それは、夏休みも終わりに差し掛かった、ある日の事だった。
ひぐらしが鳴き始めた、夏の夕暮れ時。
私はエプロンに身を包んで、夕食の献立を考えていた。
「さすがに昼も素麺で、夜も素麺というのは健康に悪いわよね…」
作る方としては、素麺は楽なんだけれど。
うちの家族構成は、育ち盛りで良く食べる妹と弟に、育ち盛りは過ぎたけど良く食う兄が一人。
この三人を満足させる献立を考えるのは、結構難しかったりする。
おでんとかはボリュームもある上に、値段も掛からないからいいのだけど……
私は窓から外を見る。
夕方とはいえ、窓から差し込む夏の日差しは強い熱を持って、私の肌に降り注ぐ。
さすがに、この時期におでんはないわよね……
「姉ちゃん、蝉取りに行って来るねー」
「行って来るー」
私の悩み事などまったく知らない、育ち盛り二人の声が響いてきた。
「これから? ちゃんと夕飯までには帰ってくるのよ?」
「分かってるって」
私は玄関に向かって声をかける。
それに答える、珠の声。
ふと、もう一人の食いしん坊の存在がいない事に気付く。
「あれ、お兄ちゃんは?」
さっきまで、裏庭でプロレスごっこしていた筈よね…
「あー、悪魔超人ガモンガーなら、我ら工具楽姉弟の『空、愛、台風』で成敗されたよー」
「されたよー」
そう言い残して、二つの足音は遠ざかっていった。
悪魔超人って、あんたら何歳だ……
しかし成敗とは…お兄ちゃん、大丈夫かな。
気になった私は、裏庭へと脚を向けた。
「やっぱり……」
そこには私の予想通り、縁側に突っ伏する様にうつぶせに倒れているお兄ちゃんがいた。
シャツの背中には、くっきりと足跡が残っている。大きさからして、斗馬のものだと分かる。
お兄ちゃんでも、さすがに二人相手はきつかったようだ。
家の中に逃げようとした所を、後ろから攻撃されて縁側に頭でもぶつけたのだろう。
とりあえず、様子を見るために近づく私。
「お兄ちゃん、生きてる?」
「………」
返事が無い。ただの屍のようだ。
……じゃ、なくて。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「………すぴー♪」
返事の代わりに、幸せそうな寝息が聞こえてくる。
私は、安堵のため息をついた。
うつぶせになっていて表情は確認できないが、きっと幸せそうな寝顔に違いない。
しかし、ここで寝るか、お兄ちゃんよ。
……まあ一日中、あの二人の相手をすれば、疲れるのも頷ける。
それに……この夏休みの間、お兄ちゃんには色々あった。
仕事もそれなりにあったし、卓球部の合宿もあった。
いきなり現れたパンツマンの研修もしていたしね。
多分、それらの疲れが一気に溢れたのだろう。
「…うーん、むにゃむにゃ……すぴー♪」
またもや幸せそうな寝息を立てる、お兄ちゃん。
だけど、今は夕方とはいえ、季節は夏。
日差しも温度も、まだまだ元気だ。
このままここで寝ていても、体力を消耗するだけだろう。
「…お兄ちゃん、寝るなら中で寝た方がいいよ」
お兄ちゃんの頭の横に膝を下ろす、私。
その体勢のまま、お兄ちゃんの身体を揺すりながら、耳元で囁いてみる。
「……すぴー♪」
お兄ちゃんは起きる様子も無く、またもや寝息で返事をする。
「…ふむ」
起きる気配のないお兄ちゃんを見て、私は考える。
さすがにおぶって家の中に移動させるのは無理だ。
かといって、このままにするわけにもいかない。
とりあえず、タオルケットでもかけておけば、日光は防げるだろう。
そう考えた私は、家の中へ戻るために立ち上がろうとした。
と、その時。
「うーん…」
ごろん!
寝言と共に、お兄ちゃんが寝返りをうった。
それも、私が座っている方へと向かって、だ。
……結果として。
私はお兄ちゃんを膝枕する格好で固まってしまう。
「ちょ、ちょっと、お兄ちゃんってば!」
「…すぴー?」
抗議の声をあげる、私。
お兄ちゃんの返事は、やっぱり寝息。
……って、今、寝息がマジ返事したような……
「……すぴー♪」
…気のせいか。
あー、しかし、どうしよう、これ?
視線を落とすと、幸せそうな寝顔が目の前にある。
お兄ちゃんの頭は私の太ももの隙間にぴったりとはまり、動く気配が無い。
…とりあえず、頭を手で押さえて太ももを引き抜けるかチャレンジしてみよう。
私は太ももの隙間から、お兄ちゃんの後頭部に手を回す。
そして、ゆっくりと持ち上げようとするのだが…
「…重い」
頭だけとはいえ、力が抜けて重心が定まらないものを持ち上げるのは結構辛い。
仕方ない。ちょっと手荒だが、もう片方の手をお兄ちゃんの顎にかけて……
「…あ……」
お兄ちゃんの顎に手を伸ばそうとした、その時。
私はお兄ちゃんの顔にある傷跡に気付いた。
うっすらと残るそれは、よく見ないと気付かないだろう。
私はお兄ちゃんの身体に視線を移す。
腕、首筋、ちょっと見えるお腹。
シャツの隙間から、細かい傷跡が幾つもあるのが見て取れた。
「………」
お父さんがいなくなってから、半年以上が過ぎた。
その間、お兄ちゃんはお父さんの代わりに仕事を行っている。
仕事の事はよく知らないけれど、危険な事というのは分かっている。
これらの傷は、きっとその時に出来たのだろう。
――私たちを守るために、お兄ちゃんは傷ついている。
……しょうがないなぁ。
「…今回だけだからね」
私は、お兄ちゃんの頭に回していた手を引っ込めた。
その手を、強い日差しから守るように、お兄ちゃんの額に置く。
汗によって額に張り付いていた髪が、私の手に絡まる。
「……うーん、むにゃむにゃ……すぴー♪」
額に置いた手を、頭へとずらす。
そのまま優しく頭を撫でてみる。
寝顔がさっきよりも幸せそうに見えるのは、私の気のせいかな。
「…お仕事、ご苦労様。お兄ちゃん」
幸せそうな寝顔。
國生さんの夢でも見ているのだろうか。
二人には、夢の中だけでなく、現実でも幸せになってもらいたい。
…GHKの活動、もうちょっと過激にしてもいいかな……
「…か…ほ……」
………ん?
今、お兄ちゃんが私の名前を呼んだような……
「…果歩……」
今度ははっきりと聞こえた。
もしかして、起きたのかな?
私はお兄ちゃんの顔を見る。
さっきと変わらない、幸せそうな寝顔。
…と、言う事は……
「…私の夢を見てるの?」
むう。私としては國生さんとのラブラブな夢を見てもらいたいってのが本音なのだけど。
まあ、悪い気はしない。
むしろ…嬉しい、かな。
一体、どんな幸せな夢を見ているんだろう。
私も少しだけ、幸せな気分になる。
「…す……き……」
…………………
えーと……わんす もあ ぷりーず。
「…か…ほ………す、き………」
………
すき、スキ、好き。
好き:心がひかれること。気に入ること。LOVE。
…って、お兄ちゃん、な、ななな、何を言ってるの!?
すすす、好きって、え、ちょ、ちょっと、何なの、これ!?
しかも、果歩って、わ、私!?
か、果歩、かほ…ほ、ほ、ほ、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!!
……お、落ち着け、私。それは違うキャラだ。
私はお兄ちゃんから視線を外すと、大きく深呼吸をする。
顔が火照っているのは、夏の日差しのせいだ。そうに違いない。
この激しい動悸は…きっと持病の癪だ。今発病したんだ、うん。
呼吸を落ち着けた後、私は横目でお兄ちゃんの様子を伺う。
ときどき顔がにやける、お兄ちゃん。
……夢の中で、私と何をしてるんだろう? …まさか、えっちな事とかじゃないわよね……
…やばい、また持病の癪が……
「…果歩……」
うわ言のように、お兄ちゃんの唇から私の名前が紡がれる。
ふと、その唇に視線が止まる。
…お兄ちゃん、もうキスとかしたのかな……
私は自分の唇に手を伸ばす。
柔らかい感触が、指に残る。
…私とお兄ちゃんはれっきとした兄妹だ。
わざわざ、出生届まで確認したから覚えている。
……なんで確認したかは聞かないで。
「…すき……」
お兄ちゃんの唇から、またもや言葉が紡がれる。
その度に、健康的な唇が震えた。
…幼い日に鍵をかけた、淡い想い。
だけど……今、その鍵が音を立てて外れたのが分かった。
視線はもう、おにいちゃんの唇に釘付けだ。
私はお兄ちゃんの頬を、両手で優しく包み込む。
そして、ゆっくりと、顔を近づけていく。
頭の片隅で、理性が何かを叫んでいるが、気にしない。
もう、お兄ちゃんしか見えていなかった。
「…果歩……」
「…お兄ちゃん…」
…私も…お兄ちゃんのこと……
お兄ちゃんの寝息が頬にかかる。
うっすらと残る傷跡も、はっきりと見える距離。
そして……
「……すきやき、食べたい……」
「そーいう、オチかよ!」
唇と唇、ではなく、額と額がぶつかり合う、重い音が裏庭に響いた。
「いたたた…この石頭め」
私は額を押さえて、仰け反る。
お兄ちゃんは、何事も無かったかのように寝息を立てている。
鈍い、いろいろ鈍いよ…この男……
私は勢い良く立ち上がる。
お兄ちゃんの頭が私の太ももから滑り落ち、裏庭にまたもや重い音が響く。
「…ぐぅ……」
あ、さすがに今のはちょっと効いたようだ。
まあ、純情な乙女心を弄んだ罰としておきましょう。
……それにしても……
私は自分の行動を、冷静に振り返ってみる。
……うあ、超恥ずかしい……
火照った頬を両手で包み込み、大きく深呼吸。
…深呼吸を繰り返す事、数度。
やっと、顔の火照りは収まってきた。
持病も、もうすっかり直っただろう。
「…あ!」
ふと、夕食の献立の事を思い出す。
「…そろそろ準備しなきゃ」
私は最後に、足元のお兄ちゃんに視線を落とす。
幸せそうににやけている、お兄ちゃんの寝顔。
「……バカ……」
***
「ただいまー、蝉捕まえたよー」
「捕まえたー」
「おかえりー。蝉は逃がしてあげなさいよー」
珠と斗馬の元気な声が、家の中に響いた。
私は夕飯の準備をしながら、返事を返す。
「うわっ! いい匂い! スキヤキだ!」
この距離で夕飯の匂いを嗅ぎとるとは…野生児か、あんたは。
「その通り。ちゃんと手を洗いなさいよ」
「はーい」
ばたばたと洗面所に走る二人。
そして、縁側の方からもう一つの足音が響いてくる。
「いやー、さすがに縁側で寝ると虫に刺されるな」
ぼりぼりと腕を掻きながら、あっけらかんと言い放つ、お兄ちゃん。
「いくら夏って言っても、あんな所で寝たら風邪引くよ」
「いや、寝たくて寝てたわけじゃないんだが……そういえば、起きたらタオルケットが掛かってたんだが、果歩が掛けてくれたのか?」
「……うん」
「ありがとな、果歩」
そう言うと、お兄ちゃんは私に向かって屈託の無い笑みを浮かべる。
見る人を安心させるその笑顔……だけど、今はその笑顔がちょっとだけ恨めしかった。
そして、お兄ちゃんはテーブルの上に置かれた鍋に気付く。
「お、今日はスキヤキか。ちょうど食べたいと思ってたんだ」
「…でしょうね」
「何か言った?」
「ううん、別に」
やっぱり、鈍い。
まあ、お兄ちゃんらしいと言えば、お兄ちゃんらしいのだけど。
――今日のスキヤキは、今まで一番の出来だった。
「今日のスキヤキは一段と美味いな。なんか隠し味でも入れたのか?」
「…教えない」
料理の一番のスパイスは空腹。
そして二番は……
私は自分が作ったスキヤキに手を伸ばす。
それはとても美味しくて……そしてちょっとだけ切ない味がした。
『幸福論』−End.