――――先週のことである
『へえ、来週末は家にホータロー一人なんだ』
『ああ、両親とも仕事の関係で二日ほど家を空けるらしい』
『で、親もいないせっかくの休日にホータローは何をするんだい?』
『決まっているだろう』
『そうだね』
『『何もしない』』
そんな里志とのやり取りを千反田は何となく聞いていたらしい。でなければうちに泊まりたいなどと言い出すものか。
いや、どっちにしても許可するわけにはいかないのだが。
「あー……」
「構いませんよね!? なんならお夕飯も作りますから!」
ずいっとさらに顔を近付けて千反田が迫る。その顔には『絶対お泊まりします』『認めてくれるまで退きません』と書いてあった。
さて、ここで千反田を説得して諦めさせるのと家に来させて生じる問題に関しての消費エネルギーはどちらが大きいか。
俺はしばし考える。
* * *
「ではまた後にここで」
「ああ」
俺は下校ルートの途中、いつも通りに千反田と別れた。いつもと違うのは折木家の場所を知らない千反田を案内するために再びここに迎えに来ることだ。
そう、俺はあっさりと折れてしまったのだ。当然と言えば当然、あのお嬢様にはいくら言っても無駄だろう。断っても住所を調べ上げて訪ねてくるに違いない。だから早々に俺は諦めたのだった。
帰宅して適当に部屋や居間を片付け、待ち合わせ時間に着くように家を出る。
そして、集合時間から過ぎること五分。千反田は小走りにやってきた。
「す、すいません、少し遅れてしまいました」
「いや、それは構わんが……自転車はどうした?」
千反田家からは少々距離があると思うのだが。
しばらく呼吸を整えて答える。
「置いてきました」
「なんでだ?」
「折木さんの横で一緒に歩きたかったからです」
「…………そうか」
千反田は自分で言っていて恥ずかしくないのだろうか?
聞いているこっちは逃げ出したいほど恥ずかしいというのに。
「……行こう。荷物持ってやる」
「はい、じゃあ半分お願いします」
両手に持っていた荷物を片方だけ渡してくる。
それを受け取ると空いた手で俺の空いている方の手を握り、そのまま隣に並ぶ。何なんだこいつの積極性は。
まあ俺達は恋人同士であるわけだし、悪い気もしないのでそのまま歩き出す。
「結構大荷物だな、何が入ってるんだ?」
「あ、うちにあった食材をいくらかもらってきましたので。折木さんは苦手なものや食べられないものとかありますか?」
「好き嫌いはない。何でも食べられる」
特に千反田の作ってくれたものならな、なんて歯の浮くようなセリフは俺には絶対に吐けない。
例えそれが本心であろうとも。
「では今日はシーフードドリアにしましょう。お米はありますよね?」
「ああ、朝のうちにまとめて炊いたからな。それなりに残ってる」
そこから取り留めのない雑談を交わし、千反田の微笑みと手のひらの暖かさに揺さぶられる平常心を必死に保ちながら家に向かう。
「では、お邪魔しますね」
「ああ。知っての通り俺しかいないから気を遣わないでくれ」
玄関でそんな会話をしながらはたと気付く。
そうなのだ。今から俺はこの家で一晩千反田と二人きりで過ごすのだ。
む。改めて意識すると頭がパニックになりそうだ。
ただでさえそんな状態のところに、突然俺の腹に腕が巻かれる。
「!?」
いきなり後ろから抱きつかれたら驚くのも無理はないだろうが、叫びそうになるのを抑えて努めて冷静に言う。
「何をしている?」
「折木さん成分を補充中です」
化学の授業でも聞いたことのない物質が俺の身体から発せられているらしい。
数秒後、身体を離して千反田は靴を脱いで上がり込む。
「もう夕ご飯の支度始めちゃいますね。台所はどちらですか?」
「……こっちだ」
何で俺ばっかりが翻弄されなければならんのだ。
正直今のは心身ともにやばかった。少し休みたい。
「居間にいるから何かわからないことがあったら呼んでくれ」
ひと通り台所の説明をしたあと、居間のソファーに座り込む。
ようやく人心地がついた気分だ。俺は大きなため息をつく。
台所からはとんとんと食材を切る軽やかな包丁の音が響いてくる。
…………おかしなものだ。
何となく照れくさくて居間に逃げてきたというのに。
千反田の姿が見えなくなると気になりだすなんて。
俺は立ち上がり、台所のテーブルにつく。
千反田がちらっとこちらを窺ったが特に話し掛けてはこない。まあ火も使っているしな。
ポニーテールにエプロンという千反田の後ろ姿を眺めながら待つ。
やがてチン、とオーブンレンジの音が鳴り、料理の完成を告げた。
「お待たせしました、ちょっと遅くなってしまいましたね」
「いや、これくらい構わない」
遅すぎるという時間でもない。
ボリュームのある料理にはより腹を空かしておく方がいいしな。
今テーブルにはシーフードドリア、オニオンスープ、ポテトサラダが並んでいた。
文化祭の時にも思ったが、千反田は料理のレベルが高いようだ。
「じゃ、いただくとするか」
「はい、いただきましょう」
エプロンを外した千反田が椅子に座るのを待ち、手を合わせる。
さっそくドリアをひと口。
…………。
「おい、千反田」
「は、はい何でしょう折木さん?」
「どうやったらこんなに美味く作れるんだ?」
不安げにこちらを見ていた千反田がしばしきょとんとし、破顔する。
「お口に合いましたか?」
「ああ、予想以上だ」
お世辞でもなんでもない、ただ純粋にそう思った。
俺は大食というわけでもないのだが、やたら食がすすむ。
多めの量に少し心配だったが杞憂だった。どころか「おかわりはあるのか?」とか聞いてしまう始末である。
千反田は申し訳無さそうに、それでいてどことなく嬉しそうにもう米を使い切ったことを謝った。
まあ足りないわけではなかったしいいか。千反田が用意してくれたお茶をすする。
「ご馳走さん、美味かった」
「お粗末様でした。じゃ、洗い物しちゃいますね」
「いや、それくらいは俺がやる。全部任せきりというのは悪いからな」
「いえ、後片付けまでが料理ですから」
いつもならやらなくてもいいことならやらないのだが、何となく居心地が悪い。
俺は妥協案を出す。
「……なら一緒にやるか」
「はい!」
食器を流しに持っていき、千反田が洗い、俺が拭いて置き場に並べていく。
なんだろう、このくすぐったい感じ。これでは、まるで。
「な、なんだかこうしていると夫婦みたい、ですね」
その言葉にぴたりと俺の動きが止まる。心を読まれたかと勘ぐってしまう。
さすがの千反田も今の言葉は恥ずかしかったのか、頬を染めてこちらを見ようともしない。
まったく。どうして千反田は俺をこんなにもかき乱すのだろうか。
省エネをモットーとする俺の高校生活はこいつに狂わされっぱなしだ。
俺は作業を中断して千反田の背中側に周り、腹の辺りに腕を回してそっと後ろから抱き締めた。
「お、折木さん?」
千反田がわずかに身じろぐが、少し力を込めてその動きを封じる。
耳まで真っ赤にしながらも千反田は洗い物を再開した。
まったく。こんなのは俺の柄じゃない。
そう思いつつも腕の力が緩むことはなかった。
「あ、あの、折木さん、洗い物、終わりましたけど」
いつの間にか作業を終えていた千反田がこちらを振り向いている。
その戸惑っている表情に吸い込まれるように俺は顔を寄せ、唇を合わせた。
部室でしたような激しいやつでなく、ただ触れるだけ。
「ん……」
かすかな声を上げたのは俺か千反田か。
長く続けることなくすぐに唇を離す。
ほう、と千反田は艶っぽいため息をついた。その瞳が潤んで輝いている。
俺の胸の鼓動がすごいことになっていて密着している千反田に悟られないか不安になった。いや、悟られたところでどうということはないのだが。
それよりももっとくっつきたい、触れたい、色々したい。
やらなくてもいいことならやらない、やるべきことなら手短に。そんな省エネ活動をモットーにしてはいても。
やりたいことはやりたいのだ。
「千反田、ひとつ教えておいてやる。きっとお前が知らないことだ」
「なん……でしょうか?」
突然の俺の言葉に千反田が不安そうな表情でこちらを見る。
面と向かっては正直言いづらいが仕方ない。俺は千反田をしっかり見つめながら言う。
「多分、千反田が思っている以上に、お前が想像しているよりはるかに、俺は千反田が好きだ。自分でも戸惑うくらいに、どうしようもないくらいにな」
駄目だった。物凄く恥ずかしい。
俺は言い終わる前に目を逸らしてしまった。
「……折木さんっ」
身体を反転させ、しがみつくように千反田が俺に抱き付く。
顔を俺の胸に押し付けながら叫ぶように言う。
「わたしもっ、折木さんが、好きですっ! 大好きですっ! 頭がおかしくなってしまうくらい、折木さんのこと、想っています!」
俺は再び千反田の身体に腕を回し、抱き締め合う。
どきどきと聞こえる心臓の高鳴りは自分のか相手のか、はたまた両方か。
「折木さん、わたし」
千反田が言葉を発する。
「折木さんになら、何をされても平気です」
決定的な言葉を。
「だから、部室での続きをしてください」
「……多分今が引き返す最後のチャンスだが」
「わたしは折木さんにしてほしいんです」
「わかった……俺の部屋に行こう」
「……はい」
俺達は身体を離し、手を繋いだまま俺の部屋に向かう。