その日、放課後の部室には俺と千反田しかいなかった。  
 里志はどうも伊原とともに先に帰ったらしい。二人が連れ立って階段を降りていくのを  
俺はさっき偶然にも目撃している。声をかけなかったのは少し距離があったためだ。特に  
用があるわけでもないのに大声で呼び掛けるのは、省エネ主義に反する。  
 まあ近くにいたとしても、おそらく声はかけなかっただろう。  
 しばらく前から二人は交際を始めた。中学の頃からアタックし続けてきた伊原の努力が、  
ようやく実を結んだのだ。そんな長年に渡ってはぐらかし続けてきた里志の神経を、俺は  
正直こころよくは思っていなかったが、お互いにとっていい結果になったのなら何も言う  
ことはない。  
 そんなわけで声をかけなかったのも当然といえば当然なのだ。誰が好んで新米カップル  
の邪魔をする。いや、そういう下世話な暇人もいるかもしれないが、俺には無縁の行動で  
あることは間違いない。面倒だし、伊原に噛みつかれるのも避けたいし。  
 俺は窓際の席に座って文庫本を流し読みする。いつもの定位置ではないが、今日は暑い  
から。  
 ふと、顔を上げる。  
 千反田は黒板左前の席に着いて、なにやら考え込んでいるようだった。  
 いつもなら千反田は読書をしているか予習をしているか、伊原がいれば談笑しているか、  
大体そのあたりに落ち着いている。  
 しかし今日の千反田は、読書も予習も、当然談笑もしていない。ただ一人で何事かを考  
えている。  
 俺は声をかけなかった。なんとなく、嫌な予感がしたのだ。  
 お嬢様の好奇心は、常日頃からあらゆる方向に発揮されていて、ちょくちょく俺も巻き  
込まれてきた。できれば俺はこの古典部で、何事も変わらぬ日々を平穏のまま過ごしたい  
のだが、やつが抱く疑問と好奇心がどうにもそれを許してはくれない。  
 触らぬ神にたたりなし。こちらから近づいてわざわざ苦労をする必要はない。ただでさ  
え千反田の好奇心の対象は、めんどくさい話であることが多いのに。  
 そう思って、俺は手元の文庫本に再び視線を落とした。いや、落とそうとした。  
 だが、その寸前、千反田がこちらを向いた。  
 落とそうとした視線が、千反田のそれとぶつかる。  
 しまった。そう思ったときには、千反田は大きな瞳に強い光を灯して、椅子から立ち上  
がった。そのままこちらに向かって近づいてくる。俺は逃げ出すこともできずに、その瞳  
を見つめることしかできない。  
 席の前に立って、千反田は口を開いた。  
「あの、折木さん。折り入ってお話があるのですが」  
 その前置きに、俺は少し違和感を覚えた。いつもとは調子が違う。  
 そこで気づいた。目の調子が違うのだ。確かにその大きな瞳には、強い光を宿している  
が、いつもの好奇心に満ちたきらきらしたものとは違って、もっと憂いを帯びていた。声  
の調子も、うきうきした風ではなく、少しトーンが低い。  
 俺はその様子を見て、居心地が悪くなった。何の話かはわからないが、ちょっと無視で  
きない気がする。  
「とりあえず座ったらどうだ」  
 とりあえずそう言ってみる。  
 千反田はうなずくと、前の席に静かに腰掛けた。こういうときの千反田の所作はどこと  
なく洗練されていて、育ちの良さを感じさせる。楚々とした雰囲気は、黙っていると本当  
に深窓の令嬢を思わせる。  
 千反田は小さく息を吐き、話し始めた。  
「実は、摩耶花さんのことでお話があるんです」  
「伊原?」  
 伊原がどうかしたのか。今日はもう里志と一緒に帰った。そのことを千反田は知らない  
かもしれないが、俺たち古典部員は、部室に毎日顔を出しているわけではない。だから伊  
原が今日来ていなくても、何か問題があるわけではないはず。つまり、今日来ていないこ  
ととは関係ない別の話なのだろう。  
「伊原がどうかしたのか?」  
「いえ、その……」  
 言いよどんで、千反田はなぜか目を伏せる。どうにもらしくない風だ。こういう態度を  
見せられると、いつもとは勝手が違って俺は落ち着かなくなる。  
「……折木さん。ひょっとして摩耶花さんは、何かの病気にかかっているのではないでし  
ょうか?」  
「……はあ?」  
 俺は予想外の言葉にあっけに取られた。  
 
 病気? 伊原が?  
 どういうことだ、と問う前に千反田が語りだした。  
「実は先日、摩耶花さんを街中で見かけまして。そのときわたしは調べ物があったので図  
書館に向かう途中だったのですが、いえ、それだけじゃなく文具店にも用事がありました。  
シャープペンシルの芯と、コピー用紙を買う必要があったので。……えっと、それで摩耶  
花さんの姿が見えたので、わたしは声をかけようとしたんですが、摩耶花さんはその前に  
建物の中に入っていきました。最初は気づかなかったんですけど、よく見るとその建物は  
病院だったんです」  
「……恋合病院か?」  
「え? あ、いえ、入須さんのところではありません。もっと小さな病院です。そこに摩  
耶花さんが入っていったので、もしかして風邪にでもかかったんじゃないかと思ったんで  
す。一昨日のことでした。土曜日ですね。でも今日は何事もなく学校に来ていました。そ  
こで摩耶花さんに一昨日のことをお尋ねしたのですけど、風邪ではないと言うんです。じ  
ゃあどうして病院にと訊くと、ちょっと困った様子になってしまって、言いたくないこと  
なら無理に訊くことはないと思い直して、そのときはもうそれ以上訊いたりしませんでし  
た。でも、何も用事がないのに病院に行くことなんてあるんでしょうか。もしかしてわた  
しにも話せないような難病にかかっているのでは……そう思ったらだんだん不安になって  
きて、わたし、心配なんです。もちろん摩耶花さんが話したくないことなのはわかります  
し、それを詮索するのはいけないことだと思うのですが、もし摩耶花さんが深刻な病気に  
かかってしまっているのであれば、何か力になれないかと思うのです。何事もなければそ  
れに越したことはありませんが、病院というのがどうしても気になってしまって……折木  
さん。こういう場合、どうすればいいのでしょうか」  
 そこまで聞いて、俺は思わずため息をついてしまった。  
 聞くんじゃなかった。そんな思いにとらわれる。重い話だからではない。本人にとって  
は深刻かもしれないが、俺にとってはそう重い話でもない。どちらかというと重いという  
より気まずい話だ。伊原にしては迂闊なことだ。いや、里志にしては、か?  
 さて、どう説明したものやら。とりあえず無難なところから話していくか。  
「まず考えられるのは、その病院に入院している知人がいて、見舞いに行った場合だな。  
それなら伊原は病気にかかっているわけではないことになる」  
「それはわたしも考えました。ですが病院に入っていくとき、摩耶花さんはバッグ以外何  
も持っていませんでした。摩耶花さんはとても気の利く方ですから、お見舞いならそのた  
めの品を持っていくと思うのです。バッグは小さなものでしたし、何か品物が入っていた  
とは思えません」  
 やつが気が利く人間かどうかは俺にはわからないが、手土産の一つも持たずに見舞いと  
いうのも気が引ける話だ。見舞い説の可能性は低いかもしれない。  
 元々通院するような身の上だとしたらどうか。伊原に持病やアレルギーの類はなかった  
と思う。この一年風邪をひいた様子もない。俺よりもずっと仲のいい千反田の方が、やつ  
の事情には詳しいだろうから、千反田に心あたりがない以上病気ではないと思われる。つ  
まり通院の必要はない。  
 そうなるとやはりもう一つの説が有力だ。しかし話しづらい。特に千反田には。  
 
「……まあ、たぶん病気ではないな」  
「本当ですか?」  
 千反田がぐっと顔を近づけてくる。俺が顔を心持ち引くと、千反田も居住まいを正した。  
「元気に学校に来たんだ。深刻な病気じゃないだろうよ。自己管理はできるやつだろうし、  
深刻な病気ならお前にも話すさ」  
「そうでしょうか? 心配をかけたくないから、無理をするということも……」  
「他のやつにならそうかもしれない。だがお前になら、もう少し腹を割って話せると俺は  
思う。お前は口が堅いから、人に言えないことでもお前になら話せるさ」  
 むしろ全部話しておいたほうが、いらん好奇心を煽らずに済むしな。言わないが。  
「そこまで摩耶花さんに信頼されているとしたら、とても光栄なことです。でも、それな  
らどうして今回のことは話してくれなかったのでしょう」  
「お前がさっき言っただろう。話したくなかったからだ。たぶんお前だけじゃなく、誰に  
対しても話しにくいことだ。特別お前に話さなかったわけじゃない」  
「折木さんはもうそのことの見当がついているんですか?」  
「まあな……ちょっと話しづらいが」  
「よかったら、聞かせてくれますか」  
 気が進まない。できることなら話を切り上げて帰りたい。だが俺を見つめる二つの目が、  
そんな逃亡を許さない。こいつはどうして俺にそんな期待の目を向けてくるのか。俺は期  
待なんかされたくないのに。  
「……気は進まんが、まあいいか。言っておくが、間違っている可能性もある。絶対の正  
解だとは思わないでくれ」  
「……。はい」  
「納得したら、今後このことには触れるな。気まずいからな」  
「あの……そんなに気まずい話なのですか?」  
 千反田は首をかしげる。  
 そこまで難しい話ではないと思うが、千反田は気づかないのだろうか。  
「……避妊薬だ」  
「は?」  
 小声になってしまったか。俺は気まずさを振り払うように、開き直って繰り返した。  
「避妊薬を処方してもらったんだ。たぶん」  
「……………………」  
 千反田は放心したように、しばらく固まっていた。  
 こういう話題に不得手だろうことは十分予測がついた。かく言う俺の方もどちらかとい  
うと苦手な話だ。だから言いたくなかったのに。  
 やがて金縛りの解けた千反田が、顔を真っ赤にして叫んだ。  
「そ、それは、あの、ええっと」  
「里志と付き合っているんだ。そういうこともあるさ」  
「それは、そうかもしれませんけど、ということはつまり、その、」  
「いや、あいつらが避妊に失敗したとは限らない。さっきは俺もそう考えたんだが、単に  
より確実な方法を選んだだけかもしれない。確かなことはわからんが、そういうことには  
慎重だと思うぞ」  
 コンドームとピルを併用すれば、避妊効果はより高まるという話を聞いたことがある。  
費用に関してまでは知らないが。  
「……わたし、摩耶花さんを困らせてしまったかもしれませんね」  
 俺は肩をすくめる。まあ親しい友人だからこそ、そういうことは話しづらいだろうしな。  
「さすがに配慮が足りませんでした……。察するべきだったのに」  
「まあ気にするな。気にしても仕方ないぞ」  
 俺としてはもうこれ以上話題にしたくない。千反田が納得したのならこれで打ち切りだ。  
心なしか、つい早口になってしまう。  
 
 ふと、目が合った。  
「……」  
「……」  
 気まずい沈黙。  
 放課後の部室で、本人のいないところでプライベートな部分に触れてしまって、なんと  
も言いがたい空気になってしまって、果たしてこういう場合一番適切な行動はなんだろう  
か。  
 千反田の頬が恥ずかしそうに赤く染まっている。  
 俺も少し顔に熱を感じる。赤くなっているかどうかはわからないが、たぶん目の前のお  
嬢様とそう変わらない色に染まっているだろう。  
「……」  
「……」  
「……あの、折木さん」  
「……なんだ」  
「ありがとうございます。おかげで、疑問が解けました」  
「……いや。俺の方こそすまん。もう少しましな言い方があればよかったんだが」  
「いえ、相談を持ち込んだのはわたしですし、摩耶花さんも心配いらないことがわかりま  
したから、本当にありがとうございます。それと、ごめんなさい」  
「いいさ。気にするな」  
 すると千反田は、席を立って窓際に近づいた。  
「……わたしも、もう少し経験を積むべきなのかもしれません」  
「……何の話だ」  
「摩耶花さんをもっと見習うべきだという話です。わたし、摩耶花さんみたいにはがんば  
れませんから。……少なくとも、今のところは」  
「……伊原みたいに口が悪くなったら、俺は困るぞ」  
「そういう意味じゃありませんよ」  
 振り返って、微笑む。  
 その微笑をたたえた顔に何も言えなくなり、大きな瞳から逃げるように、俺はそっと目を逸ら  
した。  
 

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