風呂場のガラス戸が開く音がしたのは、千反田が湯船につかって15分ほどしてからだった。しばらくした後、がちゃりと脱衣所のドアが開いて、ゆっくりと千反田が顔をのぞかせた。  
そして、そっと体を体を滑り込ませるように部屋に入ってくると、手を体の前に揃えてぎごちなくお辞儀をした。  
 
「お先にいただきました」  
 
バスローブ姿の千反田。  
 
早鐘のように跳ねまわる心臓が口から飛び出しそうになる。予想していたことのはずなのに、どうしようもなく心と体が反応する。千反田の顔色は緊張の色合いを別にしてすっかり良くなっていた。表情だけは心細げで、それは当たり前だろう。  
ほっそりした身体は白いバスローブに包まれ、濡れた黒髪が悩ましく肩の辺りを飾る。さっきから跳ね回っている俺の心臓が心配だが、とりあえず千反田の具合は良さそうで安心する。とにかく、気を落ち着けて声をかける。  
 
「髪、乾かせよ。ドライヤーがあったろう」  
 
ぬれた髪が目の毒だから。だが、千反田は首を振る。  
 
「いえ、わたしは後で乾かしますから、奉太郎さんが入ってください」  
「俺はいい。早く髪を乾かせ」  
「嫌です!」  
 
大きな声に思わず黙る。  
 
「奉太郎さんがまた風邪をひくことになったら、わたし。もう、そんなのは嫌です」  
 
そうやって立ちすくんだままうつむく千反田に勝てるわけもなかった。  
 
「わかった」  
 
ため息をついて立ち上がり、なるべく見ないようにしてバスローブ姿の千反田の横を、距離を取って歩く。彼女が身をすくめるのがわかる。きっと本当なら逃げ出したい気分なのだろう。申し訳ない。こんな目にあわせて。  
 
「すぐ上がるから座って休んでろ。寒かったらベッドから上掛け引き剥がしてくるまってるんだ」  
「はい」  
 
心臓は相変わらずだったが何事もないような振りでそう言うと、俺は脱衣所にはいる。後ろ手にドアを閉めると大きく息を吐いて覚悟を決めた。顔をあげたそこには、これもほぼ想像通りの光景が広がっている。  
 
雨にぬれた白いワンピースが干してあった。  
 
見てはだめだ、と思いつつも磁石のようにひきつけられる俺の目が情けない。数分の1秒ずつの映像を蓄積した結果によると、ワンピースはしわにならないようにきれいに伸ばされている。洗濯物を干す要領か。  
そうして、ハンガーの首のところに何本か白い紐が見えるのは…下着だろう。俺の目に触れないようワンピースの向こうにかけてある。予想していたとはいえ、これでまた落ち込む。  
あのバスローブの下は裸だ。まったく、俺はまだ高校三年生の純な恋人をどんな目に会わせているのだ。  
 
己のしくじりに盛大にため息をつきながら、体に張り付いている冷たい服を脱ぐ。脱衣所にある洗面台で水を絞り、千反田のまねをしてパンパンとしわをのばし、ハンガーをとおして壁にかけた。  
 
お嬢様のワンピースの横に俺のジーンズとシャツが並んで壁にかかってる。不釣り合いも甚だしい。分かっているさ、と独りごちて風呂場に入る。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
シャワーを浴びてホッとしているときだった。ガチャリと音がして思わず振り向く。  
 
ガラス戸の向こうで脱衣所のドアが開いているらしい。  
 
「あの、奉太郎さん」  
「どうした」  
「髪を乾かしてもよろしいでしょうか」  
 
そうか、そうだった。  
 
「いいぞ」  
 
そう答えると硝子戸の向こうに白い影が現れ、洗面台のあたりで何かしている様子だったが、やがてガーガーとドライヤーの音がし始めた。頼むから部屋でやってくれないか。  
 
文句を言うわけにもいかず、俺はいそいそとシャワーを切り上げて湯船に姿を隠そうとする。そして瞬間息を呑んだ。目の前の湯船には湯が張られている。千反田が使った湯。一瞬躊躇して馬鹿な事をと首を振り、中に入って身を沈めた。  
 
飲むなんてとんでもない。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
湯船につかったまま、ぼんやりとガラス戸に映る千反田の白い影を見ていた。髪を乾かしている仕草がおぼろげにわかる。やがてドライヤーの音が止まると、今度はどうやら振り向いてきょろきょろしているらしい。  
何をしているんだろうと思っていると、ガラスに映った影が身をのばして、壁から何か取ろうとしている。  
 
「おい!何してる!?」  
「あの、奉太郎さんの服を乾かそうと思いまして」  
「そんなことしなくていい!乾かすなら自分の服を乾かせ」  
「でも」  
「頼むから、少しだけでもかっこつけさせてくれないか」  
 
俺は今日、自分のふがいなさに風呂場で入水自殺でも図りたい気分なんだ。  
 
「わかりました。では、お言葉に甘えて。奉太郎さんの服はあとから乾かしますので」  
「いいから!」  
 
俺の服はそっとしておいてくれよ。  
 
見た目も立ち居振る舞いも、いいとこのお嬢様然とした千反田ではあるが、こいつには高飛車なところがまるでない。そのせいか、唐突に頭にイメージが浮かんできて、当惑する。きちんと正座して俺の下着をたたむ千反田。絵になりすぎる。  
とにかく、今の俺たちの関係で下着の面倒まで見てほしくない。  
 
千反田は俺の懇願を入れることにしたのか、ガラス戸の向こうで少し移動すると、どうやら自分のワンピースをおろしたらしかった。そして洗面台に向かうとドライヤーを動かして手元で何やら乾かし始めた。こんな時にこまめに仕事をする奴だ。  
きっといいお嫁さんになるだろうと考えつつ、一方で、何かやってないと落ち着かないんだろうなと同情する。そういう状態に放り込んだのは俺だ。  
 
ひとしきり千反田が服を乾かす様子を俺は湯船から見ていた。冷え切っていた体は温まって、額には汗が浮かんでいる。  
 
「あの、奉太郎さん」  
「なんだ」  
「こんな時になんですが、今日は奉太郎さんのわたしが知らなかった一面をまたひとつ知ることができました」  
 
何の話だ。  
 
「意外に長湯がお好きなんですね」  
 
いや、俺はむしろ湯は短いほうだ。というか、お前は神山市にコウブンドウが何件あるかは覚えているのに、俺が合宿で湯あたりしたことは覚えていないのか。お前は俺に本当に関心があるのか?恋人の自分への関心の低さに泣きそうになる。  
 
いや、もちろん違う。分かっているさ。お前は今、緊張しているんだ。こんな状況だからとっさの事で忘れていても不思議はない。そうだよな。千反田。緊張して忘れるなんて。可愛い奴だ。  
 
恋人をどさくさに紛れてホテルに連れ込むようなまねをしながら、小さな事で一喜一憂している自分が本当に情けなくなってきた。  
 
「なあえる、そろそろ上がりたいから場所を空けてくれないか」  
 
少し間があった。たぶん、小首をかしげているな。そして突然、千反田は「ごめんなさい」と一言残して脱衣所からあわてて出て行った。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
バスタオルでいくら拭っても汗が噴き出してきたが、諦めてバスローブに身を包む。そう言えば、バスローブはバスタオル代わりに水気をとる物だったような気もする。おおむね乾いたらしい千反田のワンピースに目をやって意を決すると、ドアのノブを回した。  
おれが出ていくことに気付く時間を十分に千反田に与えて、そのまま部屋に入っていく。  
 
千反田はベッドに腰掛けてうつむいていた。膝の上でぎゅっと握った両手が痛々しい。俺はなるべく彼女を驚かさないように静かに歩くと、ベッドから距離のあるソファに座った。それにしても、なんでこんなホテルなのに二人掛けのソファが二脚なんだ。  
 
俺が近寄らないことに気付くと、千反田はしばらく俺のほうを見ていた。そして、今度は立ち上がると部屋の一角へ歩く。  
 
「奉太郎さん、いまコーヒーを作りますね」  
 
カウンターの上にあるコーヒーカップにインスタントコーヒーの粉を入れながら、そう言った。口元には笑みを浮かべているが、表情は硬い。俺とも目を合わせない。声が少し震えている。  
 
そんなことしなくていいぞ、と危うく言いそうになって、無粋な自分を戒める。しばらく黙って座っていた。すぐそこでポットからお湯を注ぐ少女が高校三年生の俺の恋人で、バスローブの下はお互い全裸だということを考えないように努力する。  
 
千反田はカップを皿に乗せたまま俺のところへしずしずと歩いてきた。カップがカタカタ音を立てるのは…すまん、千反田。  
 
「どうぞ」  
 
そう言ってカップを俺の目の前に置くと、彼女は黙って静かに隣に腰をおろした。いつも姿勢のいい千反田だが、肩をすぼめるようにして心持ち背を丸め、うつむき加減に座っている。それを横目でちらっと確認すると、俺はカップに向かってつぶやいた。  
 
「えるは飲まないのか」  
「わたしは、カフェインを摂ると大変なことになりますので」  
 
それは知っている。そして、同じくカフェインの強い飲み物なのに、抹茶なら飲めることも知っている。だがひとつわからないことがある。なぜ、そこに座るんだ。  
 
千反田が入れてくれたコーヒーに口をつける。横に居る千反田を意識してしまって味がわからない。せっかく千反田が入れてくれたのだが、まぁ、インスタントだしいいか。  
 
カップを元に戻して、話題がなくなった。困った。  
 
「もう寒くないか」  
「はい、体も温まりました」  
「気分は大丈夫か」  
「すっかり元気です」  
 
千反田の声が少し明るくなって、俺の心も少し軽くなる。しかし二人とも、目の前のテーブルを凝視したままソファに並んで座り、身を固くしたままだ。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
「今日は、すまなかった」  
「え?」  
 
一呼吸置く。テーブルの安っぽさが気に障るが、よくよく見ると我が家の食卓と大して変わらない気がする。  
 
「こんなところに連れ込むことになってしまって。うかつだった。すまん。許してくれ」  
「そんな」  
 
千反田が俺のほうを向く。俺は目を合わせられない。  
 
「その。信じてくれ。もっと大事にしたかった。俺はえるをこんなところに」  
「奉太郎さん」  
 
さえぎられて、俺は口をつぐむ。  
 
「奉太郎さんが謝るなんて変です。奉太郎さんがいなかったら、わたし、あのまま倒れていました」  
 
やっぱりそうか。  
 
「俺がいなかったら、そもそも濡れ鼠にならずにすんだな」  
「そんなこと。あんな嵐、誰にも予想できません」  
「俺が判断を間違わなければ、あんなしょぼい庇じゃなくて、ちゃんとしたビルの下に逃げ込めていた」  
 
千反田が黙り込む。俺と同じように前を向いて、テーブルを見ながら小さな声で話を続ける。  
 
「わたし、こんな風な話し合いでは、とても奉太郎さんにはかないません」  
 
いや、お前は話し合いの前に俺に完全勝利しているケースが多いぞ。苦笑いが口元に浮かぶ。千反田が見たら真面目に聞けと怒るだろうか。  
 
「でも、わかるんです。奉太郎さんは間違っています。奉太郎さんはいつも」  
 
そう言ったきり、千反田は黙り込む。俺は先を促すのも少し変に感じて、黙ったまま、コーヒーを一口すする。  
 
「奉太郎さんはいつも、わたしの事を深刻に考えすぎていると思います」  
 
「深刻、か」  
「そうです」  
 
つぶやいた俺に律儀に返事。  
 
「奉太郎さんはわたしの事を……千反田の一人娘の立場をとてもよく理解してくれています。でも、そのせいでいろいろ遠慮なさっていると思うのです」  
 
遠慮なのだろうか。  
 
「わたしのために、みんなに交際を隠して、わたしのためにこうして休みの日も遠くに来て、わたしのためこんなホテルに入ったことを謝って。奉太郎さんは、本当にわたしといてうれしいのでしょうか。そう思ったこともあります。  
奉太郎さんはわたしとおつきあいしていて、息が詰まるのではないかと思ったこともあります」  
 
それは違うぞ。  
 
「でも」  
 
千反田が小さな声で言葉を続ける。俺は言おうとした言葉を飲み込む。  
 
「それはきっと、奉太郎さんがわたしの事を……その…とても、とても大事に思ってくださっているからだ、とも思うのです」  
 
まあ、図星だ。しかし。  
 
少し息を吸って顔を上げる。目の前にベッド。千反田が座っていたところが少しくぼんでいる。雨に乗じてこんなところに恋人を連れ込んで、俺は本当に大事にしているといえるのだろうか。  
 
「そう考えると。その、うれしくて。奉太郎さんがつらい思いをして頑張っているのにうれしい、なんて思っちゃいけないのですが、でもうれしくて。そうしたらわたし、なんだか自分が悪い子のような気がして」  
「えるが悪い子であってたまるか」  
「……ひとりで、夜考えていると怖くなることがあるんです。こんなに大変な思いをさせて、もし奉太郎さんがわたしの事を嫌になったらどうしようって。そうしたら、わたし…」  
 
千反田の声が震えていた。ものすごく申し訳ない気がした。女の子が、恋人が横で泣くことがこれほどつらいことだとは思わなかった。  
 
「える、俺はえると付き合って、つらいなんて思ったことは一度もない。お前のために頑張ろうとは思っているが、一度だってそれがつらいとか、いやだとか、面倒だなんて思ったことはない。本当だ。える。お前が好きなんだ。  
お前が、好きで、好きでしかたない。お前と一緒にいるのがうれしいんだ」  
 
お前とずっと一緒にいたいんだ。  
 
「だから、俺がえるに愛想を尽かすなんて考えるな」  
 
一気に思っていることを全部言った。顔に血が上って、本当に燃え上がりそうな気がする。俺が話すのを聞いてた千反田が、顔を伏せて手で覆う。ひぃっと小さく喉を鳴らすような音がして、涙混じりのささやくような、絞り出すような声。  
 
「うれしい」  
 
隣で体を震わせたはじめた恋人に目をやる。背を丸めて懸命に涙をこらえようとしている姿は、彼女には似つかわしくないと、ふと思った。躊躇して、それでも、彼女の細い肩を抱き寄せる。  
 
「える、泣かないでくれ」  
「ああぁ」  
 
小さくかすれた、ため息とも感嘆ともつかない声。身を寄せて、顔を胸にうずめてくる千反田をうけとめる。腕の中に彼女の体温をひどく生々しく感じるが、意外なくらいに冷静でいられた。  
 
「つらい思いをしてたんだな。気がつかなくて、すまん」  
「奉太郎さんのせいじゃありません。謝らないでください」  
「すまん」  
「また謝っています」  
「悪い」  
「わたしは嬉しくて泣いているのに、どうして奉太郎さんは謝っているのでしょう」  
 
腕の中で恋人がうれし泣きするなんて状況に、うまく対処できないからだと思うぞ。黙っている俺に、千反田は嗚咽をこらえながら言葉をつなげる。  
 
「腕の中で恋人が泣いているときに、こんなディベートみたいなこと、させちゃいけないと思います」  
 
ごめんなさい。それはともかく涙声でディベートなんて反則だ。勝てる気がしない。  
 
「でも」  
 
千反田が嗚咽を飲み込む。  
 
「恋人って、泣いているときに、こんな風に抱き寄せてくれるものだって思ってました。なんだか、映画みたいです」  
「そうか」  
 
優しくささやいてやる。俺も笑顔であることを分かってくれたろうか。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 

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