風にはならなかった・・・社長だから・・・?)  
 
昨晩のことは例外としても、時々優が遊びにくることはあった。  
それはそれで楽しい(酒が入っていると理解の追いつかない科学話が延々続いたりするが)のだが、  
こんな気分になったのは今日がはじめてだった。  
 
(もし、さっき・・・)  
 
ふと考える。  
 
(果歩さんの電話がなかったら・・・わたし・・・社長と・・・)  
 
どくん。  
 
(キス・・・してたの、かな・・・)  
 
どくん、どくん。  
 
(そしたら、その後どうしてたんだろう・・・もしかしたら、昨日みたく・・・)  
 
身体が、熱くなってきた気がする―――昨晩のように・・・。  
顔を真っ赤にしてうずくまり、手が勝手に動きそうになるのをなんとか抑える。  
 
(だめ! ・・・社長がいるのに・・・こんなこと、だめ・・・)  
 
気持ちを切り替えるように頭を振ると、我聞へ話し掛けて気をそらそうとする。  
 
「社長、道具の場所とか、わかりましたか?」  
「ああ、大丈夫、國生さんの片付け方が上手いからかな、すごく使いやすいよ、この台所  
 それより、國生さん病気なのに、なんかバタバタさせちゃって悪かったけど、調子どうかな?」  
「あ、はい! お陰さまで、随分良くなってきてると思います」  
「そうか、ならよかった。 でもまだ油断は禁物だからな、こっちはもう少し時間かかりそうだし、  
 少し横になって休んだらどうかな?」  
「え・・・でも、社長を働かせて、私だけ休むなんて・・・」  
「大丈夫、こっちのことは気にしないでいいから、國生さんは早く治すことだけ考えて」  
「はい・・・すみません・・・ありがとうございます・・・」  
 
リビングからキッチンを覗くと、てきぱきと我聞が動いている。  
初めて使うキッチンなのに、動きに滞りがないように見えて、本当に炊事は得意なんだなと感心してしまう。  
さすがに人を働かせておいてベッドで眠るつもりはなかったが、  
我聞とのやりとりでふと安心して気が抜けたのか、つい、うつらうつらとしだすと、  
ベッドに寄りかかったまま、いつのまにか眠りに落ちてしまった。  
 
いい匂いがする。  
―――そういえばお腹、すいたなぁ・・・  
そんなふうにして目を覚ました陽菜の前には、炊き立てであろうごはんと肉じゃがが並べられつつあった。  
 
(あ・・・私、眠っちゃったんだ・・・)  
 
あわわ、と動こうとして、ベッドに寄りかかったままの体勢だけど身体には毛布が掛けられているのに気付く。  
 
「お、國生さん、起きた? 丁度準備できたとこだけど、食欲ある?」  
 
そう言いながら、お盆に味噌汁を載せて我聞がリビングへ入ってくる。  
いい匂いのもとが更に増えて、思わずまたも  
 
ぐうううぅ。  
 
すこしぼんやりしていた陽菜の頭もこれですっかり醒めてしまう。  
さっき以上にあわわ、とじたばたしている陽菜を今度は声立てずに微笑ましく見つめると、  
 
「久々にしては上手くできたと思う、さあ、存分に食べてくれ!」  
 
なんて言いながら、配膳を終えて陽菜の向かいに座る。  
ご飯と味噌汁とおかず一品の簡単な食卓ではあったけど、まる一日ぶりの食事となる陽菜には、  
そこから浮かび上がる芳香はもはや凶悪と言ってもいいレベルで空っぽの胃を刺激する。  
 
「あ・・・はい・・・い、いただきますっ!」  
 
社長の前でがっついちゃだめ!・・・と思いつつも、食べ始めたらもう止まらない。  
 
(美味しい・・・すごい、私が作るのと全然ちがう・・・)  
 
「どう、結構自信作なんだけど、気に入ってもらえ・・・」  
「お、美味しいですっ! ・・・すごく!」  
「そ、そうか、それは何よりだ」  
 
なんというか“本気の目”で答えられて、ちょっとびびる我聞。  
 
「・・・まあ、果歩には負けるがこれでも料理の腕はそれなりに自信あるからな」  
「むぐ・・・果歩さんはもっとお上手なのですか?」  
「ああ、残念だがあいつには敵わんな、もともとは俺を手伝うってんでついでに教えたんだが、  
 今じゃすっかり工具楽家の料理長だよ。 ・・・お陰で助かってるけどな」  
 
ふむふむ、とうなずきながらも、食べる手は止まらない陽菜。  
普段の陽菜からすると、やや“お行儀が悪い”ようにも思えるが、  
自分の料理をこれだけ美味しそうに食べてもらえるなら我聞としても気分が悪いはずもない。  
そんな陽菜を微笑ましげに見ながら、自身も箸を進める。  
 
「少し多めに作ったから、おかわりしたかったら遠慮せずに言ってくれ」  
「あ、はい・・・じゃあ、あの、すみません、社長・・・早速なのですが・・・もうちょっと・・・」  
「へ・・・? あ、ああ、よしきた!」  
 
24時間以上ぶりのひさびさの食事な上に、思った以上に味が良かったので、もう抑えが効かないらしい。  
結局、少し多めに出来たかなと思っていた肉じゃがもご飯も、綺麗さっぱり無くなってしまった。  
主に陽菜によって。  
 
さすがに大分落ち着いたようで、今は食後のお茶を飲みながら、我聞の剥いたリンゴを二人でつまんでいる。  
 
「・・・私もずっと料理してましたが、こんな風に美味しい料理って、作れたことないです・・・」  
「そうなの? 國生さんなら何でもそつなくこなしそうだけど・・・ふぅむ・・・そうか、そうかもな」  
 
なんとなく一人うなずく我聞を、陽菜は不思議そうに見る。  
 
「ウチはさ、口うるさい妹や弟が3人いるからな・・・料理ひとつにしても、いろいろ注文がでるんだ。  
 そーいうのに答えていろいろ加減したり工夫してるうちに、丁度いいところで落ち着くんだと思うんだ。  
 それを毎日繰り返してたら、いつのまにか、だろうな、こんな風に料理できるようになってたんだ。  
 國生さんも、誰か人のために料理するようになったら、すぐに上達するんじゃないかな?」  
「人の・・・ために・・・」  
 
(誰にだろう・・・わたし以外の人のために・・・社長? ええと・・・お弁当、とか・・・?)  
 
真っ先に目の前の人のことを考えてしまい、慌てて赤面した顔を伏せる。  
 
「ん? どうした、國生さん? 喰いすぎた?」  
「い、いえ!なんでもないです! (ぴきっ) あ、あの・・・」  
「ふむ、どうした?」  
「あの、今度・・・わたしも料理の腕を上げたいので・・・わたしの料理、食べてもらっていいですか・・・?  
 ・・・ほ、ほんとに、料理の腕を上げたいからですから!」  
「そうか、そういうことなら喜んで協力しよう! いつでもかかってくるがいい! 但し俺の舌は厳しいぞ!?」  
 
この朴念仁っぷりが助かるやら腹が立つやら・・・  
なんとなく複雑な気分になりながらも、とりあえずOKということで一安心する。  
確かに、いつもは自分ひとりのための食事しか作らないから、“不味くなければいい”くらいにしか気にしていない。  
対して、今日の肉じゃがが美味しかったのは、まず空腹だったから、だと思うが、  
 
(でも、それだけじゃない・・・社長が、わたしのために、作ってくれたから・・・)  
 
人のことを思って作る料理は、きっと自分のためのものより美味しくなると思う。  
そして、人が自分のために作ってくれた料理は、きっとその人を思うほど、美味しくなるに違いない。  
 
(今のままじゃダメ・・・今度果歩さんに、こっそりとお料理のこと、教えてもらわなくちゃ・・・)  
 
「・・・ねぇ、國生さん」  
「は! は、はい!?」  
 
あまり我聞に知られたくない考え事をしていたので、思わず返事の声が裏返りそうになる。  
 
「いつもこの部屋で、一人で食事してたんだよね?」  
「? はい、そうですが・・・?」  
「・・・今度さ、俺ん家に夕飯食べにこないか?」  
「へ・・・?」  
「いや、俺の家はあんな妹や弟いるから、メシの時はいっつも賑やかなんだ、  
 騒がしいしおかずの取り合いなんて日常茶飯事だけど、でも明るくて、楽しい時間なんだよな。  
 でも、國生さんはいつも部屋で一人でメシ食ってるんだなと思ったら、なんか寂しそうに思えてきてさ・・・  
 ・・・あ、もちろん、一人の方が好きとか、静かな方がいいのなら、余計なお世話だとは思うんだが!」  
 
工具楽家での夕食・・・  
工具楽家の兄妹達をよく知る陽菜には、どんな情景か容易に想像がついた。  
おかずを奪い合う我聞・珠・斗馬、叱る果歩。  
食事中でも立ち上がって動き回る珠・斗馬、叱る果歩。  
家長を気取っておかしなことを言い出す我聞、突っ込む果歩。  
 
(・・・果歩さん・・・大変そうです・・・でも・・・)  
 
その中に家族のように混ざって、一緒に笑ったり突っ込んだり。  
 
それは、とてもとても、素敵な想像だった。  
 
「でも・・・それは社長のご家族にご迷惑をかけるのでは・・・?」  
 
魅力的な提案だが、簡単に乗ってしまっていいのかどうか・・・迷惑は掛けたくない。  
 
「何が迷惑なもんか、果歩も珠も斗馬も國生さんにはよくなついてるし、喜んで迎えるさ。  
 料理作るのに4人前も5人前も大して変わらないし、國生さんには果歩の勉強までみてもらってるからな、  
 お礼に夕飯ぐらいご馳走しなきゃバチがあたるくらいだ、よし、決まりだな!」  
「え・・・あの、でも・・・立ち入ったことで申し訳ありませんが、  
 社長の家の、その・・・経済事情を考慮すると、一人分の食費も馬鹿にならないのでは・・・?」  
「うっ!  ・・・だ、大丈夫! その分は俺がきっちり稼ぐ!!」  
 
また安請け合いを・・・、と少しだけ呆れる。  
きっと果歩さんに小言を言われるに違いない・・・仕事中にわたしから言われるように・・・  
そう思うと、なんか可笑しくなってしまって、つい笑いがこぼれてしまう。  
 
「では、私も食材を持っていって、果歩さんにお料理のことを教えて頂く、というのはいかがでしょうか?  
 社長より上手な果歩さんから習えば、私だってもっとお料理が上手くなれそうですし」  
「お、それはいいかもしれないな・・・それじゃあ!」  
「はい! 喜んでご一緒させていただきます!」  
 
我聞がよっしゃ、と笑い、陽菜も満面の笑みで応える。  
昨晩は散々だったけど、今晩はなんて幸せな夜なんだろう。  
いつも静かで寂しい部屋が、今日はこんなにも温かい・・・。  
二人だけの親密な空気、心地よい会話、かけがえのない時間―――ずっと、ずっと続けばいいのに。  
 
(そっか・・・)  
 
目の前で笑う我聞の顔を見つめながら、理解した。  
 
(やっぱり、私・・・社長のこと・・・)  
 
言葉にしなくても恥ずかしい、でも、胸が高鳴るようなこの感じは、とても気持ちいい。  
この気持ちが消えてしまわないように、両手を胸に当てて軽く目を瞑る。  
 
「? どうしたの、國生さん?」  
「・・・いえ、なんでもありません」  
 
不思議そうにたずねる我聞に、目を開くと微笑を浮かべ、静かに答える。  
満たされたような、穏やかな、安らかな笑顔だった。  
 
そんな陽菜をみて、我聞は心なしか照れたような顔をすると、立ち上がり空になった食器を重ね始める。  
 
「よかった、どうやらもう大丈夫そうだな・・・  
 それじゃあ、早速帰って、果歩に話さないとな、果歩は特に國生さんになついてるから、きっと喜ぶぞ」  
 
え・・・?  
 
「よし、食器片付けてくるよ」  
 
かえ、る・・・?  
 
「果歩はよく、國生さんのこと、本当のお姉さんみたいとか言ってるんだよな、あんなお姉さんが欲しい、とかね」  
 
我聞が食器を手早く洗いながら楽しそうに喋っているが、よく聞こえてこない。  
 
「中学生にもなって、変な無茶言うよな、まったく、ははは・・・っと、片付け終了!」  
 
我聞がリビングに戻ってくるが、腰は下ろそうとしない。  
 
どうして? なんでまた、私の前に座ってくれないの・・・?  
 
「じゃあ、俺、そろそろ戻るとするよ、果歩は一晩とか言ってたらしいけど、流石にそんな訳にもいかないからな  
 ・・・あれ、國生さんまた熱でも上がったかな、ちょっと顔色が良くないな・・・  
 食べたばかりだけど、今日は早めに休んだ方がよさそうだ、じゃあ、このままでいいから・・・  
 身体良くなったら、明日また学校で! でも無理しちゃだめだぞ? ・・・じゃ、また!」  
 
笑顔で別れの挨拶を口にすると、くるりと背を向けて玄関の方へ歩いていく。  
さっきまでの温かかった部屋が、一気に冷えて行くように感じる。  
社長が、帰っちゃう・・・また、ひとりに、なっちゃう・・・  
 
涙が、こぼれた。  
あの温もり、失いたくない・・・社長と、離れたく、ない。  
そう思ったときには、陽菜は既に立ち上がっていた。  
 
「・・・あ、見送りはいいよ、そのまま座っ・・・て・・・!?」  
 
リビングを侵食する寂しさと寒さから逃げるように廊下を駆け、陽菜は、我聞の腕にすがりついていた。  
 
「こ・・・國生・・・さん?」  
「・・・・・・」  
「ど、どうした? 体調また悪くなったのか?」  
「・・・かないで・・・」  
「え?」  
「・・・・・・いかないで!」  
 
涙に濡れた陽菜の目に見つめられ、我聞は視線を逸らすことはできなかった。  
 
「・・・社長、ご存知ですか・・・この部屋・・・ひとりだと、すごく、寂しいんです・・・寒いんです・・・  
 こんなに、こんなにこの部屋が温かいと感じたの、今日が、今が、はじめてなんです・・・  
 でも、でも・・・社長がお帰りになったら・・・わたし、また、ひとりなんですよ・・・?  
 寂しいのは・・・いやです・・・寒いのも・・・いやです・・・  
 ・・・わがままだって、わかってます、でも、でも! 今日だけでいいんです! だから・・・  
 お願いです・・・行かないで・・・帰らないで・・・! ひとりにしないで!  お願いです!!」  
 
両腕で我聞の左腕を掴んだまま、ぼろぼろとこぼれる涙を拭おうともせず、ただただ思いを言葉にする。  
それだけ言い終えると、うつむいて、言葉にならない嗚咽を漏らすばかりだった。  
 
我聞は、何も言わなかった。  
ただ、空いた右手を陽菜の肩に回すと、自分の胸へ引き寄せた。  
陽菜は、我聞の胸に身体を委ね、そのまま泣きつづけた。  
 
「・・・俺なんかで・・・」  
 
陽菜の嗚咽がほとんど聞こえなくなってから、はじめて我聞は口を開く。  
それを聞いて、陽菜は顔をあげ、我聞と見つめ合う。  
 
「俺なんかで、役にたてるのかな・・・?」  
 
慈しむような顔で、陽菜を見る。  
 
「社長じゃないと・・・ダメなんです・・・」  
 
すがるような目で、我聞を見上げる。  
 
二人はそのまま目を瞑り、その距離を縮めていく。  
 
 
今度は、携帯は鳴らなかった。  
 
 
二人は軽い、だけど時間の長い、キスをした。  
 

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