強かった日差しは、喫茶店を出ると雲にさえぎられ、いくらか暑さが和らいでいた。だいぶ涼しい。
夏休み最初の木曜日、俺と千反田は隣の町にデートに出かけた。訪れるのは割と定番となった、映画館=>喫茶店で食事=>自由散歩のコース。すでに食事も終えて、本日の自由散歩は千反田の要望にり、小さな美術館に陶芸品の特別展示を見に行く途中である。
ふつうは映画館と喫茶店から離れないところをぶらぶら歩いたり本屋を冷やかしているのだが、目的の美術館は少し離れた所にいるので、二人で静かなオフィス街をてくてく歩いている。
ちなみに俺は映画にはたいして興味がない。というか、むしろ苦手な部類に入る。しかし、千反田と見る映画は全く別の話だと申し添えておく。実に心躍る。『白馬ハ馬ニ非ズ』と言うじゃないか。同じだな。
ただ、今日に限って言えば
「奉太郎さんは、あの映画、どうすればよかったと思いますか?」
と、楽しそうに顔を覗き込む千反田に、俺は思わず唸り声を返す。
今日の映画は二人で見た中でも最悪の部類に入る出来の悪さで、映画館を出たあとは二人ともしばらく貝のように黙り込んでしまった。しかし、おかげで喫茶店での会話の盛り上がったこと。
揚げ足取りというか、あらゆる点で滑稽なため、欠点を指摘するとお互い笑ってしまうのだ。
「正直、少々手を入れたところで焼け石に水だろう。上映しないほうがよかったんじゃないか?」
突き放す俺に千反田がくすくす笑う。
「そうでしょうか。せっかく出演した皆さんががばっているのですから何とかしたいのですが。どうすればよくなるのでしょう。わたし、」
「待て、やめろ」
「気になります」
あああ、言いやがった。しかし、俺の嘆息をよそに千反田はおかしそうに言葉を継ぐ。
「気になるのですが、わたし、気にしないように頑張ります。だって、考えていると大事な時間がどんどん過ぎていくみたいで」
そう言って俺に微笑む千反田の顔は帽子の幅広のつばの下。今日の千反田は涼しげな白のノースリーブのワンピース。帽子とパンプスは同色のコーディネートで、強烈な日差しの中、本人の楚々とした姿を見事なほど幻想的に昇華してくれていた。
と、過去形なのは、雲が出ているからだが、正直言葉通り雲行きが怪しくなっている。その点は千反田も気になるらしく先ほどからちらちらと空を見上げている。
「お天気大丈夫でしょうか?」
「大丈夫じゃなさそうだな」
二人して雲を見上げる。天気予報では晴天だったのだが、いつの間にか空は真っ黒になっており、昼だというのに暗い。そうこうしているうちにひときわ冷たい風が吹き始める。
「あの、奉太郎さん」
千反田が心配そうに俺の名を呼ぶのと、俺が後ろを振り向くのが同時だった。後ろからざーっと音が聞こえ始め、それがどんどん大きくなる。あっと、思った時には、もう目の前まで雨域が迫っていた。
「える!そこのビルだ!」
大声を出し、千反田の背中を押して、前方にあったビルの庇の下に走りこむ。駆け込むのと同時にすさまじい雨が周囲を包み込んだ。
二人してあっけにとられる。昼過ぎというのに周囲はすでに薄暗くなっており、冷たい風が轟々と唸る。気の利かない道で木の一本も植えてられていないが、電線は派手に揺れているから木があれば大変な揺れ方だったろう。
そして俺はとんでもないミスに後悔をしていた。逃げ込むビルを間違えた。
雑居ビルの多いこの辺りは、平日の今日はシャッターを上げているところが多いが、どうやらここは廃ビルなのか、シャッターが下りている。つまり、庇の下から奥に逃げることができない。一方で目の前はバケツをひっくり返したような雨である。
隣のビルに走ればそれだけで下着の奥までびしょ濡れだろう。だからその場で雨が収まるのを待とうと思ったのだが、それが二つ目のミスだった。
「奉太郎さん、大丈夫でしょうか。こんな嵐初めてです」
千反田が心配そうに言う。午前中はよく晴れた夏の日だったのだ、それが今は冷たい暴風雨の中に取り残されている。心配にもなるだろう。
「大丈夫だ。30分くらいで終わる」
「わかるのですか?」
風に負けないよう、会話は大声になっている。里志から聞いたことがある。ダウンバーストというやつだろう。激しい雨が乾いた風を巻き込んで下向きの叩きつけるような突風になる。
局地的な気象現象で、基本的にはこの辺にある厚い雲か中層の乾いた空気が燃料切れになれば終わりのはずである
だが、目の前で雨と風はどんどん強くなる。地面をたたく雨は水煙を舞いあげ、それが冷たい突風に吹かれて道路を横殴りに駆け抜けていく。千反田をかばって俺が風上に立つが、何の役にも立たない。とっくに二人とも頭からつま先までずぶ濡れになっている。
「大丈夫か」
振り返って聞いて、俺はそのまま言葉を継げなくなった。頭からずぶぬれになった千反田が、心細そうに俺を見ている。帽子は飛ばないように胸の前。唇は真っ青で、おそらく震えている。
「どうしたっ、気分が悪いのか」
「は、はい。すみません、風が冷たいようで」
「馬鹿っ。早く言え」
馬鹿は俺だ。逃げ込むビルを間違えていなければ、こんな目に千反田を合わせずにすんでいた。
「とりあえず、あのビルに走ろう。あそこなら雨をよけられる」
「はい」
小さく返事をする千反田の手をつかむ。いつも温かい千反田の手がぎょっとするほど冷たくなっていることに躊躇するが、そのまま意を決して手を引き、叩きつけるような風雨の中に二人で駆け出す。千反田が悲鳴を上げる。
細い道路を横断して駆け込んだ雑居ビルはシャッターを上げており、奥に入る階段のあたりで雨をよけることができた。最初からここに飛び込んでいればよかった。だが、遅すぎた。
「える」
千反田は色白だが、今日は白を通り越して青白い。唇の色もさっきより悪い。体の震えはさっきよりひどくなっている。雨は避けることはできるが、風は吹き込んでおり、濡れた体を一層冷やす。
「仕方ない、救急車を呼ぼう」
それしかないと思った。このままだと彼女が倒れるのは時間の問題だ。だが、千反田は俺の袖をつかむと首を横に振る。
「だめです」
「何を言っている。こんな時に家がどうのと言っても俺は聞かないぞ」
「違います。奉太郎さん、救急車は本当に困っている人が使うものです。雨にぬれたくらいで呼んではいけません」
俺は言葉を失った。
大正論だが、それを言っている本人が今にも倒れそうなのだ。ほとんど睨むようにして千反田を見るが、結局ふるえながら俺の袖を離さない彼女に押し切られた。そうしている間にも冷たい風に吹かれてどんどん体温が落ちていく。
「体を冷やしただけです。どこかで温めて着替えることができたら」
銭湯でもあれば渡りに船だが、あいにくこの通りには銭湯はない。唇を噛みながら入り口から表に身を乗り出す。周囲を見回して、凍りついた。さっき雨宿りしていたビルの隣がホテルだった。
べたすぎる。
いいだろう。べただろうがネタだろうが、何でもしてやる。
後ろで震えている千反田を気にしながら、手早く思考を巡らせる。まず、千反田がホテルに入ったことを誰かに知られるのはまずい。幸い雨風のおかげで周囲に人気はない。
さびれていてもオフィス街だから、ビルには人はいるだろうが、千反田に帽子をかぶせていれば見られないだろう。
さらに、この町では俺達の知り合いは比較的少ない。そもそも、それが理由でわざわざ足を延ばしてデートしているのだ。
さらに、風雨の中、俺は『える』の名を呼んではいるが、『千反田』とは呼んでいない。よほど千反田家に近い人でなければわからないだろうし、今でも風の音は大きい。聞かれてはいないと思われる。こちらのほうの心配は不要だろう。
「歩けそうか?」
肩をつかんで話しかける俺を、千反田が見上げる。顔色は悪いし、体は震えているが、眼はしっかりしている。
「はい。寒いですけど、歩けます」
「よし。すぐそこに、体を温めることができるところがある。服も乾かせる。嫌かも知れないが、俺を信じてついてきてくれ」
千反田は何か言おうとしたようだったが、少し言葉をのむと、小さく首を縦に振って
「はい」
とだけ、返事した。
「よし、行くぞ」
雨はほとんどあがっているが、風はまだ強い。細かい水滴が飛ぶ道路に首を出して車と人がいないのを確認する。
千反田にぐしょぬれの帽子をかぶせて手で押さえさ、冷え切った反対の手を取ると、彼女がこけないように気をつけて小走りに再び道路を渡る。そうして、ホテルの通用門じみた小さな入口に飛び込んだ。
玄関の自動ドアにいざなわれる様に中に踏み込む。後ろでドアが閉まり、風の音が遠くなった。
◇ ◇ ◇ ◇
自動ドアをくぐってからこっち、千反田は支払いのときはおろか、エレベータの中ですら俺のシャツの背中を握って後ろに隠れるようにしていた。気持ちはわかる。俺も彼女を振り向いたのは、部屋の鍵を開けて中に入ってからだった。俺だっていっぱいいっぱいだ。
「える、こんなところですまん。今から湯を沸かす。絶対に手を出したりしないから、シャワーを浴びて着換えろ。わかったな」
唇を真っ青にしてふるえながら見上げた千反田は、眼だけがドキリとするほど強く光っていたが、小さな声で返事をしてうなずいた。濡れているからと嫌がるのを無理に椅子に座らせ、バスルームに向かう。脱衣所を通り抜けて、いやに広いバスルームに入る。
浴槽とシャワーの栓をひねる。すぐに湯が出てきた。浴室に暖かそうな湯煙が広がる。湯温を確かめると、シャワーだけ閉めて取って返す。
こんな時もキチンと手をももの上に重ね、しかし少しうなだれているように見えた千反田が俺を見上げる。
「シャワーの準備ができた。立てるか?」
「はい」
「よし、脱衣所に着替えが置いてあるから、早く濡れたものを脱いでシャワーを浴びろ。湯船に湯がたまったら温まってこい」
意味が部屋の隅々まで浸透するのが恐ろしくて早口になる。さっきと同じく眼だけが強く光る青白い顔で千反田は俺を見上げ、しかし、小さく返事をして、脱衣所に向かった。
扉が静かに閉まる。
俺は足音を忍ばせて脱衣所まで向かうと、扉の前で息を止めて耳をそばだてた。衣ずれの音が聞こえる。あの、品のいいワンピースもびしょびしょにしてしまった。白いワンピースの下から千反田の真っ白な肌が現れる姿を想像して、あわててかき消す。
やがて、奥のガラス戸が開く音がして、続いて閉まり、風呂の湯をためる音に重ねてシャワーの音がし始めた。安堵のため息が漏れる。もし、千反田が倒れたらどうしようと気が気でなかったのだ。
ようやく今、彼女はシャワーを浴びはじめた。まだ安心はできないが、これで少しずつ体温は上がるだろう。重いものが倒れる音がしないか、シャワーの音が単調にならないかに注意しながら、じっとその場に立っていた。
やがて、シャワーの音が止まると、続いて風呂の湯をためる音が止まり、そして湯船の湯が音をたてた。これでひとまずはなんとかなった。
大きなため息をついて体の力を抜くと、足音を忍ばせて戻る。ベッドの頭のあたりに何か包みが置いてあるのが目に入る。それが避妊具だと気づいて舌打ちする。そう言うつもりで来たのではないのだ。信じてくれ、千反田。
さっき千反田を無理やり座らせたために濡れたソファーにどっかりと腰をおろす。今頃になって、自分の体が冷え切っていることが意識されてきた。舌打ちをして立ち上がり、壁のエアコンのコントローラを覗き込むと、設定温度は22度。
少しはエコに気を使えと毒づきながら、乱暴にスイッチを叩いて28度まで温度を上げた。
◇ ◇ ◇ ◇