恋は盲目、とはよく言ったものだ。
いまのいままで恋愛というものに縁がなかった俺は、その言葉を鼻で笑っていた。頭のどこ
かで小馬鹿にしていた。恋で周りが見えなくなるのは自己管理ができていない証拠だ。恋愛に
しか興味のない恋愛脳が陥る現象なのだと。だがしかし――。
井の中の蛙、大海を知らず、とは、まさに俺のことだった。千反田えると恋仲になってから
この俺、折木奉太郎の頭の中は彼女のことしか考えられなくなってしまった。
千反田の笑顔が――、無邪気な仕草が――、鈴の音のような声が――、抱きしめた時の柔ら
かな感触が――、ほのかに香る甘い匂いが――、熱く柔らかなくちびるが――、そのすべてが
狂おしいほどに愛おしく頭の中を駆け巡る。起きている時は当然のように千反田を想い、寝て
いる時も夢の中に現れ、俺を翻弄する。まさに寝ても覚めても、いついかなる時も、俺の脳内
は金太郎飴の如く、どこをとっても千反田だらけだった。
これが恋煩いというものなのだろうか。思えば恋愛に全く免疫がなかった俺が、告白とキス
とプロポーズを同時にこなしたのだ。大人の階段を全速力で数段飛ばしで駆け上がったような
ものだ。恋愛初心者の俺が夢中になってしまうのも仕方がないことではなかろうか。
学校の昼休みの時間、俺を冷やかしにきた里志に不本意ながら相談してみた。俺のこの精神
状態は異常なのだろうか、と。もちろん教室を離れて周りに誰もいない廊下で、だ。
里志いわく、
「かなり重症だね。でも少し安心したよ。僕はホータローが色恋沙汰に興味を示さない仙人の
ような精神の持ち主なんじゃないかと危惧してたからね。いまのホータローは紛れもなく健全
な男子高校生だ。うん、問題ないよ。恋愛状態に陥ると人は皆そうなるもんさ。オキシトシン
ドーパミンといった脳内ホルモンが大量に分泌されて中毒症状を引き起こしているだけだから。
まあ、時間が経てばそのうち落ち着いてくるはずさ」
そうか、問題ないのか。それならひと安心――って、問題が解決してないじゃないか。何も
手につかないこの状態を、いますぐ何とかする方法はないのだろうか。里志に問いただす。
「うーん、千反田さんに会える時間が部活の時だけだから余計に想いが募るんだろうね。今日
はもう時間がないから無理だけど、昼休みのこの時間に会いに行くってのはどうだい?」
俺はため息をついてゆっくりと首を横に振った。あまり目立つ行動は取りたくない。
「賢明な判断だ。千反田さんには隠れファンが多いからね。下手すりゃ男子生徒の大半を敵に
回しかねない。いちゃつく場合は周りに人がいないことを確認してからにしたほうがいいよ」
里志はにやりと口元を歪めた。やれやれ。当分あの日のことをネタにからかわれるんだろう
な。俺はもう一度深いため息をついた。
「まあホータローと千反田さんの仲の良さはわりと知られているから、いまさらって気はする
けどね。そのことでホータローをこころよく思っていない輩がいるのは事実だよ」
そうなのか。そういえば思い当たるふしがある。何故か俺を敵対視するやつが一年生の時の
クラスメートにいたな。名前は思い出せないが。彼が俺に対して敵意を抱いていたのは千反田
絡みのせいなのだろうか。その真偽のほどは定かではないが、今後は気をつけることにしよう。
予鈴が鳴って教室に戻ろうとする里志の背中越しに、ふと思ったことを訊いてみた。
「なあ、お前もこんな気持ちになったことがあるのか?」
立ち止まった里志は肩越しに振り向いて苦笑を浮かべた。
「中学生の時に味わったよ。そしてそれはいまでも継続中さ」
放課後の古典部部室。そこはここ最近の俺にとって心のオアシスとも呼べる場所。誰の目も
気にしなくていい、校内で千反田と一緒にいられる唯一の場所だ。里志と伊原というおまけも
ついてくるのが玉に瑕だが、ここ数日、あいつらは俺たちに気を遣っているのか、部室に顔を
出さずにいてくれている。ありがたいことだ。篤き友情に乾杯。今日もまた俺は愛しき千反田
に会うため、(ルンルン気分で)足早に部室へと向かった。
地学講義室のドアを開けると千反田はすでに来ていた。まあ、部室の鍵が職員室になかった
時点で、来ているのはわかっていたのだが。千反田は備え付けのストーブのそばで佇《たたず》んだまま
俺を見て笑みを浮かべた。
「折木さん、こんにちは」
おかしい。俺は違和感を覚えた。
いつもなら主人の帰りを待っていた飼い犬の如く、嬉しそうに駆け寄り抱きついてきたはず
なのに、今日に限ってそれがない。どうしたことか。もしかすると浮かれ気分なのは俺だけで
千反田のほうはもう醒めてしまったのだろうか。それとも知らぬ間に幻滅させるようなことを
俺がしでかしてしまったのだろうか。言いようのない不安に駆られる。
ひとまず鞄とトレンチコートを机の上に置き、千反田の傍らに歩み寄った。
「今日はハグは無しなのか?」
ストレートに訊いてみた。情けないことこの上ないが、気になるのだから仕方ない。わたし
気になります、と千反田的思考をしてみる。
「それは……、その……」
千反田は頬を染めて目を伏せた後、胸の前で両手の人差し指をつんつんと突き合わせ、上目
遣いで俺を見る。
「午後の体育の授業でいっぱい汗をかいたので、汗臭いのではないかと……」
そう言うと千反田は恥じらいの表情を浮かべて俯いた。
安堵の息を吐く。それと同時に一旦しぼんだ俺の想いが一気にふくらみ破裂した。こいつと
出会ってからつい最近まで、俺はできるだけその言葉を使わぬよう意識してきたのだが、もう
我慢ならん――。
可愛いなあ、こんちくしょう! もう一度言おう。(俺の)千反田は、とてつもなく可愛い!
俺は千反田の身体を力いっぱい抱きしめて、チタンダ成分を思いっきり吸い込んだ。確かに
こいつの言うとおり、いつもより濃い、甘い匂いがする。どうして異性の、いや、好きな人の
匂いというのは、こんなにもいい香りがするのだろう。これは俺の身体が千反田を求めている
証拠なのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は(くんかくんかと)千反田の匂いを満喫した。
「やっ、だ、駄目ですよ、折木さん……」
「気にするな。俺はお前の匂いが好きなんだから」
「そんなこと言われても……、わたし、気になります」
いつもならうんざりするその聞き飽きた台詞が、いまは素晴らしく刺激的な言葉に聞こえる。
恥らう千反田の言動に俺は興奮を覚えた。
良いではないか、良いではないか、と時代劇風なノリで迫ると、千反田は嬌声とも悲鳴とも
つかないような叫び声を上げた。眉をしかめているので嫌がっているようにも見えるが、口元
は笑っているので良しとしよう。俺は千反田の身体を――、その感触と香りを、思う存分堪能
した。
そんなお楽しみの最中に突如、部室のドアが開くのだった。
「予想通り、やっぱり乳繰り合ってたわ。この二人」
ドアの前で腰に手を当て仁王立ちする伊原。明らかに不機嫌そうな顔をしている。その後ろ
には楽しそうな表情の里志がのん気に手を振っている。仕方なく俺は千反田から離れて伊原に
応対した。
「何しにきたんだ? 二人して」
「何って、部活に来ちゃいけないの? わたしたちも歴《れっき》とした古典部の部員なんだけど」
ごもっとも。千反田との蜜月の日々はここで終わりを告げるのか。軽くため息をついた。
「いちゃいちゃしちゃって、いったい部活動をなんだと思っているのかなぁ、エロ折木は」
伊原が辛辣な意見を放つ。反論の余地もない。それならば――。
「しょうがないだろ。千反田が可愛すぎるのがいけないんだ」
責任転嫁をしてみた。すまん、千反田。悪気はないんだ。
「えぇっ、わたしのせいなんですか? ご、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げる千反田。おいおい、それだと自分のことを可愛いと認めてしまっている
ようなもんだぞ。――まあ、それもまた良し。可愛いなぁ、こいつ。思わず口元が緩む。
「駄目だ、こいつら……。早くなんとかしないと……。ふくちゃんも何か言ってやってよ」
「摩耶花も可愛いよ」
「ちょっ、ちょっとぉ、そういうのは二人っきりの時に言ってよ」
真っ赤になって慌てる伊原。確かに可愛いかもしれん。だが千反田のほうが数倍可愛いがな。
里志が俺に向かって親指を立ててみせる。うむ、いい仕事だ。俺も軽く親指を立てた。
伊原がこちらに向き直ってまくしたてた。
「兎に角、折木ばっかりちーちゃんを独り占めにしないでよね! わたしだってちーちゃんと
いままでできなかった恋バナとか、いろんな話をしたいんだから!」
お前のそれも部活と全然関係ないじゃないか。やれやれ、と俺は額に手を当て頭を振った。
伊原もわかってないやつだ。千反田が恋人兼婚約者であるこの俺と、友人のどちらを取るのか
火を見るより明らかだろうに。さあ、言ってやれ。千反田!
「わたしも摩耶花さんにいろいろと相談したいことがあります。それに今日の折木さんは少し
怖いですし……」
そう言うと千反田は伊原の元へ駆け寄った。あっさりと振られてしまった。呆然とする俺の
肩に、里志が何も言わず優しく手を添える。
「なあ、里志。俺は何か間違っていたのか?」
「ああ、いろいろとね。それよりホータロー、あぶれた者同士で恋バナでもするかい?」
却下と言いたいところだが、よく考えると昼休みにもしていたな。女の話は長いだろうから
暇潰しと洒落込むか。里志に聞いておきたいこともある。女子に聞かれたらまずい話だ。それ
ならば行き先はあそこしかない。俺たちは部室をあとにして、三階男子トイレへと向かった。
「邪魔しちゃ悪いとは思ったんだけど、摩耶花がどうしても行きたいっていうからさ。ほら、
来週から部活動禁止だからね」
道中、里志が悪びれもせずに言う。
俺たちの通う神山高校は、中間と期末の定期試験の一週間前から試験が終わるまで、部活動
禁止命令が出される。以前なら別にどうということはなかったが、いまの俺にとっては、死活
問題だった。
「愛しの千反田さんに会えなくなるけど、ホータローはどうするんだい?」
一応、案はある。試験期間中は図書室で千反田と一緒に勉強するというものだ。人目がある
ので、いちゃつくことはできないが、そこは問題ではない。あんな醜態を晒しておいてどの口
が言うかと思われるかもしれないが、俺は本気で勉強して試験に挑む所存だ。学力を上げて、
できれば千反田と同じ大学に行きたい。千反田にふさわしい男になりたい。そのためにはいま
千反田への想いを我慢してでも頑張るしかない。その旨を里志に話した。
「あの怠惰の化身ともいうべきホータローが、そんな決意をするなんて……。世界の終末は近
いかもね」
さいで。
「でもちょっと羨ましくもあるよ。自分の信念を曲げてまで愛に生きるなんて、なかなかでき
ることじゃない。若いって素晴らしいね」
誕生日で言えば俺のほうが年上なんだがな。しかし、そんな大袈裟に取られると恥ずかしい
ものがある。俺は咳払いをして別の話題を振ってみた。
「なぁ、里志。お前と伊原がつきあい出して半年以上経ったが――」
「八ヶ月ってところかな」
里志から細かい訂正が入る。そこは正直どうでもいい。
「その……、どこまで進んだんだ?」
いくら友人と言えども、踏み込んでいいような話題ではなかったかもしれない。だがそれは
下衆な好奇心からではなく、今後の千反田との交際の参考にしておきたかったからだ。
里志は苦笑して首を横に振った。
「猥談は嫌いじゃないけど、さすがにそれは言えないよ。摩耶花から箝口令が出ているからね。
ばれたらただじゃすまない」
その反応は、おそらく最後までしたということなんだろうな。うーむ、小さいはずの里志が
なんだか大きく見えてきた。いつのまにか大人になりやがって。
「まあ、統計だといまどきの高校生カップルは、つきあい始めて一週間後にキス、一ヶ月後に
Hをするのが普通らしいよ。ちなみに告白したその日にキスと結婚の約束をした高校生なんて
ホータローぐらいなもんだろうね。ギネスブックに申請してみたらどうだい?」
ほっとけ。俺が何も言わずにいると、里志は芝居じみた言動を取り始めた。
「あぁ、あの無垢で純情可憐な千反田さんが、煩悩まみれのホータローにあんなことやこんな
ことをされると思うと――」
「おい、人聞きの悪いことを言うな! そういうお前だって、あのちっこい伊原にあんなこと
やこんなことを――」
そう言いかけて、頭の中にやばい映像が浮かんだ。見た目は小学生な伊原のあられもない姿
と破廉恥な行為、そして――。
「ストーップ! 止めよう、こんな話。お互いが傷つくだけで何の意味もないよ」
お前が言い出したことだろう。まぁ、きっかけは俺の発言からかもしれないが。でも止める
ことには賛成だ。俺と里志は互いに目配せをして頷いた。
「和解のしるしとして、これをホータローに授けよう」
里志がいつも常備している巾着袋から、何かを取り出した。カラフルな包装で薄い正方形の
ブツ。一見、飴かガムの類《たぐい》のお菓子に思えたそれは、よく見るとコンドームだった。
「お前、学校になんてもの持ってきてんだ」
「まあまあ、備えあれば憂いなしって言うじゃないか。名家のお嬢様を孕ませるわけにもいか
ないだろう。いらないのなら別にいいけどね」
そう言って里志が巾着袋にしまおうとするそれを、俺は横から素早くかっさらった。
「友情の証として、ありがたく貰っておこう」
感謝の気持ちと共にポケットへしまい込むと、里志がくくっと喉を鳴らして笑った。
「オキシトシンは抱きしめホルモンとも言われていて、抱擁されたり愛撫されたりすると分泌
されるんだ。幸福感を与えて男女の絆を深める効果がある。そして恋は盲目状態を引き起こす
のも、このオキシトシンのせいなんだよ」
何故か男子トイレで脳内ホルモンの講釈を聞かされていた。正直どうでもいい話だが、避妊
具を貰った手前、里志の顔を立てておいた。薀蓄好きには知識を披露する機会を与えてやれば
満足するものなのだ。里志も例外ではない。そして里志の講釈はまだまだ続く――。
「ドーパミンは知ってのとおり、やる気を促進させる効果がある。ホータローみたいなやる気
のない人は普段のドーパミン量が少ないらしいよ。だからいまのホータローはある意味健全だ
とも言えるね」
失礼なことを言われた気がする。まあ、いい。里志には避妊具の借りがあるからな――って
コンドームひとつでどれだけありがたがってるんだ、俺は。
結局、トイレで過ごした時間はそんなに長くはなかった。寒さに耐え切れなくなり俺たちは
部室へと戻る。千反田と伊原は教室の片隅で恋愛談義に花を咲かせていた。里志が二人の話に
加わろうとするものの、伊原の「男子は駄目!」の一喝に、すごすごと引き下がる。仕方なく
俺たちは、女子の雑談が終わるまで静かに本を読んで過ごすのだった。
学校からの帰り道。俺と千反田は今日も途中まで一緒に帰っていた。いつものように千反田
は俺の横で自転車を押している。グリップを握る赤いミトンの手袋が可愛らしい。もちろん、
千反田の横顔も可愛らしい。千反田のすべてが可愛らしい。
――いますぐ抱きしめたい。暴走しそうになる感情をなんとか押し止める。そういえば今日
は変態行為が度を過ぎて怖がらせてしまったな。自重しよう。周りに人もいることだし。
視線が気になったのだろう、千反田は小首をかしげて俺を窺い見る。咳払いして話を振った。
「伊原と何を話してたんだ?」
「ないしょです」と、千反田は嬉しそうに微笑んだ。このぅ、気になるじゃないか。
「ワタシ、キニナリマス」
千反田の物まねをしてみた。我ながら似てないな。千反田が口に手を当てくすくす笑う。
「もう、折木さんったら。意外とお茶目なんですね」
ちと恥ずかしいが、笑顔が見れたので良しとしよう。千反田が言葉を続ける。
「男女間の恋の駆け引き――みたいなことを教わりました。わたしに上手くできるかどうかは
わかりませんが」
内緒と言ったわりに、千反田はあっさりと白状した。本当に駆け引きに向いていない素直な
性格だ。そこがまた千反田の魅力でもあるのだが。しかし伊原の忠告か。余計なことを吹き込
まれてなければいいのだが。里志のやつは伊原の尻に敷かれっぱなしだからな。俺もそうなら
ぬよう気をつけよう。すでに手遅れな気がしないでもないが……。
「それはそうと、来週からのことなんだが――」
俺は先ほど里志に話した内容と同じことを、千反田にも打ち明けた。
「千反田は理系で学年トップクラス、俺は文系で平均点そこそこ。お前にとって何のメリット
もないかもしれん。でも俺はお前がそばにいてくれさえすれば、勉強も頑張れる気がするんだ。
どうだろう? 良ければ一緒に勉強してくれないか?」
「もちろん、いいですよ」
千反田は俺の提案に快諾してくれた。嬉しそうに微笑んで言う。
「わたしのために折木さんが頑張ってくださるのですから、是非お手伝いさせてください」
その返答に対して俺が首を横に振ると、千反田は不思議そうな表情を浮かべる。
「悪いがお前のためじゃあない。俺がお前のそばにずっといたいから……、自分のためにして
いるだけだ」
千反田は頬を染め、俺を見つめたまま黙り込んだ。そして自転車を押しつつ、俺との距離を
縮め、寄り添うように身体をぴたりとくっつけてきた。
俺は慌てた。まばらだが周りには帰宅中の学生もいるからだ。
「おい、千反田。人目があるんだぞ」
「折木さんがいけないんですよ。わたしを喜ばせるようなことを言うから……」
見事に責任転嫁されてしまった。部室での仕返しか。そう来るのなら――。
「悪かった。お前を喜ばせるようなことは、もう二度と言わない」
「ああっ! そんないじわる言わないでください!」
必死になって懇願する千反田に、つい顔がほころんだ。千反田もつられて笑い出す。ひとし
きり笑った後、千反田がある提案を申し出た。
「早速明日から勉強会を始めませんか? 善は急げと言いますし。わたしが折木さんのお家に
伺いますから」
明日は第二土曜日。学校は休みだ。俺に異論などあるはずもない。一も二もなく承諾した。
土曜当日。時計の針は午前十時前を指していた。千反田が来る約束の時間まであと少しなの
だが、厄介な問題があった。姉貴が家にいるのだ。忌々しい姉貴がいま居間にいます。などと
くだらない駄洒落を思いつく。大学三年のこの時期は就職活動で忙しいんじゃないかと聞いて
みれば、なんのことはない。去年休学して世界を放浪していたので、まだ二年生なのだそうだ。
なんともお気楽な大学生である。
「今日は出かけないのか?」
居間のコタツでテレビを見ていた姉貴に尋ねてみると、
「なに? 家に誰か来るの?」と、逆に質問されてしまった。
「どうしてそう思ったんだ?」と、さらに質問を返すと、
「だってその質問プラス、休みの日にあんたがこんなに早く起きてて寝癖まで直してるから」
ごもっとも。論理的な答えだ。やはり姉貴の目は誤魔化せない。
「古典部の連中と期末試験の勉強会をやるんだよ」
嘘は言っていない。学生は大変ね、と姉貴は自分のことを棚に上げた発言をする。
「じゃあ、そろそろ出かける支度をしようかな」
姉貴は大きく伸びをして立ち上がると、俺を見てにやりと笑った。
「奉太郎もお年頃なのだね」
ぎくり。
「なんのことだ?」と、できるだけ平静を装って返事をした。
「部長の千反田さん、だったかな。あの豪農千反田家の娘さん。下の名前は確か、えるだった
かしら。珍しい名前だから覚えてるわ」
俺の姉は千里眼の持ち主らしい。何故そんなことを知っているのか訊いてみる。
「春先に電話で応対したから。可愛らしい声をしていて、すごく礼儀正しい子だったわ。部長
の件と名前は『氷菓』の奥付に書いてあったしね。あの有名な千反田家だってのは可愛い後輩
からの情報よ」
実の姉ながら末恐ろしい。それでも俺は可能な限り白《しら》を切った。
「単なる勉強会だ。邪推すんなよ」
「ほほーう。いままで勉強会なんてしたことなかったのに、何故いまさら? あんたの成績は
赤点取るほどでもないのに省エネ志向に反するんじゃないの? 面倒臭がりのあんたがこんな
時間から勉強会? 笑わせるわね。どうせ女絡みでしょう。どうなの? 白状なさい!」
そう言って姉貴は俺の頭にヘッドロックをかけてきた。痛たたた。じわじわと頭を締め付け
られる。俺はたまらず降参した。
「まいった、まいった! 姉貴の言うとおり千反田が家に来るんだ。でも勉強をするのは本当
だから、できれば二人きりにしておいてほしい」
俺の答えに満足したのか、あっさり解放してくれた。
「まったく。最初から素直にそう言っておけば痛い目を見ずに済んだのに」
姉貴がぶつくさと文句を言うが、文句を言いたいのはこっちのほうだ。もちろん口には出さ
ないが。
「まあ、頑張んなさい。いろいろとね」
意味深な言葉を吐いて俺の頭をぽんと叩く。「変な言い方すんな」と睨んではみたものの、
姉貴は含み笑いを浮かべながら何も言わずに二階へと上がっていった。
玄関のチャイムが鳴ったのは、それから数分後のことだった。
「おはようございます。折木さん」
玄関のドアを開けると、笑顔の千反田がそこにいた。いつも学校に着て来ているコートとは
違う真っ白で上等そうなコート。それに合わせたのだろう、白いニット帽を被っている。外は
雪がちらついているのも相まって、その姿はまさに雪の妖精と呼ぶにふさわしい風体だった。
……うん、言いすぎたな。それでも可愛いことには違いない。俺は千反田を玄関の中へと招き
入れた。
「外は寒かったろう。なんか悪いな。俺が勉強を見てもらう立場なのに」
「別にそんな。家庭教師だって生徒の家に伺うじゃあないですか」
「それは月謝を貰っているからだろ」
「えっ、もしかしてわたしもお金が貰えるんですか?」
千反田が期待を込めた目で見つめてくる。なんだろう。お嬢様は天然ボケでないといけない
というおかしなルールが、この世界にはあるのだろうか。
「悪いがそんな金はない。身体で払ってもいいなら払ってやるがな」
そう口走ってから後悔した。まだそんな関係にもなっていないのに、このジョークはないだ
ろう。しかし、
「じゃあ、身体で払ってください」
千反田が提案をあっさり受け入れたことに驚いた。本気にしてもいいのか? そのわりには
千反田に照れた様子もない。
「冷え切ったわたしの身体を温めてくれませんか?」
そう言って千反田は提げていたバッグを一旦床に置き、両手を広げて微笑んだ。
そんなことだろうと思ったよ。でもこれはこれで可愛らしいおねだりだ。俺は望みどおり、
千反田の身体をぎゅっと抱きしめた。ぴたりと頬をくっつけると、ひんやりと冷たくすべすべ
した肌の感触が伝わってくる。
「うふふ、あったかいです」
耳元で囁く千反田の声がこそばゆい。しばらくすると千反田の頬にも温かみが戻ってきた。
もう充分だろうと一旦顔を離すと、千反田は逆側の頬を向けてきた。なるほど。右の頬を温め
られたら左の頬も差し出せ、ということか。それならば、と催促どおり左の頬にも肌を重ねて
温めてやった。これでどうだと千反田の顔を窺い見ると、まだ物足りなそうな表情を浮かべる。
「くちびるがまだ寒いです……」
そう囁いて頬を染め、俺の目をじっと見つめてくる。
どこまで可愛いやつなんだ、お前は。我慢しきれなくなった俺は、千反田の薄いくちびるに
そっとくちづけた。この時、この瞬間、この世界は確かに俺たち二人だけのものだった。
階段を下りてくる姉貴の足音が聞こえてくるまでは――。
頭の中に警報が鳴り響く。
俺は素早く千反田を突き放した。俺の行動にとまどう千反田だったが、身振り手振りで状況
を把握してくれたようだ。玄関口で大胆な行為をしていたことに気がついたのだろう。頬を赤
らめ、そそくさとブーツを脱ぎ始める。そこに完全防寒装備に着替えた姉貴があらわれた。
「なーに? チャイムが鳴ってからずいぶん経つのに、まだこんなところにいたの?」
「いや、まあ、積もる話があってだな……」
苦しい言い訳だ。そこへ脱いだブーツを揃えていた千反田がすくっと立ち上がった。
千反田と姉貴が対峙する。二人は初対面のはずだ。こういう場合、両者を知っているこの俺
が、互いの紹介をするべきなのだろうか。そう思った矢先に千反田が口を開いた。
「初めまして。千反田えると申します。あの、折木さんのお姉さんですよね。その節はどうも
ありがとうございました」
千反田は深々と頭を下げた。その節とは何のことだ? 姉貴に目をやるが、さあ、と両手を
広げて頭《かぶり》を振っている。千反田がそれに気づき、慌てて説明を付け加えた。
「あの、春先に電話でここの住所を教えていただいたことです」
「あら、それはご丁寧にどうも。そんなの気にしなくてもいいのに。――改めまして、奉太郎
の姉の供恵です。よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
千反田は礼儀正しくお辞儀をする。姉貴はそれを見て微笑んだ。俺にはわかる。どちらかと
いうと姉貴はざっくばらんな性格だが、合気道を嗜《たしな》んでいるので礼節も重んじている人間なの
だ。この顔からすると、どうやら千反田のことを気に入ったらしい。
「ところでどう? うちの弟、役に立ってる?」
姉貴が俺の頭にぽんと手を置き、千反田に質問した。
「はいっ、立ちまくりです!」
千反田は胸の前で両拳を握り締め、意気込みながら返答する。その言い方だとなんだか俺が
勃起しっぱなしのように聞こえるんだが。
「へぇー、起ちまくりかぁ。奉太郎も若いわね」
うわっ、姉貴と同じ発想をしてしまった。こんな姉弟はいやだ。自己嫌悪に陥る。千反田は
意味がわかっていないのだろう。姉貴の顔を見つめながら、きょとんとしていた。
「あっ!」
突然、声を上げる千反田。感づいたのかと思ったが、そうではないようだ。姉貴に詰め寄り
顔をじっと見つめている。その瞳はいつものように好奇心で輝いていた。姉貴は眼前に迫って
くる千反田の勢いに押されて身体を仰け反らせている。あの姉貴をたじろがせるなんて、そう
そうできるものではない。流石だ、千反田先生。いえ、師匠と呼ばせてください。――などと
馬鹿なことを考えていると、
「思い出しました!」
ぽんと手を打って千反田が叫ぶ。
「去年の文化祭でお見かけしたんです。その時は顔立ちに見覚えがあるはずなのに会った記憶
がなくて不思議に思っていたのですが、ようやくいまわかりました。わたし、折木さんの面影
をお姉さんに見ていたんですね」
どうやら長年の疑問が解決したらしい。千反田は嬉しそうに飛び跳ねてはしゃいでいる。
姉貴が俺にそっと耳打ちした。
「なんだか面白い子ね」
「ああ、いつもこんな感じだ」
俺の答えに姉貴は腹を抱えて笑い出した。なんなんだ、いきなり。千反田も驚いている。
「あははは、いいねぇ、千反田さん。断然気に入っちゃった。えるちゃんって呼んでいい?」
「あっ、はい。どうぞお好きなように」
「あたしのことは供恵って呼んでいいから」
「はいっ、供恵さん。これからもどうぞよろしくお願いします」
そう言って頭を下げようとする千反田を姉貴は押し止め、さっと手を差し出した。千反田も
それに倣っておずおずと手を伸ばす。がっちりと握手を交わした二人は微笑み合うのだった。
「奉太郎のこと、よろしくね。――えるちゃん」
初顔合わせも無事に終わり、姉貴は車でどこかへ出て行った。ようやく邪魔者もいなくなり
ひとつ屋根の下で千反田と二人っきり。これで心置きなくいちゃいちゃできる――、否、勉強
ができる。
俺たちは居間のコタツで試験勉強を始めた。俺の部屋という選択肢もあったのだが、ベッド
がある部屋というのも千反田に警戒心を持たせてしまうだろう。――というのは建前で、本当
は俺のほうが意識してしまって勉強にならないからだ。きのう千反田に大見得を切った手前、
真面目に勉強するところを見せておかないと格好がつかない。
暗記科目は後回しにして、まずは数学から取りかかった。公式さえ覚えておけば割とどうに
でもなるのだが、それだとその場しのぎにしかならない。なぜそうなるのか仕組みをちゃんと
理解しておかなければ、己の知識になったとは言えない。期末試験も大事だが、その先にある
受験勉強のことを考えて、いまここでしっかり頭に叩き込んでおくべきだろう。そうは言って
も、いままで省エネ主義を言い訳にして、楽をしてきた俺には理解し難いものがある。
こんな時は千反田先生に聞いてみよう。
「千反田、ここのところを教えてくれ」
コタツをはさんで対面に座っている千反田に声をかけた。
「はい、どこでしょうか」と笑顔で応じる千反田。反対側からだと説明しづらいという理由で
俺の左隣に座り込む。たいして大きくないコタツなので、同じ面に二人が座るとかなり窮屈だ。
千反田の胸が俺の左腕に当たっている。ベージュ色のニットセーターがゆるやかなカーブを
描いて胸のラインを強調している。正直、たまりません! いや、たまっている何かが出そう
です!
千反田がさらに寄ってきて、たわわな胸がぐりぐりと押し付けられる。わざとか? わざと
なのか? いや千反田に限ってそれはないだろう。天然なのだ。天然で男を誘惑する女なのだ。
まったくもってけしからん。これはあとでおしおきだな。うん。
「折木さん、聞いてます?」
千反田が俺の顔を覗き込む。はい、聞いてませんでした。おっぱいに夢中でした。と心中で
返事をした。さすがにこれはよろしくない。真面目にいこう、真面目に。
「すまんが、もう一度説明してくれ」
千反田の解説を真面目に聞く。以前、パーツではなくシステムを理解したいんです、と豪語
しただけのことはある。千反田は驚くほど理路整然と説明してくれた。
なるほど、わかりやすい。おかげで教科書に載っている応用問題もすらすらと解けた。
「やっぱり折木さんはやればできるんですよ。だってあんなに頭が切れるんですから」
千反田が我がことのように喜ぶ。その無邪気さに俺はつい苦笑した。
だが、やればできる子みたいな言い方は正直やめてほしかった。それは、やればできるのに
やらなかったと己の怠惰を責められているように聞こえるからだ。まあ、千反田が喜んでいる
ので指摘はすまい。
俺は千反田のアドバイスを受けながら、次々と問題を解いていった。
ふと気づくと千反田が俺の顔をじっと見つめて微笑んでいる。どうしたのかと訊いてみると
「折木さんは考えることに夢中になると、前髪をいじる癖がありますよね」
そう言って俺の頭を指差した。
言われてみて初めて気がついた。確かに俺の指は前髪をつまんでいる。
「そうやって考えている時の折木さんは素敵です……」
千反田が頬を染めて言う。おい、やめろ。恥ずかしいだろ。
「そうか。だったらずっとこうして前髪をいじっていよう」
照れ隠しに冗談っぽく言ってみた。
「もう。それじゃあ台無しになっちゃいますよ」
千反田はくすくすと笑いながら俺の髪に手を伸ばす。俺のくせ毛に指を絡ませて、楽しそう
に弄《もてあそ》び始めた。
「くせ毛っていいですよね。憧れちゃいます」
「お前、くせ毛の大変さをわかってないな。朝起きたら頭が爆発しているんだぞ」
「うふっ、じゃあ今度見せてくださいね」
一瞬、どきっとした。わかってて言ってるのだろうか?
「その発言は、俺と一夜を共にしたいって意味か?」
そう指摘すると、千反田は赤面しながら慌てて反論した。
「寝癖を直さずに学校に来てくださいって意味です」
無茶言いやがる。思わず笑ってしまった。俺も千反田の髪に手を伸ばす。
「俺から見るとお前の直毛のほうが羨ましいけどな」
千反田の長い黒髪を手で梳くと、さらさらと音を立てて指の隙間からこぼれていく。まるで
絹《シルク》のような手触りだ。俺たちは互いの髪を触りながら無言で見つめ合った。
千反田の細い指が俺の髪を優しく撫でる。くすぐったいが気持ちいい。負けじと俺も千反田
の髪を撫でる。俺の指が千反田の耳に触れると、びくんと身体を震わせて小さく吐息をついた。
千反田の頬が紅潮し、潤んだ瞳が俺を誘《いざな》う。薄いくちびるが何かを言いたげに少し開いた。
もう我慢できん! 俺は千反田を強引に抱き寄せて、荒々しくくちびるを奪った。いままで
躊躇していたが、初めて舌を入れてみる。目を見開き驚いた様子の千反田だったが、ゆっくり
と瞼を閉じて、大胆にも俺の首に腕を回してきた。意外と情熱的な千反田にびっくりだ。
互いの舌を絡ませながら、唾液を交換する。お嬢様には刺激が強すぎるかと思ったが、嫌な
顔ひとつ見せずに、いや、それどころか積極的に舌を絡ませてくる。柔らかな舌の感触。甘い
吐息。熱い抱擁。脳が痺れて蕩けるような感覚だ。おそらくオキシトシンが大量に分泌されて
いるのだろう。千反田が愛おしくてたまらない。こうなったら最後まで突っ走ろう。
――俺は覚悟を決めた。
そのまま千反田を床に押し倒し、一旦くちづけをやめて確認した。
「千反田……、いいよな?」
言葉足らずかもしれないが、もちろんこれは性交《セックス》のことだった。すべてを語らずとも愛する
二人に言葉はいらない――はず。千反田はとろんとした目で俺を見つめて口を開いた。
「折木さん……、これ以上は……駄目……です」
ええぇーーっ? この流れで駄目なのか? あんなに積極的だったのに……、千反田のほう
から誘ってきたはずなのに……。それはあまりにも、あんまりじゃないか……。
予想外の駄目出しに俺は茫然自失となった。が、すぐに気を取り直して訊いてみる。
「嫌なのか?」の問いに、
「嫌じゃあないです」の答え。
「それなら何故?」の問いに、
「まだ勉強中だからです。供恵さんにも、よろしくと頼まれましたから」
千反田よ。そのよろしくは勉強のことだけではなく、少なからずこういった行為も含まれて
いると思うんだが。でもさすがにこれは言えない。弟の性処理を頼む姉なんて、どう考えても
おかしすぎるだろう。それにしても真面目すぎるというか、融通が利かないというか、千反田
には困ったものである。俺は別な方法で千反田の説得を試みた。
「千反田。俺と一緒に保健体育の勉強をしよう」
……我ながら最低な誘い方だ。千反田が眉をしかめて俺を見る。悪かった。そんな目で見な
いでくれ。俺は仰向け状態の千反田の手を取って、引っ張り起こした。
「わかった。真面目に勉強する」
確かに勉強を始めてから三十分しか経っていない。勉強する気があるのかと疑われても文句
は言えない。ここは欲望をぐっとこらえて勉強に集中するとしよう。――とはいうものの、俺
の顔に落胆の色が浮かんでいたのだろう。千反田が慰めの言葉をかけてきた。
「折木さん、勉強がひと段落したら先ほどの続き……、してくださいね」
千反田はそう言って赤面した顔を隠すように俯き加減になり、上目遣いで俺を見た。
何故か無性にのどが渇く。俺は無理やり唾を飲み込んで、かすれた声で訊いてみる。
「千反田は、して欲しいのか?」
「折木さんのいじわる……」
千反田はとんっと俺の肩に頭をもたせかけてきた。だからそういうことをされると我慢でき
なくなるじゃないか。俺は千反田の頭を撫でて、「すまん」と一言謝った。
だがしかし、俄然やる気が出てきた。ドーパミン全開だ。男とは、かくも単純な生き物なの
である。俺はシャーペンを手に取って、教科書片手に勉強を再開したのだった。
つづく