ぎりぎりまで粘るならもう少し二人で抱き合っていてもよかったが、俺は早めに切り上げることにした。ゆっくり歩いて帰るためだ。「える、歩けるか。痛くないか」などと陽の下で聞きたくない。ひどい辱めだ。  
 
千反田にシャワーを浴びさせ、入れ替わりに俺もざっと浴びる。俺のからだなぞ、洗わなくてもいいとも思った。が、千反田の香りがわずかに移った体を意識して平気な顔で街を歩けるかどうか、俺には自信がない。  
 
「お待たせ」  
 
脱衣所から出ると、白いワンピースに身を包んだ千反田が、ベッドに腰かけたまま微笑んだ。そして、頬を染めて心持ち顔をうつむかせる。さすがに目を合わせにくいか。横に帽子が置いてある。  
 
「帽子、しわになったな」  
「ひどい雨でしたから、しかたありません。奉太郎さんの服は乾きましたか?」  
 
幸い、あらかた乾いている。正確にいえば、靴下だの下着が少々気持ち悪いが、歩いていれば全身ぱりっぱりに乾くだろう。少し雨くさいかもしれない。  
 
「その」  
 
と、言葉を切る。  
 
「痛くないか」  
 
千反田がゆるゆると首を振る。痛くない、と。聞けばデリカシーに欠け、聞かずばいたわりにかける。俺がこんな事をうまく扱えるようになる日が来るかどうかはなはだ疑問を感じる。もっとも、この件に関しては、この一回限りだ。  
 
「出るか」  
「はい」  
 
千反田が帽子をとって立ち上がる。そっと寄り添うように俺のやや斜め後ろ。部屋の出口に向かう途中、しかし、ふいに声を上げた。  
 
「奉太郎さん、ちょっと待っていただけますか?」  
「どうした」  
 
振り向くと、先ほどコーヒーを淹れたカウンターに寄り道している。そして何か摘まんで戻ってきた。俺の目はその何かより、かすかな微笑みを浮かべて目を伏せている千反田の顔に釘付けになっている。  
 
「先ほど、チョコレートを見つけたのです」  
 
ふむ、それで?  
 
目の前でかすかな悦びを顔に浮かべ、チョコレートの包装をむく。そして大きな黒い瞳を光らせて俺を見上げる。む、嫌な予感がする。悪い予感ではないが、振り回されそうな気がする。  
 
「はい、あーん」  
 
なにっ!  
 
俺は冷や汗を流して一歩下がった。心臓が跳ね回っている。今のなはなんだ。羞恥に頬を赤らめ夢見るような微笑みで迫ってきた千反田の顔が、まるで網膜に焼きつくように鮮明なイメージとして残っている。  
パーソナルスペースが狭すぎるのはいつものこととはいえ、あの顔は反則ではないか。  
 
「待て、える」  
「逃げないでください」  
「いやしかし」  
「奉太郎さん、わたし、今年のバレンタイン・デーにチョコレートを差し上げていません。  
1年生の頃は、『我が家は本当に親しい方には季節の贈り物を差し上げていませんので』と、あらかじめお断りしました。でも、2年生の時にはほんとうはチョコレートを差し上げたかったのです。摩耶花さんみたいな勇気がほしいと何度も思いました。  
でも、私には勇気がありませんでした。ですから、お願いです」  
 
そんな悲しい顔をするな!わかったから。わかったから。チョコレートを渡せなかった悲しさと、『あーん』の間の因果関係はわからないが、俺は深呼吸して覚悟を決めると目を閉じて口をあけた。  
 
「あーん」  
 
さっきまで泣きそうな顔をしていたはずだが、くすくすと楽しそうに笑う声が聞こえる。たばかられたか。いや、考えすぎだろう。それに仮にたばかられたとして、デメリットはないので、考えるのをやめた。  
 
口の中にかたまりがそっと置かれる。甘い。当たり前だ。こんなところにビターチョコレートなど、厭味ったらしい。  
 
「おいしいですか?」  
「ああ」  
 
まぁ、甘味も嫌いではない。別段好きでもないが。チョコレートは出されれば食べる。あえて言うならば、千反田が食べさせてくれたこのチョコレートの味は格別だ。言うではないか。『白馬ハ馬ニ非ズ』と。あーんも悪くないな。『君子豹変ス』だ。  
 
「もうひとつあるのです」  
「食べ過ぎると鼻血が出るぞ」  
 
俺は千反田と伊原がチョコレートの味見をしていた事を思い出す。二人は山のようなチョコレートを食べたはずだ。女子のチョコレート飽和量は、男子のそれをはるかに上回るからな。同じペースで食べられると思ったら大間違いだぞ。それに今日の俺は鼻血耐性が低いはずだ。  
いろいろあったから。  
 
「はい、あーん」  
 
お構いなしに迫ってくる千反田に二つ目を食べさせてもらう。甘い。おいしい。無駄な抵抗などしない。その気になったこいつに俺なんぞが抵抗しても無駄なことは、ずっと前から知っている。エネルギーの無駄という物だ。それで、あと、いくつあるんだ。  
 
「これでおしまいです」  
「もう無いのか」  
「もっと食べたいですか?」  
「そうじゃない。えるにも食べさせてやろうと思ったのに」  
「え?」  
「『え』じゃない『あーん』だ」  
「だめです。そんなの恥ずかしいです」  
 
手で顔をおおって横を向きやがった。  
 
千反田よ。『自分がされたくないことを人にしてはいけません』と幼稚園で教わらなかったか?  
 
「まったく、えるは恥ずかしがり屋だ」  
「だって」  
 
細い体を優しく抱き寄せると、腕の中で、何か言い訳めいたことを甘い声で呟く。その顎をつかんで、上向かせる。チョコレートを食べさせてやりたかったのに。これはそのチャンスをふいにした千反田が受けるべき罰だ。  
 
唇をよせて優しく吸う。千反田も俺の体に手をまわしてくる。何度か吸って、そして、今まで試してみなかったことをする。あまりにも生々しすぎて、千反田にふさわしくないような気がしていたのだ。だが、二人は今日一歩先に進んだ。もういいだろう。  
 
そっと舌をのばして彼女の薄い唇の中に滑り込ませる。  
 
「ん!」  
 
体を硬くする千反田を抱きしめる腕を、ほんのすこし緩める。。  
 
「嫌か」  
「いえ、驚きました」  
 
そう呟く彼女をもう一度抱き寄せる。今度は遠慮なしだ。髪を撫でながら、舌を滑り込ませる。歯を少しなでてやると、おずおずと開けてくれた。そっとはじめての領域に探検にでる。奥のほうに、本当に奥のほうに、臆病な少女のように舌が縮こまっていた。  
 
優しくつついてやると、千反田がのどの奥で小さな声を漏らす。そしておずおずと舌を伸ばしてきた。やがて二人の舌は絡み合う。さすがに恥ずかしいのだろう、自分の口からは出てこない。俺は千反田の口の中で、やさしく舌を絡み合わせた。  
 
以前は舌を絡めるなど不衛生じゃないのか、などと考えたこともあったが、やってみて初めてわかるものがある。これは病みつきになる。好いた者同士でなければできないハードルの高さゆえだろうか。  
 
長いキスが終わり、千反田がため息をつく。俺の肩に顔を伏せる。  
 
そして俺は、こういうときに絶対に言ってはならないと、その手の本に必ず書いている一言を口にした。もちろん、狙ってのことだ。  
 
「える、どうだった」  
「…甘かったです」  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
だが、その日最後の不意打ちを食らったのは、俺だったのだ。部屋のドアノブを握ったときだった。千反田に後ろから声をかけられた。  
 
「奉太郎さん」  
「ん?」  
「…わたし、待っています」  
 
とっさに声がでなかった。  
 
まるで別れの言葉だ。今は7月。別れの季節ではない。だが、俺は千反田が別れの話をしているとすぐに理解できた。あと半年と少しで、俺たちは別々の道を歩むことになる。千反田は理系。俺は文系。もちろん大学も違う。そして千反田はこの土地に帰ってくる。  
彼女はそう言った。あの雛祭りの夜に。  
 
『待っています』という千反田の意図は、はっきりわかる。いい加減な返事はできない。いつかは考えなければならないことだった。それが、今来たか。チョコレートに浮かれている場合ではなかったのか。  
 
何度も考えたことだった。コンプレックスになっていると言ってもいい。俺で、本当にいいのだろうかと。千反田の人生に、責任を持てるのかと。  
 
加えて、少し頭を冷やしてみれば、これは気の早すぎることのようにも思える。俺たちはまだ高校生なのだ、未来も何も決まっていない。千反田の気持ちは嬉しい。だが、それは一時の高揚からくる勇み足ではないだろうか。千反田は、あとで後悔しないだろうか。  
 
そして一方で、俺は後悔しないのか。ベッドの上で千反田に囁いた『ずっと』という気持ちに嘘はない。それは俺の心からの言葉だ。俺の心はがっちりと、甘美に、千反田にとらわれている。後戻りなんかできないと思う。  
しかし、気持はともあれ、それは長期的に合理的なのか。  
 
千反田は、自分が俺の潜在能力を引き出す鍵の役割を果たしたとしたら、それは幸せなことだと言った。俺は、それは千反田の妄想ではなく、事実だと思う。  
省エネ主義を標榜し、何一つ目標を掲げず、情熱も燃やさなかった俺は、千反田に手をひかれる様にして次々と問題と引き合わされ、それらを解いた。それは、俺自身知らなかった能力だった。  
 
千反田に頼まれて『氷菓』事件にかかわっていたころ、俺は何かに熱中しているやつらを見て、心がざわつくことがあった。しかし、俺には熱中できる何かそのものがなかった。  
それから1年、千反田を好きになることで、俺は初めてエネルギーの無駄だのといったお題目をかなぐり捨てて、遮二無二勉強するという経験をした。俺にとって情熱とは千反田との恋だった。  
 
千反田への恋をばねに勉強した結果、確かな手ごたえとして、俺の力はもっと大きいのだという認識を得た。そして、その力があれば、俺はこの神山市を超えて遠く外の世界に手を伸ばすことができるはずだ。  
その世界には、まだ俺が知らないいろいろなことが、俺の情熱を激しく燃やそうと待っているに違いない。俺は大学に進むことでそれらを目にすることになる。それらが、俺を日本中ひっぱりまわすのか、あるいは遠く異国まで飛ぶ翼を与えてくれるのか、今は分からない。  
しかし、そのビジョンめいたものは千反田に対するコンプレックスとは別に、俺の中に根を張りつつある。  
 
千反田は、この土地に帰ってくる。彼女自身が最高に美しいとも、可能性に満ちあふれているとも思わないと言い切るこの土地に、分限者の娘としての義務感と、彼女自身のこの土地への愛着をよりどころとして、帰ってくる。  
俺は彼女とこの土地が美しく、しかし幾分寂しげに交わる世界があることを知っている。  
 
しかし俺にとって、ここに帰ってくることは合理的だろうか。外の世界に手を伸ばす力を得ながら、みすみすそれを捨てて一人の女のために帰ってくることは合理的だろうか。  
 
俺には合理的だとは思えない。  
 
短い時間だったが、俺は考えを巡らせた。そして結局は、千反田の『深刻に考えすぎています』という言葉に戻ってきた。頭ではなく、自分の心に聞いてみるしかなかった。折木奉太郎は、自分の将来を、千反田えるとの将来を、どう思っているか。  
 
俺は振り向かずに返事をした。  
 
「待っていてくれ」  
 
聞こえるか、聞こえないかの大きさの返事が返ってきた。  
 
「はい」  
 
震えるような喜び、というやつがどういうものか、俺にも理解できた。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
自動ドアの外は、さっきの嵐が嘘のような強い日差しだった。熱気に押し戻されそうになりながら、表に一歩踏み出す。千反田は俺の後ろに身を隠すようについてくる。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 

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