「どうしてこうなったか」と問われれば、自分自身でもその理由を上手く説明出来ないに違いない。
何となく相手に背中を向けながら、歌乃は小さく溜息を零した。
どうやら、気まずいのは向こうも同じらしい。
何も遮る物が無く触れ合った背中だけが、未だ冷め切らない熱を共有していた。
きっかけは、「マザー」による試験の後。
あまりに残酷なマザーの裁定にとても和やかに話すような雰囲気ではなくなってしまった他の面々が帰っていく中、ふと仕事に戻ったはずの唱吾の事が気になって様子を見に行った歌乃は、すぐにその異変に気付いた。
殴られでもしたのか口の端が切れてアザになっていたし、服も髪も乱れていて明らかに誰かと争った様子を示している。そしてそれ以上に、何があったか尋ねる自分に「何でもない」と答えた彼の酷く追い詰められた表情が、不安を駆り立てた。
だから咄嗟に「送ってほしい」と頼み込んたのだが――――
(こう考えると、なんか最初からその気で誘ったみたいじゃない)
記憶を辿るうちに今更ながら羞恥心が湧いてきて、思わず身体を丸める。
ちゃんと布団は掛かっているのだが、何も着ていないというのは想像以上に心許ない。
身体の一番奥を苛む鈍痛が自分を責めているような気がして、歌乃はまた1つ溜息を零した。
何か会話でもあれば少しは気が楽になるのかもしれないが、広く薄暗い部屋には時計の秒針の音だけが響いている。痛いぐらいの静寂だ。
相手が何も言わない理由に大方見当が付いている歌乃は、勇気を振り絞って自ら沈黙を破る事にした。
「・・・・・・もしかして、何話したらいいか分からない?」
唐突な問いかけに、触れていた背中が一瞬強張る。あからさまなその反応に、歌乃は思わず笑みを浮かべた。
相手も戸惑っているだけだとはっきり分かって、気持ちが少しだけ軽くなる。
「見た目だけは貫禄充分のくせに」
「・・・・・・僕をからかうのがそんなに楽しいのか?」
からかうような言葉に、憮然とした掠れがちの声が返ってきた。その言葉に、歌乃は更に笑みを深めて即答する。
「うん、とっても」
呆れたような深い溜め息の後、ピッタリとくっついていた背中が離れた。
床に脱ぎ捨てた服から何かを探す気配がした後、ライターに火を灯す微かな音。
身体を捻って背後に視線を向けると、視界の端を紫煙が掠めていく。
「寝煙草は火事の元だよ?」
「へぇ、君の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかったな」
すっかりいつものふてぶてしい物言いに戻った唱吾は、さっきのお返しとばかりに嫌味の込もった言葉を返す。
いつもならムキになって反論する所だが、歌乃は怒る様子も無く身体ごと唱吾の方を向いた。
邪魔な羞恥心はとりあえず心の隅に押しやる。どうせ散々見られているのだから、今更恥ずかしがっても仕方が無い。
「変に気を使わなくたってそうやっていつも通りにしてればいいのに。・・・・・・それとも、今更後悔してる?」
うつぶせになって気だるそうに煙草を吹かしていた唱吾は、その反応が予想外だったらしく目を丸くして歌乃の目を見つめた。
「・・・・・・この状況で『後悔してる』なんて言えるわけないだろう?」
気まずそうに目を逸らして、ポツリと呟くように言う。
歌乃が何も言わないでいると、何か勘違いしたのか慌てた様子で「別に、本当は後悔してるとかそういう事じゃないんだけど」と付け加えた。
自分が傷付かないように気を使ってくれたらしいが、やけに必死なその様子がおかしくて、歌乃はクスクスと笑う。
「分かってるよ」
ふと表情を曇らせ、歌乃は手を伸ばして唱吾の頬に触れた。
親指で唇の端をなぞると、傷に染みたのか少しだけ眉が寄る。
「でも、大事な事は何も教えてくれないんだね」
怪我の理由も、どうしてそんなに追い詰められた顔をしているのかも。
「・・・・・・なんか悔しいな」
この先に待ってるのは、あたしの力じゃ変えられない流れ。もっと別の言い方をするなら、避けられない「運命」。
逃げる事は出来ないし、誰も助けてくれない。
それを分かってて自分の気持ちを押し付けたのは、ちょっと卑怯だったかな?
「・・・・・・歌乃?」
酷く追い詰められたあなたの目を見た瞬間、たった一瞬でも「届かない」って思ってしまった。
自分からもっと深い闇へ落ちようとしているあなたは、きっとあたしの手を振り払ってしまうって。
簡単に諦めてしまうつもりなんてないのに
――――なんであたしは、あなたと離れてしまう事ばかり考えてるんだろう?
「何でもない」
心配そうに自分の方へ身体を向けた唱吾にそう答えると、歌乃は尚も見つめてくる視線から逃れるように身体を摺り寄せ、彼の胸に額を押し当てた。
「・・・・・・だから、今はそばに居て」
不安に震えた声に、気付かれなかっただろうか。一瞬の沈黙の後、躊躇いがちに抱き寄せられた。
すぐそばまで来ているかもしれない別れになど、気付かない振りをして。
再び秒針の音が響くだけになった薄暗い部屋の中、目を閉じた歌乃は背中に触れた温かい腕の感触だけを感じながら深い眠りに落ちていった。