その頃、コトーは携帯電話の電波が通じない地下のカフェに居た。  
原沢咲と再会し、ほんの少しなら話につきあってもかまわないと返事したのがそもそも番狂わせだった。  
実際渋々付きあってはみたものの、かつての仲間達の近況を話の切り口にされると、思ったよりも長く話し込んでいた  
自分に気付いた。一時間近くも話していただろうか。  
ふと、彩佳から連絡があったのではと時間の確認ついでに携帯電話のディスプレイを見た。  
当たり前だが、圏外のこの場所では着信が入らない。  
『早く帰る』とメモを残した上に、明日は講演会がひかえている。そろそろ切り上げようと伝票を手にしようとした時、咲の手がそれを遮った。  
 
「あ…」  
 
コトーの掌に、咲の白い指先が重なる。それはひどく懐かしく心地よい感触だった。  
…それは当然のことだった。数年前は…この心地よさが自分の全てだったのだから。  
しかし、それはもう過去のものだ。コトーは慌てて手を引っ込めた。  
見るからに動揺しているコトーの様子が可笑しく感じた咲はクスクスと笑った。  
 
「相変わらずね、五島君は。…でも、あなたと思い出話をするのに此処によったわけじゃないのよ。」  
優しい微笑みの中に見える真摯な眼差が訴える…その眼差は一人の医師としての眼差だ。  
「これを見てもらいたかったの。あなたが東京で講演するって耳にしてね…離島医療に従事しているって聞いて、いてもたってもいられなくて。」  
 
咲が手渡したものは、誰かのホームページの日記をプリントアウトしたものだった。  
おそらく、まだ10代の女の子が作ったものだろう。可愛らしいイラストがレイアウトされている。  
 
「へえー…今やネットで日記を書くって当たり前なんだね。診療所にもパソコン必要かなあ…今の子達はすごいね。」  
最初はほほ笑ましいなと思いつつ見ていたコトーだったが、読み進めていくうちにみるみる青ざめていった。  
その日記は離島の医師として生きるコトーの心の奥を深く抉《えぐ》った。  
 
この日記を書いたのは船で半日はかかる離島に住む中学1年の女の子だった。タケヒロ達と同じくらいだ。  
何枚か読み進めていくうちに実に可愛らしい、制服姿の女の子の写真があった。  
日記の内容ははじめは希望に満ちあふれてほほ笑ましいものだったのだが、  
やがて絶望の闇の中飲み込まれていく彼女の心と身体の様子があまりにも残酷に綴られていた。  
母親が所々にコメントを入れている…その内容は既に遠い過去形になっている。  
…それがこの少女はもう此処にはいないということを物語っていた。  
 
-------娘の病気は悪性骨腫瘍でした…つきつけられた『ガン』という事実を私はどう受け止めていいのか、  
全くわかりませんでした…あの時、どうしてもっと早く気付かなかったのでしょうか。--------  
高度な医療設備もなく、手腕を持ち合わせていない離島の医師による雑な診察と結果としてのミス。  
少女は入院はしたものの、結果として手遅れとなり、この日記の主人公である少女は2年後に亡くなった。  
少女の母親は、島から出た事のない漁協勤めの夫と別居し、東京の病院で彼女にずっと付き添っていた。  
そして費用がかかる治療に消極的かつ頑固な島生まれの夫を見限り、関東の実家に戻り愛娘の墓を建てた。  
そして、『あの島は捨てました。娘をあの島に眠らせたくなかった…』と最後の方に綴ってあった。  
 
「五島君。知っておいて。これが珍しい話じゃないってことを。充分な設備と優れた医師がそこに居てこそ  
本当の僻地医療だと思うの。でも、理想論だって大抵の人は言うでしょうね…僻地に馴染めずに逃げ出したり、  
リゾート気分だったりスローライフの一貫としか考えていない医師も実際にいるのよ…どうしてだと思う?」  
 
コトーは返答出来しなかった…自分には出来なかった。それをわかっていたかのように、咲が続ける。  
「優秀な医師を生み出す先導者がいないから…古い価値観は何ら変わらない…小手先の技術で満足する  
未熟な医師が生み出されるという悪循環から抜け出せないの…今必要なのは、そんな現状を打破出来る技術を  
持ち合わせた非常に優秀な指南者の存在なのよ…大学だって馬鹿じゃないわ。ちゃんと対策は考えてる。  
優秀な人物が教壇に立つことを望んでいるのよ…五島君。」  
 
一つの線が見えた。…江葉都はかつて教壇に立っていたことがある。臓器移植の世界的権威だ。そんな人物が  
いつまでも離島医療に従事するわけはない…そして、今回の突然の講演の依頼…二人の医師が招待された理由が…  
 
「ここまで話せば、もう五島君は察しがつくでしょうね……何で、あなたの講演会が急に決まったのか。そして、  
私が何故今、此処にいるのか。」  
 
コトーはある程度予想はしていた。あまりにも都合のよすぎる再会。突然の彼女の帰国…絶対に何かが絡んでいる。  
しかし彼女は、人を陥れるような狡猾な人間ではない。…それは自分が一番わかっている。  
それでも、感情に動かされていては…医師として見失う部分が出てくるのは経験上よくわかっているのだ。  
 
「だいたい話はわかったよ…僕は大学病院に戻るべきだ、って言いたいんだよね…」  
「付け加えるとね。あなたに天津堂大学の講師の話が来ているのよ。僻地・離島医療カリキュラムがこれからは  
必要だって。東京にも沢山の離島があることも知っているはずよ…だけど志す人がいないの。だからこそ、  
あなたの実績と技術を見込んで…熊谷幹事長が強く推薦して下さってるのよ。江葉都先生の件もね。」  
 
確かに、離島からの救急患者は搬送中に死亡する例が少なくない…  
実際、コトーは何度も東京の大学病院に戻らないかという声もあがっていたことも知っていたが全て断った。  
あの島の医師であることが、自分のすべきことだと心に決めていたのだから。  
ただ、やむを得ない事情で東京に行くことがある。その時にいつも心のどこかで問い掛けられるのだ。  
『島の患者を見捨てて別の患者を診るのか、それでもお前は本当に島の医師なのか』と。  
 
「江葉都先生は…本人が望むならそれが一番いいと僕も思う。実際、彼のおかげで何人もの貴重な命が  
救われているんだ…だから彼が離島の医師を選んだ時には僕も驚いたからね…。でも、僕はきっと向いてないよ。  
ホラ、研究とか苦手だからさ。ただの一人の医師、それだけ。…僕は人を指導出来るような資格はないよ。」  
 
咲はコトーがこう答えるのを最初から予測していたのだろう。驚く様子もない。  
「やっぱりそう言うと思った。五島君らしいわ。まあ…そういう所が好きなんだけど。」  
 
穏やかな咲の笑顔はあの頃と同じだ。この笑顔が愛しくてたまらなかった筈なのに、  
何故、何も伝えずに彼女の元から立ち去ってしまったのだろう。  
彼女がどれ程傷ついたか…その痛みははかりしれない。  
その気持ちを想うと、コトーは胸の奥が痛んだ。しかし、もう元には戻れない。  
戻るつもりはない。痛みよりも、強い気持ちがコトーの中で既に息衝いていたのだ。  
 
「…ごめんね…簡単に好きなんて言っちゃだめね…。」  
自戒するように咲も溜め息をつく。咲は少し震えたか細い声で続けた。  
「五島君…彼女いるわよね…」  
 
コトーは声には出さず、頷いた。咲はその返事を予想していたかのようだった。  
「やっぱりね…ねえ、どんな人?」  
「…一言では言えないよ…でも、咲ちゃん、なんでそんなこと聞くの?だって、僕たちはもう…」  
いくら恋愛に鈍いコトーと言えども。彼女に関しては別だ。その『含み』が何かはわかる。  
彼女のことを忘れられるといえば嘘になるが、今はもっと大切な人が傍にいるのだ。  
曖昧な返事はかえって残酷になる。  
 
「あなたはそうかもしれないけれど、私がそうだとは限らないのよ。あの頃の私はあなたに  
ついていくのが精一杯だったけど、今は違うわ。勿論、あなたと同じ場所に立っているなんて  
おこがましいことは言えないけど。」  
含みのある言い方。以前の彼女ならこのような言い方は決してしなかった。  
 
「…君が傷つくのを承知の上で言わせてもらうよ。僕が一番大事なのは今の恋…」  
全てを言い切る前に、咲がコトーの唇を塞いだ。  
 
「言わなくてもわかってるわよ。コーヒー代は私が払うわ。」  
呆気にとられているコトーを尻目に咲は伝票を持って会計を済ませた。  
そして、とても寂しそうな目でコトーに一言こう告げて立ち去った。  
 
「さよなら…」  
 
咲の唐突な口付けに驚き、コトーは人目を気にしながらカフェを次いで後にした。  
なんとなく集団に紛れていたくなかった。途中、タクシーを拾って帰路を急いだ。  
確かに触れた唇の感触を反芻するかのように、自分の唇をなぞる。  
自分が知っていた頃よりずっと、大人びたキスを仕掛けられた。真っ白で優しそうだった  
彼女は、少しだけ変わってしまった。それが、なんとなく寂しかった。  
 
なぞらえた指先にはローズピンクの口紅がほんの少しついている。慌ててそれを手の甲で  
拭い取ると、タクシーの運転手が不審そうな目でコトーを見た。  
それに気付いたコトーは慌てて作り笑顔を見せた。かえって不審がられたのだが。  
ふと携帯の存在を思い出し、ディスプレイを見てみるが着信も留守電も入っていない。  
さすがに、こんな時間になると食事など終わっているだろう。結果遅くなってしまったことをコトーは後悔した。  
 
『…もう疲れて寝ちゃったかな…』  
渋滞気味の副都心に辿り着いた頃には日付が変わろうとしていた。車内ということもあり、電話するには気がひけた。  
…が、ここで何らかの連絡をとっていれば事は変わっていただろう。  
 
その頃既に、彩佳はホテルの自室に戻っていた。フロントでコトーの所在を聞いたが、  
未だ戻ってきていないということだけで、何処に行ったかは全くわからなかった。  
…コトーに電話をかける気にはならなかった。何度かけても通じなかったのだから。  
 
「気持ち悪い匂いがする…」  
煙草とアルコールと汗の混ざった匂い…。先程まで他の男に抱かれようとした証拠だ。  
携帯には未だコトーからの連絡はない。連絡なんて、ほんの一言くらい出来る筈だ。  
「あのバカ、何処に行ってるのよ!」  
ベッドに叩きつけるように携帯電話を投げつけた。次に目についたコトーからの伝言メモは  
ぐしゃぐしゃに丸めてごみ箱に投げ捨てた。  
 
早くこの匂いだけでも落としたい…シャワーを浴びてさっさと寝てしまえばいい。  
言わなければわからない。決してばれることもない…  
そう思った矢先、携帯の着信ライトが青く光った。コトーからの着信だ。  
 
「先生!?いったい、どこ行ってたんですか!」  
「ごめんね…約束破っちゃったね…本当にごめん…心配かけたね…」  
「当たり前です!もう…」  
 
コトーは既にタクシーを降りてホテルに到着していた。もう部屋に辿り着くという。  
あれほど苛立っていたのに、声を聞くと安心するのは、惚れた弱みなのか…  
正直、今の心境では会いたくない。だが、変に拒絶するのもかえって不自然だ。  
顏をちょっとだけ見せておやすみの挨拶くらいしておけばいいと彩佳は思った。  
 
ドアがノックされ、二重ロックをかけたままで扉を開けると、そこには相変わらず優しい目を  
彩佳に向けるコトーの姿があった。  
たった数時間離れていただけなのに…彼の顏を見ると泣きたくなる。  
必死に涙をこらえ、気丈なふりをしようと頑張ってみたものの、そんな空元気はコトーに  
あっさりと見破られてしまった。コトーは本当に悲しそうな表情で彩佳に懇願していたのだ。  
 
「星野さん…ロック外して…。本当にごめんね…」  
彩佳がしょうがなく扉のロックを外すや否やコトーは部屋に飛び込むように入りこんできた。  
そして真っ先に彩佳の身体を抱きしめた。  
 
ふと、彩佳の身体にアルコールと煙草の匂いが纏わりついているのがわかった。  
彩佳は煙草を吸わない。酒も、親友の付き合い以外は滅多に飲まないと言っていた。  
東京に友達でもいるのだろうか…そんなことは耳にしたことがない。気にはなったが、  
変な勘ぐりを入れればきりがない。今は、彩佳に対する罪悪感でいっぱいのコトーは、  
強く彼女を抱きしめることで、それをぬぐい去ろうとしていた。  
それは彩佳も同じで、コトーの温もりを感じることで、先程の自分の愚行を忘れようとしていた。  
 
(自分から言わなければ…黙っていれば、わからない…。)  
 
互いが、同じことを考えていたなんて思っていなかっただろう。  
罪悪感を誤魔化すための抱擁…恋人の温もりに誘われるコトーが彼女の胸の膨らみに手を伸ばす。  
 
「んっ…」  
手が触れると同時に彩佳の嬌声を確認する。コトーはかなり強引に彩佳をベッドに押し倒した。  
肩紐を外し、スカートの裾を捲り上げる。露になった胸元に強く口付けを落とす。  
強引すぎるコトーの愛撫に、彩佳は酷く戸惑っていたが、どうしても拒絶が出来ないでいた。  
しかし、次の瞬間。コトーが彩佳の唇を塞ぎ、舌を強引に進入させて来た時だった。  
自分の知らない匂いがした…口紅の独特の味が自分の舌に不快に纏わりついた。  
次の瞬間、彩佳は思いきりコトーの舌を噛んだ。  
 
「痛っ…!」  
驚きと痛みで彩佳の身体からコトーが離れる。舌に感じる痛みが強すぎて一体何が起こったのか  
わからなかったが、次の瞬間、完全に彼女に拒否されたということを察した。  
 
「私、そんな匂いの口紅なんかつけてません…!」  
彩佳はこれではっきりと確信した。コトーは、自分以外の女に会った。  
そして、唇を重ねた。その相手は、あのポストカードの持ち主…電話にでた女性《ひと》。  
 
彩佳は、あの愚行を省みず、コトーを拒否している自分が悔しかった。  
自分はきっとコトーがしたことより、もっと酷い裏切りをしている…でも、絶対に言えない。  
言ったら、全てが今、此処で終わる。  
コトーは自分のことを信じてくれている…心の底から…  
かつて、言葉に出してそう言ってくれたとき、どれほど嬉しかったことだろう…自分もそう思っていたのだから。  
だが、たった今、それが音をたてて彼女の中で何かが崩れていった。  
 
「ごめん…」  
痛々しいコトーの表情がかえって辛い。余計に気分が悪くなる。  
「今さら…何が『ごめん』ですか!出ていってください!今すぐ!」  
叩き出すようにコトーを部屋の外に追いやった。コトーはされるがまま外に出ていった。  
彩佳は、完全に拒否するかの如く扉を閉めた。  
暫く、ドアによりかかっていたが、コトーが戻ってくる様子はもうなかった。  
 
次いで、身体の全ての力が抜けていった彩佳は、がくりと膝から崩れ落ちた。  
 
 
あの後、コトーはなかなか眠りに就けずにいた。酷く目が冴えていく。  
しょうがなく、彼は持参してきた睡眠薬を2T服用し、ベッドに身体を横たえた。  
普段は眠剤は飲まない。しかし、睡眠不足のまま喋り続けると確実に喉をやられる。  
強制的に睡眠をとらないと後々に響くことを承知した上での仕方のない方法だった。  
 
やがて、頭が重くなる感覚を感じ、とろとろと眠りに就く。  
底のない闇の中に引きずり込まれるように、夢の中へと落ちていく感覚を感じ、  
朦朧としながらも、これはまずい…と思った。こういう時には、必ず嫌な夢を見るのだ…  
 
…………  
コトーは一人、海岸に佇んでいた。  
果てなく続く紺碧の海と白い砂浜だけが延々と続いている。空には雲一つない。  
一人で歩き始める。そこには誰の姿もない…  
砂を一握り掴んでみると、さらさらと手の中から砂が零れ落ちてゆく…  
この砂のように、最後は何も残らないのかもしれない。  
…………  
 
あれは病院を離れてからどのくらい経った頃だろう。  
風の噂で、彼女が婚約したという話を聞いた…特に驚くことはなく、当然のことだと思った。  
自分はたった一人、何も告げずにあの場所を離れたのだ。そして、彼女からも…  
 
「それでいいのか!?…お前の彼女に対する気持ちはその程度だったのか!?  
彼女のことが本当に大事なら、すぐに帰るべきなんじゃないのか!」  
友が、激しい口調でそう訊いてきた。  
 
「彼女が選んだ路だよ、僕には関係のないことだから…」  
それが自分をせいいっぱい偽って答えた言葉だったのだ。  
距離も、時間も…全てが、あまりにも離れ過ぎていた。もう戻れはしない。  
 
抱擁も、セックスも。たいして彼の中では大差がないものだった。  
性欲は自分で処理が出来る。それはむしろ愛情表現というより、排泄に近い感覚。  
かつての恋人の温もりは心地よかったし安心は出来たが…それは慰みを求める感覚に  
近いものだった。ただ、傍にいるだけで心地よい関係だった。  
 
あの島に来て…出逢った診療所のパートナー…彩佳。最初は仕事の上での信頼関係だった。  
だが、惹かれてしまった。華奢な身体に似合わない凛とした姿勢をした一人の女性に…  
それは自分を救ってくれる光のようだった…その光に惹かれるように。強く彼女に引き込まれた…  
時には叱咤してくれる彼女を見ていると心が強くなれる気がした。  
光が、もっと欲しい…それは自分の中で封印していた気持ちに変化した。  
…強い慟哭に似た気持ちが芽吹いている自分に戸惑った。そして、ふとしたきっかけで彼女を抱いた。  
 
彼女を抱いたと同時に…雄《オス》としての支配欲が生まれた。  
…誰にもこの存在は渡したくない。自分を甘く呼ぶ声も、身体の下で揺れ動く艶めかしい肢体も、柔らかい唇も…  
声や吐息や自分の腕の中で喘ぐ彼女の姿は誰にも見せたくない…今までに感じなかった強い『欲望』が生まれた。  
時間が経ち、昔の恋人を忘れ…気がついたら彩佳からもう離れられなくなっていたのだ。  
 
「私、将来医師免許取ろうと思ってます。」  
…だが、いつか彼女は自分の元を去っていく。…そして同時に、僕は一人に戻る…  
目指す所を見つけた彼女…送り出すことしか出来ない情けない自分…  
そんな不安げな態度で、何度も彼女を心配させ、傷つけた…はっきりしていれば今回のようなこともなかった。  
 
夢からゆっくり醒めてきたコトーは彩佳に謝る口実として朝食に誘おうとドアを叩いた。  
しかし、返事はない…彼女はたいていこの時間には起きているはずだ。いつも自分より  
先に起きているのだから。何度か叩くが、全く物音すらしない。  
不自然に思ったコトーはフロントに連絡を入れた。内線を入れても通じなかった為だ。  
「あの、僕の隣の部屋に宿泊中の、星野さんに連絡つきますか?」  
少したって、返事が来たが、それはあまりにも予想外のものだった。  
 
「星野様は…今朝早くチェックアウトされましたが…」  
 
「えっ…」  
コトーは絶句した。彩佳は怒っているだろうというのは予測は出来たものの、まさか  
既に此処を立ち去っているとは思ってもいなかった。  
 
「星野様からのご伝言のメモをお預かりしておりますが、お持ち致しましょうか?」  
その返事に、コトーはフロントへ急いだ。手渡されたメモは確かに彩佳の文字で書かれていたものだ。  
--------------------------------------------------  
五島先生  
 
義母の具合があまり思わしくないようで、先に島へ戻ります。  
勝手を言って大変申し訳ないのですが、飛行機のキャンセル待ちが取れ次第すぐに搭乗します。  
大変申し訳ないのですが、1週間程休暇を頂けないでしょうか。  
下山さんにはご迷惑をかけることになりますが、私から直接連絡しておきます。  
島に着いたら、また連絡します。  
先生は講演会を成功させることだけ考えて下さいね。  
いい講演になることを願っています。それでは。  
 
星野  
--------------------------------------------------  
 
あまりにも他人行儀な書き方…そして、このメモの内容は真実ではないことがコトーには容易に判断が出来た。  
彩佳の義母の件に関しては音田と下山に一任してあり、二人とも快く引き受けてくれたのだから。  
コトーは彩佳の携帯電話に連絡を入れてみるが、電源が入っていないとの旨を伝える  
アナウンスが空しく流れていた。  
 
空港まで行けばおそらく確実に彼女を探し出せるだろう…  
講演まで時間はある。彼女の真意を確かめずに此処でのうのうとしているわけにはいかない。  
そう思い、コトーが羽田まで行こうと決めた時、背後から彼を呼ぶ声がしたのだ。  
その相手の顏を見た時、コトーの表情が曇った。  
 
 
その頃、彩佳は駅前のカフェで時間を潰していた。  
この通勤ラッシュの波に逆らいながら行動をとる気にはなれなかった。  
『東京の人はこんな雑踏の中でも平気なんだもんなあ…想像もつかないや…』  
頬杖をついて、外を眺める。動こうにも、こんな雑踏の中では気力が削げる。  
コトーも、かつてこの雑踏の中働いていたのだろう。ふと、彩佳はそんなことを考えた。  
 
…もうどのくらい前になるだろうか…彼の大学時代のアルバムを半ば無理矢理見たことがある。  
本棚やダンボールに突っ込んだままのそれらが、ずっと気になっていたのだ。ふと、そのことを思い出した。  
 
「…ねえー、星野さん〜。絶対つまんないから、見ないほうがいいよぉ〜」  
「いいんです!…そ・れ・と・も〜。見られたらマズい、やましいものでもあるんですかね〜?!」  
殆ど脅迫まがいの彩佳の要求に、コトーは渋々と首を振った。そして、観念してアルバムを差し出した。  
 
「うわ〜!コトー先生若っ!」  
第一声がそれかと思ってしまったが、ページを進める度に歓声をあげる彩佳が可愛いいとコトーは思った。  
しかし…恋人と二人で過ごす貴重な時間にそんな物を見なくても…と少々複雑な気持ちになっていた。  
「へえ〜。医大ってもっとガチガチしてるイメージだったけど、以外とのびのびとしてるんですね。」  
芝生の上で、談笑する写真が一枚。周りにいる学生達はおそらくコトーと同期だろう。  
コトーは皆に囲まれ、屈託のない笑顔を見せている。清々しく、本当に幸せそうな時間が写真の中で流れていた。  
その中に、一人遠慮がちに写っている女性が一人。まだあどけなさが残っている。  
 
「あれ?男の人ばっかりだけど、女の子もいるんですね。」  
彩佳が一人の女性に指を指すと、コトーは一瞬固まった。  
「え?!…あ、うん…。彼女、一応後輩だったから…」  
いかにも何かあったような態度が見え見えだ。今は結婚してアメリカにいるらしいと言い、詳細は語らなかった。  
 
「先生、この子のこと好きだったでしょー。ねえー。やだ、顏真っ赤!照れる年じゃないじゃないですか〜。」  
そう言ってからかったのもずいぶん前のことだ……  
あの時は何とも思っていなかった写真の女性が…今はひどく気になっていた。  
 
「五島君、おはよう。」  
咲が、ホテルにまで現れたことにコトーは狼狽した。本当に、彼女は変わってしまった気がする。  
 
そんなコトーの様子は咲もわかっているようだ。昨日のことがひっかかっているのだろう。  
「勘違いしないでね。今日はあなたに会いに来たのは別のお方。私は案内に来ただけ。」  
そう言うと、小さな女の子の手をひいた初老の男の方を見る。自動ドアの向こうに、見覚えのある男性がいた。  
 
「あー!おじいちゃんをなおしてくれた、おいしゃさんだぁ!」  
「そうだよ、まみ。あのお医者さんが手術したから、おじいちゃんは元気になったんだよ。」  
帽子を目深にかぶり、横には堅物な秘書の姿もある。コトーは姿勢を正し、丁寧に挨拶をした。  
その人物は、今回の講演会の主催者でもある熊谷幹事長だ。  
 
「まみ、せんせいにおてがみかいてきたの!」  
無邪気な笑顔でコトーに手紙を渡す幼い女の子を無下には出来ない。  
多大な恩恵を受けた熊谷幹事長の主催する講演会を失敗するわけにはいかない。  
だが、彩佳の所在は掴めない…信頼しなければ駄目だということはわかっているのだが…  
 
「五島先生、今日の講演会は反響がかなりありましてね。医大の学生達もかなり来ると  
耳にしている。若い世代が僻地医療に関心をよせることは良いことですな。  
…技術・人柄。共に優れた若い医師が一人でも多く関心を持ってくれることを心から望んでます。」  
 
彩佳のことは気になるが…今回は医師として東京に来たのだ。これは仕事だ…  
自分としてはいい加減な仕事は許せない。彩佳も、きっと怒るだろう。  
「どうですか、よかったら昼食をご一緒出来たらと思ってるんですが、五島先生は  
準備がありますかね…」  
「あ、はい。…光栄です。…ね、まみちゃん。おじさんもお昼一緒していいかなぁ?」  
 
熊谷幹事長の申し出を断る理由は何もない。  
咲は、このやりとりを見て確信をしたのだ。この医師には、もっと必要とされている場所がある。  
 
カフェにいつまでも長居は出来ない。通勤ラッシュが落ち着き、コーヒーで一服する  
サラリーマンの姿が少なくなると、彩佳はなんとなくそこに居づらくなり、店を後にした。  
飛行機の搭乗時間変更を旅行代理店のカウンターで申し出ると、午前の便は全て埋まっていた。  
「それまで時間つぶさなきゃなぁ…」  
 
正直、あまりにも感情的な行動だったと思った。だが、コトーの所に引き返せる状態ではない。  
…おそらく、コトーは責めるようなことはしない。  
わかっているからこそ、なおさら自分の心は酷く痛む。だからこそ彩佳は一人で冷静になれる時間が欲しかった。  
 
『あ、参考書とか見ていこ…』  
大きな書店に吸い込まれるように彩佳は入っていった。小さな島では、情報収集にも限界がある。  
 
そろそろ、医師免許の取得を現実的に考えなければならない。  
以前島に来たハントの言葉を反芻する。  
「この島にいたらいつまでたっても医者にはなれない。」  
彼の言葉は嘘ではない。夢を夢として抱くのは簡単だが、現実にするには、大変な努力と時間を費やす。  
医大に6年、研修医として2年。最低8年…コトーと離れることになるだろう。  
彼の片腕としてあの島の医師になるには、10年以上の月日を費やすだろう。  
結婚して、子供を産んで。女として、島の看護師として全うする路が普通なのかもしれない。  
だが、心のどこかでそれで満足出来るのか、と問い掛けられる。  
 
今は受験生も追い込みだろう。沢山の参考書や受験案内書が所狭しと並んでいる。  
彩佳は「国立医大突破!」と書かれてある参考書を手にとると、ぱらぱらとページを捲った。  
「うわ、難し…でもこれをすらすら解けないとダメよね…生物は得意だったんだけどなあ…」  
 
『やるんだったら、タケヒロ君みたいに早いにこしたことないよね…』  
ふと上の段に目をやると、一冊の新書に目がとまった。  
背表紙には、「サラリーマン、思い立って医師になる」というあまりにも突飛なタイトル。  
しかし、最近は社会経験を経てから医学の路を歩む者も少なくないらしい。  
興味が湧いて、その本を手に取ろうとするが、いかんせん彩佳の身長ではぎりぎり届かない。  
せいいっぱい背伸びをしてその本を手に取ろうとしたら、誰かの手が先に伸びた。  
 
思わず面食らった彩佳だったが、振り返って相手を確認すると表情は凍りついた。  
「え、江葉都先生…?」  
「なんだ、お前はこんな本を読むのか?」  
嘲笑したような物の言い方。不快な気持ちだけが彩佳を支配する。  
そう言うとその本を彩佳に手渡した。小馬鹿にされた感じですっかり気分を害してしまった。  
本音を言うと思いきり怒鳴りたい気分だったが、此処は公共の場だ。そういうわけにはいかない。  
江葉都の姿をなるべく視界に入れたくない…ただ参考書を買いに来たのに、ここで出会うと思ってはいなかった。  
 
江葉都が、彩佳の大きな荷物に気付く。  
「…まるでこれから島に帰るような荷物だな。」  
「はい、義母が具合悪くなった、って連絡があったんで。」  
「…嘘だな…大方、五島に昨日のことを責めたてられたのではないのか?それで帰るんだろう。」  
「違います!」  
 
つい、大きな声で反論してしまった。我に帰ると、周りの客から冷ややかな視線が送られてくる。  
「とにかく、違います…!私、用事がありますから…!」  
江葉都は表情を曇らせた。彼女を揶揄するために言ったわけではない…こういう物の言い方しか出来ないのだ。  
しかし、江葉都の思惑など彩佳が知る由もない。  
 
彼女の感情的になる性格は時には負の方向へ向かう…  
つい、急ぎ足になり、エスカレーターを駆け降りようとした途中、中年男の肩に思いきりぶつかってしまったのだ。  
「おいコラ、何しやがる!」  
いかにも柄の悪そうな男が彩佳を突き飛ばしたその時だった。  
彩佳は自分の荷物に足をとられ、男が強く突き飛ばした勢いで、エスカレーターを踏み外した。  
 
「痛っ!」  
足首に激痛を感じた次の瞬間、身体が一瞬心もとない感覚にとらわれた。  
…次の瞬間、彩佳はそこから転げ落ちた。高さはかなりある。かなり強く身体を打ちつけた。  
周りの悲鳴と、人の身体が打ちつけられる鈍い音に江葉都が走って駆けつけると、  
大きな血溜まりが彩佳の頭部の周りに広がっていた  
 

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