昼間の騒がしさが嘘のように、夜の診療所は潮騒の音だけが響いている。既に和田さんは帰宅  
しており、彩佳も既に帰り支度を済んだ後である。後はコトーに一言告げるだけだ――彩佳は未  
だに診察室の明かりが見え、まだ彼がカルテを書いている事を知った。  
「コトー先生。お先に上がります」  
 コンコンと数回ドアをノックし、顔を出すと、やはりコトーはいつものように、カルテを書い  
ていた。  
「あ、うん。彩佳さんもお疲れ様、」  
「あまり無理しないで下さいね」  
「うん。判っているよ、彩佳さん」  
 そう告げるコトーの表情は優しい。こんな顔をされたら、無理矢理に仕事を止めさせる事など  
彩佳が出来るはずもない。それに、そんな権限など自分にはない。  
 そんなもどかしさを感じながらも、彩佳はコトーに悟られまいと、頭を下げて早々に立ち去る  
事にした。  
「あ、彩佳さん……!」  
 そう珍しくコトーに呼び止められ、彩佳は立ち止まった。すると、何時の間にやって来たのか、  
目の前にコトーが立っていた。  
 おっとりとした気弱な先生――島育ちの彩佳から見ると、男性らしさからは程遠い場所にいる  
のがコトーである。だが、その内面は、熱いものを秘めているのも彩佳は知っている。よく見れ  
ば、背だってコトーの方が頭一つ以上高い。それを感じさせない物腰の柔らかさがコトーらしい  
といえば、そうなのだろう。  
 
「何ですか? 先生」  
「う、うん。そのね……。明後日は休診日だよね」  
「はい」  
「それでね……」  
「先生、大の大人が照れないで下さい。気持ち悪いですよ」  
「う、うん……」  
 それでもコトーは困ったように白衣のポケットに手を入れ、視線を泳がせたままである。だが、  
ずっとこんな事をしている訳にもいかないと思ったのか、意を決して彩佳を見つめた。  
「休診日の前の晩さ、ここに……泊まらないかな? やっぱり嫌? 駄目かな……。あ、用事が  
あるんなら、いいんだ、気にしなくて、本当にいいから、」  
 その問い掛けに彩佳の方が口篭ってしまった。なんて察しが悪いんだろうと自分でも思いつつ、  
内心、嬉しくて仕方がなかった。  
 
 医者と看護士の関係から一歩踏み出したのは何時の事だったろうか。  
 時がゆっくりと流れる島の時間のように、二人の関係もゆっくりと、そして着実に変わりつつ  
ある。  
 妙に勘の良い和田はそれとなく二人の関係を気付いている節があるし、内さんなどは往診にい  
くと、「お前達の子供を取り上げるまでは死ねない」などと、本気か冗談か分からない口調で  
コトーに怪しい煎じ薬を飲ませているらしい。  
 
「……彩佳さん?」  
 一向に返事をしない彩佳を不安に思ったのか、コトーがそう呼びかけると、  
「そんな事、一々聞かないで下さい。恥かしいじゃないですか!」  
「で、でも、彩佳さんは星野さんの大切な娘さんだから……」  
 
 この島にコトーを呼んだのは彩佳の父である正一である。それでなくとも、コトーは度々、  
昼食を彩佳の母である昌代からご馳走になり、一人身であるコトーに何かと気を遣ってもらって  
いる。その二人に対しても、彩佳よりも年上であり、仕事仲間として彩佳を見守る責任がコトー  
にはある。彼らの大切な一人娘をコトーは預かっているのだから、その一人娘が無断外泊などし  
たら、悲しむに決まっている。  
 
 そんな事は彩佳自身分かっているが、雰囲気というものがあるだろうと彩佳は思う。医師とし  
てのコトーは聡明で、決断力もあるというのに、他の事に関しては、奥手で鈍すぎる。  
 少しでも自分がコトーの傍にいたい事ぐらい彼は判っているはずなのだから、そんな事を尋ねら  
れしまったら、反対に恥かしくてしょうがない。  
 断る気持ちなどないが、承諾してしまえはば、それはすなわち、自分からコトーと関係を持ちた  
いと言っているようなものではないか。現実にはそういう事なのだろうが、それを素直に認められ  
るほど、彩佳はまだ恋愛に達観していない。  
 
「やっぱり……駄目かな?」  
 少しだけ落胆した声に、彩佳はぽすんとその身をコトーに預けた。駄目なはずがない、尊敬する  
コトーに女性として見てもらえる事が出来て嬉しい。普段はストイックなまでに仕事一筋の彼もや  
はり男性なのだ。  
「……茉莉子さんに頼んできます」  
「じゃ、じゃあ……!」  
「判りきった事を聞かないで下さい!」  
 明らかにコトーの声色が弾んだので、彩佳は照れ隠しに、彼を突き飛ばした。  
「おやすみなさい!」  
 そう言い捨てるように、彩佳はくるりと身体を反転させ、診療所から出て行った。その顔がうっ  
すらと赤く染まっていた事にコトーも気付き、去った彼女の背中に小さく微笑を浮かべていた。  
 
 案の定、茉莉子には冷やかされたが、快く協力してくれた。今回が初めてではないから、もしか  
すると両親も気付いているのかもしれないが、深く尋ねられる事はなかった。  
 どうも両親に限らず、島の多くの人達が自分達の結婚を望んでいる気が彩佳にはする。  
 お似合いだから、とかそんな理由ではなく、コトーがこの島にい続けて欲しいからなのだと、そ  
れぐらいの事は彩佳も気付いている。それは、彩佳も彼がずっとこの島にい続けて欲しいとは思う。  
だが傍にいて、彼の医者としての才能も誰よりも判っているつもりだ。こんな僻地で一生、離島医  
療すべきではないと都会からの大学病院から誘いが来るのも当たり前だと思う。  
 でもそれはコトー自身が決める事である。コトーが決めた事ならば、どんな結果であっても、彩  
佳は彼の決断を支持するつもりだ。感情が許さない事があっとしても、結局は、そうする気がする。  
 彼の足枷などに、彩佳はなくたくなかった。  
 
 
「……信じらんない」  
 彩佳は呆れるように溜め息をついた。目の前には、きちんと布団が一つ敷かれており、ご丁寧に  
枕元にはティッシュケースとコンドームまである。デリカシーの欠片も無い組み合わせだ。  
 せめて、ティッシュとコンドームは隠しておくのが普通だろうと思うのだが、それをコトーに求  
めるのは無理な事なのかもしれない。ある意味、オペ室で手術をするように、道具が整然と並ばれ  
ているような雰囲気さえある。  
 よくこんな事で、今まで彼女がいたのだと、逆に関心してしまう。余程の物好きでなければ、耐  
えられなくて逃げていってしまうのではないだろうか。……まぁ、自分も余程の物好きの一人にな  
るのだが。  
 ふと、彩佳はコトーが以前付き合っていたらしい女医の事を思い出した。自分から見ても彼女は  
知的な雰囲気を持つ美人だと感じた。女性らしい、というのだろうか、そんな雰囲気は茉莉子に通  
じるものがある。自分に決定的に足りないものだと彩佳自身、自覚している。  
 もう少し大人びた下着を着けてくるべきだったか。以前見た通販のカタログに載っていた下着は  
そんな感じがした。  
「今度、買ってみようかな……」  
 そんなものを付けた所で自分が彼女達のようになれるとは思わないが、ほんの少しでも近づける  
のならば、それでいい。コトーだって、男なのだから、そういう下着が嫌いなはずはない。  
「彩佳さん。何を買うんですか?」  
「お、脅かさないで下さい!」  
「ご、ごめんなさい」  
 風呂から上がってきたコトーは薄手にシャツにスボンというラフな格好だった。流石にTシャツ  
にパンツ一枚というスタイルは止めた。  
 はたと彩佳は自分が風呂から上がり、既に布団の上に座っている事に気付いた。これでコトーが  
来れば、準備万端という状態だったのだ。  
 いつもは強気な彩佳も、いざとなるとどうする事も出来ない。当たり前だ、彩佳にとって、コ  
トーが初めての人だったのだから。  
 
「彩佳さん」  
 いつもの穏やかな口調と変わりはないが、少しだけ熱のこもった低い声に、それだけで彩佳は動  
揺してしまう。  
「せ、先生、灯り! ちゃんと灯り、消して下さい」  
「え? 消しちゃうの? そうしたら、彩佳さんの顔がちゃんと見れないよ」  
「み、見なくていいです!」  
 最後まで残念がる彼を彩佳は無理矢理に黙らせ、コトーは部屋の灯りを消した。そうなると、部  
屋は真っ暗で、遠くに潮騒の音しか聞こえない。  
「きゃっ……!」  
 いきなり、ひんやりとした手の平が頬に触れ、彩佳は驚きのあまり、声を上げてしまった。慌て  
るように、触れられた手の平が離れ、彩佳は身体を小さくさせた。  
 明るいままの困るが、真っ暗もコトーがどこにいるのか判らなくて困ってしまう。今更、頬に触  
れられるだけで、酷く動揺してしまった自分が恥かしい。コトーの事だから、そんな事をされれば、  
強引に次など、できるはずがない。  
 子供ではないし、初めてではないのに、どうしてコトーの前では、こんなにも不器用にしか振舞  
えないのだろうか。  
「……彩佳さん、」  
 そんな彩佳に気付いているのか、名を呼ぶコトーの声はとても優しいものだった。膝の上に置か  
れた彩佳の手をそっと握り、コトーはゆっくりと手を引くように自分に寄り掛からせる。  
「怖がらせちゃってごめんね」  
「そ、そんなんじゃありません。私、子供じゃないんですから、これぐらい全然平気です」  
「うん、そうだね。彩佳さんは僕の大切な女性だよ」  
 だが、コトーは子供をあやすように、彩佳の頭を撫でるだけだ。言っている事とやっている事が  
全然違うじゃないか、と彩佳は抗議しようかと思ったが、大きなコトーの手の平で撫でられと、あ  
まりにも気持ちが良くて、止めた。そして、おずおずと胸元に顔を埋めるように、コトーに抱きつ  
いた。  
「彩佳さんは柔らかいね……」  
 髪に口付けるようにコトーは言うと、彩佳は無言のまま顔を上げた。暗闇の中でも、彼が微笑む  
姿がはっきりと分かるような気がして、彩佳は目を瞑った。  
 
 コトーの行為は彩佳の想像していたものと全く違っていた。それは、いつもの彼のように、ゆっ  
くりでいて、性急さは微塵も無かった。  
 互いの肌の温かさを確かめるように、抱き合い、時折、口付けるられる。じっとりと汗ばむよう  
に、肌が桜色に変わってゆく。まるで、ぬるま湯に浸っているように心地良いものだった。  
 
「私、もっと激しいものだと思ってました……」  
 以前に、そう彩佳はコトーに言ったことがある。すると、彼は困ったように、彼女を見て、  
「僕はこういう風にしか出来ないから……彩佳さん、嫌? やっぱり、物足りない?」  
「……ううん。先生とこうしていると、……気持ち良いから好き……」  
 ぎゅっと彼を抱きしめるように彩佳がそう口にすると、コトーは安心したように、それを受け止  
めたくれた。  
 
「ねえ、彩佳さん。何処が気持ち良いの? 教えて、一緒にいきたい」  
「そ、そんなの、わ、判る訳ないじゃないですか……!」  
 子供が強請るように、コトーに耳元で囁かれ、彩佳は恥かしさから顔を背けてしまった。だけれ  
ど、何時の間にか背中には彼の腕が回されていて、肩をしっかりと押さえられていて、逃げようが  
ない。  
 頬にへばりつく髪を、コトーは優しく取ってやり、そのまま髪を耳にかき上げるように動かした。  
長くて細い彼の指が肌に触れられるだけで、本当は彩佳は感じてしまっていた。きっとコトーもそ  
れは分かっているはずなのだ、それなのに聞いてくるのから、彩佳は恥かしい。人に弱みを見せた  
事がない彩佳にとっては、感情を素直に口にするだけでも、かなりの勇気が必要なのだ。  
「――っ、あ!」  
 ぐっとコトーは身体を密着させるようにしてきたので、不意に彩佳は最奥を壁を叩かれ、声を上  
げてしまった。何度も押し付けられるようにされると、もう声を抑えられず、甘い声をその度に何  
度も口に出してしまっていた。  
「彩佳さんは奥の方が感じるんだね……嬉しいな」  
 酷く熱っぽいコトーの声と共に、今度は、ぐるりと円を描くように弄られる。身体の芯がどんど  
ん火照り、気持ち良さでいっぱいになると、意識とは別に身体が更に欲しいと行為を強請る。  
 
「彩佳さん、一緒にいこうね」  
「せ、先生……! あ、あぁ! やっ、ぁあ! そ、そんなに、動かないで……!!」  
 先ほどのゆっくりとした時間から一変して、コトーは彩佳の身体を揺さぶるように腰を動かした。  
無意識に彩佳が行為を止めようと、彼の胸を抑えても、全く効果がない。反対に、全身で抱きしめ  
られるように、覆いかぶされてしまった。  
 何時の間にか、聞こえてくるものは、繋がった部分から奏でられる水の音と互いの声に変わって  
いた。  
「コトー先生! 先生……!!」  
 ぎゅうと彩佳が一際コトーに抱きつくと、彼の身体は大きく何度も震えていた。荒々しい二人の  
息が長い間続き、その後、コトーは彩佳を労わるように、涙の跡が残る目元や頬、そして首筋に何  
度も唇を落としてくれた。  
 
 
「先生、朝ですよ、コトー先生!」  
「……うぅん、急患?」  
 目を閉じていても、陽の光がはっきりと分かった。随分寝てしまったのだろうかと思いつつも、  
瞼を擦りつつ、身体を起こす。  
 そういえば、休診日に誰が起こしてくれたのだろう? 診療所には自分一人なはずでは――、そ  
こまで考えて、あっ、とコトーは声を上げた。  
 そうだ、昨日は彩佳が泊まってくれたのだ。だが、一つしかない布団の上に、彼女の姿はない。  
「おはようございます……って、先生! 早く、服、着て下さい!」  
 台所から顔を覗かせた、彩佳がコトーを見て、慌てるように姿を隠した。  
「え、服……?」  
 よく見れば、コトーは未だに裸のままだった。  
 
 彩佳に急かされるように服を着て、布団を片付け、代わりに小さなちゃぶ台を出すと、そこに朝  
食が並んだ。  
「わぁ、彩佳さんが作ってくれたの? 美味しそうな玉子焼きだなあ!」  
「お母さんに比べたら全然美味しくないですよ」  
 先手を打つように、はっきりと彩佳は告げると、一人でもくもくと朝食を食べ始めた。コトーも  
いただきます、と箸を持って小さく目の前にいる彩佳に感謝して、食べ始めた。確かに、昌代の玉  
子焼きとは少し違う味がした。  
「彩佳さんの味がして、とっても美味しいよ」  
 嬉しそうに食べるコトーに、彩佳は照れくさいのか、珍しく一言も反論してこなかった。  
 
「ほら、もうすぐ、タケヒロが来る時間じゃないですか? 勉強、見ているんでしょう?」  
「え? もう、そんな時間?」  
「先生はのんびりしすぎなんです」  
 てきぱきと茶碗を洗い終えると、彩佳は窓を眺めた。その間もコトーは居場所がないように、ち  
ゃぶ台の前に座っているだけである。  
 甘い雰囲気も微塵も感じさせない彼女がらしいなぁと思いつつも、少しだけ残念に思ってしまう。  
昨晩はあんなに可愛かったのに。そんな事をうっかり口にでもしたら、何が起こるか分からないの  
で、絶対に口にはしないのだが。  
 
「彩佳さん。もう帰るの?」  
 身支度を整えている彼女にコトーがそう尋ねると、  
「……そんな事、聞かないで下さい。……困ります」  
 今の二人はそういう関係なのだ。まだその先を考えるつもりもない。多少はあるにしろ、性急に  
答えを出そうとは二人とも思っていないのだ。今の二人の関係があまりにも心地良すぎて、それか  
ら抜け出せないでいるだけかもしれないのが。  
「あ、うん。ごめん、変な事、言っちゃって……」  
 馬鹿な事を聞いてしまったとコトーは自分の迂闊さを呪った。次に掛ける言葉も見つからず、ふ  
と窓の外を眺めると、今日も快晴そのものだった。彩佳も同じだったのか、彼女を見ると、窓を見  
つめていた。  
 
「天気が良いですから洗濯だけして帰ります。しなきゃならないものも溜まってますし……ついで  
に先生の白衣も洗ってあげます。でも、白衣だけですからね!」  
 彩佳もやはり帰り難いのか、そう言い放つと、近くにあった白衣の籠を持って行ってしまった。  
 
 しばらくして、その彩佳が慌てふためくように、戻って来た。  
「せ、先生! 白衣と下着を一緒にしないで下さい!」  
 彼女の手にはどう見ても男性物のトランクスがある。このまま投げつけてやろうかと彩佳は思っ  
たが、当のコトーといえば、うつらうつらと眠ってしまっていた。  
 それでなくとも、コトーは忙しい。医者の不摂生なんて、見っともない事だと思いつつも、それ  
も仕方が無いと彩佳も思う。急患は時を選んではくれないし、それでなくとも、コトーは深夜遅く  
まで細かな作業をしている。  
 休診日ぐらい、そっとしておいてあげよう。太陽が真ん中を指す頃には、タケヒロがやってくる  
だろう。その間ぐらい、寝かせてあげよう。  
 
「それにしても、先生の下着、派手……」  
 外に置いてある洗濯機の前で、彩佳はしみじみと呟いてしまった。普段着ている地味な服装から  
は想像も出来ないほど、カラフルなトランクスが何枚もある。  
「……先生、下着は派手な方が好きなのかな」  
 今度、自分が買う下着も派手なものにしてみようか、などと、そんな事を考えてしまう彩佳だっ  
た。  
 
 その後、彼女の買った下着に、コトーは心臓が飛び出るほど驚く事になったのだが、それはまた  
別の話――。  

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