「――それじゃあね。ガモン」
桃子が告げたのは、別れの言葉だった。
「ああ」
我聞はただ、静かに頷く。
「もう、冷たいのね。これでお別れなのに。
……もう少し、何か言ってくれてもいいじゃない」
「そうは言ってもなぁ」
「ふふっ、でも、そっちの方があなたらしいかな」
頭を掻く我聞に不満そうにしながら、それでも桃子は幸せそうに笑った。
そこに含まれたほんの少しの寂しさは、隠しきれてはいなかったけれど。
「ね、ガモン。また……会えるかな?」
それは希望的な観測。
不確定な未来は、だからこそ夢見ることができる。
たとえそれが、どのような確率の希望であっても。
「あたりまえだろ。絶対に会える」
「ガモン……」
はっきりと言い切る我聞に、桃子の胸は熱くなった。
その瞳に涙すら浮かべ、桃子は愛しい相手を見つめる。
二人の間には数歩の距離。
何も隔てるものはなく、彼女は身を投げ出すように地を蹴った。
「ガモン――!!」
「――うっだぁあああああっっ!!」
「ふぎゅっ!?」
突然のとび蹴り。それは横から。
大地を蹴った桃子は何者かの不意打ちを喰らい、ごろごろと地面を転がった。
そのままの勢いを利用して立ち上がると、我聞の前に立つ少女の姿を目に留める。
「ええいっ、黙ってみてればかゆくなる展開を……」
「ナイ胸!!」
「ナイ胸ちがうっ、果歩よ果歩!!
あんたは他人の事言えないでしょっ」
そう、それはナイ胸――ではなく。
我聞の妹、果歩であった。
「何するのよいきなり!! せっかくガモンといい雰囲気だったのにっ」
「何がいい雰囲気よ! 一人で盛り上がっただけじゃない!
お別れお別れって、あんた宿泊先のホテルに帰るだけでしょーが!!」
果歩の突っ込みは、もっともである。
あれから、真柴を追われた桃子はいまだ行く先も決まらず、とりあえずのホテル暮らしをしていた。
工具楽屋に就職しないか、と我聞に誘われてはいたが、まだ答えは返していない。
何を迷っているのかは定かではないが、とりあえずは保留の状態なのである。
そんなわけで、することのない彼女は頻繁に我聞の元に訪れていた――毎日のように。
そして決まって別れ際に同じ様なことを繰り返しているのだから、それは蹴りも飛ぼうというものだ。
「全く、毎日毎日……学校行くか働け暇人!」
「なによ。毎日ってわけじゃないじゃない。
ガモンがいない時は来てないでしょ? 学校とか、仕事とかで」
「そ・れ・で・も。週に何回来てるのよ。
っていうか、やっぱり狙いはお兄ちゃんなのね。
ふん、私の目の黒いうちは、あんたなんか嫁とは認めないんだから!」
「む、なんですって〜!!」
似たもの同士というのだろうか。
果歩と桃子が乱闘寸前になるのも、これもいつものことだった。
ため息を吐きつつ、それを我聞が見やるのもいつものことで。
さて、どのタイミングで止めようか、と彼が思い始めた頃、そこに別の人間が現れた。
「おお、やってるやってる〜」
「あれ、優さん?」
我聞が聞こえた声に振り返ると、そこにはメガネをかけた女性。
工具楽屋の社員、技術部長の森永優。
唐突に現れた彼女は玄関先で暴れる桃子を見て取ると、なにやら外に手招きをする。
「いたよ、居た居た。やっぱここだったわ」
「ほんとっすか。いや、助かった。お〜い姐さ〜ん!」
「――っ、オリマー?」
と、優に呼ばれて現れた男はオリマー。
詳しい説明は省くが、桃子の部下である。
いきなり現れた知り合いに、桃子はにらみ合いを中断した。
「たのんますから、行き先くらい言ってってくださいよ。
どこ行ったのかわかんなくて、探しましたぜ」
「なによ。ちゃんと書き置きあったでしょ?」
「いや、“ガモンのとこに行く”だけじゃ、会社なんだか学校なんだか……」
「うるさいわね。別にいいじゃない」
「まあ、いいんですがね。――さ、そろそろ帰りましょうや」
言いながら、オリマーはひょいっと桃子を肩に担ぎ上げる。
まるで米の袋でも担ぐように。
「きゃあっ! ちょ、まちなさいよっ、まだガモンにちゃんとお別れしてない――」
「そんじゃ、お騒がせしやした。失礼しやす」
「ああ、おつかれさん」
「まって、まってってばっ!」
桃子の抗議も全く聞いていない風で、オリマーはそのまま工具楽家から出て行った。
去り行く桃子に手を振る我聞。
担がれながら涙目で、ガモン〜ガモン〜とぱたぱた暴れる桃子がやけに印象的であった。
「ふん、だ。二度と来るなー!」
桃子の去った方向に、果歩が声を張り上げる。
すると、こつん、と軽く頭を小突かれた。
「こら、果歩」
「お兄ちゃん……」
「いくらなんでも、二度と来るなはないんじゃないか?」
「う……」
改めて指摘されると、ちょっと言い過ぎた感がしないでもない、と果歩は思った。
しかし、仲がいいのは良いけど、という我聞の呟きに眉根を寄せる。
――面白くない。
何がそうなのかわからないけど、面白くない。
「……随分あの娘の肩持つんだね」
「ん? いや、そんなつもりはないけどな」
「そう? それにしちゃ、結構気にかけてるみたいだけど」
全く何も考えていないような兄の顔に、果歩の不機嫌さが募っていく。
「お兄ちゃん――ああいう娘が好みなの?」
「ぶっ!? なんだそりゃっ!?」
「でも、駄目だからね。あの娘は絶っ対、ダメ!!」
「いやちょっとまて、一体何の話――」
問いかける我聞だが、それは答えられることはなかった。
何故かヒートアップしてしまっている果歩には届かず、果歩はさらに言葉を募る。
「だってあの娘、私とそんなに違わないんだよ!
それに家事だってできないし、背も、ほかの部分も!
あの娘がお兄ちゃんの恋人になれるんなら、それなら私だっ……て――」
そして、気づいた。
言いかけた言葉を飲み込む。
さぁーっと血の気が引く感触。
次いで体が、頬が、熱をもつ。
「……果歩?」
たぶん、話についてこれてなかったのだろう。
何もわからないというような、我聞の声。
それをきっかけに、果歩は感覚を取り戻した。
「――お、お兄ちゃんは陽菜さんのことだけ考えてればいいのっっ!!」
「へっ? あ、お、おいっ! 果歩っ!」
ダダダンッっと、ものすごい勢いで果歩は家の中に入っていく。
後には、呆然とそれを見送った我門と、興味深そうに観察していた優が残っていた。
「なんなんだ、一体……?」
「うぅむ、これはつまり――」
「優さん?」
「似た感じなのが付き纏うようになって、自分をそこに当てはめてしまった、と。
……潜在的にあったものに、火がついちゃった、ってとこかな」
「…………?」
「――GHK、解散の危機……かもね?」
優はなにやら核心的なことを言っている様だが、我聞には何がなにやらわからない。
ただただ、首をひねるばかりである。
こうして、若干一名にはさっぱりワケがわからないまま、今日という日は過ぎるのだった――。