ある日の放課後。
奉太郎が部室のドアを開けると、目の前にえるの顔があった。
「うっ……!」
「折木さんっ! お待ちしてましたっ」
物憂げに半分閉じられていた瞼を跳ね上げて反射的に腰を引く奉太郎に、目いっぱい見開いた瞳を輝かせたえるが
ずいっと迫ってくる。
「……ま、まて! まずは座ろう、話はそれから聞こうじゃないか……!」
どうどう、とえるをなだめながら部室に入り、奉太郎は椅子に腰を降ろした。その向かいにえるがちょこんと座る。
「で、一体どうしたん――」
「わたし、昨晩折木さんに聞きたい事ができてずっと我慢してたんですっ」
奉太郎の言葉を途中で遮り、えるがまたしてもテーブル越しに身を乗り出してくる。鮮やかなぶどう色の瞳が
迫ってくるのを奉太郎は背中を仰け反らせて避ける。
「折木さんもやっぱり混沌の欠片を知恵の泉で再構成して言語化してる感じなんですかっ?」
「…………?」
奉太郎はえるが一体何を言っているのか理解できずにいぶかりながらも、部室のドアを開けたときから
現在までを瞬時に脳裏で再生する。そして見当がついたのか嘆息して口を開いた。
「その文庫本……それが関係しているんだな……?」
ちらりとテーブル上の文庫本に視線を移して尋ねる。奉太郎を入口で待ち構えていた時は大事そうに
胸に抱えられていたが、今はテーブルに置かれている。タイトルは「GOSICK」――聞いた事のない本だ。
「はい! そうなんです。先日摩耶花さんにお借りした推理小説なんですが凄く主人公の女の子が可愛いんです!」
ぶどう色の瞳が宝石のように輝きを増し、体を仰け反らしている奉太郎を更に後方へと押しやりつつ、
「それでですねっ、この女の子がですね、あ――ヴィクトリカっていう名前なんですけど、この子が推理する
ときに決まって先ほどの台詞を言うんです。ええと……つまりですね、混沌の欠片というのが……えーと……」
「つまり、事件を紐解く鍵となる断片的な事柄を混沌の欠片とし、知恵の泉――脳内で蓄えられた知識を元に
組み合わせ、結論を導き出し言葉にして説明する……そういいたいんだな?」
言いたい事をなかなか説明できず、もどかしそうなえるを見かねた奉太郎があっさりと代弁してみせた。
「はい! そうなんです。折木さんがいつも考えている時もそんな感じなのかと気になって仕方なかったんです」
「ん……まぁ……そう、かな? すごくアレな表現だが、基本的にそんな感じだろうな」
「そうですかー。やっぱりそうなんですねー」
奉太郎の答えに満足したのか、えるはうんうんと何度もうなづきながら椅子に腰を降ろした。
ようやく迫り来るえるから解放された奉太郎は、椅子の背もたれが食い込みヒリヒリする背中を摩りながら
ほっと息をつく。
「あのー、折木さん……? それでひとつお願いがあるのですが……」
えるがうつむき加減でちらりと奉太郎を窺ってくる。
なぜか言い難そうなえるに得もいえぬ不安を感じながら、
「な、なんだよ…………?」
「ちょっとお耳をこちらに」
えるが綺麗な手をしなやかにちょいちょいと振ってくる。
奉太郎が怪訝な顔でテーブル中央に頭を持っていくと、えるがなにやら耳元でぼそぼそと呟いた。
「……断る!」
聞き終わるや否や、露骨に顔をしかめて声を荒げる奉太郎。
やっぱりダメですよね……とえるは、心の底から残念そうに、この世の終わりでも来たかのように無念そうに、
まるで死に行く老人が心残りを洩らすように、途方も無く落胆してしょんぼりと肩を落した。
――その、あまりの落胆っぷりに心が痛んだのか、奉太郎は奈落の底まで届きそうな深い溜息をつきながら、
「はぁ……分ったよ、1回だけだぞ……」
今にも消え入りそうな弱々しい声を絞り出すと、コホンと咳払いしてからすっと目を閉じた。
息を大きく吸い、ためらいを全て吐き出すかのようにゆっくりと息を吐く。
そして――かっと双眸を見開き、言い放った。
「よかろう千反田、愚かな君にも分るように俺の知恵の泉で混沌の欠片を再構成して言語化してやろうじゃないか、
有難く思いたまえよ、君」
「うわあー、折木さん! いいですねっ。凄く格好いいですよ!」
「うんうん、実にいいね奉太郎。いやーしかし奉太郎がまさかヴィクトリカの物真似をするだなんて驚きだよ。
そんなにあの小説が好きだったのかい?」
「な、里志……お前いつの間に……!?」
嬉しそうに爛々と瞳を光らせたえるの隣には、いつの間に居たのか福部里志が笑い転げていた。
「ふーん、なるほどね。そんな事だろうと思ったけど……それでも実に貴重なものが見れて僕は満足だよ」
必死に事情を説明し、身の潔白を証明した奉太郎だったが、まだ里志はくっくと腹を抱えて笑っている。
笑いすぎだろ、とふて腐れたようにテーブルに肩肘をつき、奉太郎は里志をじろりと睨んだ。
そのとき、えるが唐突になにか謎が解けたかのようなすっきりとした口調で発言した。
「うん、そうです。やっぱりそうです!」
奉太郎と里志は同時にえるに向き直り、目をぱちぱちと瞬かせた。
「先ほどのヴィクトリカちゃんの名台詞を折木さんの口から聞いて、わたし確信したんです。これまで数々の
気になる事を見事に解決する折木さんを見てきましたが、なにか物足りない……そう思ってたんです。それが今
分りました。決め台詞だったんですよ! 名探偵がそれぞれ持つ固有のトレードマークとも言える、決め台詞、
そういうのが折木さんには無いんです。『じっちゃんの名にかけて』だとか『犯人はお前だ!』とか、そんな感じ
のやつです」
「なるほど、いい所に目をつけたね千反田さん」
……何を言ってるんだこいつらは? と呆れたように目を丸くする奉太郎を尻目に、里志は続けて言う。
「あの髭で禿親父のエルキュールポワロでさえ『私の灰色の脳細胞が――』とか名台詞があるしね。
確かに、奉太郎にはそういうのがないね」
「そうなんです! 一応、折木さんにも『前髪を指で弄ぶ』という考える時のクセがありますが、ちょっと
地味すぎですよね、分りにくいですし」
「そうだね、じゃあここは一つ奉太郎のために何か格好いい台詞や決めポーズやらを考えてみるというのはどうだい?」
「はい、賛成です!」
当事者である自分を差し置いて勝手に盛り上がる二人を奉太郎は暫く呆然と見つめていたが、不意に、たった今
地味だと指摘されたばかりの仕草で思索を巡らせ始めた。
一体全体どうなっているんだ? この流れはおかしいぞ……。いつもの日常と懸け離れすぎている。
まるでおかしな漫画の世界に入り込んでしまったかのようじゃないか。
まさか夢か? ちょっと頬をつねってみるか…………痛い!
あらかじめ二人が示し合わせて俺をからかっているという線はどうだ? いや、千反田がそんな悪ふざけに
加担するとは思えない。それにあの表情はいつもの好奇心に満ち溢れすぎている普通の千反田だ。
里志はどうだ? うーむ、面白がって千反田に合わせているだけの気がする……。
よし、ちょっと混沌の欠片を再構成してみ――いや、何をいっているのだ俺は。
「――ってば、奉太郎!」
「んあ……?」
里志に肩を揺さぶられ、確たる結論を得られないままに奉太郎は思索の旅から現実へと引き戻された。
「たった今、僕に神が舞い降りたんだ。聞いてくれるかい?」
同意を求めつつ、しかし返答を待たずに里志は朗々と語りはじめた。
「千反田、これより推理を開始する!」
左腕をくの字に腰に添え、右の人差し指を眉間に当てて、ビシっと背筋を伸ばしたポーズで高らかに
宣言する奉太郎。
「了解です、折木さん!」
えるは歯切れよく返事をして、いきなりスカートをたくし上げると、丸見えとなったパンツに手を掛け
躊躇なくひざの当りまでずり下げた。そして両手をスカートのすそと共に腰に当てて直立不動の体勢をとる。
パンツはひざ、腕は腰という大事な部分をあらわにした破廉恥な姿勢のままピタリと静止する。
数秒間……世界が止まり、
――時が動き出す。
「パージ!」
えるは甲高い声で宣言すると、上半身は微動だにさせずにひざで止まっているパンツから器用に片足を抜いていく。
左足が折り曲げられ、細くしなやかなふくらはぎがパンツからすっと抜かれると――ぱさっ、右の足首にパンツが
垂れ落ちた。
そして次の瞬間、右足が天高く振上げられた。ピンと真直ぐに伸びたつま先からパンツが射出され宙を舞う。
――刹那、奉太郎が動いた。
体を一回転させて膝から滑り込み、ひらひらと舞い落ちるパンツを掴み取る。続けて床に両膝をつけた
姿勢のまま背をそり伸ばし、両手でパンツを大きく広げながら上空にかざす。
やにわに部室の窓から陽光が射した。それは奉太郎をまるでスポットライトのように照らし出し、
誇らしげに掲げた純白のパンツを金色に輝かせた。そして、数瞬の後、奉太郎が叫びを上げた。
「色は純白! 汚れは軽度! 角度……よし! いくぞ!」
奉太郎は一旦言葉を切ると、明瞭たる声音で力ある言葉を口にした。
「装・着!!」
慣れた手つきでパンツのクロッチが鼻に当るように顔面に被る。
そしてわなわなと全身を震わせて、次なる言葉を声高に迸らせた。
「吸・引・開・始!」
言うや否や、コォォォホォォォと鼻息を荒げ深呼吸を始める奉太郎。
呼吸と共にかぐわしい香りが鼻腔から全身へと駆け巡り、法悦に満たされていく。
それは脳髄をも刺激し、こめかみに浮かんだ血管がビクンと脈打つたびに奉太郎を知の高みへと押し上げた。
フオオオォォ……!
くぐもった咆哮が部室に響き渡ったその瞬間――
「匂い、濃厚! 尿度、小! 推理力65%上昇! 即ち! ――推理、完・了・也!」
「謎が解けたんですね! 折木さん!」
「さすが奉太郎だねッ!」
「……はぁはぁ……、尿度が小さかったので……はぁはぁ……危ないところだったがな」
「申し訳ありません折木さん。次はもっと汚しておきますので……」
「と、いう感じなんだけど、どうかな?」
「いや…………どうかと言われても…………」
人差し指をぴんと立て、なぜか得意げな表情で言う里志に、奉太郎は大きな溜息をついてうなだれた。
……ふと、奉太郎はえるに視線を向けた。見るとえるは俯いてぷるぷると小刻みに肩を震わしている。
「おい里志、みろ……お前が卑猥な話をするから千反田が……」
小声で里志に抗議する。
「あのー、千反田さん……? 軽いジョークだから……ね?」
いまさらやり過ぎたと後悔したのか気まずそうに里志が声をかける。
4つの瞳が見守る中、えるはゆっくりと面を上げた。その恐いくらいに整った顔は羞恥で真っ赤に染まり、
目尻には小さな涙が浮かんでいた。
そして、きゅっと堅く結ばれた赤い唇がゆっくりと――開かれ、
「折木さん! わたし、がんばります……!」
『は……?』里志と奉太郎がまぬけな声を出し、目を丸くする。
「それで折木さんが格好良く気になる事を解決できるのなら、わたし……恥かしいですけど頑張ります!」
ですが――と急に声のトーンが小さくなり、両手の人差し指をツンツンと突きあわせながら、
「お、お、お小水の汚れの設定は……その……最後の手段という事で、お願いできますか……?」
呆けてぽかんと口を開けたまま、奉太郎の時間が停止した。
この日を境に折木奉太郎の日常は、少しずつ、ゆっくりと、崩壊していくのだが、それはアニメ
「氷菓」セカンドシーズンで語られることになる。
おわり