寒くなると人恋しくなると言う。  
 省エネを旨とするこの俺が、わざわざこうして階段を昇り部室へと足繁く通うのも、やはり  
そういった感傷が心のどこかにあるからなのだろうか。  
 暦は師走に入り、寒さと慌しさが混在してきた神山高校の放課後。俺は特別棟の四階にある  
古典部部室――地学講義室へと足を運んでいた。この学校の最辺境とも呼べる廊下には人影も  
無く、窓の外に広がる灰色の寒空が、よりいっそうの陰鬱さを醸し出していた。  
 ――千反田は来てるだろうか。  
 そう考えてから苦笑した。要らぬ心配だ。二度手間を省くため、職員室を覗いて部室の鍵が  
ないことを確認している。おそらくいつものように千反田が持っていったのだろう。  
 身に染みる寒さから逃げるように、俺は足早に部室へと向かった。  
 
 部室のドアを開けると、意外にも中にいたのは里志と伊原の二人だった。千反田の姿は見え  
ない。どうやら予想が外れてしまったようだ。少し落胆している自分に気づき、驚く。いや、  
別に千反田に会いに部活に来ているわけではない。そうではないはずなのだが、どうも先日の  
一件から千反田を意識しすぎな俺がいる。どうかしてるな、まったく。  
「やあ、ホータロー。調子はどうだい?」  
 能天気な笑顔を見せながら里志が挨拶してきた。  
「寒い。死にそうだ」  
 備え付けのストーブに手をかざすが、点けたばかりなのかまだそんなには暖かくない。  
「折木は冷血動物だから、寒いの苦手なんでしょ」  
 いつものように伊原が毒を吐いてくる。俺はそれを無視して里志に尋ねた。  
「千反田はまだ来てないのか?」  
「ああ、そうそう。そのことなんだけど――。千反田さんは今日、お見合いがあるから来られ  
ないんだってさ」  
 里志が爆弾発言をする。一瞬、気が動転した。しかし伊原の様子ですぐに嘘だと判明した。  
「ふくちゃん、それ本当? 何でわたしに黙ってたのよ!」  
 そう問いただす伊原に、里志は困ったような苦笑いを浮かべる。俺は溜息をついた。  
「息をするように嘘をつくな。いったい何がしたいんだ?」  
「いやあ残念無念。ちょっとしたサプライズドッキリさ。でもホータローも一瞬びっくりした  
だろ。顔に出てたよ。この世の終わりみたいな顔をしてた」  
 里志はにんまりと笑う。本当だろうか。ポーカーフェイスに徹していたはずだが。  
「折木はリアクション薄いからつまんない」  
 あいにくと俺はお笑い芸人じゃないんでな。心の中で伊原に突っ込んでおく。  
 そこに当の千反田本人がやってきた。  
「遅れてすみません。――――あの、みなさん、どうかされましたか?」  
 別にどうもしない。俺は平静を装ったが、里志が横から余計な口を挟む。  
「いや、それがね。千反田さんがまだ来てないって、ホータローが嘆いてたとこなんだよ」  
「おい、でたらめ言うんじゃない!」  
「あれ? 違ったっけ?」  
 すっとぼける里志を睨みつけたが、何処吹く風といった感じで聞き流された。  
「折木さん、そんなにわたしに会いたかったんですか?」  
 嬉しそうに微笑む千反田に、俺は内心うろたえながら曖昧な返事でお茶を濁した。  
 
 さて、古典部に部員が全員集まったわけだが、だからといって特に何をするわけでもない。  
元々文化祭で文集を出すことを目的とするクラブだ。その文化祭が終わった今現在、やること  
といったら雑談を交わして無為な時間を過ごすくらいなものだ。だが俺にとってはそれが案外  
居心地が良く、気心の知れた仲間たちのいるこの古典部を気に入っている理由でもあった。  
 今日もまたいつものように窓際の席に座った俺は、読みかけのペーパーバックに着手した。  
 里志と伊原は雑談で勝手に盛り上がっている。千反田も里志たちの話に興味を持ったのか、  
二人の雑談に加わった。俺も本を斜め読みしながら耳を傾けてみる。  
 話の内容は名字のルーツについてだった。里志が言うには、名字の由来から先祖の出身地や  
職業が判明することもあるらしい。いかにも千反田が好みそうな話題だ。まあ健全ではある。  
前世が誰だったか、などというくだらないオカルト話よりかは断然ましだ。キリギリスだった  
なんて言われるのはもう勘弁願いたい。  
 俺は頬杖をつきながら、文庫本を流し読みしつつ、黙って里志の講釈を聞くことにした。  
   
「伊藤姓は、伊勢の藤原氏がルーツだというのが定番だけど、その一族で藤の字を使うことを  
許されなかった者が、伊原の名を名乗った――という説があるんだよ」  
 里志が得意げに無駄知識を披露する。何でも最近は名字のルーツ探しに凝っていて、図書室  
の文献やらネットでこまめに情報を集めているらしい。その熱意をほんの少しでも学業へ向け  
れば、テストで悲惨な点を取らずに済むだろうに。  
 以前、別のくだらないことに熱中していた里志に、そんなアドバイスをしたことがあったが  
やつは一笑に付してこう言った。  
「わかってないな、ホータロー。やらなくてもいいことなら、やらない、がホータローの信条  
だっけ? ならその反対の、やりたいことしかやらない、が僕のモットーさ。でももし勉強に  
興味を持ったその時は、たぶんホータローの成績なんてあっという間に追い抜いちゃうよ」  
 いったいいつその時が来るのやら。そして、やりたいことしかやらないって、人としてどう  
なのだろう。友人として、やつの将来が心配になる。  
 いつも笑顔でマイペース、役に立ちそうもない情報収集が趣味の自称データベース。それが  
福部里志という男だった。  
 それはさておき、話を戻そう。  
 
「でもさ、それって伊原は伊藤よりランクが下ってことなんでしょ。なんかむかつくぅー」  
 伊原が不服そうにくちびるを尖らせる。童顔低身長でそんな顔をされると、まるで小学生に  
しか見えない。だが見た目に惑わされてはいけない。どれだけ可愛らしく見えようとも、安易  
に近づけばその毒舌で傷つけられる。それはまるで棘を持つ可愛らしい花、野茨の如し。伊原  
摩耶花とは、正に、名は体を表すのことわざを地で行く人物なのだ。  
「まあまあ。こんな説もあるってだけで、真実かどうかはわからないさ」  
 里志が笑顔でなだめると、伊原は「まあ、いいけどね」とすぐに機嫌を直した。惚れている  
弱みか、悪態をつきながらも里志には甘い。仲の良い千反田にも優しい。古典部メンバーの中  
では、俺だけが伊原の棘に気をつけねばならぬのだ。  
 
「じゃあさあ、ふくちゃんの福部の由来は?」  
 その質問に、里志は待ってましたと言わんばかりに口を開く。  
「よくぞ訊いてくれたね、摩耶花。福部は、福の字が衣服の服から変化した名字で、その服部  
の別の呼び方がハットリ。元々は衣服を作る機織りの一族の、ハタオリという名字がハットリ  
に変化したんだ。そして服部と言えば服部半蔵。そう、あの徳川家康を影で支えた忍者軍団の  
首領だ。何を隠そう僕の家系は忍者の末裔だったってわけさ」  
 里志は両手で印を結び、所謂《いわゆる》、忍者のドロンのポーズを決めて話を締めくくった。  
 胡散臭い話だ。そもそも忍者の末裔以外の、機織りのほうの服部さんもいるだろうに、福部  
がどちらの服部から派生したか何の確証もないではないか。戦国好きの里志のことだ。何とか  
して戦国武将と自分との関係をこじつけるためにでっちあげた創作に違いない。  
 苦笑するしかなかったが、女子部員二人はこの嘘くさい話に感嘆の声を上げていた。伊原は  
兎も角、千反田までもが里志に尊敬の眼差しを向けている。  
 何故だろう。何か気に食わない。俺は横から茶々を入れてみた。  
「里志。忍者の末裔なら、忍者らしく語尾に『ござる』をつけないと駄目なんじゃないか?」  
「そんなことしたら一発で忍者だとばれちゃうじゃないか。それじゃあ忍者失格さ」  
 こいつ、忍者ハットリくんに駄目出ししやがった。  
 文句を言ってやりたくなったが、面倒だからやめておいた。  
 
 さて、順番からすれば、お次は俺か千反田か。それなのに里志の話は服部半蔵のエピソード  
へと流れてしまった。話を脱線させるのはやめて、早く本題に戻って欲しい。最初は話半分に  
聞いていたが、今は自分の名字の由来が気になって仕方ない。だが俺から話を振るのも、なん  
だか癪に障る。そこへ千反田がおずおずと手を上げた。  
「福部さん。折木さんの名字の由来はご存知ですか?」  
 流石、千反田。ナイスタイミング! 好奇心の塊であるお前が我慢できるわけないもんな。  
俺自身はたいして興味ないが、お前が知りたいのならしょうがない。  
 そんな俺の心理状態を見透かしたのか、里志はこちらを見てにやりと笑った。  
「庭先の木が折れてた。だから折木」  
 えっ、それだけ? あまりにも簡素な答えなので、思わず頬杖をついた手からがくっと崩れ  
落ちた。お前、自分は散々忍者の末裔だとか格好良いことぬかしておいて、俺のはたったそれ  
だけの説明で終わらせる気か。庭の木が折れてたとか格好悪いにもほどがある。  
「あはははっ、折木らしいじゃん、それ。もう最高!」  
 伊原が腹を抱えて笑い出した。それにつられて里志も笑い出す。古典部の良心、千反田だけ  
は、何とか笑いをこらえようと必死に手で口元を押さえていた。  
 里志、伊原、あとで泣かす。俺は頭の中で復讐を誓った。まあ、今日寝て、明日朝起きたら  
忘れているだろうが。……別に怒ってはいない。これくらいで怒り出すような俺ではない。  
 しかし折木の名を馬鹿にされたようで、なんだか悲しくなってきた。それとも折木らしいと  
言われてしまうこの俺が、折木の評価を下げているのだろうか。  
 俺の浮かない表情を察したのか、里志が笑うのをやめた。  
「ごめん、ホータロー。実はよくわからないんだ。だから今のは僕の創作さ」  
「別にいいさ」  
 申し訳なさそうに謝る里志に免じて、あっさり許すことにした。  
「わたしはふくちゃんの説で、ぜぇーったい、合ってると思う」  
 伊原、お前は許さない。軽く睨んでやると、伊原はべーっと舌を出した。  
 俺と伊原は小学校からの腐れ縁だが、はっきり言って仲が悪い。いや、仲が悪いと言うより  
無関心と言ったほうが近いのかもしれない。俺が伊原に無関心、伊原が無気力な俺を嫌悪して  
突っかかってくる、といった感じか。まあ正直、伊原に好かれようが嫌われようが、どうでも  
いいのだが。  
 
 残るはあと一人、千反田姓の由来だけだ。ただ漢字を見ればなんとなく察しがつく。最初に  
自己紹介をされた時は、メタリックな名前だなと思ったものだが、どんな漢字なのかを知ると  
合点がいった。  
 千反の田圃《たんぼ》と書いて、チタンダと読む。神山市北東部一帯の土地を牛耳る豪農、千反田家の  
一人娘、千反田える。正真正銘、本物のお嬢様だ。普段の立ち振る舞いは、見た目通りに清楚  
な御令嬢なのだが、一旦好奇心という名のスイッチが入ってしまうと途端に知りたがりな少女  
――知りたガールに変貌してしまう、ちょっと困ったお嬢様でもある。何故かいつも俺を頼り  
にしてくるので世話が焼けることこの上ない。正直面倒だと思う反面、頼りにされていること  
を嬉しく思う俺がいる。それに気づいたのは、つい最近のことなのだが。  
 そんなことより話を戻そう。  
 
 里志が千反田姓について得意げに語りだす。  
「千反田さんの名字の由来は漢字の通り、千反の田圃から来ているらしいね。たくさんという  
意味での千反なのか、それとも本当に千反の田圃を持っていたのか定かではないけれど、もし  
本当ならすごいもんだよ」  
「そもそも千反ってどのくらいの広さなの?」  
 伊原が質問を投げかけると、代わりに千反田が答えた。  
「だいたい十反で一ヘクタールくらいの広さですね。千反だと百ヘクタールになります」  
「一ヘクタールって確か百平方メートルだっけ?」  
 伊原の呟きに、里志が相槌を打つ。  
「そうそう。ちなみに東京ディズニーランドの広さが51ヘクタールで、東京ディズニーシーが  
49ヘクタール。ちょうど二つを足した広さが千反と同じになるんだよ」  
 里志の薀蓄に、女子部員二人が感嘆の声を上げる。里志はエヘンと胸を張るが、たぶんこの  
薀蓄を語りたいがために千反田姓の由来を語ったのではないだろうか。そんな気がする。  
 そもそも俺はディズニーランドに行ったことがないので広さが実感できない。結局のところ  
千反は一キロメートル四方の田圃というわけか。田植えが大変そうだ。  
 そんなことをぼんやり考えていると、千反田が残念そうに真相を述べた。  
「でもそれはご先祖様の頃のお話です。戦後の農地改革など色々あって、今現在はその半分に  
も満たない田圃しか所有していません」  
 いやいや、それでも十分すごいだろう。悲しみに暮れる千反田を俺たち三人は懸命になって  
誉めそやした。しかしよくよく話を聞いてみると、田圃とは別に山や畑などの土地をいくつも  
所有しているらしい。ふざけるな、このブルジョワめ!  
 
 金持ちの話を聞いてしまうと、この世のすべてが馬鹿らしく思えてくる。庶民の耳には毒だ。  
そんな気分を吹き飛ばしたくて、つい軽口を叩いてみた。  
「千反田、俺にも少し土地を分けてくれ」  
「申し訳ないのですが、わたしの一存では決められません。家族に相談してみないと」  
 丁重な断りに、冗談だと言おうとしたが、千反田の微笑みを見てやめた。これは千反田流の  
ジョークなのだろう。そこへ里志が口を挟む。  
「ホータロー、もっと上手い方法があるじゃないか。千反田家に婿入りすれば、すべてを手に  
入れることができるよ。所謂、逆玉の輿。逆玉だよ、逆玉」  
 こいつ、いらんことを言ってくれる。本人(千反田)の目の前でそういうことを言うな!  
 ちらりと目を向けると、千反田は恥ずかしそうに頬を染めていた。  
「ふくちゃん何言ってんの! ちーちゃんが不幸になるようなこと言わないでよ」  
 こいつも失礼なことを言ってくれる。本人(俺)の目の前でそういうことを言うな!  
「折木なんて、働かなくてもいいって状況になったら、ぜぇーったい、家でごろごろしてるに  
決まってんじゃん」  
 付き合いが長いだけあって俺のことをよく理解している。それでも俺はこいつに一言言って  
やりたかった。  
「伊原」と俺が睨みつけると、  
「何よ」と伊原は訝しげに睨み返してくる。  
「ナイスアイデアだな。それ」  
「…………」  
 しばし教室に沈黙が訪れた。うーむ、少しはずしてしまったか。  
 伊原は呆れて物も言えないようだ。里志が「ニートまっしぐらだね」と苦笑する。千反田が  
この沈黙を破るように大声を上げた。  
「折木さん、働いてください!」  
「すまん、冗談だ」  
 千反田の剣幕に押されて、俺は素直に謝った。軽いジョークじゃないか。本気で怒るなよ。  
 伊原、里志、千反田の三人が、一斉に口をそろえて俺を糾弾する。  
「折木が言うと――」「ホータローが言うと――」「折木さんが言うと――」  
「――冗談に――」  
「――聞こえない!」「――聞こえないよ!」「――聞こえません!」  
 四面楚歌。もとい、三方からの集中砲火。  
 味方が誰もいないってのは悲しいことだ。へこむ。  
 しょんぼりしている俺を尻目に、三人は和気藹々と談笑する。  
「良かったね、千反田さん。これでホータローも心を入れ替えて働いてくれるはずだよ」  
「はいっ!」  
 おい、お前ら。婿入り前提で話を進めるな。そして千反田、嬉しそうな顔をするんじゃない。  
「ちーちゃん、考え直したほうがいいよ。苦労するのはちーちゃんなんだから」  
「まあまあ、摩耶花。僕たちは席を外して、あとは若い二人に任せておこうよ」  
 いつからここは見合いの席になったんだ。そしてお前ら、同級生だろ。  
 里志は渋る伊原の手を強引に引っ張って、教室から出て行った。ドアの外から聞こえてくる  
伊原の、里志に文句を浴びせ続ける声が次第に遠ざかっていく。  
 互いに視線を交わした俺と千反田は、苦笑を浮かべるほかなかった。  
 
 先ほどまで騒がしかった部室が静寂に包まれる。教室には俺と千反田の二人っきり。あんな  
話の後だと変に意識して、何を喋っていいかわからない。正直、里志の計らいはありがた迷惑  
だった。いや、あいつは単に面白がっているだけか。これからどうしたものかと考えあぐねて  
いると、千反田が俺の真向かいの席に座った。妙に嬉しそうな表情だ。おもむろに口を開く。  
「折木さんのご趣味は何でしょうか?」  
 俺は椅子から転げ落ちそうになるのを何とか踏みとどまった。  
「正気か?」と千反田に問うと、にこりと微笑んで答える。  
「折角ですから」  
 何が「折角」なのだろうか。突っ込みたい気持ちを思いとどまる。まあ、いいさ。どうせ暇  
なのだ。里志たちが帰ってくるまで、茶番に付き合ってやるとするか。  
 俺たちは、擬似お見合いを始めることにした。  
 
「俺の趣味は……。そうだな、寝ることだ。だいたい一年の三分の一は寝てる」  
 真面目に答えるつもりは毛頭無かった。それに趣味と言われても、思いつくのが読書くらい  
しかない。それではあまりに芸がない。  
「はぁ、冬眠でもされるのですか?」  
 千反田が不思議そうな表情で問う。俺は熊か何かか。  
「それだと日常生活に支障が出るだろ。だから日ごとに割り振って、一日に八時間寝ることに  
している」  
「あぁ、なるほど」  
 千反田の表情がぱっと晴れた。しかしすぐに眉根を寄せて困惑した表情になる。  
「それはちょっと寝過ぎではないでしょうか」  
「寝る子は育つって言うだろ」  
「うふふ、折木さんらしいですね」  
 千反田は嬉しそうに笑った。褒められている気がしないので、何が俺らしいのかは聞くまい。  
「そういうお前の趣味は何だ?」  
「何だと思います? 当ててみてください」  
 質問を質問で返すなよ。それとも俺の推理力を試しているのだろうか。千反田は不敵な笑み  
を浮かべている。よかろう。その挑戦、受けて立とうじゃないか。  
 
 俺はぱっと思いついたことを口に出してみた。  
「料理じゃないのか? 文化祭では大活躍だっただろ」  
 千反田は、首を横に振る。  
「料理は得意なほうですが、趣味かと言われると違う気もします」  
   
「じゃあ無難に読書。曲がりなりにも古典部部長だからな」  
 千反田は、ふたたび、首を横に振る。  
「確かに読書も好きですが、それよりも好きなことがあります。それを当ててください」  
 やけにもったいぶるじゃないか。はてさて、千反田の好きなことか……。  
   
「芸術科目で音楽を選択するくらいだから音楽鑑賞。お嬢様らしく、ジャンルはクラシック」  
 千反田は、みたび、首を横に振る。  
「音楽を選んだのは歌うことが好きだからです。でも趣味とは言えません。ところで折木さん  
は何故音楽を選んだのですか?」  
「美術と書道は道具が重いから持ち運びが面倒だ。それに使ったら洗わないといけないしな。  
単に消去法で選んだだけだ」  
 俺の答えを聞いて、千反田は口元に苦笑を浮かべた。どうやら呆れているらしい。  
 構わず次に行こう。  
   
「農家の娘ということで、ずばり園芸! これでどうだ」  
 千反田は、よたび、首を横に振る。  
「農作物を育てることに愛情は持っています。でもそれは仕事であって趣味ではありません」  
 意外と手厳しいな。これは長引くかもしれん。  
 その後も俺は思いつく限りの趣味を口に出したのだが、残念ながら千反田を頷かせることは  
できなかった。  
「参った。降参だ。答えを教えてくれ」  
 もう考えることに疲れた。柄にも無くむきになって無駄なエネルギーを使ってしまった。  
 千反田は嬉しそうに微笑んで口を開く。  
「では正解を言います。わたしの趣味は――、日常に潜む謎を解き明かすことです」  
 
 したり顔の千反田を、俺は無言で手招きして呼び寄せた。  
「何でしょうか」と千反田は席を立ち、俺のそばへ無防備に近づいてきた。いつものように、  
俺が仰け反るほどに顔を寄せてくる。俺は千反田の柔らかそうなほっぺたを両手でつまむと、  
思いっきり左右に引っ張った。  
「なにひゅるんでひゅか」  
 千反田は驚いた表情で目を見開く。おたふく顔になっても可愛らしい、どことなくタヌキを  
連想させる愛嬌ある顔だ。俺は真顔で言い聞かせた。  
「謎解きはいつも人任せだろ。趣味だと言い張るなら、自分で謎を解いてから言え」  
「ごめんなひゃい」  
 謝罪の言葉に満足した俺は、千反田の両頬から指を離した。つい怒りに任せた行動をとった  
が、よく考えてみると千反田の顔に触れたのは初めてかもしれない。想像以上にすべすべした  
柔らかな肌触りだった。俺はその感触を思い出し、柄にも無くどぎまぎする。千反田はという  
と、頬を両手で押さえてこちらの様子を恐る恐る伺っていた。  
「折木さん、もしかして怒ってます?」  
「すまん、ついカッとなってな。今はもう気が済んだ。千反田の面白い顔が見れたからな」  
 その言葉を聞いた千反田が頬を膨らませて俺を睨む。怒りの意思表示だろうか。まあ、全然  
怖くないのだが。なんとなく俺はコアリクイの威嚇のポーズを連想した。  
「女の子の顔に悪戯するのはどうかと思います」  
 正論だ。自分でもどうかと思う。だがお前のほうにも問題があるんだぞ。  
「千反田が無防備すぎるのがいけない。前から思っていたんだが、顔を近づけすぎだ。まだ俺  
だからいいものの、他の男にそんなことをしてたら、いつか間違いが起きるぞ」  
 言い終わってから気がついた。これではまるで独占欲の強い彼氏のような発言じゃないか。  
 俺は恥ずかしくなって千反田から顔を逸らした。その逸らした先の視界の中に、千反田が顔  
を覗かせてくる。  
「折木さん、間違いとは何でしょうか? わたし、気になります」  
 そこに喰いつくのか。それがわからないなんて世間知らずにもほどがある。それともこれは  
計算ずくの行動で、俺をからかっているだけなのだろうか。訝しげな目で睨んでみる。  
 千反田は小首を傾げながら、無邪気な瞳で見つめ返してきた。その仕草に俺は心臓を鷲掴み  
されたような感覚に陥る。悪意の欠片もない瞳。子どものように純粋なのだろう。それゆえに  
千反田の行動は傍《はた》から見ていて危なっかしい。なおさらそう思えてくる。  
 千反田の顔がさらに近づいてきた。だから無防備すぎだって言っているだろ。忠告したそば  
からこのざまだ。言ってもわからないなら、身体でわからせてやるしかないか。  
 俺は千反田の薄いくちびるに目をやった。ほんのり色づいたその艶やかなくちびるは、俺を  
誘うように開きかけている。  
 俺は椅子から立ち上がり、千反田のほうへと一歩詰め寄った。  
「そんなに教えて欲しいのか?」  
「はい」と千反田は屈託のない笑顔で頷く。相変わらず顔の距離は近い。  
 いいだろう。お嬢様に男の怖さってやつを教えてやる! 童貞のこの俺がな!  
 
 いつもとは違う高揚感が俺を突き動かす。今だったら何でもできる。そんな万能感が身体に  
満ち溢れていた。  
 間近にある千反田の頬にそっと手の平で触れ、もう片方の手を彼女の背中へと回す。これで  
逃げ場はなくなった。驚いて硬直している千反田に、俺のほうから顔を近づける。大きな目が  
さらに大きく見開かれ、困ったように視線がさまよう。動揺している証拠だ。俺の意図に気づ  
いた千反田は、徐々に頬を紅潮させていった。顔を少しだけ傾けて、くちびるが触れる手前で  
動きを止める。吐息が少しくすぐったい。甘い匂いが鼻腔をついた。  
 もちろんここでやめるつもりだった。これは単なる脅し。本気じゃない。  
 しかし――。  
 千反田は観念したかのように瞳を閉じた。何故、声も上げず、抵抗もしないのか。  
 ――このまま本当にキスしてもいいのか?  
 緊張のあまり、唾をごくりと飲み込んだ。落ち着いてよく見てみると、千反田の瞼から覗く  
長い睫毛が微かに震えていた。こいつも緊張しているのか。そりゃそうだ。  
 やめておこう。  
 邪《よこしま》な気持ちがすうっと消えていく。こういった行為はもっとお互いの気持ちを確かめ合って  
からするものだ。童貞くさい考え方かもしれないが、現に童貞なのだから仕方ない。  
 俺はくちびるを奪う代わりに、千反田の鼻のあたまを指先でつんとつついた。目を見開いて  
驚く千反田の姿に、つい口元がほころぶ。一旦、椅子に座り直して千反田との距離を置いた。  
 余裕をかましているように見えるが内心は焦っていた。普段の俺らしくもない大胆な行動を  
思い返すと、顔から火が出るほど恥ずかしい。それでも、お嬢様の悪い癖を直すことができる  
なら、結果オーライといったところか。俺は立ち尽くす千反田に声をかけた。  
「こんなことが起こったら、お前も困るだろ?」  
「……そうですね。困ります」  
 耳まで真っ赤になった千反田は、俯きながらそう答えた。  
 よし、これでもう千反田の近距離攻撃に煩わされる心配もなくなるだろう。そう思った瞬間  
千反田が顔を上げて、二の句を告げた。  
「これからは折木さん以外の男性の方には、近づきすぎないよう気をつけます」  
 真っ赤な顔のまま、そう宣言する。いや待て、違うだろ。何故そうなる。  
「あのなぁ千反田。俺に対しても警戒しろよ。さっきみたいなことになるぞ」  
「折木さんを信用してますから……。先ほども結局、何もされなかったじゃないですか」  
 言葉の端に棘を感じた。何もしなかったことを責めているようにも聞こえる。自意識過剰だ  
ろうか。  
「俺だって男だ。妙な気分になることだってある。もしも間違いが起きたらどうするんだ?」  
「その時は――」  
 一瞬ためらった千反田は深呼吸した後、まっすぐ俺の目を見て言葉を続けた。  
「――責任を取ってください」  
 突拍子もない提案に、俺はしばし茫然とした。いったい何を言っているんだ?  
「はあ? 責任って……、どういうことだ?」  
「それは折木さん自身で考えてください」  
 そう言って千反田は俺の顔を見つめてくる。  
 つまり責任を取って結婚しろということだろうか? キスひとつで相手の人生を背負い込め  
と? 古風な女だとは思っていたがここまでとは。いや、千反田らしいと言えば、何故か納得  
できてしまう。冗談に聞こえるが、真剣な眼差しを見ればそうじゃないことは一目瞭然だ。  
「責任、……取ってくれますよね?」  
 ぐいっと顔を寄せてくる千反田の潤んだ瞳に、この俺が逆らえるわけもなく――。  
「ああ……」と頷く俺を見て、千反田は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。  
 
「折木さん、小指を出してください」  
 言われるままに差し出すと、千反田は自分の小指に絡ませて歌いだした。  
「ゆーびきーりげーんまーん、嘘ついたら針千本飲ーます。ゆーび切った」  
 遠い記憶の彼方にある幼少時代を思い出した。千反田は微笑んで俺を見つめてくる。お前は  
子どもか。高校生にもなって指きりをする羽目になろうとは思わなかった。恥ずかしさに耐え  
切れなくなり視線を逸らした。  
 そんな俺に、千反田は追い討ちをかけるように言う。  
「折木さん。指きりげんまんの、『げんまん』って何だか知ってます?」  
 里志のように雑学に詳しくない俺は、当然の如く首を横に振った。  
「拳骨のゲンに、数字の位のマンと書いて、拳万だそうです。約束を破ったときは、握り拳で  
一万回殴るそうですよ。その後に針を千本飲んでくださいね」  
 無邪気な笑顔のまま、恐ろしい言葉を吐いた。死んじまうだろ、それ!   
 まあ、約束を破らなければいいだけの話だ。いや、それ以前に間違いを起こさなければいい  
だけの話か。俺は苦笑しながら千反田を見返した。  
 
 その後、俺は手洗いに行くと告げて廊下に出た。別に逃げ出したわけではない。形勢不利な  
状況を立て直すためだ。どうも千反田のペースに乗せられている。ここは一旦休憩を取って、  
判断力が鈍った頭を回復させるとしよう。  
 人気のない廊下は冷たい空気が張り詰めている。里志たちは見当たらない。いったいどこを  
ほっつき歩いているのやら。  
 取りあえず俺はトイレの手洗い場で顔を洗った。肌を突き刺すような冷たい水だが、それが  
今は心地良い。すっきりしたところで先ほどの出来事を振り返ってみた。  
 何かがおかしい。俺は調子に乗って千反田を少しからかっただけ。と思いきやいつのまにか  
約束させられていた。千反田に手を出してしまうと、責任を取って結婚しなくてはならない。  
現実味のない馬鹿げた話だとは思うが、これは現実で、お嬢様は本気だ。  
 しかしよくよく考えてみると、これは千反田からプロポーズされたようなものだ。何しろ俺  
以外の男には近づかないと宣言した上で、俺からキスしても構わないと言っているのだ。  
 鏡に映る折木奉太郎の顔は、みっともないほどに弛緩していた。両手で頬をぱしっと叩き、  
にやけ顔に活を入れる。浮かれている場合ではない。  
 色々と問題点もある。何しろ向こうは名家の一人娘。一方の俺はただの庶民。不釣合いだ。  
何の取り得もない俺が、千反田にふさわしい男だと先方に認めてもらうことは難しいだろう。  
それをわかった上での「責任を取ってください」発言なのだろう。生半可な気持ちで手を出さ  
ないで欲しいと言っているようなものだ。そして家が金持ちだからといってもいいことばかり  
ではない。面倒ごとも山ほどあるだろう。自他共に認める怠惰な俺が、名家、旧家のしがらみ  
に果たして耐えられるだろうか。  
 ふと我に返る。これはどうみても先走りしすぎだ。思わず苦笑した。  
 鏡に映る自分の目を見つめる。大事なのは、俺が千反田をどう思っているかだ。その答えは  
もうすでに出ている。しかし切り出す勇気はまだない。正直この歳で結婚話を突きつけられる  
とは思いもしなかった。今の俺には荷が重すぎる。結論はすぐには出せない。  
 俺は深い溜息をついた。  
 いつまでも千反田を待たせてはおけない。部室へ戻るとしよう。  
 
 部室に戻ってみると、千反田は教室の窓際に立っていた。里志たちはまだ帰って来ていない。  
窓の外を見ていた千反田は俺のほうを振り返る。一瞬、寂しげな表情に見えたのは、目の錯覚  
だろうか。今は何事も無かったように微笑んでいる。俺は千反田の傍《かたわ》らに歩み寄った。  
「何か見ていたのか?」  
「いえ……、ただ、なんとなく伯父のことを思い出していました」  
 そう言って千反田は寂しそうに笑う。  
 窓の外には古い格技場が見えた。おそらく千反田はそれを見ていたのだろう。千反田の伯父  
今は亡き、関谷純が神山高校を去ることになってしまった原因を。  
 『氷菓』事件で知ったほろ苦い過去の出来事。関谷純は幼い千反田に「強くなれ」と言った  
そうだ。弱いままだと自分のように悲鳴を上げることもできなくなる。生きたまま死ぬことに  
なる。だから強くなれ、と。千反田は伯父の言いつけ通り、強くなれたのだろうか。  
 もちろん俺などと比べるのもおこがましいほど強い人間だということは知っている。しかし  
千反田を取り巻く環境は特殊だ。彼女の性格だと名家のしきたりには従順で、逆らうことなど  
できはしないだろう。俺に責任を取って欲しいと言ってきたのも、そんな千反田からのSOS  
なのかもしれない。  
「どうかしましたか?」  
 いつのまにか考え込んでしまっていた。不思議そうに俺の顔を覗き込む千反田に訊いてみる。  
「さっきの責任を取れって話だが……、それはつまり、結、けっ、けこっ」  
 鶏か、俺は! 面と向かってだと「結婚」という言葉が何故か上手く出てこない。千反田が  
ぷっと吹き出した。俺の男としての面目は丸潰れだ。死にたい。  
 千反田は口に手を当てて、くすくす笑いながら言う。  
「折木さんって、可愛いですね」  
「男が可愛いと言われても全然嬉しくない」  
 嘘だった。実を言うとちょっと嬉しく思う俺がいる。口が裂けても言えないが。  
「わたしは可愛いと言われたら嬉しいですよ?」  
「それはお前が女だからだ」  
「わたしは可愛いと言われたら嬉しいですよ?」  
 何故二回言う。千反田は意味ありげな視線を送ってくる。ああ、そうか。言って欲しいのか。  
 だが断る!  
「千反田は自分のことを可愛いと思っているのか?」  
 意地の悪い質問に、千反田は目を白黒させる。  
「えっ? えっ? そ、それは、その……、自分のことはよくわかりません。ごめんなさい」  
 千反田は赤面して俯いてしまった。とてつもない罪悪感に駆られる。このままだと寝覚めが  
悪いな。仕方ない、期待に答えてやるとするか。  
「千反田は可愛いな」  
 耳元でそっと囁くと、千反田は飛び跳ねるように顔を上げた。目を見開いて俺を見つめる。  
 もう一度言ってみた。  
「千反田は、か、可愛いなぁ……」  
 どうも面と向かってだと照れくさい。思わず天井を見上げながら言ってしまった。  
 千反田は破顔一笑して言葉を続ける。  
「折木さんも可愛いですよ」  
「お前のほうが可愛い」  
「折木さんのほうが――」「千反田のほうが――」  
 じゃれ合いは延々と続いた。千反田は頬を染めて嬉しそうに。おそらく俺の顔も同様に。  
 傍から見ると酷いバカップルに見えたことだろう。  
 猛省しよう。  
 
「話を戻すが確認しておきたいことがある。責任というのは、結婚のことか?」  
 今度は上手く言えた。内心ほっとする。俺の言葉に千反田の表情が曇った。  
「わたし、随分と身勝手なことを言ってますよね。本当にごめんなさい」  
 深々と頭を下げる千反田。やはりそうか。再びほっとする。これが見当違いだったとしたら  
どうしようもなく恥ずかしいところだった。  
「いや、別に謝らなくていい。でも勝手に決めていいのか? お前ん家くらいの上流階級とも  
なると、見合い話とか、結婚相手の格とか、色々あるんじゃないのか?」  
 千反田は俺に背を向け、窓の外を見ながら話す。  
「そうですね。お見合いのお話はいくつか耳にしたことがあります。でもわたしもまだ学生の  
身ですし、大学を卒業するまではお断りを入れるつもりです」  
 わかっていたことだが、俺は内心動揺した。名家の一人娘で器量良し。性格も良し。料理も  
上手いとくれば、見合い相手が殺到するのも当然だ。ただ一つ欠点があるとすれば、千反田の  
押さえ切れないほどの好奇心だろうか。  
 もしも見合い相手と結婚した後で、その好奇心が理解されず、従順な妻でいろと言われた日  
には――、千反田は好奇心を押し殺して、悲しみを押し隠して生きていくのだろうか。  
 俺の頭の中で、寂しげな表情で笑う千反田の姿が思い浮かんだ。そんな千反田を見た日には  
俺は一生後悔して生きていくことになるだろう。  
 自分勝手な妄想に打ちひしがれているところを、千反田の声が現実へと引き戻した。  
「どうされたんですか、折木さん?」  
 心配そうに俺の顔を窺う千反田が目の前にいた。  
「いや、何でもない」と、咳払いして誤魔化した。千反田は微笑んで話を続ける。  
「でもわたしは、見合い結婚よりも、恋愛結婚に憧れています。女の子ですから」  
 千反田はにっこり笑った。  
「誰か好きなやつでもいるのか?」  
 自分でもどうかと思う間抜けな質問に、千反田は眉をひそめて静かに答えた。  
「気になる人がいます」  
 俺のことだろうか?  
「その人は、わたしが小さい頃好きだった伯父と同じように、いつもわたしの疑問を解決して  
くれるんです」  
 俺のことだろう。  
「出会った頃は無愛想な人だと思っていたんですが、私にだけは優しい人なんです」  
 俺のことだ。  
「でもその人は面倒なことが大嫌いで、恋愛ごとにとても奥手なんです」  
 俺だ!  
「その人がわたしのことをどう思っているのか、気になります。折木さん、教えてください」  
 千反田はすがるような目で俺を見つめる。その顔は恥ずかしさのせいか真っ赤だ。  
 どう思っているかなんて、とっくに答えは出ている。問題は俺が責任を取れるかどうかだ。  
千反田からの重圧が俺の肩に重く圧し掛かってくる。もしも千反田との恋愛を選択するならば  
省エネ主義とはおさらばしないといけないだろう。恋愛と省エネは両立できやしない相反する  
もの。恋愛を取るべきか、省エネを取るべきか、それが問題だ。まるでハムレットの心境だ。  
ハムレット奉太郎、略してハム太郎。この俺、ハム太郎の選択やいかに――。  
 
 ふと気づくと、俺は千反田を抱きしめていた。いつのまに? 無意識のうちに身体が勝手に  
動いたのだろうか。慌てて飛び退こうとした瞬間、千反田が俺の胸に顔を埋《うず》めた。       
「……離さないでください」  
 胸の中で、千反田が感情を押し殺したような声を漏らす。  
 千反田の言う「離さないで」は、今この瞬間のことだけではなく、おそらくこの先もずっと  
ということだろう。俺は何も言わず、何も言えず、千反田の華奢な身体を強く抱きしめた。  
 か細い身体は柔らかく、温かく、俺のほうから抱きしめているはずなのに、逆に包み込まれ  
ているような感覚で、不思議と安心感があった。千反田の黒髪から香る、シャンプーの匂いが  
鼻腔をくすぐる。早鐘のように打つ俺の鼓動は、きっと胸の中の千反田にも丸わかりだろう。  
それでも構わない。俺はこいつのことが、千反田のことが、好きなのだから――。  
 省エネ主義? それが何だ。やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけない  
ことなら手短に。それが俺の信条だ。そこに、俺のやりたいことに関する項目は存在しない。  
 だったら今、新たに追加してやる。  
 やりたいことは全力で。  
 普段の省エネ行動で蓄えたエネルギーをやりたいことにすべて注ぎ込もう。俺が今やりたい  
こと。俺の目標。千反田を全力で愛し、千反田を妻として娶《めと》ることに――。  
 
 千反田が顔を上げて俺を見つめる。その瞳はいつものように好奇心の光に満ち溢れていた。  
俺の答えを早く聞きたくて、うずうずしているのだろう。言いたいことはたくさんあるが、今  
伝えるべき言葉はただ一つ。俺は千反田の瞳を見つめながら告白した。  
「好きだ」  
 力強く、シンプルに、俺はその一言を告げた。千反田の顔がほころび、その瞳から溢れ出る  
涙がゆっくりと頬を伝い流れ落ちた。  
「わたしも……、折木さんが大好きです」  
 その言葉を聞いた瞬間、周りの景色が一変した。灰色から、薔薇色に――。別に視覚異常を  
起こしたわけではない。この世界に対する俺の意識が、認識が変わったのだ。  
 俺が今まで見てきたものは何だったのだろう。俺が今まで見落としてきたものは、どれだけ  
あったのだろう。だが別に後悔はしていない。今、ここでこうしてこの腕の中に、確かな宝を  
見つけられたのだから。  
 俺は千反田の潤んだ瞳に吸い寄せられるように顔を近づけた。一瞬、責任という言葉が脳裏  
に浮かんだがすぐにかき消した。今までの俺なら逃げ出していたに違いない。でも今の俺なら  
大丈夫。千反田のためなら、千反田と一緒なら、何でもできるはずだ。  
 俺と千反田は、くちづけを交わした。熱く、甘く、柔らかく。俺たちは、時が経つのも忘れ  
互いのくちびるの感触を確かめ合った。目を開けて見つめあいながら、瞳を閉じて感触だけを  
味わいながら、気の済むまで、息が止まるまで、強く、強く、抱きしめ合いながら――。  
 
 どれだけの時間が過ぎただろうか。  
 愛を充分に確かめ合った俺たちは、密着していたくちびるをそっと離した。まだ物足りない  
のだろうか。頬を染めた千反田が名残惜しそうな切ない表情を浮かべる。そんな顔をされると  
正直困ってしまう。俺は余韻に浸るように、抱きしめている腕に力を込めた。  
 千反田は俺の耳元にくちびるを寄せて囁く。  
「しちゃいましたね。キス……」  
「ああ、そうだな……」  
「責任、……取ってくれますか?」  
 緊張しているのだろうか。俺に抱きつく華奢な細腕に少し力が込められる。そんな千反田に  
俺は少し意地悪してみたくなった。  
「どうするかな」  
 千反田は可愛らしく頬を膨らませて俺を睨み、「指きりげんまん」と一言呟く。それを持ち  
出されると俺に勝ち目はない。降参だ。まあ、最初から勝ち目のない戦いだったのだが。  
 俺は深呼吸して一息ついた。ここまできたら後には退けない。覚悟を決めよう。  
 千反田の瞳を真っ直ぐ見つめて――、プロポーズの言葉を口にした。  
「千反田にふさわしい男になれるよう努力する。いや、必ずなってみせる。だから、その時が  
来たら、俺と――、俺と結婚してくれないか?」  
 俺が「努力」という言葉を口にした瞬間、千反田は驚きの表情を浮かべた。確かに、俺には  
似つかわしくない無縁の言葉だ。しかしそれが俺の決意の表れだと理解してくれたのだろう。  
驚いた顔が満面の笑みへと変化していった。  
「はいっ。喜んでっ!」  
 千反田は元気良く快諾してくれた。――のだが、ふと眉を曇らせて心配そうに告げる。  
「あのう、結婚のことなんですが、千反田家に婿入りしてもらえないでしょうか。折木さんの  
ご家庭の事情もあるとは思うのですが……」  
 確かに折木家の男は俺一人だけだ。ただ千反田家とは格が違いすぎる。所詮、庭の木が折れ  
ていた程度の家名だ。いや、その真偽のほどは定かではないのだが。まあ、別に惜しくはない。  
「それは大丈夫だ。それよりも問題は、俺なんかが千反田と結婚させてもらえるかどうかなん  
じゃないか? お前の親や親戚一同がそう簡単に許してくれるとは思えんのだが」  
「ですからそこは折木さんが頑張ってください。努力してくれるんですよね?」  
 前途多難じゃねえか! もしかして俺はとんでもない約束をしてしまったんじゃないだろう  
か。心中で溜息をつく。まあいい。やらなければいけないことが増えただけ、と考えればいい  
だけだ。これからはそれを効率よく手短に、こなしてゆくとしよう。  
「わたしもついてますから。一緒に頑張りましょうね」  
 千反田が無邪気に笑う。この笑顔、守りたい。決して手放したくはない。そのためには俺が  
全力で頑張るしかない。心を奮い立たせた俺は、力強く頷いてみせた。  
 千反田は安心したのかほっと息をつくと、催促するようにそっと瞳を閉じる。  
 俺と千反田はもう一度くちづけを交わした。二人の将来を約束する、誓いのキスを――。  
 
 俺たちは甘く長いくちづけを終えた後も抱き合ったままでいた。一瞬たりとも離れたくない。  
そんな心境だった。おそらく千反田も同じ気持ちなのだろう。俺に甘えるように何度も身体を  
すり寄せてくる。おかげで股間の膨らみを悟られないようにするのに一苦労だ。もしも千反田  
に見つかれば、おそらくあの台詞が飛び出してしまうに違いない。それだけは何としても回避  
したい。  
「あったかいですね」  
 俺の腕の中で千反田がぽつりと呟いた。  
「……そうだな」  
「寒くなると人肌恋しくなるって、本当だったんですね」  
「人恋しくなる、だろう」  
「人肌恋しくなる、とも言いますよ?」  
 少し考えてみたが、どちらの言い方も使うような気がする。それよりも今、注意すべきなの  
は千反田だ。いつものあれが発動するんじゃないだろうか。  
「どちらが正しいのでしょうか? わたし、気にな――っ?」  
 面倒なことになる前に、俺は千反田のくちびるを強引に奪って黙らせた。驚き、大きく目を  
見開いた千反田だが、何も言わずに瞳を閉じて俺のくちづけを受け入れた。  
 よし、いいぞ。今度から二人っきりの時はこの手でいこう。心の中でほくそ笑む。それより  
も、先ほどから視線を感じるんだが……。何か大事なことを忘れているような……。  
 嫌な予感がする。俺はキスをしながら横目で教室のドアを盗み見た。横開きのドアが微妙に  
開いている。その隙間から人影らしきものが覗いていた。そうだった。そういえば里志たちの  
ことをすっかり忘れていた。冷や汗が流れ出る。おい、千反田。耳の良いお前が、何故気づか  
ない。……まあ、この状況なら仕方ないか。俺もお前もお互いに夢中だったんだからな。  
 俺はそっと千反田に耳打ちした。思わず大声を上げそうになる千反田の口を手で塞ぐ。ここ  
は下手に騒ぐよりも、何事もなかったように振舞うほうがいいだろう。  
 俺たちは自分の鞄が置いてある席に戻り、椅子に座った。何食わぬ顔をして文庫本を開く。  
千反田もぎこちない動作ではあるが、俺に倣《なら》って本を開いた。  
 程なくしてドアが開き、里志と伊原が教室に入ってくる。  
「ただいま」と一言。  
 俺たちに気を遣って、素知らぬ振りをしてくれるんじゃないだろうか。友情に免じて、触れ  
ずにそっとしておいてくれるんじゃないだろうか。そんな淡い期待を抱いていた。  
 そうは問屋が卸さなかった。  
「あれ、摩耶花。この部屋、やけに暑くないかい。いや、暑いというより熱いぜって感じだ」  
「そうね。寒い廊下でずぅーっと待たされていた身には堪えるわね。熱くて妬けちゃいそう」  
 二人は俺たちを見て、にやりと笑う。そうだよな。こいつらはこういうやつらだよ。  
 最悪の展開だ。こうなったら隠していても仕方ない。  
「お前ら、いつからそこにいたんだ?」  
「ホータローが『好きだ』って告白したあたりかな。もうびっくりだよ。ホータローにあんな  
情熱的な一面があったなんてね。このサトシの目をもってしても見抜けぬとは!」  
 これまた随分と前からだ。一部始終を見られていたのか。恥ずかしいにもほどがある。それ  
を聞いた千反田も、真っ赤になって身を縮めた。  
「でも折木のこと、ちょっとだけ見直したわ。あんたにプロポーズする勇気があったなんてね。  
そこだけはふくちゃんにも見習って欲しいんだけどなぁ」  
「摩耶花。それは今、関係ないじゃないか」  
「ほら、そうやっていつも逃げてばっかりなんだから。わたしだって――」  
 里志と伊原がいつものように痴話喧嘩を始めた。これは好都合。と、いうわけで俺は千反田  
に目配せをして帰り支度を始める。戸締りを里志たちに任せてこっそり部室から抜け出した。  
 
 夕暮れの帰り道。俺と千反田は肩を並べて歩いていた。一緒に帰るといっても、校門を出て  
すぐそこまで。自転車通学の千反田は、自転車を押しながら俺の隣をてくてく歩く。  
「今日はいろんなことがありましたね」  
「そうだな」  
 本当にいろんなことがあった。思い返すと恥ずかしさと甘酸っぱさで胸焼けを起こしそうだ。  
「今日の日記は大長編になりそうです」  
「日記をつけてるのか。まめだな」  
 俺には三日坊主ですら無理だ。そもそも書く気さえ起きない。  
「さすがに毎日ではないのですが、嬉しいことや悲しいこと、特別なことがあった日に書いて  
います。今日の日記は一生の宝物にするつもりです」  
「そりゃ、よかったな」  
 俺にはどうもそういった感覚がわからない。女子特有のものなのだろうか。  
「うふふ、折木さんの言葉を一語一句忘れないよう書き留めておきますね。約束を忘れそうに  
なったら言ってください。その時は読み聞かせてあげますから」  
 えっ? 千反田……さん? ちょっと怖いんだが……。  
 驚いて千反田のほうを向く。そこにはいつもと変わりない優しく微笑む千反田がいた。  
「冗談です。でも折木さんがわたしのお婿さんになってくれる約束、忘れないでくださいね」  
 可愛らしく念を押す千反田に、俺は苦笑せざるを得なかった。もう少し俺のことを信用して  
欲しいものだ。まあ、今までの俺を見てきたのだから無理もないか。  
「ああ、約束する。千反田は俺の彼女で、俺の婚約者だ。今はそれで充分だろう?」  
 俺の言葉に千反田は、頬を染めて嬉しそうにこくりと頷いた。  
 幸せな気分で歩いていると、千反田が何かを思い出したのか、くすくす笑い出す。  
「うふふ、今日のお見合いは大成功でしたね」  
 あれをお見合いと呼んでいいのだろうか。せいぜいお見合いごっこといったところだろう。  
思い出して苦笑した。何故か千反田は、眉をひそめて黙り込む。何か気になることでもあるの  
だろうか。  
 千反田はすこぶる真面目な顔をして俺に問いかけてきた。  
「これって見合い結婚になるんでしょうか? 恋愛結婚になるんでしょうか? わたし、気に  
なります」  
 
                                      おしまい  
 

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