ベッドの上掛けごと千反田の細い体を抱いている。
俺と千反田の暖かい身体の間には何一つ遮る物が無くて、それがさっきから俺を包んでいる多幸感の源になっている。俺に抱かれて肩のあたりに顔を埋める千反田の身体は、いつも手を握ったときに感じる暖かさそのままに、心地よいぬくもりを伝えてくる。
この暖かみが千反田なのだ、と思う。
一方で、上掛け越しに抱く背中は、いらだたしいほどにもどかしい。腕を上掛けに潜り込ませれば良さそうな物だが、そのもどかしさに突き動かされるように、肩のあたりまで覆っていた上掛けを下にずらす。見えないが、たぶん背中が半分ほどはだけているだろう。
小さな声をあげて身を固くする千反田の頭を撫でてやり、そのまま、背中をさする。
「えるとこうしていると、心がばらばらになりそうだ」
千反田は黙って聞いている。俺は彼女の肩胛骨のあたりから上掛けのあたりを、ゆっくりと撫でる。指先で、背骨の柔らかい隆起を一つ一つ確かめる。
「えるが風邪を引かないようにと思って上掛けを掛けてやったのに、いざとなると、布きれ一枚だってお前との間にあることに我慢できない」
そう口にして、自分で苦笑してしまった。
「この部屋に入ったとき、俺が言ったことを覚えているか?」
千反田は少し考えて返事をした。
「『絶対に手を出さない』って言っていたことですか」
「ああ。結局約束を破ってしまったな」
「いいんです。私からお願いしたようなものですから」
「すまん」
「もう、謝っちゃだめです」
千反田がおかしそうに呟く。
「今から考えれば、あのとき必死で『手を出しちゃだめだ』って思ったのは、正しい直感だった」
「…後悔、してますか?」
「いや、後悔はしていない。そう言う意味じゃない」
そこで少し、言葉を切る。適切な言葉はないか考えながら、顔が否応なくほてってくるのを意識する。
「お前と……ひとつになって、そして今、こうして肌を重ねている。これを知ってしまったら、もう元には戻れない。たぶん、直感的に分かっていたんだな」
「あの…」
肩の辺りで困ったような声を出す千反田の背中を、そっと撫でてやる。
「変な意味じゃないから心配しないでくれ。いや、その……そっちのほうもすばらしかったが」
千反田が俺の腕の中であからさまに縮み上がり、喉の奥で、文字にすれば『ひー』といった音を立てる。『すばらしい』は、ちょっと生々しすぎたか。いやまて、まずかったのは『そっちのほう』か。こういう話を、腕の中の千反田にするための言葉がなかなか見つからない。
「こうやって、二人っきりで抱き合って『肌を許す』という言葉の意味が初めて分かった。
単に『触れてもいいよ』と言う意味じゃない。えるが俺に肌を許してくれたって事は、えるが俺のことを本当に好きで、信用してくれているということだ。
それがよくわかった。俺はお前がそうやって俺をに肌を許してくれていることを、つまり俺をという男を選んでくれたことを、本当に嬉しく、幸せに思う。だからこそ、もっと大事にしてあげたいと前よりも思う。
こういう事は、以前にはたぶん頭では分かっていたと思うが」
一気に思っていることを言葉にした。口が少し渇いているように思う。
「今は、体中でそう思う」
千反田は、俺が話を切った後、少し黙っていた。
「少し、くすぐったいです」
まぁ、そうだろうな。
「でも、奉太郎さんが言っていること、なんとなくわかります。私も、その」
千反田も、言葉を選ぶのに少し困っているようだった。
「その、奉太郎さんの言葉を借りるなら、『肌を許す』ことの出来る相手として、奉太郎さんに出会えたことが幸せです。こうして一緒にいると、夢のようです」
ああ、そうか。
夢のようなのだ。気分を正確に言い表せなくて落ち着かなかったが、これでようやくすっきりした。ついでと言っちゃおかしいが、俺はたぶん『薔薇色』の意味を分かっていなかったと思う。薔薇色とは華やかなだけではない、こんなにも甘美で心惑わされる物だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「奉太郎さん」
「なんだ」
千反田はどんな顔をしているのだろう。ずっと、俺の肩の辺りに顔を当てているので、全く表情が分からない。ぼんやりしているのか、何かを考えているのか、ちょっとでいいから見てみたい。
「これはお願いというか、希望というか、そうなったらうれしいというか、その、わがままなのですが」
「えるがわがままなのは身にしみて知っている。遠慮するな」
「酷いです。いじわるな奉太郎さんは嫌いです」
「おい、嫌いになるのは勘弁してくれ」
「わたし、わがままですか?」
「『気になります』と言い出したえるを、引き留めるのに成功した試しがない」
「そうだったのですか。わたしはいつも、奉太郎さんは黙ってわがままを聞いてくれる優しい方だと思ってました」
「自分で『わがまま』と言ってるじゃないか」
「あ、そうですね。やっぱりわがままですね。恥ずかしいです」
「える、変な気を回すな。いまさら遠慮は無しだ」
「そうですか。じゃぁお言葉に甘えて、これからも気になることがあったら奉太郎さんにお願いしますね」
しまった。
「あの、ですね。話しがそれましたが」
「ああ」
「今年の文化祭、一緒にまわっていただけませんか?」
なるほど、それは確かに少しハードルの高いお願いではあるな。わがままではないと思うが。
俺たちの通う神山高校は、文化祭が派手なことで有名だ。何しろ3日間に渡って50を越える団体が活動の成果を発表というか、文化的ならんちき騒ぎをやらかすのだ。近隣でもちょっとした風物詩として名をとどろかせている。
普段から活動しているかどうか怪しい古典部も、秋の文化祭に向けて文集『氷菓』の製作を行っている。ちなみにあまり文集らしからぬ名前ではあるが、振り返ればこの名前に隠された秘密こそが、俺と千反田を引き合わせてくれた縁であった。
その話はここに書くには少し長すぎる。
そして、千反田のこの『お願い』は、もちろん文化祭を一緒にまわりましょうという意味だけに終わらない。文化祭を一緒にまわると言うことは、周囲に対して千反田えると折木奉太郎は交際していますよと宣言することに等しい。
だから、千反田はこう言っていると言い換えていい。『わたしたちの交際は、もう隠さなくてもよいのではないですか』と。
俺はその問いに、すぐ答えを出した。
「そうだな、そうしよう。今から楽しみだ」
「え?いいのですか」
「なぜ驚く。えるが言い出したことだろう」
「ですけど」
「もう、隠していても仕方ないな。言いふらす必要も無いが、里志と伊原には次に会う時にきちんと言っておこう。あいつらに気を遣わせるのも悪い」
千反田はそれには返事をせず、しばらく黙っていた。
「うれしいです。とても、楽しみです」
千反田とこうなったからと言うわけではないが。いや、たぶん俺の奥の方ではこうなったからこそと思っている。こうなったからには、もう、あまりこそこそとしたくない。
あるいは俺が言い訳をしているだけかもしれないが、千反田に、この交際が後ろめたい物だと、ほんの少しだって思って欲しくない。どうやら忍ぶ恋もこれまでのようだ。
なんにせよ、千反田と二人で学校中の文化部の出し物を見て回る様は、思い浮かべるだけで楽しい気分になる。
◇ ◇ ◇ ◇
「える」
「はい」
「俺もひとつ、わがままを聞いてほしいんだが」
「なんでしょうか」
「雛祭りの写真、くれないか」
「写真、ですか」
2年生に進級する春休み、俺は生き雛役の千反田の後ろで傘持ちをした。思えばあれが決定打だった。
「福部さんが撮っていらっしゃったと思いますが」
「ああ、あれはもらった。だけどあいつ、時間がなかったから使い捨てカメラで撮影したんだ。お前は小さくしか写っていない」
小さくしか映っていないが、里志の名誉のために言っておけば、それなりにいい写真だった。もっとも、季節はずれの桜と千反田の生き雛が素材なのだ、だれがシャッターを押してもいい写真になるはずだ。
あの、紅をさして十二単を着ていた千反田の写真がほしい。俺の魂をつかんで、後戻りのできないところまで手繰り寄せてしまったあの時の千反田を、手元に置いておきたい。
「お前のアップの写真がほしいんだ」
「…すこし、恥ずかしいです」
なぜそんな、甘味を帯びた声でつぶやく。俺の気持ちをとらえて放さないようにか?
「だめか」
「だめではありません。でも、なぜ?」
「お守り代わりだ。机に入れておく。勉強がつらくなったら、お前の写真を見てがんばる」
ためいきを、ひとつ。
「奉太郎さん、ずるいです」
「なぜだ」
「だって、そんな風に言われたら」
千反田が身を起して、俺に微笑みかける。
「わたし、嫌だって言えません」
からすの濡れ羽色をした美しい髪が、少し乱れて線の細い白い体にかかる。清楚な顔立ちに頬はさくら色。いつもなにか興味深いことはないかと活発に探し回っている黒い瞳は、今はやさしげな半眼。薄い唇にほのかに笑みが浮かぶ。
鎖骨の辺りは美しく窪み、片腕でそっと隠した、品のいい形をした乳房が目にまぶしい。
千反田、何一つまとっていなくても、お前は俺の魂をとろかす。
◇ ◇ ◇ ◇