青々と輝くように広がっている空模様の下、日に日に冷え込んで物寂しくなっているのにも関わらず響き渡る叫び声は明るかった。  
「はい、こっちこっち」  
「ふぬぅっ!」  
「遅いですよ、次はここ」  
「うぇいっ!」  
「腰を入れて、浅い浅い。集中しないと……」  
そんな言葉の応酬が止むと同時に簡単に吹き飛ばされていく我聞の姿が見られる昼下がり、好奇の目を持つ輩が二人。  
歓声を上げることもせず、それどころか言葉一つも出ないほどに見とれていた。  
 
目で追いかける兄の姿が大きくて。  
 
 
『珠、修行始めました』  
 
 
「おやおや、もうギブアップですか?」  
そんなニタニタとした笑い顔を前面に押し出して我聞を煽る。  
我聞は息も絶え絶えに人体の生存を優先させるべく全身に酸素を運搬していた。  
既に虫の息とも言えるぐらいに疲弊しきっているのは誰の目にも明白に映っているが、辻原も、また我聞自身も引くわけには行かなかった。  
具体的に何か秘めたる事情云々なんてことは皆無で、切羽詰っているわけでもない。  
ただ全力で前だけを見つめ、ひたすら父親を追い越そうと努力しようとする姿もまた明白であった。  
だから観戦者がストップをかけたり、休息を促すなんてことはしなかった。それが皆のためであり、自身のためであったから。  
「あたしにも訓練してっ!」  
にゅっ、と湧いて出た珠。先ほどまで隣にいたはずの斗馬が驚いているところを見ると、誰もが驚いていることが見て取れる。  
もちろんその驚いているうちに辻原も含まれている。  
「いや、でもですね……」  
基礎の基礎、というよりも仙術自体をしっかりコントロールできない状態に加え小学生、女の子なのである。  
そこら辺を考慮に入れて、さらに我聞の修行途中という現状。とりあえず笑っておく。  
「訓練と言いましても、まずは基礎体力が必要ですからね」  
「兄ちゃんと毎朝走り込んでるから大丈夫」  
周囲の視線が我聞に突き刺さる。  
「い、いやいやっ! これは珠が自分から」  
あたふたと腕を縦横無尽に振るう。誰もがふぅ〜ん、といった表情を浮かべ頷いている。  
そんなやりとりも雑音とも捉えずにじっと辻原の目を見て誠意を伝える。  
普段の無駄に明るく、年相応とも言える雰囲気は感じ取れずしっかりとした対応をしなければならないと辻原は考え始めていた。  
「そうですねぇ……少しぐらいなら」  
突然ぱっと明るくなった笑顔を見ると自分の判断は間違っていなかったんだなと納得できる。周囲の反応はまちまちであったが。  
「ちょっ、辻原さんっ!?」  
完全復活した我聞が血相を変えて起き上がる。その表情にはなんともいえないものが張り付いていた。  
「(大丈夫です、遊びの延長ぐらいにしときますよ)」  
「(そうは言っても……)」  
「(そもそも社長が走りこみなんてさせてなければ……)」  
そんなコソコソと密談と表現できなくはないと言った会話を他所に、斗馬相手に発狂寸前とも見える珠は気合を注入してもらっている。  
「……わかりました」  
しぶしぶ、本当にしぶしぶ引き下がっていく我聞は陽菜張りのジト目を披露している。  
今日ほどあの胡散臭い笑い声が信用ならないと感じる日はなかった。  
そんな胡散臭いヒゲメガネはと言うと表面上だけでなく内心もニタニタしていた。  
「皆さん家族想いで何よりです」  
「何か言いましたか?」  
首を横に振り否定のサイン。ジト目は緩和されつつ距離を離していく我聞を尻目に家族のあり方を考えさせられる。  
そんな感傷的な気分も払いのけ、凛とした視線のするほうに目をやる。スッとした自然な構え方を見るとどこか昔の我聞を思い出す。  
どこまでもまっすぐな目もそっくりで。  
「では始めましょうか」  
 
 
「ではここ」  
「次はこっちです」  
「もう少し踏み込んで……そうです」  
自然にトレーニングに移行していったのは我聞以外の全員であり、  
我聞はと言うと一人で何かやってればいいものの気になって仕方ないオーラ全開で情緒不安定っぷりを発揮している。  
常日頃一緒にやれ訓練だやれトレーニングだと行ってきた自分だからわかることがある。  
訓練内容は同じメニューになるであろうから、耐え切れそうにないものが選ばれたらすぐにわかる。  
そうすれば即座に中断できるであろう、というのが我聞の考えである。  
まさに居ても立っても居られない状況。  
そんな中、珠は最初のうちは忠実に指示に従っていたのだがアップ程度のことを繰り返す辻原に少し遺憾を覚えていた。  
「あの、もう少しキツクでお願いします」  
軽く汗を拭いつつ真剣に向き合う。流石に我聞の妹であり、毎朝のトレーニングをこなしているだけのことはある。  
汗はかいているものの、息は少ししか上がっていない。  
「でもですね、最初から全力では体に悪影響ですよ」  
「わかってる、でも大丈夫だから」  
ぺこりと頭を下げる。  
言葉使いはまだまだ小学生でありながらもこのような誠意の示し方はいったいどこで学んでくるのか、なんて考えが頭を過ぎる。  
「普段使わない部位の筋肉をただでさえ急激に使い込んでいるです、これ以上の負荷をかけるのは体に酷ですよ?」  
なだめかすように半笑いで伝える。  
「兄ちゃんはいつも限界ギリギリまで頑張ってるっ!!」  
「社長も昔は同じようなことをしてたんですけどね」  
聴いたこともないような声を上げた珠に驚く外野を他所に、辻原は動揺も見せず大人の体裁を保っていた。  
流石に半笑いを見せる余裕はなくなっているが。  
「そうだぞ珠。俺だって昔は簡単なことから始めたんだ」  
そんな我聞の言葉は頭には入っているのだろうが、右から左へ流れているのが見てわかる。  
怖いくらい真剣な目に血のつながりを見る。  
「……いいでしょう」  
「辻原さ……」  
手のひらを見せ、横目で動きを制す。辻原の表情からも冗談やお遊びではないといったはっきりとした意志が伝わってくる。  
我聞の足は結局動きもしなかった。近づいて説得しようとも思ったがそんなことをしてはいけない気がしていた。  
不安な気持ちがないと言えば嘘になることもしっかりと受け止めることが出来ていた。  
何しろ辻原が間違ったことはしないという信頼があった。  
だからどっしりと構えて二人を見つめる。  
兄として、社長として。  
喚き騒ぎ散らしているのは優と中之井であったが既にマジモード全開の三人の眼中にはなかった。  
肩を回し軽く腰も捻っておく。  
「さぁいいでしょう。まずはここから」  
 
「はっ、はっ……」  
「次はこっち」  
「ぐっ」  
「遅い」  
ぱーんといい音が響く。しかしこれは珠が鳴らしたものではなく、珠から鳴ったものであった。  
そして勢いよく地面に倒れこむ。  
「どうしたんですか、まだたった3分しか経ってませんが」  
そういって辻原が再びミットをかざす。震える体を起こし、そのミット目掛けて手を伸ばす。  
ポスっ、とやっとこさふれることが出来る。が、  
ヒュっ、と辻原のもう一方の手が珠の顔直前で止められる。  
「打つだけでなく、打たれることも考えるように最初に教えましたが?」  
体が崩れ落ちていく。別に何かがぶつかったわけでもく、ただ体が自分の言うことを聞いてくれないだけ。  
頭の中ではグルグルと自分の体に浸透していかない命令が回り続ける。  
そんな大の字になり寝転んでいる自分に声が降ってくるのがわかった。  
「さて、日も暮れてきましたし、今日はこの辺でお開きですかね」  
まだやれるっ!!   
そんな言葉が頭の中を駆け巡るも、口から飛び出すことはなかった。  
「珠さんも訓練はこれで終わりと言うことで。社長もよろしいですね?」  
頷き皆が退社の準備をするために社へ帰っていく。  
辻原の言葉が降り注いでは頭の中へ入り込み、パンパンになった自分からは意思とは関係のない涙が言葉の代わりに流れていった。  
動いたり、考えたりしようとすればするほど代わりに涙が次から次えと湧いてきた。  
遠くに見え、朱に染まっていく夕焼けを遮るように我聞が視界に入ってきた。  
 
赤く染まる大空を移したかのような目を兄と合わせることは出来なかった。  
 
「さぁ、帰ろうか」  
 
そう言われ背中におぶられる。  
 
 
お互い汗だらけでビショビショの衣類に少しだけ湿り気を増やした。  
 
 
珠を連れて帰宅した我聞は果歩に珠を預けるも、ぼろぼろになった珠の姿に怒りマックスの果歩。  
見るからに何かあったのは小学生どころか幼稚園児にもわかってしまうような汚れっぷり。  
何があったかを問い詰めるも我聞は軽く受け流し脱走。  
もちろん斗馬も口は割らない。  
今日の出来事を完全にはぐらかし社に向かう姿に感謝しつつ、姉にも心配させまいと笑って風呂に行く。  
ふらつきながらも目的地に着くと服を脱ぎ始める。  
「いっ!?」  
体を少し動かしただけで全身に激痛が走る。  
それでもこんなところで半裸をさらしていては姉に何を言われるかわかったもんじゃない。  
先ほどのやり取りからそう感じ取っていたので、体に鞭打って服を脱ぎ足早に風呂に逃げ込む。  
「ふぃ〜……」  
極楽極楽、なんて年寄り染みた言葉も出ない。先ほどから心身ともに軽く限界を超えていた。  
「はぁ……」  
ため息が漏れる。風呂の暖かさで少しずつ気分も落ち着いてくる。  
落ち着いてくればくるほど心に染み渡ってくるあの言葉。  
 
『珠さんも訓練はこれで終わりと言うことで』  
 
きっともう来るなという意味なのであろう。それぐらいは簡単に想像がつく。  
それに少し本気になった訓練には手も足もでなかった。  
そう少し。  
自分にはかなりきつく限界以上なのはやってみてわかったが、我聞はそれ以上の訓練を軽くやってのけている。  
それを自分が知っていることも考えて限界ギリギリをついてきてくれたのであろう、最初に言った通りに。  
考えれば考えただけへこみ、これといって改善策も解決策も見当たらない。  
そんな負のスパイラスに入り込んでしまっている中、風呂場に近づく人影に気が付いた。  
「珠? 今日いったい何があったの?」  
「ん〜、何にも〜」  
「嘘おっしゃい、それぐらいわかるっての」  
流石姉ちゃん、なんて思うも誰が見てもおかしい。  
あれだけ派手にやられて、その上このような状態をさらしていてはきっと我聞ですら不思議がるであろう。多分。  
「何にもないって」  
「そう」  
普段口うるさい果歩がこうも簡単に引き下がるとは思ってもいなかったのでまた少し驚く。  
何でだろうな? とは思うものの頭は回らない。  
普段なら(自分では)高速回転している頭が重く、思考が点のままでつながってこない。  
「でも、何か悩み事とかあるなら相談しなさいよ? お兄ちゃんは役に立たないだろうし」  
「ん〜、わかった〜」  
その返事を聞き、何事もなかったかのように夕飯の支度に帰っていく。  
思わぬ人の登場に完璧に頭の回転はストップしてくれた。  
でも頭のグルグルはグルグルのまま、ただただ時間だけが過ぎていき気が付くとのぼせていた。  
風呂から出て、すぐに自室に帰る。これ以上何も考えたくない、  
それだけは考えると今日一日にあったことを思い出すようにして夢の世界に旅立っていった。  
 
 
「ただいまぁ〜」  
色々忙しい一日であったので、予想以上に仕事量が残っているのもまた当たり前。  
ただ色々と言っても夕方数時間前後の話であるのは社員みな認識済みであった。  
ただ一人外に出ていた陽菜だけはまったく事態を把握できていなかったのであるが、  
どうにか仕事が終わっていないことに文句を付けられる前には現状認識をさせることには成功した。  
そんなお疲れ気味の我聞ではあるのだが、仕事は終わっても懸念事項はまだ残ったままであった。  
「ちょっとお兄ちゃん、珠に何したのっ!?」  
「いや、何って言われても……」  
台所から飛び出してきた果歩が今度こそと言わんばかりに威圧してくる。  
正直冷や汗物の心境であり、嘘も誤魔化しも許されない工具楽家の証人喚問。  
ここで真実を偽り、偽装しようものならばあとに残るは表現しきれないほどの恐怖であるのはみな承知済み。  
「いつもアホみたいに元気な珠が180度方向転換しちゃっててもうビックリよ。何がなんだかわからない」  
両手を挙げ、少しオーバーとも取れるボディーランゲージで伝えようとしている。  
それだけ驚いているという意味なんだろうなぁ、と我聞なりに解釈してみる。  
「そんなに変だったのか?」  
「落ち込んでるように見えたわよ」  
「はは……」  
的確に読み取る当たり流石家族といったところであろう。  
だがそういった感情の変化に疎い我聞にしてみれば、果歩が専門家ではないのかとも思えてきてしまうほどの衝撃を受けた。  
「そう言えば珠は?」  
「部屋に篭ってる。もうすぐ夕飯なのに」  
困ったわ〜、なんてまるでおばさんのような言葉使いも気にならない。  
「じゃあ俺が連れてくるよ」  
「無理に引っ張ってきちゃダメだってば」  
「任せろ、なんせ家長ですから」  
どん、と胸を叩きニヘラと笑ってみせる。  
我聞も我聞で思うところもあり、確実な打開策を練っているというわけでも自信があるわけでもない。  
ただそういう人柄なだけである。  
「わかったわよ、じゃあ夕飯の準備済ませとくから。……あぁ、別に急がなくてもいいからね?」  
「おお、任せとけっ!! そして夕飯は普段通りの時間帯でいいからな」  
そう言って奥へ引っ込んでいった。  
どこからその自信は湧いてくるのやら。  
そんな言葉が頭をかすめるも、球に何があったかも知らない自分の無知に加え、  
あの笑顔ならどうにかできるだろうという甘えによる二重奏に掻き消されていく。  
兄があれだけ落ち着いているのだ、絶対に大丈夫。  
身内に甘いな、なんて考えながら大絶賛されるような夕飯にしてやろうとひっそりと意気込んでいた。  
 
「珠〜、そろそろ飯だぞ〜」  
珠はというと真っ暗な部屋の中、真ん中で寝っ転がっていた。  
「暗いままにしといて〜」  
うつ伏せのまま声だけが聞こえてきた。動く気配が感じられない。  
「飯だって、今晩のおかずはなんだろうな」  
「ねぇ〜」  
興味なさそうな言葉が返ってくる。  
「そろそろ晩飯だから行くぞ」  
「ごはんいらなぁ〜い」  
ご飯と運動を取り除いたら別に興味のあるものが存在するのかが怪しい珠が飯を要らないと言っている。  
あからさまにぶーたれている妹。  
「なぁ? 何か悩みとかあれば相談に乗るぞ?」  
「姉ちゃんが兄ちゃんは役に立たないって言ってたぁ〜」  
「あいつ……」  
普段軽くてすっからかんの頭が重くなっていくのを感じた。  
自分では立派な家長であると自負していたにもかかわらず、まさかの役立たず発言。  
「で、でもだなっ! お、俺は家長だからな、どんな悩み事だって解決できるんだ」  
あいつの言葉に惑わされちゃダメだとも付け加え、あわてて主張している姿は紛れもなく頼りない。  
「そうなんだぁ〜」  
「だから何でも相談するといい。例えば……訓練のこととか」  
「………………」  
急に言葉が詰まってしまう。先ほどまでと打って変わり適当な相槌すら出てこない。  
再びグルグルが動き始める。  
「なぁ? おまえは何で訓練なんて言い始めたんだ? しかも唐突にさ」  
何でだろう? そういう考えは頭を回るも結論も出ず、わからないという言葉も出ない。  
「いや、言いたくないなら別にかまわないさ。強いることはしたくないしな」  
そう言いながら自分の下へ近づいてくる兄の足音がとても気分を不快にさせていく気がした。  
「……こないで」  
「断る」  
滅多に使わない強い口調で一歩一歩近づいてくる。そのたびに胸が痛くなっていき、普段と違う兄が恐ろしく思えくてる。  
「やだ、こないでっ、こないでっ!!」  
兄が近づくたびに、少し起こした体を後ろに進める。  
これ以上引けないところまで来たとき、暗闇の中、目の前にいる兄の手が自分に伸びてくるのがわかった。  
わかってしまうと反射的にその手を全力で叩く。  
何度も、何度も叩いた。  
叩いている間はその手はピクリとも動かず、ただただ空中にたたずんでいた。  
「いやだぁ……こないでぇ……」  
 
何時から泣いていたのかもわからない  
 
何時から兄の手を叩いているのかもわからない  
 
何時から苦しいのかもわからない  
 
何時からわからないかもわからない  
 
何にもわからない  
 
ポン、と兄の手が頭を撫でてきた。  
「大丈夫だ、な〜んにも恐いことなんてない」  
兄の手が後頭部を擦る。何度も、何度も擦ってくれている。  
それがいつもの、普段通りの温かい兄の手の温もりだとわかる。  
「辛いことがあれば全て捨てればいい、嫌なことがあれば逃げ込めばいい」  
今、目の前にある笑顔が、とっても心地よいものだとわかる。  
「おまえにはそういう場所があるだろ? 俺とか、果歩、斗馬だとか」  
そんな言葉を投げかけながらぎゅっと抱きしめてくれる。  
よく覚えていない赤ちゃんの頃に戻ったように、温かく包み込んでくれる。  
リズムよく、ポンポン、っと撫でてくれる。  
そしてその衝撃と共に、今までのグルグルが徐々に自分から抜けていくのを感じた。  
「…………さぃ」  
「ん? どうした?」  
「ごめんなさい、ごめんなさい……」  
暖かな返事と共に、さらにぎゅっと抱きしめてくれた。  
体もまだ少し痛かったのに、それすらも包み込んでくれているような気がした。  
 
「なぁ? 結局訓練始めた理由ってなんなんだ?」  
嗚咽が聞こえなくなったところで我聞が切り出した。  
「えぇっと……早く兄ちゃんを手伝いたくて」  
「おぉ、そうかそうか」  
ニヤニヤ笑う兄はいつも通りしまっていないのだが、そのしまらなさがまた安心感をくれる。  
「それに……」  
兄ちゃんみたいにかっこよくなりたかったから  
「ん? 何か言ったか?」  
「ん〜ん、何も」  
「そうか」  
へへっ、なんて笑い声が重なった。  
「それにおまえを見てると昔の俺を思い出すしな」  
「何で?」  
「いや、俺もキツクしてくれって頼んだんだよ、同じ風に」  
少し照れたように口にする。  
「しかも辻原さんはおまえのこと俺より筋がいいってベタ褒めしてたぞ?」  
「えぇっ!? もう稽古付けてくれないんじゃないのっ!?」  
心底驚いたように目をクリックリさせて固まっている。  
「そんなわけないだろう、社長もうかうかしてられませんね、なんて言われちゃったし」  
1つ、そしてまた1つと心の枷が外れていくのを実感しながら会話を弾ませる。  
「さて、そろそろ飯だろう。今晩のおかずはなんだろうな」  
「あ、まだごはん食べてないっ!? おなかすいたぁ〜」  
 
「姉ちゃんごはん何〜?」  
果歩が笑顔で返事をしようとするも、  
「とんかつだぁ〜」  
自己解決、呆れて声もでない。  
指が眉間に吸い寄せられていくのを感じるも、肩の荷は降りたと言わんばかりの表情で兄を見る。  
「果歩、箸がまだ出てないぞっ!?」  
こっちも頭の中はとんかつでいっぱいいっぱいらしい。  
誰がわたしを慰めたりしてくれるのだろうか? そろそろ家出の時機到来かしら?  
そんなことを考えつつ  
「はいはい、今出すから待ってなさい」  
「「「はぁ〜い」」」  
ひょっこり手伝いを抜け出した斗馬があとで〆られたのは言うまでもない。  
 
夜も深まり丑三つ時。ふと部屋のドアが開く音がして目が覚める。  
「……だぁれだ? こんな時間に?」  
目覚める予定時刻よりかなり早く、寝ぼけ気味に声は尻上がりとなっている。  
この部屋の主であるのは我聞と斗馬であり、斗馬は隣でいびきをかいているのでそれ以外の来訪者が訪れたことになる。  
声を上げることもなく、よく見る小さなシルエットがひょこひょこ近づいてくる。  
「珠か? どうしたこんな時間に」  
「久しぶりに兄ちゃんと寝ようかなって思って」  
ヒソヒソとしゃべってはいるが、ある程度の音量では斗馬はびくともしないであろうがとりあえずヒソヒソ。  
「なんだそんなことか。ほれ」  
そういって布団をめくり、珠を潜り込ませる。  
 
 
 
「へへ、暖かい」  
 
 

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