1.
目的のためには手段を選らばないというのは、まあ、立派な一つのやり方といえようが、手段が目的と化してしまうのは、本末転倒というべきだろう。
省エネ主義の俺からすれば、目的が果たせるならば、それで良いではないかと思ってしまうのだ。
おにぎりがあるなら炊飯器は要らないし、どこでもドアがあれば自動車は必要ない。
帰り道でばったり出会った福部里志が中古車を買ったと、しきりに自慢するので、からかい半分にそんな話をした。
「はは、つまりホータローがドライブを楽しめないのは、省エネ主義のたまものだと言いたいわけかい?」
「まあ、そうだな。目的地こそが重要であって移動はその手段だろう。特に目的地も無く、移動を楽しむなんぞ、俺には理解できんね」
そう言ってため息を一つ吐く。
里志と会うのも半年ぶりだ。昔は遠目には女と見まがうような姿をしていたが、ずいぶん男っぷりが上がったものだ。神山高校を卒業してから一年近く経つのだから当然か。
「いやしかし、ホータローが運転免許を取ったと聞いたときは驚いたよ。ホータローは運転なんて一度もしないで一生を終えるものだと思っていたからさ」
俺を何だと思っているんだ。
まあ、確かに姉貴の命令が無ければ、俺が自発的に免許を取ることはまず無かっただろうが。教習所の代金を半分持つとまで言われては、素直に従わざるを得なかった。
まあ、あの姉貴が素直に弟のためを思っているわけはないから、飲み会の時の足にでも便利に使おうという腹だろう。その程度のことは、今さら勝手だとも思わない。
「お前は、ドライブを楽しんだりするのか?」
「あたり前さ! この間も摩耶花と県境の海岸線を飛ばして……」
「神山市に海はないぞ」
「まあ、気分の問題さ。僕もデートにドライブなんて月並みかとも思ったんだけどね、あれはあれで意外と悪くないものさ。風を切る爽快感はサイクリングに劣らないね」
さいで。
伊原との仲はまだ続いているのか。仲睦まじくて結構なことだ。
「ホータローもドライブが嫌いなんて言ってないで、運転したらどうだい。ちょうどいいじゃないか。東京まで行って、千反田さんを誘っておいでよ」
む……。
「気が進まん。だいたい免許取り立てで県道のつづら折りを通るのは怖い」
「じゃあ、乗せていってあげようか……摩耶花と三人で東京までいくかい」
「結構だ。お前らの仲の良さを見せ付けられるのも癪だしな」
それに馬に蹴られる趣味は無い。
「なんだ、楽しい旅行になると思うんだけどな」
「伊原が嫌がるだろう」
二人のドライブに俺が割り込む形だ。伊原も嫌だろうし、俺も嫌だ。
「そんなことないさ。摩耶花のホータローへの評価は、昔よりは上がってるんだよ」
ほう。
「『ナメクジよりはマシになったわね』って言ってたよ」
「……そいつは光栄だと伝えてくれ」
里志と別れ、家に帰った俺は自室にこもり、千反田のことを考える。
千反田は神高を卒業した後、かなり偏差値の高い東京の大学へ進学した。なんでもその大学は商品作物の改良研究に関しては国内随一だそうだ。
千反田は東京に行き、俺は神山市に残った。それ以来、千反田とは会っていない。
一応、何かあった時のためにと、俺の携帯電話の番号は教えてあるのだが、連絡すら来たことがない。俺から連絡しようにも、あいつは未だに携帯電話を持っていない。
さすがに『豪農千反田家』に直接電話する勇気は俺には無かった。
俺は千反田に何も伝えていない。
俺が自分の想いに気付いた時には、あいつは既に東京で農業の研究をすることを決めていた。
そんなタイミングで告白しては、まるで俺が千反田を引きとめようとしているみたいではないか。俺はあいつの足かせにはなりたくなかった。
そうとも。俺は省エネ主義の折木奉太郎だ。千反田は既に将来を見据えている。ここで、俺があいつの未来を邪魔するのは「やらなくてもいいこと」に違いない。
それから俺は東京の大学に合格できるようひそかに勉強を始めた。そうすることで、千反田の隣に立つ資格ができるのだと思っていた。
まあ「手短に」とはいかなかったが、これは「やらなければいけないこと」だ。
無事合格できればよかったのだが、そうそう上手くことが運ぶはずもなく、俺は浪人、千反田は無事に合格し、神山高校の卒業式をもって、俺たちは別の道を歩くこととなった。
そして、それきり何も無く、今に至る。
卒業式の日の千反田の姿は、いまでもまぶたの裏に焼きついている。
「折木さん、お元気で」
「ああ、お前もな」
別れの言葉はそれだけだった。
俺は何か間違っていたのだろうか。時々思い返して考えてみるが、いつも答えは出ない。
と、その時、机の上の携帯電話が震えた。表示されているのは見知らぬ番号だ。
「……姉貴か?」
おれの携帯電話にかけてくるのは姉貴か、せいぜい里志くらいのものだ。
確か、姉貴はおととい、尖閣諸島に行くとか言って出かけて行ったが。
コールボタンを押す。
「もしもし?」
「あ、もしもし、夜分遅くにすみません、折木さん」
この声は。間違いない、間違えるものか。――それは俺が一番聞きたかった声だった。
驚きに、俺は声が出せない。
「あの……折木さんですよね? どうかしましたか?」
「いや、千反田、なのか?」
「ああ、すみません! 名乗るのを忘れてましたね。そうです、千反田です。お久しぶりです折木さん」
「どうした、お前が連絡してくるなんて」
「実はご相談があるんです。お力をお借りできませんか?」
少し逡巡する気配が受話器の向こうから伝わってきた。
「大学でおかしなことがあったんです。でも、どうしてそんなことになったのか、わからなくて、わたし、わたし……」
ああ、つまりいつものあれか。
俺は、次に千反田が言う言葉が何か知っている。
「ええと、つまりですね……わたし、気になるんです」
2.
「大学に入って仲の良いお友達ができたんです。針見さんという方です」
「男か?」
思わず訊いてしまった。
「いえ女性です。背が小さくて、とてもかわいらしい方ですよ。同じ学部で、ゼミも同じなんですよ。入学以来仲良くしているんです。その針見さんのことなんですが」
「なにかおかしな奴だったのか?」
「いえ、そういうわけではありません。とっても素敵な方ですよ。……でも、不思議なんです」
千反田は少し言葉を切ってからこう続けた。
「折木さん、好きな人を嫌うということがあるでしょうか?」
「……すまんが順序立てて話してくれんか」
「針見さんには好きな人がいるんです。同じゼミの北浦さんという男の人なのですが。
実はその北浦さんから、わたし、相談を受けたんです。というのも、北浦さんも入学した時から針見さんのことが気になっていたそうなんです」
「それのどこが不思議なんだ。よくある青春の一ページってやつだ」
「わたし、北浦さんから協力を請われました。『針見さんを食事に誘いたいから、彼女の予定が空いてる日をそれとなく聞き出して欲しい』と。
だからわたしは針見さんから予定の無い日を訊いて、それを北浦さんに伝えたんです。北浦さんはその日に彼女をお食事に誘いました。でも――」
「針見は、北浦の誘いに乗らなかった、と」
「そうなんです。好きな人からのお誘いを断った理由……。わたし、気になります」
ふむ。好きな男の誘いに乗らない女、か。理由はいろいろ考えられる。
親が厳しくて男女交際が許されていないとか、短い間に他に好きな男ができたとか
だが、わざわざ考えなくともだ。
「本人に訊いたらいいだろう。『なぜ誘いを断ったのか』ってな」
「いえ、訊いたんですが、どうも要領を得なくて。『行きたかったけど、北浦さんに嫌われたくない、幻滅されたくない』と針見さんは言っていました」
「行きたかったが、行かなかった? まるで禅問答みたいな話だな」
「あと、『面倒な女だと思われるかもしれない』とも言っていましたね」
ということは、先に考えたような外的な理由ではなく、あくまでも針見自身に誘いに乗らなかった理由があるということか。
「幻滅ねえ。よっぽど作法が悪いとか、食べ方が汚いとか、くちゃくちゃ音を立てて食べる癖があるとか、それで食事を渋ったんじゃないか」
「そんなことはないですよ。いつもお昼を一緒に食べるのですが、少なくとも針見さんがお弁当を食べるときは、食べる姿勢もきれいですし、マナーも常識的だと思います。あ、お箸の持ち方も正しかったですね」
適当に思いついたことを言ってみたのだが、千反田は律義に返してくれた。
しかし、適当に考えたわりに、この方向は、悪くないかもしれない。
「お前、いつも昼飯は一緒に食べるのか?」
「ええ、都合が合うときはいつも」
「さっき、『針身が弁当を食べる時』と言ったな。ひょっとして、針見は常に弁当持参じゃないのか?」
「そうです。でもどうしてそれを知ってるんですか?」
そうか、ではやはりそうかもしれない。一つわからないことはあるが……。
「千反田、俺の考えを言おう。なぜ針見は北浦の誘いを断ったのか」
「わかったんですか!」
「確証はないがな」
一呼吸置いて、俺は言った。
「おそらく、針見は菜食主義者だったんだ」
3.
「……確かに言われてみれば、彼女のお弁当にはお肉やお魚は入っていなかった気がします。
でも、たとえ彼女がベジタリアンだったとして、それが食事の誘いを断る理由になるんでしょうか? 自分はベジタリアンだと言えば良いことじゃないですか」
「まあ、当事者じゃないからお前はそう言うがな、男の側から想像してみろ。
彼女のために、美味いレストランを予約したが、肝心の彼女はサラダしか食べられない、とかな。
しかもその向かいで自分だけステーキを食ってたりしたら、男にとってかなり情けない状況だと思わないか。周りから何事かと思われるぞ。
店を替えるにしてもベジタリアンのための店なんて急に見つかるものかな? 探すのは『面倒』なんじゃないか」
「それはそうかもしれませんが」
「さらに、店を見つけられて食事にありつけたとしても、北浦の方は食べたくもない野菜料理で我慢することになる」
「北浦さんは、そんなに度量の狭い方ではないと思いますが」
「一度のデートなら我慢もできるだろう。だが、今後ずっと付き合っていくとなるとどうだ。これは面倒な女だと考えないだろうか。
いや、北浦がどう考えるかは問題じゃない。針見が『北浦がそう思うかもしてない』と懸念をした、ということだ。
針見はじっくり探るつもりだったのかもな。北浦が自分のライフスタイルを受け入れてくれる人間かを」
「そこに急に誘いが来て、焦って断ってしまったのでしょうか。……わたし、悪いことをしてしまったかもしれません」
「まあ、とにかく、理由がわかってスッキリしました。折木さん、ありがとうございます。また、電話してもいいですか?」
「構わんが、もう謎解きは勘弁してくれよ」
「では夜分遅くにすみませんでした。わたし、明日は発芽の実験があるので始発で家を出なくてはいけないんです。
もう少しお話をしていたいのですが……。おやすみなさい」
俺もおやすみを言って、通話を切った。
しかし、俺には一つわからないことが残った。
なぜ、千反田はこんな『作り話』のために電話してきたんだろうか?
5.
折木さんには、伯父さんの件を始めとして、何度も助けていただきました。あの人の鋭い推理と、時折見せる優しさに、わたしはどのくらい救われたかわかりません。
多少無愛想で、ものすごく面倒臭がり屋ですが、心の深い所では温かいものを持っています。
そうです。わたしは、折木さんのことが好きです。この気持ちは異性として好き、と言って差し支えないと思います。
何度わたしはその気持ちを伝えようとしたことでしょう。折木さんは、その、ああいう方ですから、わたしから告白しないと、関係をはっきりさせられそうにありませんでしたから。
でも、それを躊躇わせる疑念がわたしにはありました。
わたしは折木さんの能力に惚れたのではないか、という疑問がいつもついて回るのです。
はたしてわたしは、伯父さんの件を解決してくれたのが折木さんではなく別の人だったら、折木さんを好きになっていたのでしょうか。
仮に折木さんが、頭の冴えが全く無い人間だったとしても、わたしは折木さんを好きになっていたのでしょうか。
わたしのこの気持ちが、折木さんの頼れる推理能力に裏打ちされていないと、誰が言えるでしょう。
もし、仮に福部さんが数々の謎を解いていたら、わたしは福部さんを好きになっていたのではないでしょうか。
そうだとしたら、わたしはとても不誠実な人間です。
折木さんの人格ではなく、能力を利用したいと思って好きになったと言われても仕方ありません。
能力だけで人を見るなんて、それは「傲慢」でしょう。
もちろん、能力も含めて、それが一つの人間性だということは理解しているつもりです。
ですが、この疑念が一度生じてしまった以上、わたしはこの問題について明確な答えを出さない限り、折木さんとの関係を変えることはできないと思ったのです。
そうして、神山高校を卒業して半年以上がたちました。日々の折々に、わたしは折木さんのことを思い出します。
そうです。
折木さんと会わない日々が続いて、ようやくわかったのです。
わたしは折木さんのことが、やっぱり気になっているのです。
不思議なことが無くても、気になることが無くても、わたしの折木さんへの気持ちは、なにも変わることはありませんでした。
折木さんに会いたい。せめて声だけでも聞きたい。
わたしはそればかり考えるようになりました。
でも、今更になって、間に合うのでしょうか? 半年以上会わなければ、生活も環境も、そして気持ちも大きく変わっているでしょう。案外、折木さんには素敵な彼女ができているかもしれません。わたしのことなど忘れているかもしれません。
折木さんの電話番号は知っていましたが、「何か困ったことがあったらかけてくればいい」と言われています。
何も問題が無いのに、かけるわけにはいきません。あるのは「会いたい」「声を聞きたい」、そういう気持ちだけです。
そこまで考えて、わたしは気付きました。
『なにか』が『起きれば』いいのだと。
そうすれば、わたしが折木さんに連絡を取っても何ら不自然ではありません。
わたしには、あの言葉――わたし、気になります――があるのですから。
むしろ困ったわたしが折木さんを頼るのは自然な流れです。
ですから、わたしが折木さんに解決を依頼したのは『手段』ではなく『目的』そのものだったのです。
表向きは気になる謎を解いてもらうため。
裏に隠れた目的は、久しく聞いていない折木さんの声を聞くことでした。
いくら折木さんでも、わたしが『本当は気になっていなかった』とは思わないでしょう。
目的と手段が転倒するなんて、大学生にもなっておかしなことです。こんなことはこれっきりにしたいものです。
プラットホームに立つわたしの前に、始発が滑り込んできました。
大学ももうすぐ冬休みです。
冬休みは少し早めに神山市に帰るつもりです。
陣出よりも先に、折木さんのおうちに寄って、その時、改めて、わたしの気持ちを伝えようと思います。
折木さんを想うと、まるでそこに折木さんがいるかのような錯覚を起こします。
ほら、そこに立っている乗客は、ちょうど折木さんくらいの背丈で、折木さんのような髪型で、折木さんのように少し気怠そうで――
「折木さん……?」
6.
「どうして折木さんが、ここにいるんですか!?」
千反田が、目を丸くして詰め寄ってくる。
「夜通し運転してきたんだ」
おかげで体がだるい。
「折木さんが免許を取っていたなんて……意外です」
「自分でもそう思うよ」
姉気に感謝せねばなるまい。免許が無ければとうてい始発のこの時間に東京に来ることなど叶わなかった。
それとも姉貴はこの事態まで予見して俺に免許を取らせたのだろうか。……まさかな。そこまでいくと預言者だ。さすがにそれはありえない。
「東京まで運転だなんて疲れたでしょう? やらなくてもいいことはやらないのがモットーだったのでは?」
そう言って千反田は笑った。その笑顔を見て、俺も自分が笑っているのを知った。
ああ、俺が見たかったのはこの顔だ。会いたかったのはこいつだ。
「やらなきゃいけないことだったんだよ。まあ、手短にはいかなかったが」
俺は千反田の電話の理由に気づいたから東京まで来た。要するに俺と同じなんだと気が付いたのだ。
俺は言う。
「俺はずっと千反田に会いたかった。声が聞きたかった。愛していた。そして、これからもそうしていたい」
千反田はうっすら涙を浮かべていたが、それでも笑って頷いてくれた。