そういうわけで一晩たっぷり悩んだ翌日の放課後、二月も終わりに近いある日、俺は告白して交際を申し込んだ。かなり心臓に悪い出来事だったが、その場で千反田はOKをくれた。  
 
端折らずに詳細を聞かせろという声が聞こえるような気がするが、錯覚のはずなので無視する。千反田が大きな目を一層大きくして驚いた後、端正な顔を羞恥に赤らめて微笑みながらうなずいてくれたとか、何のかんの言いながら週一でデートしているとか、  
たまに手をつなぐとか、「名前で呼んでいいですか」事件とか、最初のキスは4回目のデートだとか、意外に甘えんぼだとか、「えるって呼んでください」事件だとか、ピクニックで手作り弁当食べたとか、そんな話を聞きたい物好きはいないだろう。いないよな。  
 
とにかく、俺と千反田は付き合いだして、千反田の変調にはブレーキがかかった。少なくとも俺との距離感で悩む必要はなくなったのだから。だが、計算違いが一つあった。俺の恋煩いが治らなかったのだ。聞いたところでは、千反田も同じらしい。  
そういうわけで、付き合いだして3か月ほど経ったが俺の頭は千反田えるのことでいっぱいであり、千反田の頭の中は折木奉太郎のことでいっぱいらしい。  
 
正直に言おうじゃないか。かなり幸せだ。薔薇色と言っていい。  
 
◇ ◇ ◇ ◇   
 
「千反田、下の名前で呼ぶのは二人きりのときだけだと言ったはずだぞ」  
「でも、部室にはわたしたち二人だけですよ」  
 
教室での俺の警告に対する千反田の反応は予想通りだといえる。  
 
人前ではお互いの事を名前で呼ばないよう気をつけようと千反田には言っている。彼女も承知した。問題は人前とはどういう状態をいい、現在は人前であるか否かである。  
この点については俺は常識的判断を期待している。仮にいろいろな場合について条件を精密に考えなければならないとして、二人の時間をそんなことに使いたいかというと、俺は使いたくない。  
千反田も同じ気持ちだと信じたいが、こいつはたまに想像もつかないようなことに好奇心を爆発させるので、俺はひそかに心配している。  
 
ともあれ、今、ここに意見の相違があるのは間違いない。二人きりの部室を、千反田は二人だけの空間だと思っており、俺は違うと考えている。  
 
「千反田、よく聞け。ここは学校だ。いつ、誰が来るとも限らない」  
「『える』って呼んでくれないと嫌です」  
 
……飛び道具はやめろ。今心臓に何か撃ち込みやがったな。  
 
俺が恐れているのはまさにこういう事態だった。楚々とした外見のまま、大きめの目に今にも涙を浮かべんばかりの表情で、こころもち拗ねたように駄々をこねる豪農千反田家の息女。破壊力がありすぎる。こんな恋人と二人きりでいて、周囲に注意など配れるはずがない。  
 
ただでさえこいつの好奇心の爆発には振り回されてきたが、最近では俺の耐性がずいぶん下がってしまっている。その上、こいつはこいつで以前より親しくなったせいだろう、稀にだが子供のような駄々を振り回すことがある。まぁ、かわいくていいのだが。  
 
「いいか、お前のそういう態度自体が危険なんだ。いや、言いなおそう。俺もお前もそういう状態になることが危険なんだ」  
「状態って、どういうことでしょう」  
 
まだ少し不満そうだが、とりあえず千反田は俺の話を聞くことに決めたらしい。いいことだ。人の話を聞く娘に育ててくれたことを親御さんに感謝しなければ。  
 
「お前は…いや、俺もだが、二人っきりになると舞い上がり気味になる」  
「そうでしょうか」  
 
自覚しろ、自覚。  
 
「そうだ。だから、二人きりで安全と思ったとたん、周囲に対する注意がおろそかになる。そうやって二人して舞い上がっている最中に誰かが来てみろ、気づくか?いや、断言してもいいが気付かない。二人きりというのは二人しかいないという意味じゃない。  
しばらくの間、知り合いが近くに来ないことまで確かじゃないとだめだ」  
 
声が大きくならないよう気をつけながら、噛んで含むように言い聞かせる。黙って聞いていた千反田は話し終わった後も聞かされた内容を吟味するように少し目を伏せていたが、再び目をあげると、やや気落ちした声で言った。  
 
「わかりました。放課後部室で二人きりでいても、それは安心できないということですね」  
「そうだ」  
 
別に身の危険はないが、二人でふわふわした気持ちになるのはよろしくない。  
 
「では、どこだったら安心できるのでしょう」  
 
では、って。お前は断固として学校で恋人気分を味わいたいようだな。とんだお嬢さんだ。俺としても校内の安心できる場所に心当たりがないとは言えない。たとえば体育倉庫などはなかなか安心できそうだが、まぁ、あれだ。  
 
「校内はあきらめろ」  
 
俺も体育倉庫をあきらめるから。  
 
口をほんの少し尖らせて俺のほうを見ていた千反田は、考えた後、不承不承といった風でわかりました、と呟いた。がしかし、ふっと微笑みを浮かべると俺にこう提案した。  
 
「わかりました。仕方ないですね。それでは折木さん、今日はどなたもいらっしゃらないようですし、戸締りをして一緒に帰りませんか」  
 
はい。そうします。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
千反田えると折木奉太郎の恋は忍ぶべきものか否か。  
 
この点については付き合い始めたごく初期に二人で話し合ったことがある。俺は是、千反田は否であった。  
 
二人の仲は人に指差されるようなものではない。二人は未婚であるどころか恋人すらいない。おれに至っては初恋である。  
千反田については根掘り葉掘り聞くのも無粋なので聞いていないが、俺とのキスがファースト・キスだったと言っているから、少なくとも付き合った相手はいなかったのではないかと思う。ともかく、不倫とか浮気といった線で非難されることはない。  
 
では、人に知られるのが気恥ずかしいかというと、そこは微妙なところだ。俺たちの年齢だと伏せておきたい奴らも多いはずだが、伊原あたりは中学生のときから里志のことが好きだと公言してはばからなかった。では、俺はどうか。  
正直、普通なら隠し立てすることではないと思っている。公言する必要もないが。そのことは千反田も同じらしく、悪いことをしているのではないから隠したくないというのが彼女の意見だった。  
 
それではなぜ俺が二人の仲を進んで公知の事実にしたくないと考えているかというと、有り体にいえば千反田の世間体を守りたいのだ。  
 
以前は世間体というのはあまりいい言葉だと思っていなかった。その意識が大きく変わったのは、1年生の冬、正月にちょっとしたトラブルで千反田と二人で納屋に閉じ込められた事件からだ。  
あのとき千反田は「自分は父親の名代として来ているのでこの場で醜聞が広まるのは困る」と言った。目から鱗が落ちる気分だった。  
 
千反田えるは俺と違う世界に生きている。そう思った。少し残念なことだと思った。俺が親の庇護のもと、安穏とモラトリアムを生きているのに対して、千反田は子供のころから片足を公の世界に突っ込んで生きてきた。その差は大きい。  
俺であれば何でもないことであっても、千反田の場合は醜聞になることだって考えられた。そして、千反田の醜聞とはこの場合千反田家の醜聞なのだ。  
 
いくら豪農とはいえ、高校生の娘に恋人ができたくらいで醜聞になるとも思えないし、当の本人も大丈夫だと思っているようだったが、俺には別の考えがあった。俺が理由で少しだって千反田の評判に傷をつけたくなかった。  
 
弱気と笑うなら笑え。  
 
そういうわけで俺達は、俺が時期を見て里志にだけそれとなく話をし、千反田が時期を見て伊原にだけそれとなく話を打ち明けようと合意した。  
ちなみに、二人ともまだ話していない。もちろん、こうしてたまに二人で一緒に下校することもあるのだ、もう気付かれていても不思議ではない。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
「奉太郎さんは、少し用心が過ぎるのではないでしょうか」  
 
通学路を並んで帰りながら、千反田が話す。文字にすると少し険があるが、声のトーンはいたって柔らかい。育ちの良さなのか、もって生まれたものなのか。こいつだって怒って大声を出すこともあるのだが、いまはそんな風ではない。  
 
俺は千反田の自転車を押しながら、横を歩く千反田に顔を向ける。ほんのわずか湿度の高い風に千反田の長い髪が揺れる。  
 
「なぜ、そう思う」  
「だって、奉太郎さんがわたしの立場に気を使ってくださるのはうれしいのですが、いくら千反田の一人娘といっても、わたしは高校三年生です。恋人の一人や二人いてもおかしくありません」  
「二人いるのか!」  
 
思わず立ち止まっていた。振り向いた千反田が大きな目をまん丸にしているので、たかが言葉の綾に俺はよほどひどい顔をしていたのだろう。だが、千反田は困ったように微笑んで手を体の前で重ねると、おじぎして訂正した。  
 
「すみません。これは言葉の綾です。二人いるとおかしいです」  
「…」  
 
黙って自転車を押し始める。再び並んで歩きながら、千反田が小さな声で付け加える。  
 
「わたしは、奉太郎さん一筋ですよ」  
 
まっすぐ前を見る視界の端で、彼女が俺の顔をのぞき見るのがわかる。  
 
「疑ってはないさ。驚いただけだ」  
 
死ぬほど驚いたけどな。  
 
「とにかく、いくら千反田の娘だからと言って恋人くらいいても不思議はありません。そう思いませんか?」  
「ああ。その点はえるが正しいと思う」  
 
千反田の口の端にうれしそうな笑みが浮かぶ。  
 
「俺はただ、歯止めが効かなくかなくなるのが恐ろしいだけだ」  
「歯止め、ですか?」  
「ああ、説明しにくいけどな」  
「…説明を聞きたいです」  
 
千反田と近いほうの腕がぞわぞわと泡立つ。来るぞ来るぞ、あれが来るぞ。爆発したら抵抗不可能の猫を殺す感情。千反田えるの好奇心が。  
 
「奉太郎さんが、わたしたちのことをどんなふうに考えているのか。わたし、気になります」  
 
しかし、いつもの好奇心爆発とは少し違う。いつものそれが純粋な好奇心に後押しされて千反田の胸を震わせているのに比べて、今のは少し違う。ちょっとだけトーンが低い。彼女が心の底から知りたいと思っているからだろう。それは二人の間のことだから。  
それだけに、俺は逃げられない。  
 
「ああ、ちゃんと話すよ」  
 
俺はそう答える。千反田が知りたいと言ったら、余人はともかく俺がそれから逃げるすべはない。友達のときから逃げられなかったのだ。恋人になって、心を縛られて逃げられるはずなどない。  
 
「すこし、時間をくれないか。俺の頭の中でもうまくまとまらないんだ。時間が来たら、いずれ話す」  
 
立ち止まって千反田と向き合う。ちょうどわかれ道のところに来ていた。ここから下校は一人ずつ。初夏の強い光の下で、彼女は少しだけ首をかしげ、でも、納得したように微笑む。  
 
「わかりました。わたし、待ってます。ちゃんと聞かせてくださいね」  
「ああ」  
 
そうやって言葉を交わすと、千反田は俺のうしろから後ろから自転車の反対側に回り込み、ハンドルを受け取る。  
 
「それでは奉太郎さん。わたしはここで失礼します。また明日、学校でお会いしましょう」  
「ああ。える、車に気をつけろ」  
「奉太郎さんも」  
 
そう言って、千反田が胸の前で手を振る。お辞儀の多い千反田だが、あるとき以前見たこの仕草が可愛いと言ったら、時々取り混ぜてくれるようになった。  
 
俺は籠から自分のカバンをとりだし、千反田をみながら一歩下がると、お互いに微笑んで、そのままその場から立ち去った。千反田はどうも別れたあと俺に自転車をこぐ姿を見られたくないらしく、いつものようにその場で俺の事を見送ってくれる。  
お嬢様的に、はしたないのだろうか。そんなことはないと思うが。  
 
少し歩いて振り返ると、自転車に乗る千反田の後ろ姿が小さく見えた。まだ、俺の事を考えてくれているだろうか。それとも、もう別のことを考えているだろうか。いいや。千反田、今は俺のこと考えなくていい。ちゃんと安全運転で帰れよ。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 
過去の苦い経験から、家では勉強をしてから千反田の事を考えることにしている。逆の順序だと確実に勉強をする時間がなくなるからだ。千反田の奴め、どんな魔法をかけやがった。  
 
思い返すのは雛祭りの夜。千反田に将来の話を聞かされた。あいつはまだ高校1年生だったが、自分のやらなければならないことと長所、短所をちゃんとわかった上で、将来何をすべきかまで決めていた。  
 
危うく馬鹿な事を口走る寸前だったあの晩、俺は自分のことを千反田と比べてため息をついた。めんどくさがりで何もしていないただの高校生というのが冷静な自己分析の結果だった。  
あの時は千反田と付き合うなんて現実感がなかったが、いざ付き合ってみると、この不釣り合いは相当に厳しいと思う。  
 
椅子の背に従って天井を仰ぎ見る。ぐずぐず悩んでも仕方がない。やるべきことをやるだけだ。それでこの不釣り合いが是正できるかどうかは極めて怪しいが。  
 
疲れ切った頭にゆっくりと霧がかかるように眠気が襲ってくる。意識が途切れそうになるほんの数秒、はにかむ千反田の姿が浮かぶ。  
 
◇ ◇ ◇ ◇  
 

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