――8月某日  
 
「社長!社長!」  
 
 プレハブ小屋の一室、工具楽屋のオフィスである。  
 この日は現場の仕事が入っていなかった為、工具楽我聞は書類仕事に精をだしていた―はずであった。  
 ところが、彼の秘書である國生陽菜が判を貰おうとしたところ、我聞は社長椅子に腰掛けたままうとうととしているではないか。  
 陽菜は彼の肩に手を掛けると、ゆさゆさと揺さぶり起こそうとする。  
 
「…ん……あ、國生さん」  
「『あ、國生さん』じゃありません!社長、こちらに判をお願いします!」  
「ああ、すまない」  
 
 バン!と卓上に書類を叩きつける陽菜。  
 その剣幕におののきながらも軽く目を通し判を押すと、自分の席へと戻る陽菜の後姿を眼を擦りながら眺める。  
 
(む…いかんいかん、仕事中に居眠りなど)  
 
 気合いを入れなおす為に己の頬を叩くと、デスクに残っている書類に目を通し始めた。  
 
「はるるん、そんなにカリカリしなくても…」  
「カリカリなんてしてません!」  
 
 技術部長である森永優が取り成すも、けんもほろろと言った感じで取り付く島もない。  
 
「我聞くん、陽菜ちゃんと何かあった?喧嘩でもしたの?」  
 
 我聞の許へと赴き耳打ちをする優。  
 だが、そう言われても我聞にも彼女の不機嫌の理由など知る由も無い。強いて挙げるなら、やはり先程うたた寝をしていた事だろうか。  
 
「いや、オレもさっぱり…」  
「今日の陽菜くんは、何時にも増してピリピリしとるのう」  
「我聞くんがなかなか告白しないからじゃないの?」  
 
 専務の中之井千住を交え我聞・優の3人はこそこそと、ここ数日の彼女の態度について話し合う。それが耳に入ったのか、陽菜は例の凍える視線で彼らを見やった。  
 
「仕事仕事」  
 
 中之井と優はそれぞれに呟きながら己の業務へと戻っていく。  
 そこに、17時を告げる時計の音が鳴り響いた。  
 
「じゃぁすみませんが、後はよろしくお願いします。緊急でしたら携帯に連絡下さい」  
 
 高校を卒業して直ぐに買い求めた最新機種の携帯電話を掲げて告げると、我聞はそそくさと帰宅したのだった。  
 
 
 
 
「最近の社長、何かおかしくないですか?」  
 
 陽菜の父、武文の爆弾発言から2年半。  
 この2年と半年の間、我聞はひたすら社長業を勤め上げてきた。真芝壊滅による本業の激減により当初こそ赤字に悩まされはしたものの、彼の働きと営業部長である辻原蛍司の働きによって最近は黒字が続いていたのだ。  
 それなのに、7月の末辺りから我聞の様子が変わり始めた。工具楽屋の仕事自体には手を抜くとかいった様子は無い。むしろ以前よりもスピーディにこなし、必ずと言って良いほど17時には退社するのである。  
 
「まぁねぇ」  
「じゃが、きちんと仕事はこなしておるようじゃし、問題は無いじゃろう」  
(でも、今までは仕事中に居眠りなんて無かったのに…)  
 
 陽菜が訝しげな表情で考え込んでいると、外からカツンカツンと階段を上ってくる音が聞こえてきた。  
 
「ども、お疲れさまです…って、どうしたんですか?」  
 
 戻ってきた辻原は、事務所内で3人が神妙な顔をしているのに気付き不思議そうに尋ねる。ただし、声の調子はいつのも飄々としたままだ。  
 
「辻原さんはご存知無いですか?」  
「は?何をです?」  
「最近の我聞くん、何か様子が変じゃないって話してたのよ」  
「んー、そうですねー」  
 
顎に手をやり考える素振りを見せる辻原の口から出たのは、とんでもないものだった。  
 
「もしかしたら、デートじゃないですか?」  
「……」  
「……」  
「……」  
「「「ぇええええ!!」」」  
 
 これにはGHKデルタ1としても暗躍する優を始めとして、他の2人も驚きを隠せないで居る。  
 
「そ、それ本当?辻原くん、相手の娘とか知ってんの?」  
「いえ、あくまでも私の想像に過ぎませんが」  
 
 我聞は携帯電話を持って約1年。しかも最新機種。  
 迷惑メールなどから出会い系サイトに登録してしまったものの、相手の執拗な誘いに断り切れずに会う事になったのではないか。そして、一度だけのはずが相手の娘が好みのタイプだったので、そのまま関係が続いているのではないか――と、これが彼の言い分である。  
 
 冷静に考えれば、我聞の性格上起こりえるはずは無いと気付いたであろうが、彼の最初の言葉で動揺していた3人はそこまで頭が回っていない。  
 
「嘆かわしいですぞ、社長!そのような物に頼ろうとは!」  
「こ、こうしちゃ居られないわ!はるるん、後を追って真相を突き止めるのよ!」  
 
 ぼやく中之井。慌てて飛び出そうとする優。  
 だが、そんな中1人だけ周囲の反応と違う陽菜。  
 
「はるるん、どうしたの?早くしないと我聞くん見失っちゃうよ」  
 
 陽菜の腕を掴み、連れ出そうとする優。  
 しかし、予想に反して彼女は抵抗を示すと、今にも消え入りそうな声で『やめましょう』呟いた。  
 
「…へ?」  
「やめましょう」  
「な、なんで?」  
「もしそれが本当だったら、社長の邪魔になりますから」  
   
 
 
――もしかしたら、デートじゃないですか?  
 
 その言葉を聞いた瞬間、私は巨大なハンマーで頭を殴られたような気がしました。  
 
(社長が…デート…)  
 
 お父さんのあの言葉以来、それまでの社長と秘書って関係よりも少しは進んだ気がしていたんです。あの時の社長の反応も満更では無いと言った感じでしたし、それが私にはとても嬉しかったのですから。  
 私自身、お父さんの言葉に度肝を抜かれましたが、あれ以来そうなればいいなと常に思っていました。  
 私が彼の事を意識するようになったのは、やはり桃子さんからの『嫁候補』って言葉が原因だと思います。いえ、もしかするともっと前から私は社長に惹かれていたのかも知れません。  
 
 優さんが後を追おうって言った時、私も一緒に行きたいと思いました。  
 でも、身体が動いてくれなかったんです。腕を取られた時もそうでした。  
 
 辻原さんが仰っている事は嘘だと分かっていました。  
 いえ、頭ではそう理解したつもりでした。彼の性格上、出会い系サイトなど利用するはずが無い――と。  
 ですが、心が、身体が言う事を聞いてくれませんでした。  
 もしそれが本当だったらどうしよう。もし彼が他の女性と手を繋いだり腕を組んだりしている所を目撃してしまったら…。  
 そんな考えが私の知らないところで湧いてくるのです。  
 
「はるるん、どうしたの?」  
 
 優さんが心配してくれていますが、私は声が出ませんでした。彼女に心配を掛けたくは無かったのですが…。  
 せめてジェスチャーででも大丈夫だと伝えようと思い頭を振ったのですが、その拍子に手に何やら水滴が落ちて来たのです。そこで漸く、私は泣いているのだと思い至りました。  
 
「陽菜ちゃん…」  
「だ、大丈夫です。すみませんが、今日はお先に失礼します」  
 
 皆さんの制止の声を振り切って工具楽屋を飛び出した私は、何時もより早い時間に寮へと帰宅したのです。  
 
 
 
 翌朝我聞が出勤してみると、オフィス内には異様な空気が漂っていた。  
 
「?どうしたんですか、皆」  
 
 彼の問いに答える者はおらず、代わりに中之井と優からどこか蔑みの色を含んだ視線が返される。  
 
(何なんだ、一体?)  
「そういえば國生さんは?」  
「彼女は今日お休みと連絡が有りましたよ」  
 
 重苦しい雰囲気の中、応接用のソファーに腰掛け雑誌を読んでいた辻原が答えた。  
 
「そうですか…」  
 
 彼女に何があったのか気になるところではあったが、今日は現場での作業が予定として組まれている為、今すぐ彼女の部屋へ様子を見に行くわけにもいかない。  
 
「では、行ってきます」  
 
 作業着に着替え終わった我聞は、後ろ髪を引かれる思いながらも現場へと駆け出した。  
 
 
 
 
 習慣とは恐ろしいもので、あれだけ泣きはらした翌日だというにも関わらずいつも通りに目が覚めてしまった。昨夜の内に優に休みの連絡を入れておいたのだが。  
 
(しゃちょう…)  
 
 ヘッドボードの上に飾っていた集合写真を手に、想いを馳せる。  
 
「私はどうしたらいいんですか?」  
 
 答えが返ってくるわけでは無いのを承知の上で写真立ての中の我聞に問いかける。  
 
(それでも…社長と一緒に…居たいです)  
 
 我聞の父であり工具楽屋の先代社長でもあった工具楽我也から高校進学の祝いとして貰い、我聞自身からも“家族の一員だから”と手渡された彼の母親の形見でもある手鏡を覗く。  
 泣きはらした所為で、目の周りが真っ赤に腫れあがっている。  
 
(こんな顔じゃ、愛想尽かされちゃう)  
 
 顔を洗って心を落ち着かせると、陽菜は決意を新たに明日は出社しようと心に誓うのだった。  
 
 
 
 それから1ヵ月。  
 我聞の傍で日常を過ごしたいとの想いから、陽菜は彼の秘書を続けていた。  
あの時の彼女の決意、それは少しでも我聞と一緒に居る事。そして、例え今他所の女性に気持ちが向いていたとしても、絶対に自分の方を向かせようと自身を磨くのを怠らないことであった。  
 その努力の所為か、この1ヶ月で彼女は傍目からでも直ぐに判る程に変貌を遂げていた。  
 
「最近、陽菜くんは前にも増して明るくなったのう」  
「ええ、しかも前より美しさに磨きがかかった様にも見えますね」  
「そりゃそうよ!恋する女は強いのよ!」  
 
 社内でそのような評価を受けているとは、本人は気付いていない。  
 
「工具楽我聞、ただいま戻りました」  
 
 そんな中、現場へと出ていた我聞が戻ってきた。  
 
「お疲れさまです、社長」  
 
 陽菜は手を留めて立ち上がると、まだ残暑厳しい中で汗を流した彼の為に冷たい麦茶を入れる。  
 そんな彼女の様子と打って変わって、我聞の様子は何故だかそわそわと落ち着きが無い。  
 
「あ、あの國生さん」  
「はい、何でしょう社長」  
「そろそろ仕事上がりの時間だけど、この後何か用事あるかな?」  
「いえ、特には…」  
 
「じゃ、この後残ってくれないか?大事な話が有るんだ」  
 
 一瞬びくりと身を震わす陽菜。少し間をおいて、はっきりとした声で頷いた。  
 
 
 
 付き合っている訳では無いから、別れ話では無いだろう。  
 あの時の言葉を無かった事にして欲しい、とでも言われるのだろうか。  
 正式に付き合って欲しいと告白されるのだとすれば、これほど嬉しい事は無いのだが。  
 いやそれとも、私はクビだろうか。自惚れる訳では無いが、私はこの社にとって必要な人材だと思う。だが、社長は彼だ。一社員である自分に彼の決定を覆す権利は無い。  
 
 皆が帰宅した後の工具楽屋の応接室。  
 陽菜はそんな不安と期待が入り混じった気持ちで、我聞を待っている。  
 押し潰されそうになりながらも気丈に待ち続け、やっと我聞が姿を現した。  
 
「すまん、遅くなった」  
「いえ、大丈夫です。それより」  
「ああ。だがその前に、國生さん、今日は何の日か覚えてる?」  
(何の日…私の入社日は今日じゃ無いし…)  
「えっと…9月の17日、ですよね?」  
 
 恐る恐る確認する陽菜に対し、我聞は大きく頷いてみせる。  
 
「そう、9月17日。君の誕生日だよ」  
「あ…」  
 
 自分でも忘れていたのだろう。  
 言われて初めて思い出した、そんな表情で上目使いに我聞を見る。  
 
「それで、その…渡したい物が有るんだ」  
「社長…」  
 
 まだ言葉だけ、それでも陽菜は感極まって今にも泣き出しそうになっている。  
 
「これを誕生日プレゼントにするのは如何かとも思ったんだが、これしか思い付かなかったんだ。嫌でなければ…受け取って欲しい」  
 
 そう言って我聞はズボンのポケットから小さなブルーの箱を取り出した。  
 
「こ、これ…」  
「國生さん、いや、陽菜さん。オレと結婚して欲しい」  
 
 我聞はそう言うと、陽菜の目の前で手にした箱を開いた。  
 そこには、10カラット――とはいかないながらも、美しく輝くダイヤがはめ込まれた指輪が収まっていた。  
 
「…社長」  
 
 終に堪えきれず、ぽろぽろと涙を零す陽菜。  
 
「受け取ってくれるね?」  
「はい…はい…」  
 
 しゃくり上げながら頷く陽菜の左手を持ち上げると、我聞は手ずからその指輪を彼女の薬指へと通していった。  
 
「好きだよ」  
「私も…愛してます、我聞さん」  
 
「そう言えば、我聞さん」  
「ん?どうしたの?」  
 
 婚約してから半年。  
 どうやら会社の皆や果歩たちに覗かれていたらしく、翌日には全員に知れ渡っていた。なんでも、面白半分に覗こうと優さんが盗撮していたらしい。それを我が家で皆揃って見ていたらしいのだ。  
 
(まったく、悪趣味だよな)  
 
 しかし、お陰で隠す必要は無くなった訳だし、まあ良しとするか。  
 
「あの時、しばらく退社が早かったですよね?何をしてらしたのですか?」  
「ああ、あれね」  
 
 
 実は、会社が黒字続きだからと言って家計までそうかと言えば、全然違っていたのだ。何しろ食べ盛りの人間が揃っている為、火の車とまではいかなかったがそこから彼女へのプレゼント代を捻出するのは到底無理な話だった。  
 そこで、短期でのアルバイトをしていたのだ。  
 
「そうだったんですか。私はてっきり、他所に恋人でも作ってるのかと思っていました」  
 
 それを聞いた途端、オレは愕然とした。  
 確かに彼女への指輪の為とは恥ずかしくて言えなかったオレが悪い。けど、そんな誤解を与えていたとは夢にも思っていなかったのだ。  
 
「すまん、陽菜さん。オレの説明不足の所為で」  
「いえ、今では杞憂だったと判ってますからいいんです」  
 
 それから彼女は話してくれた。何故にそう言った誤解が生じたのかを。  
 
「辻原さんも酷いなぁ、あのバイト紹介してくれたの辻原さんなのに」  
「えっ、そうなんですか?」  
「うん、オレが悩んでいたら良い方法が有りますよってね」  
 
 確かに皆には内緒にしててくれって言ったけど、そんな誤解を生むような言い方しなくてもいいじゃないか。  
 これは後から聞いたんだが、辻原さん曰く  
『その方が、後からの感動も一入(ひとしお)だと思いまして』  
 
だそうだ。  
 
「辻原さんには、してやられましたね」  
「ああ、全くだ」  
「でも、そのお陰で私も決意出来たんですから」  
「え?何を?」  
「ふふ、そ・れ・は・秘密、です♪」  
 
 そう微笑む彼女と手を繋ぎ、オレたちは歩き出した。  
 オレの母に彼女の事を報告する為に――  
 
 
END  
 
 
 

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