「うむ、この問題はなかなか難しいね」  
「難しいって…これ習ったばっかりじゃない」  
「そうかい?クラスが違うから摩耶花のクラスだけ進んでいるのかもしれないよ」  
「だったらなぜふくちゃんの宿題に出てるのよ、ほら、考えて。わからなかったら教科書見て」  
 
放課後の地学準備室。私とふくちゃんは机をはさんでふくちゃんの宿題にかかり切りになっている。ふくちゃんの勉強の成績があまりに悪いので、怖くなった私が尻をひっぱたいて勉強させているのだ。  
本当は今は部活の時間だからわたしたちも部活をするべきなんだけど、そもそもわたしたちが所属している古典部はなにをするところかわからない。先月の文化祭で文集を発行してしまうと、次の一年間やることが無くなった。改めてすごい部だと思う。  
 
それでも、部室でこんな風に話しながら勉強していたら「うるさい」とか苦情がきそうなものだけど、さいわい古典部には部員が4人しかいない。わたしとふくちゃんは後から入った口で、最初の部員は部長の千反田さん。わたしはちーちゃんって呼んでいる。  
同じ日に折木も入部している。ちーちゃんは大きな家のお嬢様で、とってもいい子だから、知り合ってすぐ仲良くなった。折木は小中学校9年間同じクラスだったけど、ちっとも仲良くしたいとは思えない。あ、ふくちゃんの名前は福部ね。  
 
今日はちーちゃんはまだ来ていない。折木は一人で勝手に本を読んでいるだけだから、私は安心してふくちゃんに檄を飛ばせる。折木はそのくらいでは文句を言わない。あいつは基本的に文句を言うことすらエネルギーの無駄だと思っている。  
 
ちーちゃんが来たらちゃんと話を通して静かに勉強しよう。  
 
そんなこんなで、ちっとも勉強が進まないふくちゃんをどうやって追い立てるかプランを練っているうちに、下校時間も近づいてきた。今日はどうするんだろうと心配したころになって、やっと、ちーちゃんがやってきた。  
 
「みなさんこんにちは。遅くなりました」  
「あ、ちーちゃん」  
「おう」  
「やあ千反田さん」  
 
地学講義室に入ってきて、丁寧にお辞儀をしながら挨拶をするちーちゃんに、わたしたちは思い思いに挨拶をした。こうしてみると、ちーちゃんはきちんとしているのに、わたしたちはいかにもだらしない高校生って感じだ。  
折木に至っては読んでいる文庫本から顔すら上げなかった。  
 
ちーちゃんのほうはみんなに笑顔を返した後、「すみません、すこしうるさいかもしれません」と言いながら準備室のほうに歩いて行った。  
 
「どうしたの?」  
「地学の城山先生から、世界地図を持ってくるように言われたのです」  
「世界地図?地図帳じゃなくて?」  
 
ふくちゃんが数学の宿題から顔を上げる。ほら、宿題やって。  
 
「はい、大きな地図が必要だそうで」  
「ねぇそれって」  
 
私はふと気になって口を開いた。  
 
「くるくるって巻く奴?」  
「はいそうです」  
 
それって、相当重いのでは。と、口にする前にごとりと音がして折木が立ち上がった。  
 
「千反田、そういうことは先に言え。重いだろう。俺が運んでやる」  
「でも、城山先生から用事を言いつけられたのはわたしですよ」  
「場合によりけりだ。そもそも城山の授業の手伝いに古典部が借り出されることが変だ。だったら誰がやってもおなじだろう」  
「そういわれてみればそうですね。じゃぁ、お言葉に甘えさせていただきます」  
 
表情ひとつ変えずに準備室に入っていった折木の後を追って、ちょっとうれしそうなちーちゃんも準備室に消える。その二人を目で追いながら、ふくちゃんをつついて宿題に向かわせる。  
 
地図は簡単に見つかったらしく、すぐに折木とちーちゃんが出てきた。  
 
「福部さん、摩耶花さん。わたしたちは地図を職員室に運んできますね」  
 
長い棒に巻き取られた地図をぶら下げた折木の後ろを歩きながら、ちーちゃんが微笑んだ。でも、折木は違うことを考えていたらしい。  
 
「いや、俺はこのまま帰る。もう遅いから戻ってくるのも面倒だ。千反田、お前はどうするんだ?」  
 
面倒くさがりの折木らしい。折木は地図を机の上に一旦置いて、さっきまで本を読んでいた机に戻ると、鞄に本を入れてとってかえした。ちーちゃんはちょっと迷っているようだった。人差し指を唇に当てて考えている。  
 
「私は今日は部室にいませんでしたので、戻ってこようかと」  
「よく、そんな面倒なことができるな。もうすぐ下校時間だろう」  
 
折木が顔をしかめている。ちーちゃんを思いやってではない。あれは、ちーちゃんが二往復するという事、そのものにおののいている表情だ。  
 
「それもそうですね。それでは福部さん、摩耶花さん。私もこのまま今日は失礼します。戸締りをおねがいできますか?」  
「うん、戸締りはしておくから。ちーちゃん気をつけてね」  
「ホータロー、千反田さん、また明日」  
 
適当に挨拶して部室を出て行く折木の後ろで、ちーちゃんはやっぱり丁寧にお辞儀をして教室を出て行った。  
 
部室には私とふくちゃんだけになった。  
 
急に静かになった部室でひとつため息をつく。振り返ってふくちゃんのほうを見ると目があった。  
 
「摩耶花、どうかしたかい?」  
 
宿題をしろと言わない私をいぶかしんだのか、ふくちゃんがいつもの微笑みで私に言葉をかける。  
 
「ふくちゃん、折木って最近、変じゃない?」  
「ホータローはいつだって変だよ」  
 
確かに変な奴ではあるけど、私が言いたいのはそういう事じゃない。  
 
「変だけどさ、最近あいつ、ちーちゃんの事、よく手伝っているよね」  
 
そう言うと、ふくちゃんは「にーっ」って感じで口の端で笑った。  
 
「さすが摩耶花。よく気がついたね」  
 
一応褒められてはいるようだけど嬉しくはない。あんなの誰だって気がつく。  
 
「気がつくわよ。あいつ、どうして自分から手伝っているのかしら。あんな奴じゃなかったわよね」  
 
折木はめんどくさがり屋だ。なんでもかんでも、面倒か面倒ではないかで物事を判断しようとする。怠け者、と言うわけではないけど、自分から人の手伝いなんて、あいつはエネルギーの無駄だと思っているはずだ。なのに最近、折木はちーちゃんの事をよく手伝うようになった。  
 
「摩耶花はなぜだと思う?」  
「わたしは…やっぱり折木ってちーちゃんのことを」  
 
声が小さくなって尻切れトンボになったけど、ふくちゃんには伝わった。  
 
「うん、やっぱりそう考えるよね。それまでぶっきらぼうだったホータローが急に千反田さんに優しくなったようにみえるもんね」  
「違うの?」  
 
ふくちゃんは違う、って言いたそうな話し方をしている。  
 
「確証はないよ。でも、違うと思う」  
「どうして?」  
 
そう来ることを待っていたのだろう。息を大きく吸って得意満面と言った表情でふくちゃんが私に話す。  
 
「ホータローの性格をたとえるなら、猫さ。僕は犬だね。僕は犬だから隠し事はあまりしない。摩耶花への気持ちだっておおっぴらさ。でも、ホータローはそう言うタイプじゃない。千反田さんが好きなら、彼はそれを秘するだろうね」  
「わたしへの気持ちはうれしいけど、だったら早く付き合ってよ」  
「いやそれは」  
 
ふくちゃんがあせった顔でのけぞる。  
 
「ちゃんと話したじゃないか」  
 
ちぇっ。でもまぁ、ふくちゃんの言うことには一理ありそうだ。折木はちーちゃんの事が好きなら、それを隠すだろう。  
 
「折木がちーちゃんの事を好きじゃないのなら、どうして手伝っているの?急にこんな風に優しくなるのは変よ」  
 
仮に気の迷いで急に優しい人間になったとしたら、折木はみんなに優しくなるはずだ。でも、実際にはちーちゃんにだけ優しくなっている。  
 
「そうだね。変に思える。ところがさ、ホータローに限って言えば、それほど好意を抱いていなくても、いそいそと千反田さんを手伝うってことがありえるのさ」  
「どうして?」  
 
思わせぶりに言葉を切るふくちゃんを促す。  
 
 
 
 
 
「やらなくてもいいことなら、やらない」解決編  
 
 
ふくちゃんは楽しくてしょうがないと言った風で言葉を続けた。  
 
「文化祭のとき、ホータローは文集作りの面倒なところをぜんぶ千反田さんと摩耶花にまかせっきりにしてたよね」  
「折木だけじゃなくて、ふくちゃんもまかせっきりだったじゃない」  
 
ひとにらみすると、ふくちゃんが額に汗を浮かべて愛想笑いを浮かべた。なんだか、ふくちゃんと居ると私は女の子らしさを失っていくんじゃないかって思うことがある。  
 
「ははは、そうだね。でもさ、考えてみてよ。文化祭はともかく普段から全部千反田さん任せだよね」  
「そうね。私もあまり手伝ってないし」  
 
私が入部したときから古典部の部長はちーちゃんだった。古典部はほとんど活動がないので、部長は忙しくないってちーちゃんは言ってる。それに甘えているんだけど。  
 
「もし、このまま千反田さんがどんどん忙しくなってあまりに負担が大きくなったらどうなると思う?」  
「そんなに忙しくならないと思うんだけど」  
 
古典部は暇だし。  
 
「可能性の話だよ」  
「みんなで手伝おうって話になるかしら」  
「そうだね。だけど、ホータローは一歩踏み込んで考えているかもしれない」  
「どんな風に」  
 
わたしはふくちゃんの言葉を待った。ふくちゃんはとても嬉しそうに、これこそが肝心なのですって感じの大げさな表情でゆっくりと言った。  
 
「古典部副部長職を設立しようって話になるかもしれない」  
「そうかなぁ」  
 
突飛な話だ。  
 
「副部長職設立は合理的だよ。千反田さんの仕事には、公式行事や先生に絡んだ仕事もある。そうすると、手が空いている人がやるってだけじゃ済まない可能性があるだろ」  
 
それはそうだけど。  
 
「もともと副部長が居ない方が不自然なんだよ」  
「じゃぁ、折木は…」  
「そう、これは可能性だけどね。ホータローは副部長職を作らせないために千反田さんをそこそこ手伝っている可能性があるんだよ。もし副部長を選ぶとなったら、ホータロー以外に居ないからね。そうなったら大変だ。  
副部長である以上、普段から千反田さんの仕事を手伝わなきゃならない。ホータローの嫌いなエネルギーの浪費が毎日毎日彼に降り注ぐことになる」  
 
なんだか、どっと力がぬけた。どこから突っ込めばいいのかわからなくて大きく深呼吸した後、とりあえず手近な所から突っ込むことにした。  
 
「あいつ、どう考えても副部長ってタイプじゃないわよ」  
「そうだね。でもタイプかどうかは関係ないよ。摩耶花には図書委員と漫研があるだろ。僕には手芸部と総務委員がある。どう考えても、公職をやるなら古典部専業のホータローが適任なんだよ。部長の千反田さんだって古典部専業だしね」  
「副部長を選ぶのに消去法なの」  
「そうさ。シャーロック・ホームズだって消去法を大事にしてる。で、もし、ホータローがこの線で考えているなら実に興味深いよ。彼のモットーは『やらなくていいことなら、やらない。やらなければいけない事なら、手短に』だからね。  
本当は千反田さんを手伝う気はないんだ。それはホータローにとっては『やらなくてもいいこと』だから。でも『副部長』を避けるための『やるべきこと』として手伝っているってことは十分あり得るんだよ。  
本当にそうだとしたらホータローの損益分岐点はどこにあるんだろうね。彼は副部長職によるエネルギーの浪費を避けるためになら、どのくらいまでエネルギーを費やしていいと思っているんだろう」  
 
あまりにばかばかしくて、あまりにも正直な意見を言ってしまった。  
 
「なんだか最低」  
「これはあくまで仮定だよ。本当にホータローがそう思っているかは僕は知らない。それに、本当にそうだとして、悪いことだと思わない」  
「どうして?」  
 
わたしはふくちゃんの瞳に釣り込まれるように質問をした。  
 
「ホータローは誰も傷つけていないだろう」  
 
確かに誰も傷つけていない。でも、あまりに酷い話ではないだろうか。  
 
「それはそうだけど」  
「偽善だって実行に移せば何もしない善より善いことさ」  
 
じゃぁ、ちーちゃんの気持ちはどうなるの?と聞こうとして、私は口を閉じた。私はちーちゃんの気持ちを知らない。折木に手伝ってもらうとき、ちーちゃんは嬉しそうに微笑んでいる。でも、誰だって手伝ってもらえれば嬉しいから、これじゃ何とも言えない。  
わたしはひょっとしたらあれこれ勘ぐりすぎているかもしれない。ちーちゃんの負担が減るのなら、これでもいいのかもしれない。  
 
文化祭の時、折木から借りた『夕べには骸に』を私から守るように胸に抱きしめたちーちゃんを思い出す。  
 
「で、ふくちゃんはどっちだって思っているの?」  
「どっちって?」  
「折木はちーちゃんの事が好きだから手伝っていると思う?それとも、副部長が嫌だから手伝っていると思う?」  
 
少し、間があった。  
 
「そうだね。ホータローは…」  
「折木は?」  
「…鈍いからなぁ」  
「そう」  
 
何となくふくちゃんが言っていることがわかるような気がした。だってわたしも折木に同じようなことを感じたことがあるから。でも、だとしたら、いや、そうじゃないとしても、わたしが首を突っ込む事じゃない。  
 
「何となくわかったわ」  
「めんどくさいよね、ホータローって」  
 
にっこり笑うふくちゃん。ふくちゃんの言うとおりだと思うし、ふくちゃんの笑顔は大好きだけど、今はそれを言う時じゃない。わたしは小さくため息をついた。  
 
「めんどくさいのはふくちゃんも同じよ。どうしていちいち催促されないと宿題もしないの?さ、早く終わらせて。あと20分で下校時間よ」  
 
大げさに頭を抱えて宿題のプリントに向かうふくちゃんを見ながら思った。男の子って、みんなこんなにめんどくさいのだろうか。  
 
(おしまい)  
 

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