「……で、この例文の場合、関係詞節の動詞が目的語を必要とするから、関係代名詞ね。
で、必要としないこっちの例文だと……」
「関係副詞になるって事ね…なるほど」
私の目の前で、果歩は心底感心したように頷いた。
ここは、工具楽家で『女性部屋』と呼ばれる、果歩と珠の私室だ。
私はそこで、先ほど約束したとおり、果歩の勉強を見ていた。
「さすがに自分で天才と言うだけはあるわね。すごく助かるわ」
今学んだ部分に赤線を引きながら、果歩は私に感謝の言葉を述べる。
それはお世辞的な意味合いもあったかもしれないけど、それでも感謝されるのは嬉しかった。
「ま、まあね。けど、果歩だって凄いじゃない。一度教えたら覚えちゃうんだもん」
嬉しさでにやけそうになるのを堪えながら、私は言葉を返した。
ちなみに、私の言った事はお世辞じゃない。
実際、果歩は一度説明するとすぐに覚えてしまうのだ。
「そりゃ、時間は無駄に出来ないじゃない。ただでさえ家事とかで時間足りないんだから」
なるほど。
確かに工具楽家の家事を取り仕切っている果歩は、一般的な中学生に比べれば自分が使える時間は少ない。
……その少ない自分の時間を勉強に費やす果歩。
私は、ふと思った疑問を口にする。
「…勉強好きなの?」
「んー? 別に好きでも嫌いでもないけど」
果歩は、シャーペンを指で器用に回しながら答える。
「好きでもないのに、こんなに勉強するの? 普通、遊んだりするのを優先しない?」
「んー、まあ、私だって遊びたいんだけど……」
果歩は気まずそうに後頭部を掻いて、言葉を濁す。
私は静かに、果歩の言葉を待った。
「……高校とか、奨学金で行こうって思ってるんだ。だから、今から勉強しないとね」
「……我聞に迷惑をかけない様に?」
「……うん」
恥ずかしそうに頷く、果歩。
やっぱりね。
しっかり者の果歩の事だから、そうじゃないかとは思ってたけれど。
それにしても…
「…凄いね、果歩は」
「え!?」
「だって、私と同じ歳なのにそこまで考えてるんだもん。凄いよ」
私は正直な感想を漏らす。
ライバルだとか、姉妹だとか関係なく、私は心の底から果歩が凄いと思った。
「そ、そんな事言ったら、桃子だって凄いじゃない。その歳でもう高校行ってるし、それに働いてもいるし」
「ううん。それは成り行きでそうなっただけ。けど、果歩は違う。ちゃんと自分で考えてる」
そう。私の今の状況は、私が選んだわけじゃない。
私はただ、与えられているだけだ。
「わ、私なんてまだまだだよ。だって……」
果歩はぎゅっと拳を握ると、そこで言葉を途切れさせる。
……きっと、私と同じ人を思い浮かべているのだろう。
「…お兄ちゃんの方が……凄いよ」
「……そう、ね」
高校生であり、父親であり、工具楽屋の社長であり、そしてこわしやである、我聞。
それがどれだけ大変な事かは、側にいればすぐに分かる。
…ううん。大変なんてものじゃない。
運が悪ければ、死ぬ可能性だってある。
実際、私はもう少しで我聞を……
「お兄ちゃんね…私達の前じゃ、絶対に辛いって言わないの。
私達に心配かけないように、仕事の話もあんまりしないし……バレバレなのにね」
果歩は苦笑しながら、言葉を続ける。
「たまに大怪我して帰ってきても、心配する私達の事を逆に心配してくれるんだよ。
迷惑かけてすまんな、って……迷惑かけてるのは、私達の方なのに。
……だからこそ……私はお兄ちゃんの負担にはなりたくないの」
「果歩……」
「私はお兄ちゃんの力にはなれない。だったら、せめてお兄ちゃんの負担にはならないようにしたい。
だから、自分で出来る事は自分でやるの。家事もそうだし、勉強だってそう。
私は、お兄ちゃんがいなくても大丈夫なんだって、お兄ちゃんに見せ付けてやるんだ」
「………」
笑顔で、言い切る果歩。
私は、その決意の前に言葉を失う。
しっかりものだとは思っていたけれど、ここまで考えていたなんて……
それに比べて、私は……
「私はお兄ちゃんの力にはなれないけど……桃子は違うよ」
「…え?」
「桃子は、学校でも工具楽屋でも、お兄ちゃんの側にいる。桃子は、お兄ちゃんの力になれる場所にいる。だから……」
そして果歩は、私の手を両手でぎゅっと掴む。
そのまま、精一杯の笑顔を私に向けて、言葉を放つ。
「お兄ちゃんを守ってあげてね」
……ああ、そうか。
その瞬間、私は我聞の強さの理由に気付いた。
私は、果歩の身体に両腕を回す。
そして、そっと果歩を抱きしめた。
「それは違うよ、果歩。あなたは十分、我聞の力になっている」
「桃子……」
「あなたがいるから、我聞は安心して、こわしやの仕事に専念できる。
あなたがいるから、我聞は安心して、ここに戻ってくる事が出来る。
果歩は、我聞の力になっているよ」
「………」
「私も頑張って、我聞の力になるから。頑張って守るから……一緒に頑張ろうね、果歩」
果歩は無言のまま、おずおずと私の身体に手を伸ばす。
そしてゆっくりと、しかししっかりと、私の身体を抱きしめる。
「…ありがとう、桃子」
――我聞が強いのは当たり前だ。
守るべき人がいて、守ってくれる人がいる。
帰る場所が、ここにあるのだから。
そして、私も――
――我聞を、守りたい。
……しばらく抱き合っていた私達だったが、不意に果歩が顔をあげた。
「…そろそろ寝ないと明日に響くわね」
果歩は時計を見ると、私から身体を離す。
「勉強見てくれてありがとう、桃子」
「いえいえ、お役に立てたようで何よりだわ」
「…これからも、よろしくね」
「…うん!」
「……だけど、あなたがお兄ちゃんと付き合うってのは話が違うからね」
「わ、分かってるわよ!」
最後にちゃんとつっこみを入れる辺り、やはり果歩はしっかり者だ。
私達は、顔を見合わせて笑い会う。
ちょっとだけ……本当の姉妹に近づけた気がした。
そして果歩は押入れから、二人分の布団を引っ張り出す。
ちなみに珠は一人で布団を敷いて、とっくの昔に夢の国へと旅立っている。
……やっぱり、私はここで寝るのか。まあ、予想はしていたけれど。
「何、がっかりした顔してるのよ」
「し、してないってば!」
……してたけど。
「じゃあ、桃子の布団はこれね。トイレは部屋から出て右側だから。間違えてお兄ちゃんを夜這いしないように」
「しないわよ!」
……しないわよ……多分。
私と果歩は布団を敷き終わると、電気を消して布団に潜り込む。
……こうして、誰かと枕を並べて寝るのはいつ以来なんだろう。
私、今、うきうきしてる。
「それじゃ、おやすみなさい」
「…おやすみなさい」
きっと今日は、簡単に寝ることは出来ないわね。
***
――深夜。
「うーん、むにゃむにゃ……トイレ、どこぉ?」
私はまどろみの中、尿意を感じて起き上がる。
えーと……トイレは部屋から出て右だっけか……
眠い眼をこすりながら、ふらふらと廊下を歩く私。
……ああ、これね。
私はトイレのドアを開けると、パジャマを脱いで便座の上に腰を下ろす。
「……はふぅ……」
秋の夜。外からは虫の鳴き声が微かに聞こえてる。
その泣き声の中、用を足した私は手を洗ってトイレを出る。
えーと、部屋はどこだっけ……
私は来た時と同じように、ふらふらと廊下を戻っていく。
確か……部屋から出て右だったわね……
あくびをかみ殺しながら、私は見覚えのあるドアを開ける。
布団が敷かれた部屋。ここだ。
「……おやすみ〜」
そのまま、布団に潜り込む。
布団に残った温もりが、私の身体に染み込んでくる。
布団から出ていたのはわずかな時間だけど、体温はすっかり冷えてしまっていた。
私は更なる温もりを求めて、布団の奥に身体を潜り込ませる。
むにゅ♪
あれ、こんな所に枕が……寝ているうちに動かしちゃったかしら?
私はその枕を頭の所へと移動させる。
それにしても……硬い枕ね、これ。筋肉質だし。
………
………………筋肉質?
私はそーっと、目を開ける。
枕だと思っていたのは……腕だった。
私はその腕に沿って視線を動かしていく。
腕、肩、首……我聞の顔。
――我聞の、顔。
「っ!」
悲鳴をあげそうになるのを、私は口を押さえて必死に堪える。
え、ちょ、ちょっと! な、なんで我聞が私の布団に!
『夜這いしないように』
ふと、先ほど果歩の言った台詞が頭をよぎる。
夜這い……ま、まさか我聞が私を!?
あ、あわわわわ! ちょ、ちょっと我聞、それはいくらなんでも早すぎでしょ!
お、お風呂くらいなら一緒に入ってもいいかなーとか思ったけど、さ、さすがにキスもまだしてないのに、いきなり、その、あの…致してしまうのは、健全なお付き合いとは言えないし……
け、けど、健全な青少年としてはやっぱり、その…したい、よね。う、うん、その気持ちは分かるの。私だって……って、な、何言ってるのよ、私は!
べ、別にそういう意味で言ったんじゃないのよ! ただ、物事には順序があるってだけで……そ、そう、最初はまずデートからでしょ! 場所は……やっぱり遊園地よね!
二人で一緒にジェットコースターとかメリーゴーランドとか乗って、お化け屋敷では驚いた私がついつい我聞に抱きついちゃったりして、そしてそのままいい雰囲気になって……キス……
うーん、お化け屋敷はムード無いから却下。ここはやっぱり、海の見える公園よ!
海に沈んでいく太陽を、二人はベンチに座りながら見るのよ。そのまま私は我聞にもたれかかって、『綺麗ね』って言ったら、
我聞は『君の方が綺麗だよ』とか言っちゃって、そして二人は恥ずかしそうに顔を近づけていって…キャー!
で、盛り上がった二人はその海が見えるホテルに泊まるのよ! 最上階にある高級レストランでかっこつけてワインとか頼んじゃったりして、
そしてほろ酔い気分のまま部屋に帰って、一緒にお風呂に……初めてなのに一緒にお風呂入るのは不自然かも……せめて初夜は別々に入りましょうか。
我聞が先に入って、入れ替わりに私が入るの。わざとゆっくりお風呂に入ってじらすだけじらした後、バスタオル一枚の姿で我聞を悩殺させるの!
そして盛り上がった所で、二人の初夜が始まる……どーでもいいけど、初夜って響きはすごくいやらしいわね。考えた人は天才かも。私ほどじゃないけど。
あー、話がずれたわね。つ、つまりは物事には順序があるという事を言いたくて……で、でも我聞が夜這いかけるくらい私を好きだって事はすごく嬉しいから……
で、できればその想いには答えたい……かも………今日は、その、大丈夫な日だから……ちゃ、ちゃんと準備はしてきたし……
…って、わ、私は何をだらだらと妄想を垂れ流してるのよ! 大体、『大丈夫だから』って、何OKサイン出してるのよ!
私はパニックで妄想モードに突入した自分に、一人つっこみを入れて落ち着こうとする。
よく見てみると、我聞は布団の中で安らかな寝息を立てていた……いきなり襲われるといった事はないだろう。
大体、世界遺産クラスの朴念仁の我聞が夜這いしに来るってのは、ちょっと……いや、かなりおかしい。
てゆーか、夜這いしに来て、布団の中で爆睡するか、普通? ……いや、我聞ならありえるか。
それに、部屋の中に男の人が侵入してきたのに、果歩が全然気付かないってのも変だ。
私は我聞を起こさないように、そっと視線を果歩へと……正確には果歩が寝ているであろう布団へと視線を移す。
最初に目に映ったのは、投げ出された足。
……果歩って、寝相悪いのね。
布団は乱雑に蹴り飛ばされて、果歩はTシャツ姿のまま、安らかな寝息を立てている。
………Tシャツ?
確か、果歩はパジャマを来ていたはず……寝相が悪すぎて脱いじゃったのかしら。
私は身体の位置をずらして、視界を確保する。
…………うっちゃり?
寝巻き用のTシャツに書かれた、達筆な文字が私の目に映る。
寝ているのは果歩ではなく、トウマだった。
………と、いう事は………
『間違えてお兄ちゃんを夜這いしないように』
夜這いしているのは、私か!
な、何してるの私は! いくら寝ぼけていたとはいえ、部屋を間違えるなんて!
しかも、我聞の布団に、も、潜り込むなんて……夜這いって言われても文句言えないじゃないのよ!
私は、全身が真っ赤に火照っていくのを自覚する。心臓が凄い勢いで脈動しているのが分かる。
と、とりあえず、この状況を何とかしないと。
幸い、まだ我聞は起きていないし、こっそり出て行けばバレる心配はないはず。
私は我聞の腕から、そーっと頭を離した。そのままゆっくりと、布団から這い出していく。
我聞を起こさないように慎重に動いているため、その進みは微々たるものだ。
距離にして50センチ。だけど、私にはその距離がすごく長く感じられた。
それでもなんとか、片足だけは布団から脱出成功。
よし、もう少し……
――と、その時。
「っ!」
不意に、我聞の腕が私を抱きしめた。
頑張って稼いだ私と我聞との距離が、一気にゼロになる。
ま、まさか、起きたの!?
私は咄嗟に腕を振り払おうとするが、我聞の腕はしっかりと私の身体を抱きしめて離さない。
あ、あわわわわわわわわ!
が、我聞! これは違うの! つい、うっかり部屋を間違えちゃっただけなの!
け、決して、夜這いとかそういう事を考えてたわけじゃないのよ。ほ、本当よ!
んっ! そ、そんなに強く抱きしめないで……そんなにされたら、私……
って、ち、違うから! 今のは別にOKって意味じゃないわよ! も、物事には順序ってものがあるでしょ!
そ、そう、最初はまずデートからでしょ! 場所は……やっぱり遊園地よね! って、何、同じネタ二回も使ってるのよ!
普通、ここは水族館でしょ! …って、何が普通なんだ、私!
またもや、パニックに陥ってあたふたする私。
そんな私にお構いなく、我聞は腕の力をさらに強くする。
まるで、絶対に離さないとでも言うように、しっかりと私の身体を抱きしめる。
だ、だめよ……そんなに強く抱いたら……
私の心臓は、外に聞こえそうなくらい激しいリズムを奏でている。
お、落ち着け私……
私は目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をする。
――結果的に、この行為は失敗だった。
深呼吸するたびに、我聞の身体から匂い立つ、男の人の汗の匂いが私の鼻腔をくすぐる。
密着した身体からは、我聞の体温が服を通して身体の中へと流れ込んでくる。
さっきよりも我聞の存在を強く意識してしまう結果になり、私の心臓はもう爆発寸前だ。
が、我聞に聞こえちゃうよぉ……
そして我聞は、さらにぎゅっと身体を密着させる。
が、我聞……そんなに私の事を………で、でもやっぱり物事には順序ってものが……
だから……最初は……キスから……
私は意を決して、我聞の顔の前に私の顔を晒す。
恥ずかしいから目は瞑ったままだけど、我聞の寝息がまつ毛にかかって、少しくすぐったい。
…………
………ああ、なるほど。
なんとなく、オチは予想できたわ……
私はゆっくりと、目を開ける。
そこには私の予想通り、安らかな寝息を立てている我聞の寝顔があった。
本当に、心から、どこまでも幸せそうな、我聞の寝顔。
……ここまで徹底されると、逆に清清しいわね。
それにしても、トウマといい我聞といい、もうちょっとおとなしく寝なさいよ……
私はそっとため息をつく。
なんか、今日はこんなのばっかりだ。
「……この低能め……」
私は我聞の胸元で、小さく呟く。
私の吐息がくすぐったかったのか、我聞は少しだけ眉をひそめた。
「……桃子」
「え!?」
こ、今度こそ本当に起きちゃった!?
私は驚いて、我聞の顔を覗きこむ。
我聞は目を瞑ったまま、規則正しい寝息を立てている。
……寝言? それにしても、なんてピンポイントな寝言を……
「……るから……」
ん?
「…絶対、守るから……もう二度と……悲しい思いは…させないから……」
……我聞……
「……ホントに低能なんだから……」
私は我聞の頭を、そっと胸に抱き寄せた。
「無理しなくていいよ、我聞」
あなたは、いつもそう。
「私は、あなたの側にいるだけでいいの。あなたの側にいるだけで幸せなの」
あなたが、傷つく必要なんてないの。
「だから……私は私の幸せのために、あなたを守るから。ずっと、あなたの側にいるから……」
私だけじゃない。果歩だって、ハルナだって、みんな、あなたを守ってくれる。みんな、あなたの側にいるよ。
「…ずっと…一緒だよ……」
私は我聞の頭をそっと、撫でる。
さっきよりも我聞の顔が幸せそうに見えるのは、きっと気のせいじゃない。
「……愛しているわ、我聞……」
そして、寝ている我聞の唇に、私はそっと唇を触れさせた。
我聞の匂いが、我聞の体温が、我聞の優しさが、私の体内に流れ込んでくる。
私は唇を離すと、もう一度我聞の顔を胸に抱き寄せる。
一瞬、果歩の顔が脳裏をよぎった。私は心の中で、果歩に謝る。
ごめんね、果歩……でも、もう少しだけ……このままで………
今だけは、私だけの我聞でいさせて……
***
我聞家の家事一般を担っている、果歩の朝は早い。
だが果歩にしては珍しく、その日は少しだけ寝坊してしまっていた。
昨日の夜遅くまで勉強していたと言う理由はあったけれど、それで食いしん坊たちの胃袋が納得してくれる訳ではない。
果歩は寝起きの習慣である豊胸体操もそこそこに、台所へと向かうのであった。
――そんな果歩が、一緒に寝たはずの桃子を気にかけている暇など、もちろんあるはずはなかった。
「おはようございます、果歩さん」
「あれ、陽菜さん? 今日は早いですね」
「先ほど優さんの部屋に行った所、桃子さんがこちらにお世話になっているとお聞きしまして……
何か、失礼な事はしなかったかと気になったものですから」
「それなら、大丈夫ですよ、陽菜さん。桃子はずっと私が監視していましたから。
昨日の夜も、私と一緒に………ん?」
果歩と國生さんが我聞の部屋に踏み込んできて、ちょっとした修羅場になるのは、あと数十秒後の話。
「むにゃむにゃ…我聞……ずっと…一緒にいるから……」
『Cherish』- Fin.