「ちーちゃんってさ、なんか最近ずっと機嫌いいよね」
「何か良いことでもあったんじゃないかな」
放課後の地学講義室、つまり古典部部室で里志と伊原がそんな話題を口にした。
もし千反田がこの場にいたらさぞかし慌てふためいたことだろう。
「ホータローは何か知らない?」
「知らん」
ペーパーバックから目を離さずに俺は里志に答えた。
当然俺は理由を知っている。というか機嫌のいい理由がこの俺だ。要するに俺と千反田が付き合い始めたからなのだが。
『二人に気を遣わせたりするのはどうかと思うのでこのことは秘密にしておこう』という言葉に、千反田は一瞬だけ不満そうな表情を浮かべたが、すぐに破顔して頷いた。
喜びを他と共有出来ないのは残念だが二人だけの秘密ができて嬉しい、といったとこだろう。
…………いつから俺は千反田専門心理学者になったのやら。
ふう、と溜め息をつくと里志がにやにやと話し掛けてくる。
「駄目だよホータロー、溜め息を一つつく度に幸せは逃げると言うよ」
「逆だろう、幸せが逃げると溜め息をつくんだ」
「なるほど、つまり」
里志は大仰なポーズをとる。
「少なくとも今のホータローは逃げるくらいの幸せを持っているということだね」
「お前のポジティブ思考がうらやましいよ」
まあ確かに。
幸せと言えば幸せなのだろう。
適度な学校生活を送り、適度な私生活を送り、好きな人がいて付き合っている。
平均的に見ても灰色というよりは薔薇色よりの高校生活だ。
特に薔薇色なんぞ求めていなかった俺が、だ。
思わず苦笑してしまう。
「……折木、気持ち悪いわよその笑い」
奇遇だな。俺もそう思う。
「さて、そろそろお暇しようかな」
「あ、あたしも」
里志が鞄を手に取ると伊原も立ち上がる。
「ホータローは?」
「もう少しでこれが読み終わる」
「まだいるってことね」
「じゃあ戸締まりは頼むよ」
「ああ」
「千反田さんが来たらよろしく言っといて」
「……ああ」
里志は何か気付いているのだろうか。いや、勘繰り過ぎだ。
しかし。
二人が出て行ってあと、窓の外を眺める。
まだ完全下校時間には余裕があった。それでも大した内容ではないペーパーバックの続きを一気に読んでしまおうという気にはならない。
つまるところ俺は。
千反田が来ないか期待しているのだ。
そして。
「あ、折木さんまだいらっしゃったんですね」
ガラガラと扉を開けながら千反田が入ってきた。
「ああ。用事は済んだのか」
「はい」
古典部部長として何らかの集会に参加していたらしい。ご苦労なことだ。
千反田は後ろ手に扉を閉め、真っ直ぐこちらに寄ってくる。
そのまま俺の隣に座り、黙ったままにこにこと笑顔を俺に見せた。
この無邪気に向かってくる好意が俺は苦手だ。簡単に言うと気恥ずかしいのである。
俺たちの関係を秘密にしているのも単に俺が恥ずかしいからというのが大きな理由だったりするのだ。
少し俺が身を引くとその分千反田が身体を寄せてくる。
「あんまりくっつくな、離れろ」
「えー、いいじゃないですか。誰も見てませんし」
何というか、こいつには危機意識はないのだろうか?
普段から省エネ省エネ言ってまるで枯れてる扱いをされてはいるが、俺だって一介の男子高校生なのだ。
ここは少しお灸を据えておかねばなるまい。今後の俺の平常心のためにも。
俺は千反田の肩に手を回し、ぐいっと抱き寄せる。
「きゃ……」
小さな悲鳴が上がるが抵抗はない。驚いただけのようだ。
ならば。
俺は千反田の身体を撫で回し始めた。
とはいっても背中や頭、腕あたりだが。
「お、折木さん?」
特に避ける素振りは見せない。
頬や首筋、そして服の上から鎖骨や腹などを指でなぞっていく。
「う、うう……」
これでも逃げないとは驚きだ。
が、これ以上はさすがに可哀相だろう。俺は両腕を離し、千反田を解き放つ。
「わかったか?」
「え、な、何がですか?」
「あまりくっつかれると俺が変な気分になる。少しは気を遣え」
「え、えと、わかりましたっ!」
突然ぐっと拳を握り締めたかと思うと、千反田はいきなりがばっと俺に抱きついてきた。
「! お、おい千反田!?」
「わ、私で変な気分になってしまったからきちんと責任を取れってことですね!?」
違う! 全然違う! 苦しいから離れろ!
しかし思ったことに反し、言葉が口に出てこない。
いい匂いがしたりいろいろ柔らかかったりで思考が混乱する。
それでもどうにかこうにか千反田を引き剥がした。
「お前、意味が分かって言ってるんだろうな」
その言葉に千反田は両手の指を絡めながらもじもじする。
「その、はしたないかもしれませんが……折木さんになら、いいです」
その顔は真っ赤に染まっていた。
続かない