◇ ◇ ◇ ◇  
 
しばらく体を抱き寄せていた。胸に顔をうずめている千反田がいとおしくて、放す気にもなれなかった。が、あまり無理な姿勢をとらせているのもかわいそうで、抱き寄せた腕を緩めてやる。メッセージは伝わったようで、身じろぎした後、ゆっくりと千反田が身を起こす。  
右手が襟を気にして胸元を抑えている。俺も思い出したように意識する。  
 
「あの、奉太郎さん」  
「なんだ」  
 
宙へ泳がせていた目を、千反田に向けた。  
 
「せっかくですので、お話を聞いていただいてもよろしいでしょうか」  
「もちろんだ。俺がえるの頼みを断ったことがあるか」  
「その、お話しすることに勇気がいることなのです」  
 
気分を軽くしようとして叩いた軽口だったが、思いのほか千反田は真剣なようで、こちらの身が引き締まる。  
 
「ああ。聞くよ」  
 
千反田がちょっとうつむき、呼吸を整えて、もういちど背筋を伸ばす。二人ともまっすぐ前を向いたまま。  
 
「お会いしてほどなく、わたしは奉太郎さんは本当にすごい人だと思うようになりました」  
「俺が?」  
「普段はその、まわりのことに何も関心がないようなお顔をされていますが、わたしの叔父の件や入須先輩の件などでものすごく活躍なさいました。それ以前に、皆さんが首をひねるお話を、次々に解決されていたことを覚えています。  
わたしはそれが、とてもすごいことだと思いました」  
 
全部千反田が持ち込んだ厄介事だった。  
 
「福部さんや摩耶花さんはいつも奉太郎さんの事をひどくおっしゃっていましたが、わたしはそんなことはないと思っていました」  
「あいつらそんなに俺の事をひどく言っているのか」  
 
思わず千反田の顔を見る。千反田も俺の顔を見上げる。  
 
「はい。あ、いけない。これでは告げ口ですね。聞かなかったことにしてください」  
 
聞きたいのはやまやまだが、千反田がうつむいてしまったので、聞けない。まぁいい、里志の軽口と伊原の罵詈雑言はいつものことだ。連中も遠慮がないから、彼女が言っているのは陰口ではなく、俺の目の前で色々言っていた話だろう。  
ここはひとつ千反田の顔を立ててとぼけるしかない。  
 
「聞かなかったことって、何の話だ?何かまずい話でもしたか?」  
 
うつむいたまま、千反田が俺の三文芝居にくすくすと笑いをかみ殺している。  
 
「それに、奉太郎さんはとても優しい方でした。いつも素知らぬ顔をしているのに、誰かが本当に困っているときには、ちゃんと助けていらっしゃいました。わたしも何度助けられたかわかりません」  
 
まぁ、お前の場合は助けたんじゃなくて俺が巻き込まれたケースが多かったな。  
 
「今日もそうでした。ほんとに何度助けていただいたのでしょう。それに…」  
 
言葉を途切れさせた千反田の顔を見る。楚々としたつくりの顔を少しうつむかせ、微笑みを浮かべている。  
 
「気が付いたら、わたしは奉太郎さんの事を好きになっていました。いつからだったのでしょう。はっきり自分でもわかりません。  
いつの間にか、気が付いたら奉太郎さんのことばかり考えていました。こんなことは初めてでした。人を好きになるって、こんな気分なのかって嬉しくなったり、奉太郎さんのことばかり考えている自分が怖くなったりしました」  
「怖い?」  
「はい」  
 
小さな返事。  
 
「奉太郎さんのことばかり考えていて、もう、何も考えられなくなって、このままどうなってしまうんだろうって思ったんです…片想いって、本当に胸が痛むんですね」  
 
確かに。俺にも覚えがあるな。  
 
「そうして一人で悩んでいたら…奉太郎さんが…」  
 
消え入るような小さなため息を残して、えるが言葉を切る。目を閉じて、幸せそうに微笑んでいる。  
 
「わたし。嬉しかったです。本当に嬉しかったです。  
今度は何もお願いしなかったのに、奉太郎さんはわたしが片想いに悩んでいるところにやってきて、好きだって言ってくれたんです。わたしを助けてくれたんです」  
「言っとくが、俺は本当にえるのことが好きで告白したんだぞ」  
「はい」  
 
千反田がいたずらを見つかった子供のように首をすくめて笑う。眼はテーブルを見つめたまま。  
 
「助けてくれたというのは、わたしの勝手な想像です」  
 
いや、まぁ。実は当っているんだ。好きなのは本当だがな。助けたっていうと、義理でやったみたいで、俺はちょっとひっかかるから。  
 
「わたし、うれしくて。こんなに素敵な方と出会えて、好きになって。そうしたら、おつきあいまでしていただけることになって」  
 
それまでテーブルを見つめていた千反田が俺を見上げる。魂をとろかす微笑みで俺を石にした後、もう一度テーブルに視線をおろす。そして、そっと目を閉じる。  
 
「ですから、奉太郎さん。わたし、ずっと前に、もう決めていたんです」  
 
目を閉じた千反田の微笑みが少し硬くなる。首筋から頬へと赤みが広がる。囁くような声になる。  
 
「もし、その。奉太郎さんが望むなら、わたしはいつでも」  
 
千反田が息を軽く吸ったのがわかった。俺は動けなくなって、息をつめて彼女を見つめている。  
 
「奉太郎さんにわたしを」  
「える」  
 
囁くように言葉を繋ぐ千反田をようやくの思いで遮った。目を閉じて話していた千反田が目を開け、俺を見上げる。お前はそんなことを言っちゃだめだ。俺はお前にそんなことを言わせちゃだめなんだ。  
 
「その先は、言うな。俺が言うから」  
「奉太郎さんが…」  
「そうだ、時期が来たら俺が言うから。俺がちゃんと言うから」  
「時期が来たら…」  
「そうだ」  
 
言葉を切った千反田がうつむき、そしてつぶやく。  
 
「時期って、いつなんでしょう」  
 
え?  
 
想定していなかった切り返しに、俺は凍り付いてしまった。その先は言うなといえば、千反田は俺なりの気持ちを汲んで黙ってくれると、瞬間的に思ったのだ。この手の話は女性から切り出す物ではないと思っていたし、輪をかけて、千反田はこういった話しが苦手なのだ。  
今の話だって相当無理をしたはずだ。が、あっさり予想は覆された。いつ、だって?  
 
バスローブ1枚を羽織っただけで横に座っている千反田を見つめる。「いつ」というのは、たぶん本当に日時を聞いているわけではない。なぜそんなに躊躇するのだと俺を揶揄しているのだ。なぜ、今じゃないのかとも言い換えられる。  
 
千反田が俺に抱かれたがっている?彼女が性欲に突き動かされてじれているというのはちょっと考えにくい。一方で、内心の激しい情念に突き動かされて、というのも違う気がする。  
 
だとすれば、俺が何か間違っているのか。たぶん、そうだ。  
 
「奉太郎さんは、わたしのことを深刻に考えすぎていると思います」  
「さっきも、そんな話をしたな」  
「はい」  
「ずっと前も、同じような話をした。あれは用心だったが」  
「ええ」  
「あのとき、俺が俺たちの関係をどう考えているか、説明すると約束した。だけど、まだ話していない」  
 
説明できなかったのだ。いくら考えても話しがまとまらなかった。俺は、いつか自分の気持ちに歯止めがきかなくなるような気がしていた。  
その結果、舞い上がってしまい、不注意からちょっとしたことが大騒ぎになったり、あるいは千反田を酷く傷つけることになるのではないかと、ずっと気にしている。ありていにいえば、今まさにここで起きている状況で、自分の心の舵を失うことが怖かった。  
だから、俺は俺を縛らなければならないと思っている。  
 
だが、それと二人の間柄を伏せておこうと言うことに、きちんとした論理的な整合性があるかというと、無いとこたえざるをえない。あえていえば、いや、正直に言えば、関係をオープンにすれば、自分が舞い上がるのではないかという危惧はある。  
だが、それは危惧であって、きちんと千反田を納得させることはできそうになかった。  
 
「まだ、うまくまとまらないんだ」  
「こう言ったことは心の問題ですから」  
 
そう言った後、千反田は少し言葉を切る。  
 
「奉太郎さんに無理に説明して欲しいと言っている、わたしのほうがおかしいんだろうと思います」  
「おかしいとは思ってないぞ」  
「無理に説明していただかなくてもいいのです。気になりますけど。でも、本当に気になっているのは、奉太郎さんがわたしの事を深刻に考えすぎて、自分を押し殺しているのではないかということなのです」  
「押し殺しては、いない。さっき言ったはずだ」  
 
話の流れがきな臭くなってきた。  
 
俺はなぜ、千反田とこんな会話をしているのだろう。千反田が身体を冷やして気分を悪くした。だから、適切な場所ではないと知りながら、ホテルに連れ込み、身体を温めさせた。  
俺は彼女の恋人として、最大限の優しさをふりしぼって、不埒なまねをせずに、紳士として接している。だが、その気持ちが伝わっていない気がする。いや、伝わっているが、千反田はそれを間違っていると言っているのだ。  
 
さっきも同じ話をした。千反田に、俺はお前のために頑張っているが、一度だっていやだと思ったことはないと、胸の内を聞かせた。千反田は嬉しい、と泣いて喜んでくれた、しかし、今また同じことを俺たちは繰り返し話している。そして今度は、千反田は納得していない。  
 
どうやら俺たちは喧嘩をしているらしかった。  
 
雰囲気が許すなら頭を掻きたい気分だ。何を間違ったのだろうか。この部屋に入ってからこっち、千反田の言動に間違いらしきものはなかった。だったら、俺がきっと何かを間違えているのだ。だから、千反田は俺に優しくされているのに、悲しそうな顔をしてうつむいている。  
 
なぜだ。考えろ。  
 
そうして、俺は突然奇妙な気分になった。意識が一歩後ろに下がって俺たちを俯瞰するような気分だ。うつむく少女、理屈を解く少年。なんだこれは、と思う。千反田はずっと前から言っていた。俺は考え過ぎなのだと。  
考えすぎだと言われて、俺は考えすぎていないと理屈で答えている。なんだこれは。  
 
深く考える力というのは、高校生になって初めて気づいた自分の特質だ。中学生までは、そんな力が自分にあるとは思っていなかったのだ。だが、千反田に半ば無理矢理引きずり出されたこの力は、俺の高校生活を、それまで考えていたものと少し違う色合いにした。  
灰色だと思っていた生活に、ささやかな彩りが添えられた。  
 
だから俺は、千反田の事も全力で考えたのだ。悲しませないようにしよう、間違わないようにしようと。俺は千反田によって気づかされた俺の長所を、二人の関係を守るために全力で活用しようとした。なぜならそれは大切なものだから。  
しかし、千反田はそれが間違っていると言っている。あまり、深刻に考えなくていいのだと。  
 
かつて里志が、雪の薄く積もった橋の上で言った言葉を思い出す。『摩耶花をないがしろにするのなら、それは悪いポリシーだ』。なるほど、同じか。いや、違うのか。  
 
ああ、そういう事かと、合点した。里志の言うとおりだ。俺の考えには、千反田が居ない。千反田のことが大事だからと色々一人で考えているが、とんだ上から目線、独りよがりもいいところだ。  
俺が千反田の何もかもをまるで保護者のように守ってやるなんて、思い上がりもいいところだ。本当の俺は、千反田に雨宿り一つさせることができない間抜けだと今日証明されたばかりじゃないか。  
それが千反田の気持ちを棚上げにして、保護者気取りとは。いつまで思い上がっているのだ。  
 
千反田の問いに対して、俺は一人で同じ答えを繰り返していた。世間的には、ぶれないとか、筋が通っているということになるのだろう。だが、それは俺の強情でもある。そこに、千反田はいない。千反田の気持ちを考えていない。俺が頭の中で一人でひねり出しただけだ。  
 
里志なら『千反田さんをないがしろにするポリシーだね』と冷ややかに笑うかもしれない。  
 
俺はうつむいたままの千反田を見つめる。どうすればいいだろう。どうもこうも、結局、自分の頭ではなく心に聞くしかないというのが結論だ。では、俺はどうしたい。  
 
大きな目を少し閉じ気味に伏せた千反田の白い顔は、本当に清楚だ。この顔に何度も視線を奪われた。  
 
どうしたいかというと、答えは決まっている。俺は卑怯にも、すでに千反田によって許しが出ていることに手を伸ばした。その卑怯さへの自責が、心をチクリと刺した。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
「える」  
 
千反田が顔を上げる。  
 
「今がその、いつ、だ」  
 
意味が分からなかったのだろう、千反田がぽかんと俺の顔を見ている。数秒して、ようやく意味がわかったのか突然目を見開くと、身を固くした。そして、俺の顔を見つめたあと、ゆっくりと目を閉じる。もう、後戻りできなくなった。  
 
身を固くする千反田の背に手をまわし、バスローブのごと膝の下に右腕を通す。千反田が気付いた時にはもう遅い、俺は、一世一代のお姫様抱っこを決めるべく、左ひざと右脚で足場を固めに入っていた。  
 
「ああっ。怖いです」  
「つかまってろ」  
 
あわてて俺の首に手をまわして、千反田が顔を寄せてきた。いいぞ、これでぐっと安定感が増した。腰の力で千反田を持ち上げ、慎重にソファーから立ちあがる。左ひざを何とかさばいて無事立ち上がることができた。  
 
「あの、奉太郎さん」  
「える、俺だってこのくらいできるぞ」  
「は、はい」  
 
精一杯のかっこつけが決まり、千反田が俺の胸に頭を寄せてくる。俺は力があるほうではないが、思いのほか千反田は軽かった。楚々とした線の細い姿だから重いっていうことはないだろうと思っていたが、千反田は女子にしては身長があるほうだ。  
これだけ軽いと却って心配になってくる。ちゃんと朝ご飯食べているんだろうか。ふらつかないように慎重に足を進めてベッドに向かう。真っ白なシーツの上にゆっくりと、バスローブをまとっただけの千反田をおろしてやる。  
どうせならこんなごわごわのバスローブじゃないホテルではじめてを迎えたかったが、いまさら悔いても遅すぎる。それにそんなホテルに行く金はしばらく貯まりそうにない。  
 
静かに体を横たえてやり、俺もそのまま千反田の横に体を滑らせる。心臓がさっきから激しく脈を打っている。激しい興奮が身を包んでいる。下半身が痛いくらい反応していて、もう、なだめようにも何をやっても無駄だろう。  
 
横たわって、胸と体の前が乱れないよう体をかき抱くようにしたまま、千反田は目を閉じている。顔を俺からそむけているのは羞恥からか。今にもむしゃぶりつきたい気持ちを抑えて、千反田を見つめる。白い肌、ほっそりした体つき。  
特別人目を引くわけではないが、たぶん美人の部類に入る育ちの良さがにじみ出ている顔つき。全部、俺の心をとらえて離さない女のそれだった。  
 
俺がいつまでも手を出さずにじっとしているのが気になったのか、千反田が目をそっと開けてこちらに顔を向ける。  
 
「える」  
「はい」  
 
こんな簡単なことを言うのにも、呼吸を整えなければならない。  
 
「好きだ」  
 
千反田が黒い瞳を揺らす。  
 
「ずっと前からお前が好きだった。気が付いたらお前のことしか考えられなくなっていた。お前のちょっとしたしぐさや、やさしい笑顔が好きで、いつまでも見ていたいと思った。今でもそうだ。お前の笑顔を見ると俺もうれしい気持ちになる。  
お前が困った顔をしてるだけで俺は落ち着かなくなる。俺にできることは何なのか、どうすればもっとえるが笑っているのか、そんなことばかり考える」  
 
思いのたけを全部ぶちまける。首から上がかっと熱くなったのがわかるが、構っていられない。  
 
「だからえる、お前は俺のすべてだ。お前がほしい」  
 
こういうときにふさわしい優しい言葉を言えたかどうかなんかわからない。ストレートすぎるような気もする。だが、頬を赤らめ黙って聞いていた千反田は微笑むと、  
 
「はい」  
 
と小さな声で返事をして目をそっと閉じた。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
体重をかけないように気を使いながら、千反田の薄い唇に、唇をそっと重ねる。キスは何度目だろうか。本当のところ、そんなにキスはしていない。付き合いだした初めのころは夕方ともなると暗くて、物陰でそっと抱き寄せてキスをすることもできた。  
だが、春になって明るくなると、それもできなくなった。教室で二人きりになることもあるが、俺は千反田に学校では気を抜くなと言っているし、気を抜いてもさすがにキスはまずい。  
 
キスには全然慣れる気がしない。  
 
千反田の唇は柔らかい。その感触だけで俺を虜にしてしまう。重ねた唇を優しく吸ってやると、千反田も恐る恐る吸い返してくる。いったん離れて千反田を見つめる。目を閉じているせいか、ふだんより端正な顔立ちに思え、それがまた愛しさをかきたてる。  
もう一度キスをしようと思って、ふと、思い立ち、今まで触れたことのない額に唇を寄せる。  
 
千反田が小さな声を洩らす。その声が震えるほどかわいくて、もう一度聞きたくて、俺は瞼や、頬、鼻の頭など思いつく端から優しくキスを繰り返す。千反田はそのたびに、戸惑ったように震える小さな声をを漏らした。  
 
黒い髪に触れる。千反田の黒くて長い髪。頭をなでるように触れ、耳のあたりですくってみる。指先から髪が流れるように落ちていく。俺の髪とは全然違う。こんなところまでがこの女は特別なのかと胸を揺さぶられる。  
 
髪に触れながら、もう一度唇を重ねた。重ねる瞬間の感触を味わいたくて、何度もついばむようなキスを繰り返す。そのたびに千反田も小さく吸い返してくる。やがて体を駆け巡る高ぶりにせかされて強く互いを吸いあう。  
上の唇をはさみ、下の唇を尼が見してみる。重ねた唇から電流のように多幸感が体中を駆け巡る。  
 
興奮にまかせて細いうなじに唇を這わせた。くすぐったいのか、首をすくめる千反田をなだめて首からほとんど青白いとさえいえるうなじまで何度も唇を這わせる。  
そのたびに俺の下で身をよじる千反田の体に生々しく情動をあおりたてられて、俺はとうとう彼女のバスローブの帯に手をかけた。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 

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