腕の中に抱き寄せられて、ため息をついた。  
 
デートの終わりは軽い散歩。ゴールデンウィークだから夕方もだいぶ明るいんだけど、少し暗い人目につかない場所なら、不埒な二人はキスくらいできる。  
 
不埒と言えば、ふくちゃんくらい不埒な男の子はそうはいない。乱暴とか無謀とか無知とかといった言葉とは無縁だけど、ふくちゃんは精神的に不埒なんだと思う。  
 
わたしはと言えば、不埒とはほど遠い。けれど、なぜだかふくちゃんに振り回され気味。付き合う前はこんな風になるとは思ってなかった。ふくちゃんも少し驚いているんじゃないだろうか。  
わたしは学校では堅物の強気キャラで通っているし、ふくちゃんも柳に風って感じ。それが付き合ってみたら少し違ってた。  
 
もちろんたいていはいつも通り。映画を見るときも、ウィンドーショッピングも、おしゃべりも、ご飯のときも、たいていはいつも通り。どちらかというとわたしが振り回して、ふくちゃんはおとなしく振り回される方。  
でも、腕を掴まれると、わたしは急に弱くなるって気がついた。腕を掴まれて、ふくちゃんに引き寄せられて、その腕の中に収まってしまうと、わたしはもう駄目。  
 
初めてのキスの時だって、ロマンスのかけらもないような場所だったから文句のひとつも言おうと思ったのに、いざとなると、文句なんか出ない。腕の中でため息をつくのが精一杯。多分それがふくちゃんにもわかっているのだと思う。  
段々大胆な場所で抱き寄せられたり、唇を奪われるようになった。それでも、出るのはため息ばかり。後で文句を言うわけにも行かない。だってわたしだって喜んでる。  
 
ふくちゃんの腕の中で、わたしは何もかも忘れる。月曜日の勉強の予習も、来週に終わらせなければいけない課題も、まだ少し引きずっている漫研のごたごたも、濃い霧に包まれたようにわたしの視界から消えてしまう。あるのはふくちゃんの腕の中に居るという安心感だけ。  
口にできるのはふくちゃんの名前だけ。  
 
なんて思っていたら、  
 
「ねぇ、ふくちゃんは私の事抱きたい?」  
 
とんでもないことが口をついて出てしまった。自分の言葉に体がびくっと震える。いくらふくちゃんの腕の中が心地いいからって、安心するにも程がある。ずっと考えてたことがだだ漏れにになってしまった。まだ肌寒いのに体が熱くなって背中に汗が出てくる。  
 
「そうだね、もちろん抱きたいよ」  
 
そんなことを言われてますます汗が流れる。心臓が早鐘のようになっているのがわかる。どうしよう。ふくちゃんが望むのなら、わたしは7割くらいは覚悟ができていると思う。でも、今日はタイミングが少し悪い。といって、言い出したのはわたしだから断るのも変だ。  
 
身を固くしてそんな心配をしていたわたしの頭の上に、ふくちゃんの手がぽんと置かれる。  
 
「でも、今日は抱かない。しばらく先の話だね」  
 
そんなことを言われて、言葉の意味を考えてしまった。ここは『わたしに魅力がないから?』などと膨れてみせるべき所だろうか。たとえそう思っていなくても。  
 
「どうして?」  
「答えることはできるけど、その前に質問していいかな」  
「うん、いいよ」  
 
本当は質問に質問で返されるのは嫌いだけど、今はふくちゃんの腕の中だから、わたしには何もできない。  
 
「摩耶花は僕に抱かれたいのかい」  
 
花の乙女に何てことを。ストレートなところがふくちゃんの魅力だとはいえ、これは酷い。でも、話の口火を切ったのはわたしだ。  
 
「覚悟はできていると思う。でも、ちょっと怖いかな」  
 
正直な気持ちを口にした。ふくちゃんが喉の奥で笑う。馬鹿にされたのではないと思う。  
 
「じゃぁ、先のことでいいよ。僕は今はこうしていたい」  
「いいの?」  
「摩耶花のこんな所は貴重だからね」  
「……」  
「だって考えてご覧。あの摩耶花が、僕の腕の中でだけ、安心したようなため息をついてじっと抱き寄せられるがままになっているんだよ。誰にも見せない姿を僕だけに見せてくれているんだ。男冥利に尽きるね。僕にとっても至福の時間さ。  
腕の中のこんな摩耶花を感じられるなら、自分の欲望なんて少しくらい横に置いておけるよ」  
 
そっか、と思った。やっぱりふくちゃんはわかっている。彼の腕の中がわたしにとってどれほど大切な場所なのか、ちゃんとわかってくれている。ふくちゃんを選んで良かった。そして、ふくちゃんがわたしを選んでくれて良かった。待った甲斐があった。ため息が漏れる。  
 
でも、もう一つわかった。ふくちゃんはわたしたちが深い関係になったら、わたしが変わってしまうかもしれないと思っている。自分も変わると思っているかもしれない。  
 
ふくちゃんに抱かれたら、わたしは変わるのだろうか。こんな風に目を閉じて、腕の中でわたしを痛めつける世界を忘れることもできなくなるのだろうか。大人になるとはそういう事だろうか。  
 
「寒くないかい?」  
「こうしていると暖かいよ」  
 
そう、とても暖かい。ふくちゃんの腕の中にいるだけで、わたしは外の世界の寒さも、つらさも忘れる事ができる。ふくちゃんはわたしの理解者だ。誰も気づかないようなわたしの表情を読み取って、笑ったり、気遣ったりしてくれる。  
 
その彼に、きっとわたしは初めてを捧げることになる。それはまだちょっと怖いけれど、今はこうしてふくちゃんの腕の中で目を閉じて、未来の怖さも忘れていよう。  
 
(おわり)  
 

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