忍ぶ恋、という言葉がある。  
 
読んで字の通り、人目を忍んで逢瀬を重ねる恋である。忍ぶ事情は様々で、陽の下にさらされれば後ろ指を指される間柄ということもあるだろうし、単に周囲の人に恋愛状態であることを知られたくないと言うだけのこともある。  
中学生程度であれば、付き合っていると友達にばれるだけで冷やかされることもあろう。もちろん、そういう事を意に介さない人間も居る。  
 
人目を忍ぶと言うことは露見しないよう努力をするということであり、努力をすると言うことはエネルギー消費量が増えると言うことである。ということは、省エネ主義を標榜する人間にとっては、とんでもないポリシー破りと言えるだろう。  
大量のエネルギーを消費しながらクラブ活動に精を出す運動部の姿を見ながら窓際でそんなことを考えたのも、もう何回目かわからない。  
 
神山高校は文化系クラブ活動の盛んな学校である。文化部の数は大小合わせて五十有余。秋の文化祭は毎年3日間行われ、その間の文化的どんちゃん騒ぎの賑やかさは校区を越えてなかなかの知名度を誇っている。  
 
今、俺が…折木奉太郎が…いつもの自分の定位置を離れ窓際に腰掛けて静かに外を眺めている地学講義室も、そんな多くの文化部の一つ「古典部」の部室として割り当てられており、その部屋で外を見ている俺は神山高校3年生にして紛れもない古典部部員である。  
 
ところで古典部とはなにか。  
 
この典雅な名前のクラブがどんな部であるかというのはまず以て初見の方にはわからない。一言で言うと、というか一言で十分なのだが、古典部とは文化祭に向けて文集を作るクラブである。他にこれといった活動はない。  
そう言うと我々古典部員はとんでもない怠け者のように聞こえるが、どっこい、これで2年前、部員が居なくなって廃部の危機にあった古典部を救ったのは当時新入生だった我々3年生である。  
 
救ったからと言って別に働きものというわけにはいかないか。  
 
運動部と違って、というか、ほとんどのまじめな部活と違って活動に血道を上げると言うことをしない我々古典部は、普段することがない。従って、部室に来るか来ないかは文集を作っている間を除けば任意だし、来てもたいていは本を読んでいたり、  
邪魔にならない程度のおしゃべりに興じたり、酷いときにはお菓子をつまんだりと言うことをしている。要するに、我々は部活としてはきわめてずぼらである。文集のバックナンバーを読むに、どうやら諸先輩方も同様だったらしい。  
 
よく、お取りつぶしにならなかったな。  
 
では、その活動がきわめて低エネルギーな古典部が、省エネ高校生である俺にとって安住の地であったかというと、じつのところそうでもない。ずいぶんといろいろな騒動に巻き込まれたものだ。  
 
いや、誓って言うが、居心地が悪いわけではない。通年で言えば古典部の居心地の良さはなかなかのものである。同じく部員であり、中学生時代からの友人でもある福田里志は俺と違ってあれこれアクティブだから、古典部へ顔を出す頻度もだいたい二日に一度である。  
一方、部活以外に何もやることのない俺は、放課後のほとんどを本を古典部で読むことで費やしている。図書館で読めばいいと思う事なかれ、部員が未だにたった5人で平均出席率が6,7割という古典部は、妙な騒動さえなければなかなかのプライベートスペースである。  
 
だから今日も俺は日頃の習慣に従って部室に来て本を開いたのだが、30分もしない内に閉じてしまった。本が退屈だったわけではない。古本屋のワゴンから1冊70円で掘り出したこの学園ミステリはなかなかおもしろい。  
特に、主人公とヒロインが自身の能力や性格を社会不適格な獣性と見なして隠しているところがユニークで、つまりは彼らが難事件を解決すると、読者にはカタルシスが、登場人物には苦い思いが与えられるようになっている。今読んでいるのはシリーズ第二部の夏の話で…  
 
話がそれた。  
 
本は掛け値無しにおもしろいのだ。だが、頭に入らない。今日だけではない。最近はこんな事が多い。かろうじて授業中くらいは集中力を保っているが、休み時間となるともう駄目だ。休み時間に何かを全力でやる習慣は俺にはないから、集中力を保てないことが問題なのではない。  
雑念が問題なのだ。ここ数日、いや、いらぬ強がりはやめて正直に白状しよう。数ヶ月にわたって俺をじわじわと追い込んでいる雑念が、ゆっくりと本を読むことを許さないのだ。本を開けてもストーリーに没頭できず、活字を追っても頭に残らない。  
こうなると一種の精神的な病と言っていい。  
 
雑念など無いかのように白球に向かって走る球児達(がんばれ、たとえ予選3回戦までいけなくても、俺は君たちを応援する。試合を見に行くのはごめんだが)を見ながら、目を細める。ああいう、がむしゃらな連中でも俺と同じような病にかかるのだろうか。  
今は6月の頭だが、この時点で心に病があるようでは、甲子園などおぼつかない気もする。  
 
ふっと、ため息をついたときに、後ろから耳に心地よい小さな声が俺に呼びかけた。  
 
「あの、奉太郎さん。なにか心配なことでもあるのですか?」  
 
運動場から視線を戻して振り返る。少し離れたところに立っている少女と目が合う。そして、周囲の気配を探りつつ小さな声で警告する。  
 
「千反田、下の名前で呼ぶのは二人きりのときだけだと言ったはずだぞ」  
 
夏服に替わったばかりの制服に身を包む、髪の長い少女がちょっとだけ不満そうな顔をする。千反田える。ずいぶんとハイカラな名前だが、土地の豪農千反田家の息女である。  
そして友達や後輩にまで敬語を使い、見た目から所作までとことんお嬢様然とした彼女こそ、古典部部長にして俺の心の病、つまり、恋患いの根本原因なのだ。  
 
その千反田が、かくんと小首をかしげる。  
 
「でも、部室にはわたしたち二人だけですよ」  
 
俺はもう一度小さなため息を漏らす。千反田、その油断はやがて俺たちの足をすくうぞ。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
広辞苑によると、恋患いは恋煩いとも書く。言い得て妙である。寝ても覚めても千反田の事が頭から離れない俺の今の状態は、まさに恋によって煩わされていると言っていい。  
どのくらい煩わされているかというと、わざわざ図書館に足を運んで広辞苑で恋患いと言う言葉を引くくらいだ。何をやっているんだ、俺は。  
 
広辞苑に書いていなかったことがある。いや、明言されていなかったと言うべきか。恋患いは片想いだけとは限らない。俺は勝手に片想いのときだけ恋患いにかかるのだと思っていた。そうでないと知ったのは、千反田とつきあい始めてからである。  
 
告白したのは俺からだ。どちらが先に好きなったかは知らない。  
 
俺が千反田を気にし始めたのは去年の雛祭りからである。お雛様に傘をさす人の代役としてかり出された俺は、十二単を羽織った彼女に付き添って町を練り歩いた。この町では生き雛祭りといって、年頃の少女にお雛様の格好をさせる習わしがある。  
自分が千反田えるという女の子を好きだと自覚したのは、あのときだった。ああ、そうか。これが恋なのかと思った。  
 
実に甘かったと言えよう。  
 
割と落ち着いていた。意外に何ともないな、などと思っていた。それなりに思うことはあって、やるべき事はやっていたが、事態の深刻さに俺は全く気がついていなかったのだ。それはゆっくりと俺の生活に忍び込んできた。  
始めは自覚がなかった。だが、段々、千反田の事が気になるようになってきた。なんの本を読んでいるのか、どんな話をしているか。  
 
今日はどんな顔で笑っているのか。  
 
我ながらストーカーじみていると思ったが、気がつけば目は千反田を追っていた。まずい、と思った。「やらなくてもいいことはやらない。やるべき事は手短に」をモットーとして掲げる俺は、もともと恋愛と省エネ主義は両立しないのではないかと危惧はしていた。  
いつかはその日が来るかもしれないという覚悟もしていた。だが、両立しないどころではなかったのだ。俺はあっさり、恋愛に関する限り省エネ主義を捨てて白旗を揚げた。俺の心は、こと千反田に関する限り、毎日猛烈な勢いで空回りをしたのだ。  
何一つ仕事をせずに回転運動をするだけとは、なんというエネルギーの無駄遣い。  
 
落ちてしまえば、恋とは本当にたちの悪い病である。第一に、前述のごとくモットーなんかどうでも良くなった。第二に、隠すのが大変だった。第三に、いつ平癒するのかわるのか想像もつかなかった。  
 
◇ ◇ ◇ ◇   
 
だが、人に言えない恥ずかしい病に身をよじる俺は、ほどなく新たな問題に襲われることとなった。今年の1月の終わり頃の話である。俺は疑念を抱いたのだ。  
 
最初にその疑念が頭に浮かんだのは、忘れもしない。部室で里志と馬鹿話をしていたときだった。西南戦争当時の情報伝達速度の調査に熱を上げていた里志は、俺に調査結果を得意満面で説明していた。といっても、奴はおしゃべりではない。  
何か別の話をしているときに偶然そんな話になり、当時奴を魅惑していた昔日の通信システムについて、簡潔にして要を得た説明をしていたのだ。暇だった俺は奴の話に相づちを打ちながら時折突っ込みを入れていた。  
 
おおむね奴の解説が終わった頃だろうか、いや、終わったかどうかは分からないが、俺としてはそろそろ話のまとめが来ると思っていたそのとき、同じく古典部員の伊原摩耶花が話に割って入ってきた。何の話だったかは覚えていない。  
俺には関係ない話だった。小柄で整った顔立ちの童顔という、一言で言うとかわいらしい女の子である伊原には、里志も俺も逆らわない。里志は伊原と付き合っているから当然恋人に甘く、  
俺はと言うと迂闊なことを言えばまさに寸鉄人を殺すような具合でぴしりと理不尽な言葉を投げられるに決まっているからだ。  
 
こいつは里志には付き合い始める前からふくちゃんふくちゃんと親しげだが、俺には無愛想だ。おそらくは俺のことを毛虫以上には見ていないはずである。  
 
とにかく、里志の話しがいったん途切れて、俺は目の前の里志から目を離した。そして視線を泳がした先で、千反田と目があった。なぜ目があった?俺を千反田が見ていたから。なぜ見ていた?なぜだろう。目があったのはほんの2秒程度だったと思う。  
俺は何事もないように視線を外すと、  
 
「さて、俺はもう帰るぞ」  
 
と、いつものように勝手に宣言して鞄を持ち、古典部部室を後にした。突然頭の中に走った考えをもてあましたからだ。  
 
千反田えるは、俺のことが好きだ、と。  
 
心臓は今にも発作を起こしそうなペースで脈打っていた。  
 
◇ ◇ ◇ ◇   
 
我ながら突拍子もないと思った。手前味噌にもほどがある。しかし、頭に浮かんだその考えを払いのけるのは難しかった。だから、俺は、帰り道にその考えを吟味することにした。  
 
この町の冬はなかなかに寒い。豪雪と言うほどではないが、結構な雪も降る。冷たい風が頭を冷やすに任せ、時折、足下に気を取られながら俺は千反田のことを考えていた。  
 
第一に、千反田は俺のことを友達だと思っている。これは間違い無いと言っていいだろう。今更、「友達だなんて思っていません」等と言われたら部屋に引きこもるほどショックを受けるだろうが、千反田には俺が知る限り秘密はあっても裏表はない。  
普段の言動からして俺のことを友達だと思っているのは間違い無い。  
 
第二に千反田は俺のことを信頼してくれている。これは少しうぬぼれが入っている可能性もあるが、間違い無いと思っていい。古典部に入部したての頃、つまり、彼女と知り合って間もない頃、千反田は俺を休日に呼び出して、個人的な相談を持ちかけたことがある。  
後に里志が「氷菓事件」と呼ぶことになるそれは、彼女にとっては人生の重大事の一つだった。そんな重大なことを、千反田は里志でも伊原でもない、俺に真っ先に相談した。  
それから雛祭りの傘持ちの役もそうだ。わざわざ俺を呼んだのは、俺に彼女の世界を知って欲しかったからだと千反田は言った。  
 
さらに、俺が嫌々巻き込まれて解決したいくつかの事件について、はっきりと千反田は俺を賞賛している。もっとも、巻き込んだのはほぼ常に彼女だが。  
 
第三に、俺は千反田が好き。これは間違い無い。  
 
 
千反田と俺の関係性について、事実として分かっているのは以上の三つ。最初の二つは千反田が俺を好きという仮説に対する補強要素であり、最後の一つは危険要素である。人はそれを目が曇るという。  
 
さて、これだけの前提を元に、今日、千反田が俺を見ていたことをもって、彼女が俺を好きと言えるだろうか。  
 
答えは否。  
 
どんな角度から吟味してもあり得ない。下校中にたっぷり1時間かけてその結論を得、さらに食事後に二時間、寝床に入って1時間再検討したが、あまりにもこの仮説は飛躍しすぎていた。俺は疲れ果てて寝た。  
 
◇ ◇ ◇ ◇   
 
きちんと袋に入れ、燃えないゴミとして捨てたはずだったが、程なくして「千反田は俺のことが好きなんじゃないか」といううぬぼれ仮説は再浮上することになる。そいつは苦い顔で何度たたきつぶしても浮上してきた。俺が悪いんじゃない。千反田に変調が出てきたのだ。  
 
彼女はこっそりと俺を横目で見ることが多くなった。話しかけるとぴくりと身体を震わせて目を泳がせることが多くなった。「わたし、気になります」と言って俺を困らせることが減った(これは歓迎すべきことだ)。  
俺じゃなくて里志に質問をするようになった(これは看過できないことだ)。以前は最後の二人になったとき、俺が帰ると一緒に戸締まりをして出ていたが、それをやらなくなった。  
 
結論。千反田は俺を意識している。  
 
だがどっちだ。彼女は俺を好きになったのか。それとも、俺がちらちらと横目で千反田を追っていることがばれて、ヤダ、キモイ、あっち行ってと思っているのか。もし後者だったら当時の俺は、首吊りでもしかねない状態だった。  
いや、今でも変わらないが。あまり丈夫なロープを身辺に置いておくのはまずいかもしれない。  
 
とにかく、真偽不明のまま、事態は進行した。そう、あろうことか事態は進行したのだ。千反田の変調は日々進行し、挙動不審は頻度が多くなった。俺が一人でいるときにこっそり戸口から俺のほうを見ていた。忘れ物が増えた。人の話を聞き落すことが多くなった。  
 
ここに来て、俺は進退窮まったと思った。千反田は、明らかに俺との関係に変調をきたしている。それは、いつ周囲に露見するとも限らない。いや、すでに露見しているかもしれないが、それをいつまで周囲が口にせずに居てくれるかきわめて不安だった。  
仮に周りからその変調を指摘でもされたら、彼女は火を噴くほど顔を赤くし、言葉も出せずにおろおろするだろう。泣くかもしれない。  
 
以前の俺なら、知ったことかと無視できた。千反田の問題だ。俺の問題ではない。省エネを掲げる高校生としては、何らかの理由で舞い上がってそれを指摘されて泣くような女の子が居ても、肩を抱き寄せて「泣かなくていいんだよ」などと優しく声をかけたりしない。  
それはやらなくてもいいことだからやらない。  
 
だが、事情が違った。すでに千反田にどっぷりとはまっていた俺にとって、彼女が泣くなどと言うことは想像するだけで胸が張り裂けそうな事態だったのだ。自分の胸が痛む以上、これはやらなければならない。  
事態が破綻する前に、つまり、千反田が泣く前に何とかしなければならない。  
 
たっぷり一晩考えて出した千反田えるにとって最善の策は、折木奉太郎にとっては最悪の策だった。告白するしかない、と思ったのだ。仮に千反田が俺を好きならば、彼女はOKを出して俺と付き合うだろう。たぶん。そう願いたい。  
そうすれば、今の挙動不審は消えるはずである。根拠はないが。  
仮に千反田が俺を好きでない場合、俺と彼女の関係はぎくしゃくするだろう。俺がそれに耐えられるかは極めて怪しかった。あらためて、何度里志に断られてもめげなかった伊原のタフさ加減に尊敬の念を抱いた程である。  
俺は心底震え上がったが、やるしかなかった。玉砕しても、彼女に「今、お前って変だぞ」とメッセージを送ることは出来る。  
 
ちなみに、告白せずに、「お前、変だぞ。俺のことちらちら見ているだろう」と忠告することは、シミュレーションの結果最悪以下の結果をもたらすと分かった。この場合、千反田が俺に好意を持っていても付き合うことはできず、好意を持っていなければ関係がぎくしゃくする。  
 
嫌な結論だったが、逃げようがなかった。やるべき事なら手短に、が、しばらくないがしろにしていたとはいえ、折木奉太郎のモットーである。告白してOKをもらえる確率は50%だと踏んでいた。もし千反田の変調がなかったら、俺からは告白しなかったろう。  
 
◇ ◇ ◇ ◇   
 

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