〜前回までのあらすじ〜
自宅にて千反田とふたりきりで試験勉強中の折木奉太郎。はてさてどうなることやら――。
Lの個人授業(中編)
付き合い始めたばかりの若い男女がひとつ屋根の下、ふたりきり。コタツで肌も触れ合わん
ばかりの距離。この状況で勉強に集中しろ、というのも酷な話である。つい今しがた、ことに
及ぼうとしていたのならば、尚更だろう。
かく言う俺も、真面目に勉強しようと意気込んではみたものの、頭の中に浮かぶのは千反田
のことばかり。だってしょうがないだろう。こう見えて人並みに性欲のある男子高校生なのだ。
暖房の効いたリビングは静寂に包まれていた。元々静かな住宅街の一角にある家なのだが、
雪が降っているせいもあるのか、外部からの雑音は一切聞こえてこない。
外界から隔離された俺と千反田、ふたりだけの世界。
耳を澄ませば聞こえてくるのは、エアコンの稼動音に教科書をめくる音、シャーペンの芯と
ノートの摩擦音、そして千反田の微かな息遣い……。
はっと我に返る。いかん、いかん。勉強に集中しなくては。そのためには――。
「なあ、千反田。すまんがそっちに座ってくれないか」
ぴたりと横にくっついて居られては勉強に身が入らない。というわけで千反田には俺の左側
斜め向かいの位置に座り直してもらった。そこなら教えてもらうにも容易いし、なにより俺の
煩悩も刺激されずに済む。これで心置きなく勉強に集中できるはず。
だがしかし――。
今度はコタツの中が気になって仕方ない。俺の伸ばした足先に千反田の足が当たっている。
いや、俺が足を引っ込めればそれで済む話なのだが、何故かそれができない。
外は寒いからか、今日の千反田は素足ではなく、黒いストッキングを履いてきている。その
感触が俺の心を捉えて離さないのだ。
千反田はコタツ水面下での接触に気づいていないのか、あるいは気にしていないのか、平然
とした顔で試験勉強に取り組んでいる。
俺は教科書とにらめっこしつつ、こっそりと足を動かしてみた。足首と思われる箇所から、
ふっくらしたふくらはぎへ。気づかれぬよう、つま先に全神経を集中させ、カタツムリの如く
千反田の足をなぞってゆく。ゆっくりと着実に、さらなる高みを目指して――。
俺は興奮していた。
別にストッキングフェチというわけではない。真面目に勉強をしているように見せかけて、
水面下では良からぬ行為を働いている。その背徳的行為に興奮しているのだ。
痴漢の心理もこんな感じなのだろうか。ふとそんな疑問が浮かんできた。もしかすると俺は
いま、痴漢行為を働いているのではなかろうか。いや、俺と千反田は恋人同士。だからなんの
問題もないはず。論点がずれているような気もするが、そういうことにしておこう。
それにしても靴下越しなのが残念だ。いまいちストッキングの感触が楽しめない。いっその
こと、靴下を脱いでしまおうか。そんなことを考えていると、
「折木さん、くすぐったいです」
千反田が困ったような顔を向ける。
しっかりばれていたようだ。恥ずかしい限りである。
悪戯を見咎められた子どもの気分を味わいながら、俺は「すまん」と一言謝り、足を引っ込
めた。
さて、ここからは心を入れ替えて真面目に勉強しよう。教えてくれる千反田にも悪いしな。
いまから本気出す!
だが、そう決断してみたものの、すんなりと頭のスイッチは切り替わってくれない。どうし
たことか? 俺はその原因を考察してみた。
そもそもこのコタツというものがいけないのだ。
男女の下半身が密閉された空間を共有している。まかり間違えば、瞬く間にふれあい広場と
化してしまう。なんと卑猥な代物《しろもの》なのだろう。
いまこのコタツの中には、千反田のすらりとした両脚と、黒いストッキング越しに薄っすら
透けて見えるであろう白いパンツが存在している。いや、パンツの色が白なのかどうかは知ら
ないが、黒いストッキングには白いパンツが良く似合う。それにおとなしい千反田のことだ。
パンツの色は白に決まってる。白であって欲しい。白であるべき。俺の勝手な願望だ。
まあ、それは置いといて、いわばこのコタツ布団が千反田の両脚とパンツを隠す、スカート
の役目を果たしていると言っても過言ではない。そう、いまの俺は千反田のスカートの中に、
思いきり足を突っ込んでいる状態なのだ。否、それどころではない。腰まで入っているという
ことは、俺の逸物が千反田のスカートの中へと進入している状況なのである。
そんな想像をしていたら、俺の欲望(棒)がむくむくと鎌首をもたげ始めた。これでは勉強す
るどころではない。
やばい。コタツやばい。
「折木さん、何がやばいのでしょうか?」
千反田が小首をかしげて問いかけてくる。しまった。うっかり口に出していたようだ。
俺はコタツの中のきかん坊(棒)をなだめつつ、言い訳を考えた。
「いや、その……、そ、そうだ! 昼飯のことをすっかり忘れてた!」
苦し紛れに出た言葉だが、忘れていたのは本当だ。不思議そうな顔をしていた千反田も一応
納得してくれたようだった。
「ピザでも頼もうか?」
無難な提案をしてみる。もしくは冷蔵庫の中にある食材を使って料理の腕前を披露してくれ
やしまいか、と千反田に期待を込めた視線を送った。すると、
「実は――、お弁当を作ってきたんです」
千反田は一旦、脇に置いてあるバッグに目をやり、俺に微笑みかけた。これは嬉しい誤算だ。
そしてなんと気が利く娘なのだろう。流石は俺の嫁。ありがたいことだ。
「わざわざ作ってきてくれたのか。ありがとう、千反田」
「いえ、頑張る折木さんのお手伝いができて、わたしも嬉しいです」
千反田は、はにかみながらそう答えた。
俺は何も言えなかった。こんなに尽くしてくれる彼女に対して、俺ときたら勉強そっちのけ
で不埒なことばかり考えて……。とんだ大馬鹿野郎だ。――――猛省しよう。
千反田の期待を無下にせぬよう、今度こそ真面目に試験勉強に取り組むことにしたのだった。
時計の針は十二時を指していた。
試験勉強は千反田の助けも借りて順調に捗り、数学の出題範囲はすべて網羅した。
「きりもいいし、時間も丁度いい。ここらで昼飯にしようか」
「はい、そうですね」
千反田も、笑顔で俺に同意した。
コタツの上をきれいに片付けた後、弁当の準備は千反田に任せ、俺はキッチンで湯を沸かす
ことにした。賓客に茶のひとつも出さずにいたのは失態だった。舞い上がっていたせいなのか
すっかり失念していたのだ。
まあ、コタツの上に教科書やノートやらを開いているときにカップを倒して大惨事、という
ことも無きにしもあらずなので、これはこれでよかったのかもしれない。
いや、待てよ。こぼれた液体が千反田の服に飛び散って、
「服にシミがつくから、早く脱いだほうがいい。その服は洗濯機で洗うから」
というベタな展開もありえたかもしれない。そして洗濯機を回している間に、千反田は汚れた
身体をシャワーで洗い流し、俺は浴室ドアの擦りガラス越しに、
「なあ、千反田。俺も一緒にシャワーを浴びていいか?」
と訊いてみる。その質問に千反田は、しばし沈黙した後、
「……いいですよ」
と、か細い声で答えるのだ。俺は高鳴る鼓動を抑え、服を脱ぎ捨て、いざ尋常に勝負!
ドアを開けた俺の視界に飛び込んできたのは、湯気に包まれた――――。
ここで甲高い音がキッチンに鳴り響いた。
俺の意識は妄想から現実へと引き戻され、目の前で湯気を吹き上げる笛吹きヤカンが、早く
火を消してくれと言わんばかりに泣き喚いていた。
……いいところだったのに。俺は溜息をついてコンロの火を止めた。
まあ、いいさ。ここからが本番だ。勉強がひと段落したら続きをして欲しい。千反田は確か
にそう言った。接吻して、抱擁して、押し倒して――、その続きと言ったらもうあれしかない。
俺はごくりと唾を飲みこんだ。昨日里志から貰ったブツをさっそく使うときがきたか。ズボン
の後ろポケットの上から触って、その存在を確認した。
持っててよかったコンドーム。結婚の約束をしたとはいえ、高校生の身で妊娠はまずかろう。
千反田は名家の一人娘。もしもそんな事態になろうものなら、強制的に別れさせられるだけで
なく、社会的に抹殺される可能性もあるやもしれん。うむ、避妊は大事だな。
だが、その前にまずは腹ごしらえといこう。腹が減っては戦は出来ぬ、と先人も言っている
しな。
俺は茶葉を入れた急須にヤカンのお湯を注ぎ、湯呑みと一緒に盆に載せてリビングへと向か
った。
コタツの上を見て驚いた。てっきり学校で食べるような弁当だと思っていたのだが、千反田
が作ってきたのは漆塗りの重箱二段重ね、花見の席で出るような豪華な弁当だった。きれいに
盛り付けられた色鮮やかなおかずとおにぎりは、一見して、手間暇かけて作られたと思われる
見事な出来栄えだった。
「すごいな、千反田。これ全部、お前が作ったのか?」
「ええ。昨日の今日なので、たいしたものは用意できなかったのですが」
「いやいや、たいしたもんだろう。見た目からして美味そうだ。食べてもいいか?」
「はい、どうぞお召し上がりください」
「いただきます」
同時に合掌する。まずは卵焼きに手をつけた。焦げ目ひとつないきれいな焼き加減だ。味に
関しては、なんら心配していない。千反田の料理の腕前は知っている。文化祭のお料理研主催
のコンテストでの活躍は全校生徒の周知の通り。あれのせいで千反田のファンが増えたらしい。
里志から聞いた話だ。まあ、そんなことはどうでもいい。いまは千反田の手料理を堪能しよう。
さっそく食べてみる。ふんわりとした食感と出汁の旨みが口の中いっぱいに広がった。甘さ
控えめの出汁巻き卵だ。実に俺好みの味だった。感想を待っているのだろう。千反田が固唾を
呑んで俺を見つめている。
「うん、美味い」
俺は素直に感想を述べた。その一言に千反田は、ほっと胸を撫で下ろし笑顔を見せる。
次は揚げ物に箸を伸ばした。こちらはふわっとした中にぷりっとした歯ごたえ。海老の甘い
香りが鼻腔をくすぐる。これは何かと千反田に問うと、
「海老しんじょの揚げ物です。お椀に入れるのが普通ですが、こうして揚げたものも結構いけ
るんですよ」
「これも美味い。千反田は本当に料理上手だな」
「うふふ、折木さんに喜んでいただけて、わたしも嬉しいです」
満面の笑みを浮かべる千反田。その喜ぶ姿に俺も自然と顔がほころんだ。
「俺は三国一の果報者だな」
ぽつりと呟く。それを聞いた千反田が箸を持った手を口に当てて、くすくすと笑い出した。
何かおかしなことを言っただろうか? どうしたのか問うてみると、
「折木さんって、たまに古い言葉を使いますよね」
古風な女に古いと言われてしまった。なんだか釈然としない。しかもその指摘は、以前にも
聞いたことがあるような気がしないでもない。
「それに少し大袈裟すぎです。折木さんは三国一の三ヶ国って何処だかご存知ですか?」
それくらい知っている。馬鹿にするな。俺は間髪入れずに答えた。
「魏、呉、蜀」
「それは三国志じゃないですか。全然違います」
うん、何かおかしいと思っていた。それじゃどこだと答えを急《せ》くと、
「唐土、天竺、倭国。いまで言う中国、インド、日本ですね。昔の日本人が考えていた全世界
といったところでしょうか」
つまりは世界一ということか。ふむ、確かに大きく出すぎたかもしれない。
「だったら言い直そう。俺は日本一の果報者だ。これなら文句なかろう」
ところが千反田は不敵な笑みを浮かべて、
「残念ですが、折木さんは二番目ですよ」
昔懐かしの特撮番組で聞いたことのあるような台詞を言い出した。なんとなく察しはつくが
その理由を訊いてみると、
「なぜなら、わたしが一番の果報者だからです」
予想通りの答えが返ってきた。とりあえず矛盾点を指摘してみる。
「その理屈はおかしくないか? 俺は料理上手な彼女がいてくれるから幸せなんだが。お前は
どこが幸せなんだ?」
「わたしの作った料理を好きな人がおいしそうに食べてくれる。それだけで幸せなんです」
なんとも安上がりな幸せである。しかし、それなら俺の勝ちだろう。
「些細なことで幸せを感じてくれる料理上手な彼女。やっぱり俺のほうが果報者だな」
「いいえ、わたしのほうが果報者です」
「いや、俺のほうだ」
「わたしのほうです」
俺たちはどうでもいいようなことで意地を張り合った。全くもって不毛だ。だが心地良い。
しばらくにらめっこ状態を続けた後、お互い耐え切れなくなり同時に吹き出した。
「同率一位ということで手を打とうか」
はい、と千反田も笑顔で頷く。日本一の果報者同士。別に俺たちだけに限ったことではない。
好き合っている恋人たちは、おそらく皆そう思っているに違いない。自分たちが一番幸せだと。
嬉しそうに笑う千反田を見て、ふとそんな考えが思い浮かんだ。
俺たちはとりとめのない会話を続けながら、楽しく食事を続けた。
「このおにぎり、美味いな」
何度も美味いと言っていると、ありがたみがなくなるような気もするが、実際おいしいのだ
からしょうがない。握り具合も申し分なく口の中で、はらりと崩れる。塩梅も良い。何より米
の味が違うのだ。
「今年の新米なんですよ」
嬉しそうに千反田が言う。どうやら実家の田圃で収穫した米らしい。
「なるほど。これが千反田米《チタンダマイ》か。道理で美味いはずだ」
「普通のコシヒカリなのですが。なんですか? 千反田米って」
千反田が苦笑する。いま思いついた造語なのだが、語呂はわりかしいいと思う。
「千反田米というブランドを作って全国展開しよう」
冗談半分に言ってみた。
「千反田という名にブランド力があるとは思えないのですが」
「ないなら、作ればいい」
常日頃、商売のことに関して敏感な農家の娘は、俺の発言に喰いついてきた。
「どうやるんですか?」
千反田は真剣な眼差しで俺を見つめる。
「神山市を舞台にした映画やドラマで、それとなく千反田の名を宣伝する」
俺の提案を聞いた千反田は、落胆の色を顔に浮かべた。
「すごく他力本願で、とてつもなく可能性の低い案ですね」
「待て、早合点するな。そういったものにはたいてい原作があるだろう。漫画とか小説とか。
それを自分たちで作って出版社に持ち込み、大ヒットさせれば、あるいは」
荒唐無稽なことを言っているが、もちろん作る気など毛頭ない。
「それはまた、とてもハードルの高い案ですね。ところでどんなお話にするのですか?」
千反田も俺が冗談を言っていると気づいたのだろう。先ほどまでの真剣さはない。
「神山市でおこる連続殺人事件を、安楽椅子探偵が――」
「ひとの亡くなるお話は嫌いです」
だったな。
「じゃあ、高校を舞台に、高校生が日常に潜む謎を解き明かすという方向でいこうか」
「主人公の男の子は省エネ志向なんですね。わかります」
千反田が茶化す。
「そこに好奇心旺盛なお嬢様がトラブルを持ち込んでくる、と」
俺も茶化した。
「わたし、そのふたりの恋の行方が気になります!」
「ふたりとも互いに憎からず想っているが、簡単にはくっつかない。しかし最終的に――」
千反田が目を輝かせながら、可愛らしく相槌を打つ。俺は言葉を続けた。
「――結婚を誓い合ったふたりは数年後、皆に祝福されながら無事結ばれることとなる」
「とても素敵なお話です。折木さん、さっそく執筆作業に取り掛かってください」
「面倒だから却下」
千反田が不服そうにくちびるを尖らせる。そんな顔をされると心が痛む。
「いまの案は冗談だから本気にしないでくれ。ところで千反田、以前お前が諦めたと言ってい
た経営的戦略眼についてだが――、代わりに俺が修めるというのはどうだろう?」
今年の春、言い出せなかった言葉がすんなりと口から出た。あのときは覚悟が足りなかった。
でもいまは違う。俺は千反田の瞳をまっすぐ見つめた。
千反田は少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑うと、ゆっくり頷いた。
「では折木さんにお願いします。頼りにしてますよ、旦那様」
そう返事をしてから急に恥ずかしくなったのだろう。千反田の顔は見る見るうちに紅潮して
いく。らしくない茶目っ気を出すからだ。しかし何故だろう。そんな千反田を見ていると、俺
も無性に恥ずかしくなってきた。顔が火照って熱くなっていく。俺たちはお互い顔を赤らめた
まま、黙って見つめ合う。そして――。
玄関のチャイムの音が鳴り響いた。俺たちは一瞬びくっと身を震わせた後、顔を見合わせて
苦笑した。
俺は舌打ちして玄関に向かう。新聞の勧誘だろうか。なんだか嫌な予感がする。
スリッパをひっかけて玄関に下りて、魚眼レンズから外を覗く。
出かけたはずの姉貴がそこにいた。
「何か御用でしょうか?」
玄関のドアを少しだけ開けて、隙間からよそよそしい言葉を投げかけた。
「あら、心外ね。古典部OGが可愛い後輩たちに差し入れを持ってきてあげたというのに」
よく見ると、姉貴は手にケーキの箱のようなものを提げている。
「貰えるものなら貰っておこう」
ドアの隙間から手を差し出す。受け取ろうとした瞬間、ひょいとかわされ、手が空を切った。
その隙をついて、姉貴はドアを開けて中に入ろうとする。
「ふたりきりにしておいてくれ、と頼んだはずだろう」
「心配しなくても、すぐまた出かけるわよ」
姉貴は微笑みながら言う。それならまぁいいか、と許したのが間違いだった。
「おいしい! えるちゃんってば料理上手ね!」
姉貴は俺の真向かいに座って、千反田の料理に舌鼓を打っている。
「なんで姉貴も食ってんだよ」
「何よ、その言い草は。差し入れを買ってきてあげたじゃない」
「このくそ寒い中、アイスの差し入れなんて嫌がらせとしか思えん」
そう、姉貴の差し入れとは、一ヶ月毎日違う味が楽しめるというのが売りの、某チェーン店
の持ち帰り用アイスクリーム詰め合わせセットだった。
「あったかいコタツに入って食べるアイスってのがいいんじゃない。ねえ、えるちゃん」
「そうですね。わたしも大好きです」
姉貴と千反田は互いに頷いて微笑む。うーむ、千反田のやつ、すっかり懐柔されてやがる。
「多めに作ってきたので遠慮せずにどうぞ。それに食事は大勢でとるほうが楽しいですし」
「えるちゃんは優しいなあ。うちの弟にも見習ってほしいわあ」
「千反田、あまり姉貴を甘やかすんじゃない。すぐ調子に乗るからな」
「あらあら。奉太郎ってば、えるちゃんの前だとえらく強気なのね」
姉貴は俺を見てほくそ笑んだ。くそぅ。心中で舌打ちする。できることなら千反田の前では
頼れる男でいたかった。いい歳して姉からいいようにからかわれる弟というのは、傍から見て
格好悪い。そう思う。とは言うものの俺が姉貴に口で勝てるわけもなく……。仏頂面で無言の
抗議をするしかない情けなくも悲しい男の姿がここにあった。
「うふふ、おふたりとも仲が良いんですね」
千反田が嬉しそうに笑う。思わず姉貴と顔を見合わせた。俺たち姉弟は仲が良い部類に入る
のだろうか。いまいちよくわからない。
「わたしもそうやって何でも言い合えるきょうだいが欲しかったです」
そういえば以前そんなことを言ってたな。去年の温泉合宿のときだったか。
「尊敬できる姉か、可愛い弟か……」
思い出してそう呟くと、千反田は嬉しそうにこくりと頷いた。俺たちのやり取りを見ていた
姉貴が何か思いついたのか、ぽんと手を打ち、口を開く。
「あたしがお姉さんになってあげる。奉太郎、いますぐえるちゃんと結婚しなさい!」
無茶を言う。俺はまだ十七歳なんだぞ。まあ、言われなくても、いずれそうするつもりだ。
姉貴には、まだしばらくは内緒にしておきたいところだが。
「折木家に嫁《とつ》いでくれたら、毎日えるちゃんの手料理が食べられるのね。我ながら名案だわ。
えるちゃんはどう思う?」
さらっととんでもないことを言っているぞ。我が姉貴殿はこの家にずっと居座る気らしい。
「申し訳ないのですが――」
と、切り出す千反田に、勘違いした姉貴が残念そうに溜息をつく。
「そっか。変なこと言ってごめんね。でも奉太郎もこう見えてわりかしいい男なんだけどね」
こう見えて? フォローしているつもりなのだろうが、何か引っかかる言い方だ。
だがそれよりも、いま心配すべきなのは千反田だ。
コタツの下から足でつつき、千反田の注意を引く。こちらを向く千反田に、姉貴に悟られぬ
よう目で合図した。――いいか、余計なことを言うなよ、と。
すると千反田は、わかっていますという風に、口の端をぎゅっと引き締め頷いた。そして、
「折木さんは千反田家に婿入りしてもらう約束ですから」
きっぱりと余計なことを言い放つ。俺は頭を抱えた。以心伝心とはいかないようだ。
姉貴はというと驚きの声を上げて、
「本当に? 本当にこれでいいの?」
と、俺を指差してこれ呼ばわりする始末。さっきのフォローはいったいなんだったんだ。
千反田は姉貴の問いかけに満面の笑みで答える。
「はい。折木さんがいいんです」
そのすがすがしいまでにまっすぐな千反田の返事は、嬉しくもあり、恥ずかしくもあり。
俺は照れた顔をふたりに見られぬよう、そっぽを向きながらおにぎりを頬張った。
姉貴は千反田が折木家に嫁いで来ないことを残念がったが、俺たちの仲は素直に喜んでくれ
た。困ったことがあれば相談に乗ってあげる、と頼もしい姉貴っぷりも披露する。千反田も、
そのときはよろしくお願いします、と頭を下げた。俺としても姉貴の協力は心強いかぎりなの
だが……。
「それにしても、あんたも隅に置けないわね。えるちゃんみたいないい子を彼女にして、あま
つさえ結婚の約束までしちゃうなんて」
姉貴がほくそ笑んで俺を見る。やれやれ。こんな風にからかわれるのが嫌だったから、内緒
にしておきたかったんだ。俺は無視して黙々と食事を続けた。
「それにこんな大事なこと、あたしに報告も無しとはいただけないわ。ひとことあってもいい
んじゃない?」
何様のつもりだろう。俺は箸を休めて文句を言った。
「なんでわざわざ報告しなきゃならんのだ?」
「あら、あたしが勧めなければ、あんたは古典部に入部しなかったでしょう? えるちゃんと
出会うきっかけを作ったのは、この、あ・た・し、なんじゃない?」
一理ある。が、恩着せがましいにも程がある。そこに千反田が口を挟んできた。
「だとしたら、供恵さんはわたしたちの恋のキューピッドですね」
千反田は上手いことを言ったつもりなのか、したり顔をする。いまどき、恋のキューピッド
はないだろう。古臭いセンスだ。ある意味、千反田らしくもある。姉貴も同じことを思ったの
だろう。姉弟揃って苦笑いを浮かべた。
「それを言ったら千反田、お前だって伯父の件がなかったら古典部には入部しなかったんじゃ
ないか?」
「そういえば……、そうですね」
千反田は口元に手を当てて考え込む。姉貴が「どういうことよ?」と訊いてくるので、俺は
千反田の許可を取り、伯父である関谷純のことをかいつまんで話した。
「ふーん、なるほどね。古典部初代部長、関谷純がえるちゃんの伯父さんだったってわけか。
そして伯父に関する疑問を解決するために古典部に入部し、そこで奉太郎と出会った、と」
「そういうわけで姉貴にも一応感謝はするが、姉貴のおかげだけじゃないってことだ」
「そっか。でもなんか面白いわね。古典部がふたりの縁を結んだみたいで」
姉貴の意見に千反田が賛同する。
「本当ですね。何か運命的なものを感じます。ねっ、折木さん」
千反田が目を輝かせながら俺を見つめる。無邪気な笑顔が眩しい。女性は運命という言葉に
弱いと聞くが、どうやら千反田も例外ではないらしい。
俺は運命というものを信じてはいない。だがここは空気を読んで素直に頷いておいた。
「それじゃあ、ふたりを巡り合わせた伝統ある神高古典部に、乾杯!」
姉貴が音頭を取って湯呑みを掲げた。姉貴の無駄に高いテンションに感化されたか、千反田
も意気揚々とそれに倣う。仕方なく俺も渋々追従した。
「かんぱーい!」
湯呑みのぶつかり合う音がリビングに響く。お茶で乾杯するおかしな図柄。姉貴と千反田は
笑い出し、俺はそんなふたりを見て苦笑した。
ふたりが落ち着きを取り戻したところで、俺は長年の疑問を姉貴にぶつけてみた。
「ところで結局、古典部とはいったい何をする部活なんだ?」
「あんた、二年近くも在籍しておいて、今更それを訊く?」
姉貴は呆れた顔をしながらも、古典部の意義を語り出した。飯を食いながらの、ながら聞き
なので細かいところは聞き飛ばしたが、簡単に言えば、故《ふる》きを温《たず》ねて新しきを知る、温故知新
の精神を学ぶ部活なのだそうだ。姉貴には悪いが全く興味が湧かない。こういう小難しい話は
千反田に任せて、俺は胃袋を満たす作業に専念することにした。
姉貴の話は、「古典を制する者は、世界を制す」と勇ましくも謎なスローガンから、いつの
まにか世界放浪一人旅の話題へと移り変わり、千反田の際限なき好奇心を満たしていった。
「素敵ですね、イスタンブール。わたしも一度行ってみたいです」
千反田が羨ましそうに言う。俺は口の中のものを飲み込んでから、横槍を入れた。
「千反田、一人旅はやめておけよ。お前は危なっかしいからな」
その忠告に千反田がむくれる。
「折木さん、わたしのこと子ども扱いしてませんか?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
「奉太郎、あんたが一緒について行けばいいじゃない。いっそのこと新婚旅行にすれば?」
姉貴が横から茶々を入れる。何を言い出すのだろう、この女は。
千反田は頬を染めて、意味ありげに俺を見つめる。俺の返事に期待しているのか? 困った
ことになってしまった。
新婚旅行で海外か。正直なところ、気が進まない。外国人相手に俺がコミュニケーションを
取る姿が想像できない。千反田に頼れる姿を見せるどころか、無様な姿を晒しそうだ。
「俺は海外よりも国内旅行のほうがいいと思うんだが……、駄目か?」
俺の提案に、千反田はくすりと笑って返答する。
「わたしは折木さんと一緒なら、どこだっていいですよ」
嬉しいことを言う。自然と顔がほころんだ。
「えるちゃん、イスタンブールはあたしと一緒に行こっか? 奉太郎は置いといて」
「それもいいですね」
悲しいことを言う。自然と仏頂面になる。
「冗談ですよ、折木さん」
千反田が微笑みながら顔を近づけてくる。うむ、その可愛さに免じて許してやろう。
俺たちのやり取りを、にやにやしながら見ていた姉貴が千反田に呼びかける。
「えるちゃん、ちょっといい?」
「なんでしょうか? 供恵さん」
「奉太郎のことを『折木さん』って呼んでるけど、あたしも一応、折木なんだけど」
「それは、まあ……、そうですね」
千反田は、戸惑いながらも同意する。
「だ・か・ら、奉太郎のことも下の名前で呼んじゃえば?」
「それは、その……」
千反田が困り顔で、ちらりと俺を見る。この展開はよろしくない。俺は助け舟を出した。
「区別はつくんだから、別にこのままでいいだろ」
しかし千反田は深呼吸した後、意を決したようにこちらに向き直った。そして、
「ほ、奉太郎さん」
頬を染め、はにかみながら俺を見つめる。その破壊力たるや凄まじいものだった。俺は顔が
にやけそうになるのを我慢してそっぽを向く。視界に入る姉貴のにやけ顔が腹立たしい。
「やっぱり慣れないと変な感じですね。折木さ……ではなくて、奉太郎さんは嫌ですか?」
嫌じゃない。むしろ嬉しいのだが、姉貴の思惑通りにことが運んでいるのが癪に障る。
「千反田の好きに呼べばいい」
ぶっきらぼうにそう言うと、千反田は、「はい」と嬉しそうに返事をした。
そこにまたしても姉貴が余計な口を挟んでくる。
「えるちゃんが下の名前で呼んでるんだから、あんたも下の名前で呼ぶべきじゃない?」
やはりそうきたか。俺が慌てふためく様を見て楽しむつもりだろう。悪趣味な姉だ。
「勘弁してくれ」
そう呟き、千反田のほうを見た。上目遣いで俺の目を覗き込んでくる。どうやら呼んで欲し
いらしい。そんな餌をねだる子犬のような瞳で見つめられると、放っておけないではないか。
仕方ない。言ってやるか。こほんと咳払いをして、
「え……」
千反田の名前を呼ぼうと口を開いたのだが、いざ言おうとすると、恥ずかしさのせいか声が
出ない。どうしたことか。アルファベットでKの次を言うだけなのに。こんなことでは今後、
ファーストフード店でラージサイズを頼めないではないか。頑張れ、俺。頑張れ、折木奉太郎。
「える」
勇気を振り絞って千反田の名を呼んだ。千反田は嬉しそうに笑って頷いた。恥ずかしくて、
まともに千反田の顔が見られない。正直、穴があったら入りたい。いっそのことコタツの中に
潜り込んでしまいたい。いや、この状況で潜り込んだら、変態のレッテルを貼られてしまう。
いささか興味はあるが、いま、それはやめておこう。
その後、俺は女ふたりに会話を任せ、なるべく千反田の名を呼ばないようにしたのだった。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
箸を置いて合掌した俺は、のんびり食後のお茶を飲む。千反田の弁当は、文句のつけようが
ないくらい美味かった。しかしそれが災いして食べすぎたみたいだ。後半、会話に参加せずに
ひとり黙々と食べていたのがいけなかったのかもしれない。お腹がくちくなる。
ズボンのベルトを緩めて、寝転んだ。なんだか眠い。小さくあくびをして目を瞑った。
「奉太郎、食べてすぐ寝ると牛になるわよ」
姉貴が呆れたような声を上げる。
「モー」
寝たままの状態で牛の鳴き真似をした。千反田のくすくす笑う声が聞こえる。
「手遅れだったみたいね。えるちゃん、本当にこんなやつでいいの?」
「うーん、再考の余地があるかもしれません」
女たちの笑い声。好き勝手なことを言っている。まあ、言わせておこう。
「ちなみに、えるちゃんは奉太郎のどこが好きなの?」
「そうですね――」
なんだか気になる話題になった。目を閉じたまま、聞き耳を立てる。
「――可愛いところでしょうか」
そこかよ!
「あー、わかる気がするわ」
わかるのかよ!
「小さい頃の奉太郎はもっと可愛かったんだけどね。いつもあたしの後ろをついて来て」
俺の記憶だと、無理矢理姉貴に連れ回されていたんだが……。
「わたしも小さい頃の奉太郎さん、見てみたかったです」
「写真ならあるわよ。見る?」
「はい、ぜひ見せてください!」
千反田の喜ぶ声と同時に、俺の足の裏をくすぐる感触。たまらず俺は飛び起きた。
「奉太郎、あんたのアルバムを持ってきなさい」
命令口調。俺に拒否権はないらしい。千反田も期待を込めた目で俺を見る。姉貴と千反田の
強力タッグ。ひとりでも逆らえない相手なのに、こうなるともうお手上げだ。
素直に俺は二階の自室へと向かうことにした。
本棚の奥から子どもの頃のアルバムを引っ張り出して、再びリビングへと戻る。はしゃぐ声
に何事かと思えば、姉貴と千反田がどのアイスを食べようかと吟味しているところだった。
「あんたはどれがいい?」
姉貴が箱の中のアイスを見せてくるが、いまいち食欲が湧かない。首を横に振る。
「腹いっぱいだから、いまはいい。あとにする」
そう言ってアルバムをコタツの上に置き、踵を返す俺の背中越しに千反田が声をかけてきた。
「どこに行くんですか?」
「眠くなったから、部屋で少し仮眠を取ってくる」
どうせここにいたって、姉貴にからかわれるだけだ。それに眠いのも事実だった。普段なら
休日は昼近くまで寝ているはずなのだ。
自室に入る。肌寒い。エアコンのスイッチを入れてベッドに潜り込んだ。
姉貴はいつ出掛けてくれるのだろう。千反田と仲良くするのは構わないが、俺の邪魔だけは
しないで欲しい。
目を瞑り、耳を澄ますと階下から微かに笑い声が聞こえてきた。
疎外感を感じる。千反田を寝取られたような気分になってきた。これは嫉妬だろうか。
姉貴が女で本当に良かった。姉が女なのは当たり前だが、俺が言いたいのはそういうことで
はない。文武両道で優秀な姉。弟の俺が勝てる要素はどこにもない。勝ちたいと思ったことは
一度もないが、それは端《はな》から諦めているからだ。もしも姉が兄だったら、そして俺と見比べら
れたら、果たして千反田は俺を選んでくれるだろうか。いや、この仮定には何の意味もない。
しかしこの先、千反田の前に俺よりも優秀な人物が現れた場合、心変わりをしないだろうか。
俺はそれが怖い。それが怖くて千反田と同じ大学に行きたいと願い、勉強を頑張ることにした。
千反田は誤解しているようだが、俺はどうしようもなく臆病で情けない男なのだ――。
自己嫌悪に陥りながら、俺はいつしか深い眠りへと落ちていった。
深い霧の中をひとり歩いていた。
辺り一面真っ白な霧。まさに一寸先は闇ならぬ霧、といった状況だった。
辛うじて見える足元は灰色の砂礫《されき》に覆われ、足を一歩踏み出す度に耳障りな音を響かせる。
いったいここは、どこだろう。
いったい俺は、どこへ向かっているのだろう。
あやふやな記憶を辿りながら、前へ、前へと進んでゆく。
しばらく歩いていると、どこからか微かに声が聞こえてきた。
誰かいるのだろうか? 声のするほうへと歩みを速める。
霧が薄らぎ、視界が広がった。目の前には大きな川が流れている。こちらの川岸は草木一本
生えていない灰色の荒野だが、おぼろげに見える対岸は花が咲き乱れ、薔薇色に染まっていた。
どうやら声は向こう岸から聞こえてくるようだ。
女の声? いや、それは女の歌声だった。聞いたことのあるわらべ歌。不思議な調べが俺を
誘《いざな》う。
「ほう、ほう、ほうたる来い。そっちの水は苦いぞ。
こっちの水は甘いぞ。ほう、ほう、ほうたる来い」
ホタルではなく、ほうたる。もしかして俺のことか?
ほうたるとは、俺がチャットで使うハンドルネームだ。それを知る者は俺以外にひとりだけ
しかいない。千反田だ。
この声の主は千反田なのだろうか? だとしたら川を渡って向こう岸へ行かなくては――。
俺は川の水面に目を落とした。川の水は暗く濁り、高く低く波打って流れている。この川を
泳いで渡るのは無理そうだ。
何か他に渡る手段はないだろうか。注意深く周りを見回した。
川に架かる橋も、舟もない。あるのは散乱した石ころと、崩れた積み石の残骸だけ。
ここはもしかして……。『賽の河原』という不吉な単語が脳裏をよぎる。
もう一度、向こう岸を確認する。よく見ると、ゆらゆらとゆらめく黒い人影のようなものが
ゆっくりと手を振っていた。背筋に悪寒が走る。ここに居てはいけない。直感的にそう思った。
踵を返して来たほうへと引き返す。俺を引き止めようしているのか、背後から聞こえる歌声
がよりいっそう大きくなる
「――そっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ。ほう、ほう、ほうたる来い」
あいにくと俺は、甘い水よりも苦い水《コーヒー》のほうが好きなんでな。
声を振り切るように大きく足を踏み出した瞬間、背後から何者かが俺の手首をつかんだ。
金縛りにあったように身体が硬直する。身動きできない。辛うじて動く首を回し、恐る恐る
後ろを振り返った。
髪の長い女が、腕を伸ばして俺の手首を掴んでいる。濡れ羽色をした黒髪が顔の大半を覆い
隠し、わずかに見える歪んだ口元が薄く笑っていた。
ひっ、と声にならない叫び声が喉の奥から漏れる。
断じてこれは千反田ではない。俺の千反田がこんなに怖いわけがない。
これは夢だ。夢に違いない。夢なら早く覚めてくれ。
目を瞑り、必死になって、そう願った。
「――折木さん。折木さん。起きてください」
俺の名前を呼ぶ声に、はっ、と目が覚めた。
目の前には、心配そうに覗き込む千反田の顔。愛くるしい大きな瞳が俺を見つめている。
安堵の息を吐く。夢で良かった。
「折木さん、ひどくうなされてましたよ」
「ああ、たぶん怖い夢を見たからだ」
上体を起こして目覚まし時計を見る。午後二時前。一時間ほど寝ていた計算か。
「どんな夢だったんですか?」
千反田がベッドに腰掛けて、興味深げに訊いてきた。俺は大あくびをして言う。
「千反田っぽい化け物に危うく捕まるところだった」
口走ってから後悔した。これでは誤解を招きかねない。
「……なんですか、それ。わたしが化け物だなんて、あんまりです! ひどすぎます!」
案の定、勘違いした千反田が涙目で訴える。
「いや、お前のことじゃなくてだな、お前に擬態した化け物だったんだ」
俺は先ほど見た夢の顛末を語った。それでも千反田は納得してはくれなかった。
「よくわかりました。そんな夢を見るということは、折木さんの深層心理では、わたしを化け
物みたいに恐れているということですね」
頬をふくらませてそっぽを向く。怒った千反田も可愛らしい。まあ、本気で怒っているわけ
ではないのだろう。なぜなら千反田はベッドに腰掛けたままだからだ。俺は布団から抜け出し
千反田の隣に腰掛けて弁解した。
「夢の話にたいした意味はないだろう。だいたいお前みたいな美人の化け物がいてたまるか」
そっぽを向いたままの千反田がぴくりと反応する。「美人」という単語に反応したようだ。
それならば――。
「なあ、千反田。そんな怒った顔をしてると、せっかくの美人が台無しだぞ」
「別に怒ってなんかいません」
拗ねた口調で俺を見る。照れているのか顔が少し赤い。意外とおだてに弱いな。それとも俺
だからだろうか。愛《う》いやつめ。少し話題を変えてみよう。
「ところで千反田、下の名前で呼ぶのをやめたのか?」
「この場に折木さんは、ひとりだけですから。それに折木さんだって、わたしの呼び方、元に
戻してるじゃないですか」
「恥ずかしいからな」
「ご自分が恥ずかしいと思うことを、人に強要しないでください」
ごもっとも。それにしても「奉太郎さん」と呼んでくれるのは、うちの家族がいるときだけ
なのか。残念と言えば残念だ。まあ、「折木さん」のほうがしっくりくるから、それでいいか。
「そういえば、姉貴はどうした?」
「供恵さんなら出掛けましたよ。夕方頃には帰ると言ってました」
千反田が言うには、姉貴を送り出して戸締りをした後、コタツでいくら待っても俺が降りて
来ないので、部屋まで起こしに来たとのこと。
ふむ。勉強がひと段落した昼下がり。俺の部屋。ふたりきり。条件は整った。これは絶好の
機会ではなかろうか。あとは千反田の機嫌を直すだけ。どうしようかと思案していると、
「それにしても、同年代の男の人の部屋に入ったのは初めてですが、意外と綺麗に片付いてる
ものなのですね」
千反田は物珍しそうに周りを見渡して言う。
そりゃそうだ。千反田を部屋に連れ込む可能性を考慮して、昨日の夜、掃除をしたからな。
まあ、それがなくとも、俺は割と綺麗好きなほうなのだ。
「俺は几帳面な男だからな」
見栄を張ってみた。すると千反田は重大な新事実を発見でもしたかのように目を見開き、
「わたし、ずっと誤解していました。折木さんは、ぐうたらでものぐさで怠け者だとばかり」
ひどい言われようだ。事実なだけに、面と向かって言われると面白くない。
「悪かったな。ぐうたらで」
突っ慳貪《つっけんどん》な態度で返事をすると、間髪入れずに千反田が言う。
「さっきの分のお返しです。これでおあいこですね」
してやられた。
俺の顔を覗き込む千反田の笑顔は、天使の微笑みか、はたまた小悪魔の微笑みか。
俺は苦笑しながらも、その笑顔にずっと見蕩れていた。
つづく