「わたし、気になります」  
 またか。  
 今までに何度も聞いた彼女の台詞が、俺の頭の中を駆け巡る。  
 イントネーションを変えると、「わたし、木になります」  
 ギリシャ神話で言い寄ってくる神様から逃れるため、木に変化した少女の逸話があったな。  
確か月桂樹だったか。いっそのこと本当に物言わぬ木になってくれれば、こんな風に煩《わずら》わされ  
ることもないだろうに。  
 身勝手な妄想で現実逃避していると、いっそう大きな声が耳元で聞こえた。    
「折木《おれき》さん。聞いてます?」  
 仕方なく、斜め読みしていた文庫本から顔を上げる。俺の視界いっぱいに、好奇心に満ちた  
大きな瞳を持つ少女――千反田《ちたんだ》えるの顔が飛び込んできた。  
 案の定、顔が近い。首を少し傾《かし》げて覗き込むように俺を見つめてくる。烏の濡れ羽色をした  
長い髪が、窓から差し込む夕陽を浴びて光り輝いている。その光景に俺は思わず息を呑んだ。  
 それと同時に気まずい感情が湧き上がる。ギリシャ神話に登場してもおかしくはない、その  
端整な顔立ち……スマン、言い過ぎた。日本人がギリシャ神話に登場したらさすがにおかしい  
よな。それでも十分、いや十二分に美人の部類に入るであろう清楚なお嬢様が、ここまで顔を  
近くに寄せてくると、俺の心はざわめき、落ち着かなくなってしまうのだ。  
 
 放課後の古典部部室――地学講義室には、俺と千反田の二人っきりだった。同じ部員の里志  
と伊原は委員の仕事があるらしく、挨拶だけ済ませて帰っていった。まあ、文化祭が終わった  
今となってはここでやるべきことなど何もないのだが。  
 それでも俺はここ最近、ほぼ毎日欠かさず古典部に顔を出している。部活の楽しさに目覚め  
た、というわけではない。帰宅しても特にやることがないからだ。身も蓋もない話である。  
 俺はいつも通り窓際の席に着き、古書店で安く購入したペーパーバックを静かに読みふけっ  
ていた。千反田もひとり静かに本を読んでいたはずだったが、それに飽いたのか、気づけば隣  
に立って話しかけてきた。俺は本から目を離さず、お嬢様の他愛ない話に適当に調子を合わせ  
ていた。ここまではいい。  
「そういえば――」  
 思わず口走った俺の不用意な発言が、千反田の好奇心をいたく刺激したらしい。  
 興味を逸らすため、会話の軌道修正を試みるものの時すでに遅し。いつものアレが発症して  
しまった。――――キニナル病が。  
 好奇心旺盛なお嬢様は声高らかに宣言した。  
 
「わたし、気になります」  
 
 そして今現在の状況に至ったわけである。面倒なことになった。  
「俺は別に気にならん」  
 いつものようにやんわり断るが、こいつがここで引き下がるわけもなく――。  
「わたしは気になるんです」  
 俺の意思を尊重してくれない。不公平だ。  
 千反田は椅子に座る俺の上から、覆いかぶさるように詰め寄ってくる。  
 だから顔が近いって。  
 千反田のパーソナルスペースは常人よりも狭いらしく、思わず身を引いてしまうほどに身体  
を寄せてくる。前々から思っていたのだが、男に対して無防備過ぎだ。  
 わかっているのだろうか。俺がその気になれば、そのほんのり色づいた薄い唇を奪ってしま  
えることを。もし実行に移した場合、千反田はどんな反応をするだろう。泣いてしまうだろう  
か、それとも――。  
 いやいや、もちろんそんなことはしない。その後のことを考えると想像するだに恐ろしい。  
省エネ志向のこの俺が、膨大なエネルギーを使う羽目になる行動を取るはずもない。  
 頭の中でそんな不埒《ふらち》なことを考えている間にも、千反田は仔犬のように純粋な目で見つめて  
くる。おい、やめろ。そんな目で俺を見るな。  
 後ろめたさで胸の鼓動が早くなるのが自分でもわかる。  
 よくない兆候だ。  
 いつもならここら辺で彼女の眼力に耐え切れなくなり、視線を外してしまう。そして結局、  
無駄な抵抗をしてエネルギーを浪費するよりも、さっさと問題を解決するほうが手っ取り早い  
と、俺のほうから折れてしまうのだ。折木なだけに。……スマン、今のはナシ。  
 だが今日は違う。断固拒否してやる。  
 思えば少し甘やかせ過ぎたのかもしれない。野良猫に一度餌を与えると癖になって何度でも  
せがむようになってしまう。例えが悪過ぎるか。まあ、いい。きっぱりと断る前例を作りさえ  
すれば、今後は千反田も自重するようになるはず。余計なエネルギーを使うような気がしても  
大局的な目で見れば、総エネルギー消費量は少なくなる計算だ。  
 
「今日はそんな気分じゃない」  
 俺は千反田の目を見据えたまま立ち上がった。見下ろされた状態だと分が悪いからだ。交渉  
ごとは優位な立場でするに限る。千反田も女にしては背が高いほうだが、それでも俺のほうが  
頭半個分ほど勝っている。これで心理的に有利になったはずだ。  
「お体の具合でも悪いんですか?」  
 千反田は心配そうな表情で見つめ返してくる。むぅ、上目遣いをされると破壊力が数段増し  
たような気がする。立ち上がったのは失敗だったか。  
 それでも俺は、千反田の視線に何とか耐え切った。天晴れ、と自分を褒めてやりたい。目を  
逸らしたら負けなのだ。  
「そういうわけでもない」  
 仮病を使う手もあるが、それはフェアじゃない気がする。出会った頃に、作り話で千反田の  
興味を逸らしたこともあったが、あれは妙に後味が悪かった。  
 できるだけ正々堂々と、真っ向からぶつかって勝たないと意味がないのだ。  
 
「なあ千反田。世の中には知っておかなきゃならないこと、知らないほうがいいこと、そして  
知ってても知らなくてもどうでもいいこと、この三つの事象がある。お前が今訊いているのは  
この中のどれだ?」  
「知っておかないといけないことです」  
 千反田は躊躇《ちゅうちょ》なく即答した。こいつ、わかっててトボけてやがる。         
「違うだろ。知ってても知らなくてもどうでもいいことだ。そんなことに付き合わされる俺の  
身にもなってくれ!」  
 少し興奮して語気を荒げてしまった。千反田は一瞬首をすくめた後、愁《うれ》いを帯びた顔になり  
俯《うつむ》いてしまう。きつく言い過ぎただろうか? 後悔の念がチクリと胸を刺す。  
 謝るべきかどうか迷っていると、俯いていた千反田がすっと顔を上げた。俺を見つめる少し  
不安げな瞳に、思い詰めたような眉、何かを言いたげな薄い唇。その表情には見覚えがあった。  
 そう、いつぞや喫茶店で俺に告白しようとした、あの時の顔だ。  
 
 俺は慌てた。が、よく考えてみるとあの時は頼みごとをされただけだった。落ち着きを取り  
戻した俺は、とりあえず千反田が口を開くのを待つことにした。しばらく逡巡していた千反田  
だったが、ようやくその薄い唇から言葉が漏れ出した。  
「わたし、折木さんに謝らなければなりません。わたしの我侭《わがまま》に何度もつき合わせてしまって  
折木さんを困らせていたみたいですね。ごめんなさい」  
 深々と頭を下げる千反田。俺は両手で押し止めて、お辞儀をやめさせた。  
「いや、俺の言い方が悪かった。そんな風に謝らなくていい。別にそこまで嫌だったわけじゃ  
ないんだ。ただ――」  
 俺の弁解を遮《さえぎ》るように激しく首を横に振って、千反田は言葉を続けた。  
「それだけじゃないんです。本当はわたし、謎を解明する折木さんが見たかっただけなのかも  
しれません。推理を披露してくれる時の折木さんは、いつもと違って格好良くて……、とても  
す、素敵ですから……」  
 最後は消え入るような声になり、千反田の顔は見る見る赤くなってゆく。もしかしてこれは  
愛の告白なのだろうか。そう考えた途端に、頭が沸騰しそうな感覚に陥《おちい》る。おそらく俺の顔も  
目の前の千反田同様、赤くなっているに違いない。窓から差し込む夕陽の色で、上手く誤魔化  
せればいいのだが。俺は照れ隠しに冗談めかしたツッコミを入れてみた。  
「いつもと違うってことは、つまり、普段の俺は格好良くないってことか」  
 揚げ足取りのような俺の質問に慌てふためく千反田。本当に『慌てふためく』の言葉通り、  
手はバタバタ、頭はブンブンと、見ていて滑稽《こっけい》なほどの動揺っぷりを披露してくれた。  
「ち、ち、違います。確かに普段の折木さんは、それはもう横着者と言うか、怠け者と言うか  
どうしようもない人かもしれませんが――」  
 違います、と否定しておいて、この言い様はどういうことだ。  
「普段の折木さんも素敵ですよ(ハァト)」的な言葉を期待していたのに。何だか無性に悲しく  
なってきた。  
 俺の顔から落胆の色が見て取れたのか、千反田はまた謝り始めた。  
「わあ、ごめんなさい、ごめんなさい。――それでもそんな折木さんが、いつも頼みを聞いて  
くださるので、わたし、とても嬉しかったんです。それに毎回、思いもよらないような推理を  
披露してくださるので、わたし、とても楽しかったんです。ですから、わたし――」  
 そこまで一気に喋り一呼吸置いた後、千反田は少し寂しげな微笑みを浮かべた。  
「――折木さんの優しさに、甘え過ぎていたんですね」  
 
「今までご迷惑をお掛けしました。本当にごめんなさい。もう無理は言いませんから」  
 千反田は丁寧に一礼した後、そそくさと自分の鞄を置いてある席に戻ろうとした。  
「ちょっと待て」  
 俺は去り行く千反田の手首を掴んで引き止めた。らしくない行動だと自分でも思う。  
 ついさっきまで千反田の頼みを上手く断る算段を考えていたはずなのに、いざそうなると、  
こうして引き止めてしまう。矛盾しているだろう。心の中で自問自答する。  
 謎を解く俺が素敵だと言われたからか? 確かにそう言われて嬉しかったのは事実だ。でも  
そうじゃない。俺が今まで千反田の頼みを断りきれなかったのは、こいつの悲しむ顔を見たく  
なかったからだ。その千反田が今、泣きそうな顔で俺の前から立ち去ろうとしている。  
 放っておけるわけがないだろ!  
 
「なあ、千反田。自分ひとりで勝手に喋って、ひとりで勝手に納得するな」  
 俺は千反田の潤《うる》んだ瞳を見つめながら、ゆっくりと諭《さと》す。  
「確かに俺は、お前が興味本位であれこれ知りたがることにうんざりしていた。正直、面倒だ  
とも思っている。それでも俺は、お前のことを迷惑だなんて思っちゃいない」  
 俺の言いたいことがいまいち伝わらないのか、千反田はきょとんとしている。  
「ゴホン! あー、つまりだな。面倒なことはなるべく勘弁してもらいたいが、どうしてもと  
言うなら考えてもいい。そのことでお前を嫌いになったりなんかしない。だから、甘え過ぎて  
くれても、俺は一向に構わん!」  
 随分おかしなことを言っているな、と自覚はしている。それでもこれが今の俺の嘘偽りない  
本心だった。黙って聞いていた千反田の顔にも、ようやく笑顔が戻った。目元を指先で拭《ぬぐ》って  
俺の顔をじーっと見つめてくる。  
「折木さんって、ツンデレさんですね」  
 お嬢様の意外な発言に、思わず耳を疑う。  
「ツンデレって言葉、知ってるのか?」  
「はい。摩耶花《まやか》さんから教わりました」  
 伊原の入れ知恵か。オタク用語をお嬢様に教えるんじゃない。心の中で悪態をついた。  
「別に俺はツンデレなんかじゃないぞ」  
 ぶっきらぼうに返答すると、千反田はクスッと笑って言った。  
「そういうことにしておきます」  
 
「それじゃあ、行くとするか」  
 千反田が気になると言っていた謎を解明しに行こう。俺の頭の中では何となく見当はついて  
いた。あとは検証するだけだ。自分から動こうとするなんて俺らしくもないが、これは千反田  
を泣かせてしまった罪滅ぼしのつもりだった。  
 俺が部室から出ようとすると、千反田が後ろから声を掛けてくる。  
「どこへ行くんですか?」  
 俺は振り向いて、不思議そうな顔をしている千反田に言ってやった。  
「なんだ。さっき言ってたことは、もう気にならないのか?」  
「ああーっ! 気になります! 気になります!」  
 千反田は慌てて俺の隣に駆け寄ってきた。寄り添うようにピタリと身体をくっつける。  
 コラッ、歩きにくいじゃないか。  
「千反田、くっつき過ぎだ」  
「先ほど折木さんは、甘えても良いと仰《おっしゃ》いました」  
「そういう意味で言ったんじゃない」  
 咎《とが》めるような視線を向けるが、千反田は微笑み返してくるだけだった。  
 まあ、いい。  
 それならこちらにも考えがある。俺は千反田を振り切るように歩《あゆみ》を早めた。  
「あぁん、待ってくださいよぅ」  
 後ろから呼びかける千反田の声に、俺はほくそ笑む。しかしすぐに自分の過《あやま》ちに気づく。  
 これは省エネ主義に反する行動ではないのか、と。  
 いつも通り、のんびり行くか。  
 省エネモードに切り替えた俺は、ゆっくりと歩き始めた。  
 別にこれは千反田を待っているわけではない。そう自分に言い聞かせながら。  
 
 ほどなく千反田も追いついて、黙って後ろをついてくる。俺に気を遣っているのだろうか、  
遠慮気味に距離を置いている。流石《さすが》、お嬢様は物分かりがよろしい。いつもこれくらいの距離  
感を保ってくれればいいのだが。  
 そう思った矢先に、千反田は俺のすぐ隣へと身体を寄せてきた。前言撤回。聞きわけのない  
困ったお嬢様だ。文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、上機嫌な千反田の笑顔に、その  
気も失せた。  
 そんな俺の心の機微を知ってか知らずか、千反田は嬉しそうに話しかけてきた。  
「やっぱり折木さんは、優しい方ですね」  
 何か勘違いしてやいないか? そんな風に言われる覚えはまったくないのだが。  
「そんなことはない」  
「優しいです」  
「優しくない」  
 押し問答が延々と続く。このままでは埒《らち》が明かない。  
「だいたい俺のことを優しいって言う奇特な奴は、お前ぐらいなもんだ」  
「じゃあ、わたしにだけ優しいってことですね?」  
「そういうことにしといてやる」  
 先ほどの台詞を、そっくりそのまま返してやった。その答えを聞いて、千反田が笑う。つら  
れて俺も顔がほころぶ。ひとしきり笑った後、千反田は意味ありげな視線を向けてきた。  
「どうして折木さんはわたしに優しくしてくれるんですか?」  
「それは――」  
 一瞬、返答に詰まる。俺はその答えに何となくだが気づいていた。  
 しかし――。  
「それは言えない」  
 それは、まだ、言えない。その言葉を口にするには、もう少し時間が必要だ。  
 いつかその時が来れば必ず――。  
 俺は千反田の笑顔を見つめながら、心の中でそう誓った。  
 
                                      おしまい  
 

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